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2010年5月 9日 (日)

いやはや

先週は、兄弟で酒を飲んだ以外は、読書とブログ書き、それに洗濯と買い物と、これがだいたい日課で、まあコンサバな日々である。買い物先は、行きつけのコープである。何年か前まで、私の住む住宅にもコープの店があったのだったが、今はなくなって、少し離れたコープの店まで、バイクで買い物に行くのである。

私の住む住宅にあったコープの店は、出来てから30年経って、組合員が高齢化を迎える頃に、近くにイーオンの大型店舗が出来ると、閉店ししてしまった。そのコープの店は自前の店なのに、今はシャッターが下されたままで、高齢化した組合員は「買い物難民」と化している。

まあ、住民が高齢化して、売上が下がったから閉店したのだろうが、大した説明もなく、一方的な閉店であったのは、やはり組合員の生活よりは経営の都合が優先されたのであろうか。

「農薬入り餃子」の話がやっと解決しそうになったと思ったら、一昨日に神奈川のコープの店で、廃棄トンカツによるカツ重事件が起こった。担当者が「捨てるのはもったいない」と思って揚げてしまったとのことであったが、今日になると他の店でも同じことをやっていたと言う。こうなると、コープぐるみとしか思えない。
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/sankei-snk20100509036/1.htm

たまにコープがニュースになると、こんな話ばかりとは、いやはや、である。10年前にコープを辞めたのは正解か、not コープ、but 新しいコミュニティへで、その論を急ぎたい。

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2010年5月 5日 (水)

キリスト教と社会主義

明治20年代は、その後半は日清戦争とその勝利による多額の賠償金により、資本主義の興隆と職工の増加とともに労働運動が起こり、やがて社会主義の思想が芽生えて来る。社会主義の思想が生まれたのは主にヨーロッパにおいてであるが、それが日本に入って来たのは、主にアメリカからであった。このあたりの話は、2年前(2008年4月27日 「安部磯雄と社会民主主義」)にも書いたが、切り口を変えて再度リライトしておきたい。

明治の社会主義には、キリスト教社会主義というのがあって、木下尚江とか石川三四郎、後には賀川豊彦などがそうなのであるが、その代表格は安部磯雄である。安部磯雄は同志社に学び、1891年(明治24)にアメリカに留学し、アメリカでエドワード・ベラミーの『かえりみれば』を読んで、社会主義者になったという。1897年(明治30)に帰国し、同年に高野房太郎が結成した労働組合期成会の評議員になった。1898年(明治31)に結成され三田の惟一館(ユニテリアン協会)に本拠を置いた社会主義研究会に入会、1899年(明治32)に東京専門学校(後の早稲田大学)の講師になり、ユニテリアン派の機関誌『六合雑誌』の編集にあたった。

それと、同志社で安部磯雄と同期であった村井知至というキリスト教社会主義者がいる。村井知至も1889年(明治22)から1893年(明治26)にアメリカの神学校に留学、帰国後、安部磯雄とともに社会主義研究会を始めて会長になった。村井知至のアメリカでの留学先の神学校で、後から入ってきた片山潜とも知り合い、片山潜も帰国後は社会主義研究会に参加して、やがて幸徳秋水も誘って、日本で初めての社会主義研究が始めた訳である。

この社会主義研究会では、サン・シモン、フーリエ、プルードン、ラッサール、マルクスなどが研究されており、研究会は1900年(明治33)には安部磯雄を会長にした社会主義協会となり、さらに、1901年(明治34)には日本初の社会主義政党社会民主党へと発展したが、創立メンバー6名の内5名がクリスチャンであり、その宣言文を書いたのも安部磯雄であった。(※参考文献:辻野功『明治社会主義史論』法律文化社1978)

こう見てくると、日本に最初に社会主義が入ってきたルートというのは、アメリカに留学したクリスチャンを通してであることが分かる。後の賀川豊彦のアメリカ留学もそうであるが、カルヴィニズム系のアメリカの教団のミッションが、結果的には日本への社会主義の導入にも貢献していた訳である。アメリカン・ルネッサンスにおける超絶主義も、カルヴィニズムに対して批判的に誕生したユニテリアリズムを経て誕生したが、日本ではカルヴィニズム→ユニテリアリズム→キリスト教社会主義となった訳である。

カルヴィニズムは、日本における社会主義の導入に貢献したわけだが、日本におけるキリスト教の布教は、どの派も成功だったとは言えない。ミッション系の学校を残したくらいであろうか。洗礼を受けた北村透谷や島崎藤村らも、やがて教会から抜ける。福沢諭吉は、一時ハーバード大学にならって、慶応義塾にユニテリアン派の神学部をつくろうとしたというが、これを止めた。キリスト教は、日本の近代化の通過儀礼としてはあっても、すでにあった風土と文化の前には、それは根づかなかったのである。

では、社会主義はどうだったであろうか。戦後の日本は、大学の経済学部ではマルクス経済学が有力だったし、労働運動や社会運動の中ではマルクス主義が主流であったし、知識人にはマルクス派が多かったし、これは先進資本主義国では例外的な現象とは言われても、進歩的なマルクス派の日本人は「だから日本は先進的なのだ」と思い込んで、マルクス主義のないアメリカなどは、馬鹿にして嫌っていたものであった。そして、それはロシア革命以降、知識人の心をとらえて急速に普及したのであった。

では、キリスト教とは逆に、日本における社会主義の普及は成功したのであろうか。安部磯雄は、1901年(明治34)の社会民主党の「宣言書」の巻頭に「如何に貧富の懸隔を打破すべきかは実に二十世紀に於ける大問題なりとす」と書いたが、「貧富の格差拡大」はそれから100年以上たった現在でも未だ大問題である。先人達の志した社会主義は、昨今もっと普及してもよさそうであるのに、マルクス主義は急速に支持を失った。

日本の社会主義は、1917年(大正6)のロシア革命以降、ロシアから入ってきたコミンテルン流のマルクス主義によるものと、非コミンテルン流の社会主義に分裂してしまった。ロシアから入ってきたマルクス主義、外来イデオロギーの信仰という安易な近代主義は、いとも容易く日本に入り込み、それまでの素朴な社会主義と非マルクス主義の社会民主主義を「右派」と切り捨て、日本の社会主義は党派闘争の歴史と化したのであった。

マルクス主義を取らない安部磯雄は、1924年(大正13)に石川三四郎らとともに日本フェビアン協会を設立、その後、1928年(昭和3)に第16回衆議院議員総選挙に社会民衆党から立候補し、衆議院議員当選連続4回。社会民衆党党首、社会大衆党執行委員長を歴任。戦後は日本社会党の顧問となった。早稲田にあった安部球場というのは、安部磯雄から来ている。1905年(明治38)に、安部磯雄が監督をしていた早稲田大学野球部が渡米したおりに、留守を心配した安部磯雄は堺利彦に「警察とは穏やかにやってください」と言ったそうである。キリスト教もマルクス主義も日本にはなじまなかったが、野球だけは土着化した。安部磯雄は、それを見通していたのかもしれない。

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2010年5月 3日 (月)

「坂の下」の兄弟

仙台において『若菜集』をまとめあげた藤村は、その後、小諸義塾の教師として7年間の信州暮らしを送り、その間に『千曲川のスケッチ』の習作を通じて散文に転向、1906年(明治39)3月に『破戒』を自費出版する。すぐにそれを読んだ夏目漱石は、4月3日づけで森田草平宛に「破戒讀了。明治の小説として後世に伝ふべき名編也」と書き送る。そして、翌1907年(明治40)に藤村は『春』を書くのであるが、それが朝日新聞の新聞小説になったのは、「長谷川二葉亭氏の勧め」によるものであったという。

藤村は毀誉褒貶の多い作家であるが、『春』に「青木(※北村透谷がモデル)はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本(※島崎藤村がモデル)はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った」とあるように、『春』は透谷へのオマージュの書である。そして、下層社会を描いた社会小説でもある『破戒』は、藤村なりのその「事業」なのであったのだと、私はしておきたい。

『破戒』が不自然であると言われるひとつに、主人公の丑松が「亜米利加のテキサスで農業に従事しようと」アメリカに渡る結末があるが、前述したように、藤村自身がアメリカに仕事の修行に行かされようとしていたし、これは全く不自然ではない。これも前述したように、馬場辰猪をはじめ数々の民権運動家がアメリカに渡っているし、社会主義者の片山潜などは13年間アメリカで苦学して、ちょうど藤村が『破戒』を書いている頃に、テキサスで牧場経営までやろうとしていた。そしてもうひとり、次に書く高野房太郎の渡米目的も「商業研究之為」であった。

片山潜は、日露戦争の最中には、1904年にアムステルダムで開かれた第2インターナショナルの大会で反戦演説を行い、ロシア代表のプレハノフと握手をしたことで有名で、世界史の教科書にも出てくるが、そのアムステルダムからアメリカに戻って、数百エーカーの農場を買って、農場経営を営んでいる。結局、農場経営は失敗してしまうのだが、その農場には日本からの移民を招致しようということであったから、『破戒』でテキサスでの農場計画を立てる被差別部落出身の大物「大日向某」は、藤村が片山潜を知っていたとすれば、片山潜がモデルなのかもしれない。

横山源之助が毎日新聞に入社して、下層社会のルポを書きだした頃に、日本の労働者の状態や労働問題や労働運動について発表しだした青年がいた。彼は、横山源之助が『日本の下層社会』を出す以前に、既に「日本の典型的労働者」、「日本におけるストライキ」、「日本における女性労働」といった横山源之助に先立つ先駆的な報告を英文で、AFL(アメリカ労働総同盟)の機関誌に寄稿しつづけた。彼の名は、高野房太郎である。

高野房太郎は、1869年(明治2)に長崎に生まれ、1877年(明治10)に東京に移り住むも父親の死亡後、1881年(明治14)に横浜で回漕店を営む伯父の下で働く。その時に改進党系の自由民権運動にふれ、1886年(明治19)に商業研究之為にアメリカに渡った。そのアメリカ行きの船には、民権運動家の石坂公歴も乗船していた。石坂公歴は、北村透谷の妻の美那の弟である。

高野房太郎は、サンフランシスコで1年弱商業学校に通った以外は、家事手伝い、皿洗い、ウェイター、製材所と、家族に送金するために働きづめであったが、経済学書や労働運動の本を読み、労働騎士団やAFLの労働運動にふれ、1891年(明治24)にサンフランシスコで職工義友会を設立、その後AFLの指導者のサミュエル・ゴンバースに接し、AFLのオーガナイザーとなって1896年(明治29)に帰国した。

帰国した高野房太郎は、サンフランシスコ時代の仲間と職工義友会を再組織して、『職工諸君に寄す』の冊子を発行する。高野房太郎には岩三郎という弟がいて、岩三郎は兄のアメリカからの仕送りで東京帝大を卒業、社会政策学会に属していて、そこに兄を入会させるのだが、そこで秀英舎の佐久間貞一と知り合い、1897年(明治30)6月に日本で最初の労働問題演説会を開催し、7月に日本で最初の労働団体である労働組合期成会が設立された。

そして同年12月、労働組合期成会によって鉄工組合が組織され、12月1日に行われたその発会式は、開会の辞・高野房太郎、祝辞及び演説・佐久間貞一、島田三郎、高野岩三郎、鈴木純一郎、閉会の辞・片山潜となっている。佐久間貞一は、当代一の印刷会社であった秀英社の経営者で「日本のロバアト・オエンと云うべき人」(片山潜『日本の労働運動』から)であり、高野房太郎の『職工諸君に寄す』や横山源之助の『日本の下層社会』の出版を援助した企業家で、島田三郎は、衆議院副議長で「我国の政治家中最も社会改良に熱心なる一人」(片山潜『日本の労働運動』から)で、毎日新聞の社主であり、横山源之助も彼に雇われたわけだが、この6名が日本の初期労働運動の立役者であった。

片山潜は、最初から社会主義者であったのではなくて、若い頃は立身出世をめざして1884年(明治17年)にアメリカに渡り、1896年に帰国するまでの13年間をアメリカで苦学して、キリスト教とラッサール流の社会主義を学び、1896年(明治29)に帰国、翌年神田三崎町でキングスレー館という福祉施設をやっていたが、労働組合期成会に参加し、『労働世界』という機関誌が発行を編集発行した。『労働世界』には横山源之助も参加して、多くの記事を書いている。

労働組合期成会は鉄工組合のほかに、日本鉄道矯正会という鉄道機関手の組合や活版工組合を組織したのだったが、労働組合運動が停滞して、片山潜が社会主義にシフトして行く中で、お互い非社会主義的であることに共感し合った高野房太郎と横山源之助は、ともに運動から離反して行った。 

1898年(明治31)に期成会と鉄工組合の役員を辞めた高野房太郎は、横浜に共働店・横浜鉄工共営合資会社という今でいう協同組合売店を設立、1899年(明治32)には八丁堀に共働店・共営舎を設立した。しかし、前述したように「期成会ならびに共営店の事業共に漸く衰運に向ひしかば」、1900年(明治33)に治安警察法が制定されて労働組合が禁止されるに及んで清国に渡り、1904年(明治37)3月に青島で客死したのであった。 高野房太郎の死に際し、横山源之助は以下の「高野房太郎君を憶ふ」を書いている。

「労働運動の卒先者にして、兼て鉄工組合を創立し、消費組合を創設したる労働社会の明星、高野房太郎君が、清国山東省に逝けるは、既に三ヶ月の前に経過す。数日前、遺骨東京に到着し、明二十六日午前九時を以て、駒込吉祥寺に其埋骨式行はると聞き、感慨の湧起するを禁ずる能はず。・・・今日余が東京に帰りて、労働者の研究に従事するもの、先輩には佐久間貞一、島田三郎二氏の援助ありしと雖、亦君が常に余を慫慂し、激励したるもの与りて、力多きを認めずんばあらず。嗚呼余は君を忘るゝこと能はざるなり。・・・今や年一年、社会主義を喜ぶ者増加す。此時に於て、社会主義の学説と其の運動方法を厭へる君の如き士の逝けるは、実に労働者の不幸にして、亦日本国の不幸なりと謂ふ(いう)べし」と。

片山潜は、後年『日本の労働運動』(岩波文庫)において、「明治二十九年の末に至り、・・先づ澤田半之助及城常太郎の両氏は・・翌三十年四月に・・職工義友会を起こし・・」(P18)と書いて、その記述から高野房太郎の名をはずしている。『日本の労働運動』は、初期の日本の労働運動を網羅した本ではあるが、片山潜の「オレがオレが」も目立つ本である。

前述したように『日本生活協同組合史』は「生協が普及したのは片山の指導によるところが大きい」としている。これは『日本の労働運動』に共働店は片山潜の指導によってみたいに書かれているせいかもしれないが、片山潜は実際に協同組合に関わったことはない。それに対して高野房太郎は、「共働店の規約」を書き、自らその運営を担っている。高野房太郎はアメリカで働いていた時に、労働騎士団の影響を受けたというから、労働騎士団の協同社会主義みたいなものに共感していたのかもしれない。

ロシア革命以後、ボルシェヴィキ型の社会主義が跋扈して以来、横山源之助も高野房太郎も忘れられた存在となった。講座派の平野義太郎は、高野房太郎を「低調なる労使協調論者」とした。しかし、アメリカで出稼ぎ労働をする兄からの仕送りで大学を出てドイツに留学し、帝大教授から大原社会問題研究所の所長となった弟の高野岩三郎は、兄の事を一生忘れず、その志を継いで生きた。東京帝大に経済学部をつくった高野岩三郎は、大内兵衛や森戸辰雄といった後の労農派の学者グループを育て、また、ドイツ人と結婚した高野岩三郎のハーフ娘は宇野弘蔵と結婚している。

「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟は、兄の好古は陸軍士官学校からフランスに留学し、弟の真之は海軍士官学校を出てアメリカ駐在武官となり、両者とも日露戦争で戦勲を上げ、兄は陸軍大将になり、弟は海軍中将となり、昨年末にNHKで大金をかけたドラマの主人公となった。一方、高野房太郎はアメリカで出稼ぎ労働し、そこから仕送りされた金で弟の岩三郎は大学を卒業し、ドイツに留学し、後の労農派の学者グループを育てた。「坂の下の流れ」は、この高野兄弟と、前述した馬場兄弟の二つの兄弟が、その主要なルーツをなすのである。

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2010年5月 2日 (日)

明治20年代のロマン主義

1896年(明治29)1月に、横山源之助が樋口一葉を訪ねて「二葉亭四迷に我れを引あはさんといふ。半日がほどをかたりき」した時、どんな話をしたのかと思うに、横山源之助は一葉に「同病相憐」みながら、「二葉亭四迷に引あはさん」という話と、「経国経世」的な話をしたのではなかろうかと思われる。

明治20年代に二葉亭四迷、内田露庵、幸田露伴、松原岩五郎との交友して文学的放浪をしていた横山源之助は、明治27年に毎日新聞に入社後は、底辺社会のルポルタージュを書いて好評を得、明治29年からは地方にも及ぶ本格的な調査活動を開始しようと、同2月には佐久間貞一を訪ねてその支援を得て、3月に桐生・足利へと旅立った。松原岩五郎の『最暗黒の東京』が、明治20年代前半の東京における底辺層の生業ルポであったのに対して、日清戦争に勝利した後に、繊維産業を中心に資本主義の生成期に入った日本社会では、そこに新たな底辺社会を誕生させつつあり、横山源之助はそれをルポしに旅立ったわけである。

そして、ちょうどその時期に、横山源之助は樋口一葉と「経国経世」を語り合ったと思われるわけだが、「明治一八年に自由民権の政治から敗退した北村透谷」と「明治二二年に近代文学から敗退した二葉亭四迷」(小田切秀雄『二葉亭四迷』岩波新書p123参考)の思いを継ぐふたりの思いの交差でもあっただろうか。国会の開設後、自由党も改進党も門閥政治に組み込まれ、文学では硯友社が文壇を席巻し、これから資本主義が立ち上がろうとする時代の「坂の下」のささやかなひとこまである。

「自由民権の政治から敗退した北村透谷」は、その後、自らをどう語ったのか、島崎藤村の『桜の実の熟する時』に、以下の描写がある。

 高輪東禅寺の境内にある青木の寓居を指して、捨吉は菅と連立って出掛けた。・・・
 「なにしろ君、僕なぞは十四の年に政治演説をやるような少年だったからね」と青木は半分自分を嘲るように言出した。
 この青木の話を聞いている中に、もう長いこと忘れていてめったに思出しもしなかった捨吉自身の少年の日の記憶が引出されて行った。曽ては捨吉の周囲にもさかんな政治熱に浮かされた幾多の青年の群れがあった。彼は田辺の小父さん自身ですら熱心な改進党員のー人であったことを思出した。鸚鳴社の機関雑誌、その他政治上の思想を喚起し鼓吹するような雑誌や小冊子が彼の手の届き易い以前の田辺の家の方にあったことを思出した。何時の間にか彼もそれらの政治雑誌を愛読し・・・あの当時の論争が少年としての自分の胸の血潮を波打つようにさせたことを思出した。そればかりではない、高輪の学窓に身を置いた当座まで、あの貧しいジスレイリを羨むような心が、未来の政治的生涯を夢みるような心が自分の上に続いたことを思出した。
 「青木君にもそういう時代があったかなあ」
と、捨吉は自分に言って見て、今では全く別の道を歩いているような青木の顔を眺めた。━━と。

以上は捨吉(島崎藤村がモデル)が、友人の菅(戸川秋骨がモデル)を誘って青木(北村透谷がモデル)を訪ねた場面である。実際のこととしては1892年(明治25)のことだと思われるが、『桜の実の熟する時』を読むと、少年時代の島崎藤村にも民権運動の論争に「胸の血潮を波打つようにさせた」ことがあったのかと思わされる。

『桜の実の熟する時』に出てくる「田辺の小父さん」とは、没落した木曽は馬籠の庄屋の四男春樹=藤村の庇護者となった吉村忠道のことである。若き藤村は、ゆくゆくは「田辺の小父さん」の商売を手助けすべく、共立学校→明治学院に学ぶが、これは「田辺の小父さん」が藤村に英語を学ばせて、アメリカに商売の勉強に行かせるためであり、後にふれるが、高野房太郎の渡米の目的が「商業研究のため」であったことに通じている。しかし、横浜にある「田辺の小父さん」の店を手伝いに行ったりはするものの、藤村の心は文学へと向かい、藤村が関西への放浪の旅へ向かうところで『桜の実の熟する時』は終わる。私は、期待に背いて文学への道に進んだ藤村と吉村忠道の関係がその後もつづいたことを不思議に思ったものだったが、吉村忠道も改進党系の民権論者であったことを思えば、なるほどと思わされる。

しかし、藤村が民権運動に携わることはなかった。1895年(明治27)に明治女学校の教職を北村透谷に譲った藤村は、『春』(百十)に以下のように書いている。

 「母親さん、僕はもう麹町の学校を岸めようと思います・・」 、・・「そのかわりこれから筆の方で稼ぎます。」・・・━ ━と。

前述したように、一葉と藤村には反りの合わないところがあるが、二人が文学をやろうと決めたのは、ほぼ同時期である。それから一葉は「奇跡の十四ヶ月」を生き、1896年(明治28)に東北学院に職を得て、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」と仙台に下った藤村は、翌年に『若菜集』を刊行した。

1893年(明治26)の『文学界』の創刊に始まる新しい文学の息吹は、私的には19世紀イギリスのラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)をアナロジーさせる。『桜の実の熟する時』には、「あの岸本さん(『女学雑誌』を主宰していた巌本善治がモデル)にも、こうした『モダアン・ペインタアス』などを繙こうとした静かな時があったのであろうかと想像してみた」とあり、後の『千曲川のスケッチ』には、藤村が小諸義塾の絵の教師とラスキンの『近代絵画』やミレイの絵についての語り合いが描かれており、『春』には以下の描写がある。

 菅一人の時ですら、池の端というものは連中が会合の場処のようであったが、まして市川が来て机を並べたので、いよいよこの下宿の方へ友達仲間の足が向易くなった。・・・
 市川が画かせたシェレイの画像も額に入って来て、新にこの部屋を飾った。・・この画像の前で、連中は盛んに文芸復興期の話などをした。一人で彫刻もやれば、絵画もやる、詩も作る、おまけに建築の設計もすると言ったような、諸芸を通じて力溢れた巨匠が続出した時代の話になると、連中はもう我を忘れて、眉を揚たり、腕まくりをしたりした。ダンテ、アンゼロ、または美少年ラファエルの名がよく繰返された。中世紀あたりの男女の物語、怪しい僧侶の恋、その他詩人美術家の情事に関したことなどもよく詮索された。(『春』百十一) ━ ━と。

これは『文学界』におけるラファエル前派流のBrotherhood な世界である。ラファエル前派の生まれた時代のイギリスは、まさに資本主義の成長期にあったが、その一方にはエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級』に描いた底辺社会があり、ラスキンによる資本主義への批判と芸術の復興運運動があった。そして、『文学界』の時代は、日清戦争を背景に、日本の資本主義と「日本の下層社会」が生まれた時代であったのである。

横山源之助の交友した幸田露伴は、1891年(明治24)に『五重塔』を書いて、やがて姿を現す資本主義という近代社会の予兆に対して、江戸の職人気質を対置する。「職人とは無名なる芸術家であり、職人気質はかれらが体現した中世の精神である」(岩波文庫の解説より)のは、それより50年前のイギリスにおけるラファエル前派も同様である。

そして、イギリスにおけるカーライルやラスキンやラファエル前派の流れの中からウィリアム・モリスの営為と社会主義が生まれたように、明治20年代の日本のささやかなロマン主義の流れを引き継いでこそ、その後の日本における内発的で土着の思想的営為の起こり得るのであろうと思われるところである。

根岸派の幸田露伴が筆を置いた後、永井荷風の『日和下駄』は、西洋の猿真似でしかない日本の近代化への嫌悪と、その裏返しとしての江戸趣味への志向であり、読み返せば、ヴィクトリア期のブルジョワ文化を嫌悪したラスキンの中世志向に通じるものがあると言うか、ほとんど同じである。『霊廟』という文章には、「われわれは丁度かの沈滞せる英国の画界を覚醒したロセッチ一派の如く、理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまいか」(岩波文庫『荷風随筆集・上』p143)と書いている。

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