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2010年5月 5日 (水)

キリスト教と社会主義

明治20年代は、その後半は日清戦争とその勝利による多額の賠償金により、資本主義の興隆と職工の増加とともに労働運動が起こり、やがて社会主義の思想が芽生えて来る。社会主義の思想が生まれたのは主にヨーロッパにおいてであるが、それが日本に入って来たのは、主にアメリカからであった。このあたりの話は、2年前(2008年4月27日 「安部磯雄と社会民主主義」)にも書いたが、切り口を変えて再度リライトしておきたい。

明治の社会主義には、キリスト教社会主義というのがあって、木下尚江とか石川三四郎、後には賀川豊彦などがそうなのであるが、その代表格は安部磯雄である。安部磯雄は同志社に学び、1891年(明治24)にアメリカに留学し、アメリカでエドワード・ベラミーの『かえりみれば』を読んで、社会主義者になったという。1897年(明治30)に帰国し、同年に高野房太郎が結成した労働組合期成会の評議員になった。1898年(明治31)に結成され三田の惟一館(ユニテリアン協会)に本拠を置いた社会主義研究会に入会、1899年(明治32)に東京専門学校(後の早稲田大学)の講師になり、ユニテリアン派の機関誌『六合雑誌』の編集にあたった。

それと、同志社で安部磯雄と同期であった村井知至というキリスト教社会主義者がいる。村井知至も1889年(明治22)から1893年(明治26)にアメリカの神学校に留学、帰国後、安部磯雄とともに社会主義研究会を始めて会長になった。村井知至のアメリカでの留学先の神学校で、後から入ってきた片山潜とも知り合い、片山潜も帰国後は社会主義研究会に参加して、やがて幸徳秋水も誘って、日本で初めての社会主義研究が始めた訳である。

この社会主義研究会では、サン・シモン、フーリエ、プルードン、ラッサール、マルクスなどが研究されており、研究会は1900年(明治33)には安部磯雄を会長にした社会主義協会となり、さらに、1901年(明治34)には日本初の社会主義政党社会民主党へと発展したが、創立メンバー6名の内5名がクリスチャンであり、その宣言文を書いたのも安部磯雄であった。(※参考文献:辻野功『明治社会主義史論』法律文化社1978)

こう見てくると、日本に最初に社会主義が入ってきたルートというのは、アメリカに留学したクリスチャンを通してであることが分かる。後の賀川豊彦のアメリカ留学もそうであるが、カルヴィニズム系のアメリカの教団のミッションが、結果的には日本への社会主義の導入にも貢献していた訳である。アメリカン・ルネッサンスにおける超絶主義も、カルヴィニズムに対して批判的に誕生したユニテリアリズムを経て誕生したが、日本ではカルヴィニズム→ユニテリアリズム→キリスト教社会主義となった訳である。

カルヴィニズムは、日本における社会主義の導入に貢献したわけだが、日本におけるキリスト教の布教は、どの派も成功だったとは言えない。ミッション系の学校を残したくらいであろうか。洗礼を受けた北村透谷や島崎藤村らも、やがて教会から抜ける。福沢諭吉は、一時ハーバード大学にならって、慶応義塾にユニテリアン派の神学部をつくろうとしたというが、これを止めた。キリスト教は、日本の近代化の通過儀礼としてはあっても、すでにあった風土と文化の前には、それは根づかなかったのである。

では、社会主義はどうだったであろうか。戦後の日本は、大学の経済学部ではマルクス経済学が有力だったし、労働運動や社会運動の中ではマルクス主義が主流であったし、知識人にはマルクス派が多かったし、これは先進資本主義国では例外的な現象とは言われても、進歩的なマルクス派の日本人は「だから日本は先進的なのだ」と思い込んで、マルクス主義のないアメリカなどは、馬鹿にして嫌っていたものであった。そして、それはロシア革命以降、知識人の心をとらえて急速に普及したのであった。

では、キリスト教とは逆に、日本における社会主義の普及は成功したのであろうか。安部磯雄は、1901年(明治34)の社会民主党の「宣言書」の巻頭に「如何に貧富の懸隔を打破すべきかは実に二十世紀に於ける大問題なりとす」と書いたが、「貧富の格差拡大」はそれから100年以上たった現在でも未だ大問題である。先人達の志した社会主義は、昨今もっと普及してもよさそうであるのに、マルクス主義は急速に支持を失った。

日本の社会主義は、1917年(大正6)のロシア革命以降、ロシアから入ってきたコミンテルン流のマルクス主義によるものと、非コミンテルン流の社会主義に分裂してしまった。ロシアから入ってきたマルクス主義、外来イデオロギーの信仰という安易な近代主義は、いとも容易く日本に入り込み、それまでの素朴な社会主義と非マルクス主義の社会民主主義を「右派」と切り捨て、日本の社会主義は党派闘争の歴史と化したのであった。

マルクス主義を取らない安部磯雄は、1924年(大正13)に石川三四郎らとともに日本フェビアン協会を設立、その後、1928年(昭和3)に第16回衆議院議員総選挙に社会民衆党から立候補し、衆議院議員当選連続4回。社会民衆党党首、社会大衆党執行委員長を歴任。戦後は日本社会党の顧問となった。早稲田にあった安部球場というのは、安部磯雄から来ている。1905年(明治38)に、安部磯雄が監督をしていた早稲田大学野球部が渡米したおりに、留守を心配した安部磯雄は堺利彦に「警察とは穏やかにやってください」と言ったそうである。キリスト教もマルクス主義も日本にはなじまなかったが、野球だけは土着化した。安部磯雄は、それを見通していたのかもしれない。

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