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2010年5月 2日 (日)

明治20年代のロマン主義

1896年(明治29)1月に、横山源之助が樋口一葉を訪ねて「二葉亭四迷に我れを引あはさんといふ。半日がほどをかたりき」した時、どんな話をしたのかと思うに、横山源之助は一葉に「同病相憐」みながら、「二葉亭四迷に引あはさん」という話と、「経国経世」的な話をしたのではなかろうかと思われる。

明治20年代に二葉亭四迷、内田露庵、幸田露伴、松原岩五郎との交友して文学的放浪をしていた横山源之助は、明治27年に毎日新聞に入社後は、底辺社会のルポルタージュを書いて好評を得、明治29年からは地方にも及ぶ本格的な調査活動を開始しようと、同2月には佐久間貞一を訪ねてその支援を得て、3月に桐生・足利へと旅立った。松原岩五郎の『最暗黒の東京』が、明治20年代前半の東京における底辺層の生業ルポであったのに対して、日清戦争に勝利した後に、繊維産業を中心に資本主義の生成期に入った日本社会では、そこに新たな底辺社会を誕生させつつあり、横山源之助はそれをルポしに旅立ったわけである。

そして、ちょうどその時期に、横山源之助は樋口一葉と「経国経世」を語り合ったと思われるわけだが、「明治一八年に自由民権の政治から敗退した北村透谷」と「明治二二年に近代文学から敗退した二葉亭四迷」(小田切秀雄『二葉亭四迷』岩波新書p123参考)の思いを継ぐふたりの思いの交差でもあっただろうか。国会の開設後、自由党も改進党も門閥政治に組み込まれ、文学では硯友社が文壇を席巻し、これから資本主義が立ち上がろうとする時代の「坂の下」のささやかなひとこまである。

「自由民権の政治から敗退した北村透谷」は、その後、自らをどう語ったのか、島崎藤村の『桜の実の熟する時』に、以下の描写がある。

 高輪東禅寺の境内にある青木の寓居を指して、捨吉は菅と連立って出掛けた。・・・
 「なにしろ君、僕なぞは十四の年に政治演説をやるような少年だったからね」と青木は半分自分を嘲るように言出した。
 この青木の話を聞いている中に、もう長いこと忘れていてめったに思出しもしなかった捨吉自身の少年の日の記憶が引出されて行った。曽ては捨吉の周囲にもさかんな政治熱に浮かされた幾多の青年の群れがあった。彼は田辺の小父さん自身ですら熱心な改進党員のー人であったことを思出した。鸚鳴社の機関雑誌、その他政治上の思想を喚起し鼓吹するような雑誌や小冊子が彼の手の届き易い以前の田辺の家の方にあったことを思出した。何時の間にか彼もそれらの政治雑誌を愛読し・・・あの当時の論争が少年としての自分の胸の血潮を波打つようにさせたことを思出した。そればかりではない、高輪の学窓に身を置いた当座まで、あの貧しいジスレイリを羨むような心が、未来の政治的生涯を夢みるような心が自分の上に続いたことを思出した。
 「青木君にもそういう時代があったかなあ」
と、捨吉は自分に言って見て、今では全く別の道を歩いているような青木の顔を眺めた。━━と。

以上は捨吉(島崎藤村がモデル)が、友人の菅(戸川秋骨がモデル)を誘って青木(北村透谷がモデル)を訪ねた場面である。実際のこととしては1892年(明治25)のことだと思われるが、『桜の実の熟する時』を読むと、少年時代の島崎藤村にも民権運動の論争に「胸の血潮を波打つようにさせた」ことがあったのかと思わされる。

『桜の実の熟する時』に出てくる「田辺の小父さん」とは、没落した木曽は馬籠の庄屋の四男春樹=藤村の庇護者となった吉村忠道のことである。若き藤村は、ゆくゆくは「田辺の小父さん」の商売を手助けすべく、共立学校→明治学院に学ぶが、これは「田辺の小父さん」が藤村に英語を学ばせて、アメリカに商売の勉強に行かせるためであり、後にふれるが、高野房太郎の渡米の目的が「商業研究のため」であったことに通じている。しかし、横浜にある「田辺の小父さん」の店を手伝いに行ったりはするものの、藤村の心は文学へと向かい、藤村が関西への放浪の旅へ向かうところで『桜の実の熟する時』は終わる。私は、期待に背いて文学への道に進んだ藤村と吉村忠道の関係がその後もつづいたことを不思議に思ったものだったが、吉村忠道も改進党系の民権論者であったことを思えば、なるほどと思わされる。

しかし、藤村が民権運動に携わることはなかった。1895年(明治27)に明治女学校の教職を北村透谷に譲った藤村は、『春』(百十)に以下のように書いている。

 「母親さん、僕はもう麹町の学校を岸めようと思います・・」 、・・「そのかわりこれから筆の方で稼ぎます。」・・・━ ━と。

前述したように、一葉と藤村には反りの合わないところがあるが、二人が文学をやろうと決めたのは、ほぼ同時期である。それから一葉は「奇跡の十四ヶ月」を生き、1896年(明治28)に東北学院に職を得て、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」と仙台に下った藤村は、翌年に『若菜集』を刊行した。

1893年(明治26)の『文学界』の創刊に始まる新しい文学の息吹は、私的には19世紀イギリスのラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)をアナロジーさせる。『桜の実の熟する時』には、「あの岸本さん(『女学雑誌』を主宰していた巌本善治がモデル)にも、こうした『モダアン・ペインタアス』などを繙こうとした静かな時があったのであろうかと想像してみた」とあり、後の『千曲川のスケッチ』には、藤村が小諸義塾の絵の教師とラスキンの『近代絵画』やミレイの絵についての語り合いが描かれており、『春』には以下の描写がある。

 菅一人の時ですら、池の端というものは連中が会合の場処のようであったが、まして市川が来て机を並べたので、いよいよこの下宿の方へ友達仲間の足が向易くなった。・・・
 市川が画かせたシェレイの画像も額に入って来て、新にこの部屋を飾った。・・この画像の前で、連中は盛んに文芸復興期の話などをした。一人で彫刻もやれば、絵画もやる、詩も作る、おまけに建築の設計もすると言ったような、諸芸を通じて力溢れた巨匠が続出した時代の話になると、連中はもう我を忘れて、眉を揚たり、腕まくりをしたりした。ダンテ、アンゼロ、または美少年ラファエルの名がよく繰返された。中世紀あたりの男女の物語、怪しい僧侶の恋、その他詩人美術家の情事に関したことなどもよく詮索された。(『春』百十一) ━ ━と。

これは『文学界』におけるラファエル前派流のBrotherhood な世界である。ラファエル前派の生まれた時代のイギリスは、まさに資本主義の成長期にあったが、その一方にはエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級』に描いた底辺社会があり、ラスキンによる資本主義への批判と芸術の復興運運動があった。そして、『文学界』の時代は、日清戦争を背景に、日本の資本主義と「日本の下層社会」が生まれた時代であったのである。

横山源之助の交友した幸田露伴は、1891年(明治24)に『五重塔』を書いて、やがて姿を現す資本主義という近代社会の予兆に対して、江戸の職人気質を対置する。「職人とは無名なる芸術家であり、職人気質はかれらが体現した中世の精神である」(岩波文庫の解説より)のは、それより50年前のイギリスにおけるラファエル前派も同様である。

そして、イギリスにおけるカーライルやラスキンやラファエル前派の流れの中からウィリアム・モリスの営為と社会主義が生まれたように、明治20年代の日本のささやかなロマン主義の流れを引き継いでこそ、その後の日本における内発的で土着の思想的営為の起こり得るのであろうと思われるところである。

根岸派の幸田露伴が筆を置いた後、永井荷風の『日和下駄』は、西洋の猿真似でしかない日本の近代化への嫌悪と、その裏返しとしての江戸趣味への志向であり、読み返せば、ヴィクトリア期のブルジョワ文化を嫌悪したラスキンの中世志向に通じるものがあると言うか、ほとんど同じである。『霊廟』という文章には、「われわれは丁度かの沈滞せる英国の画界を覚醒したロセッチ一派の如く、理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまいか」(岩波文庫『荷風随筆集・上』p143)と書いている。

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