« 坂の下のサロン | トップページ | うれしき人也 »

2010年4月24日 (土)

北村透谷と樋口一葉

山路愛山を批判して、『人生に相渉るとは何に謂ぞ』に「文学は事業を目的とせざるなり」と書いた北村透谷は、1894年(明治26)5月17日、自宅の庭で縊死を遂げる。そして、同年6月に「文学は糊口の為になすべき物ならず」と書いた樋口一葉は、7月に龍泉寺町に転居して駄菓子屋を開業し、「新生涯」を始めた。樋口一葉が北村透谷に、シンパシー以上のリスぺクトの念を抱いていたのであろうと思われる。

北村透谷は、1868年(明治元年)に小田原に生まれ、1881年(明治14)に東京に移住して泰明小学校に転向。おりからの自由民権運動に触発され、1883年(明治16)には神奈川県会の臨時書記となり、英語の勉強のためにグランド・ホテルでボーイをやり、三多摩自由党の領袖石坂昌孝父子と知り合う。東京専門学校政治科に入学・中退後、1884-85年(明治17-19)に富士山に登り、松方デフレの最中、各地を放浪。1888年(明治21)に石坂美那との新婚生活に入り、やがて政治から文学への道を歩み始める。

北村透谷の民権運動からの離脱の背景には、1881年(明治14)に出された「国会開設の詔」による自由民権運動の体制内化による変質や、大井憲太郎らが起こした大阪事件があった。政府は、国会の開設と欽定憲法の制定を表明した一方で、民権活動家への監視と弾圧を強めた。そして、「自由民権運動は明治政府とは異なる近代国民国家形成の構想を主張して人民を主体に戦ったものである」(色川大吉『北村透谷』P268)が、1890年(明治23)に開設された国会と、国民の100分の1の有権者による制限選挙の結果代議士になった「田舎政治家の多くは且ての敵、藩閥政府を打倒して、自由民権の理想を実現しようとした志を忘れ、その地位を利用して権力への割り込みや一身の栄達をはかることに狂奔していた。透谷はこの元民権家たちの変質を見逃せない。さらに、この代議士たちに糞蠅のようにたかる暴力壮士たちの行動を許すことができなかった」のであった。(前掲書P22-23)

美那との結婚を契機にキリスト教に入信した北村透谷は、1889年(明治22)に『楚囚之誌』を、1891年(明治24)には『蓬莱曲』を自費出版し、劇作にのめりこんで行くわけだが、1892年の日本平和会の創立に参加した北村透谷は、その機関誌「平和」の編集主筆となり、また、木村熊二が始めた明治女学校の二代目校長の巌本善治が主宰する「女学雑誌」などに評論を書のであるが、「日本資本主義の発展の過程で下積みにされた幾百万の人びと、とくに窮民の運命に深い共感を寄せていた」(前掲書P186)透谷は、以下のように書くのである。

「君知らずや、人は魚の如し、暗きに棲み、暗きに迷ふて、寒むく、食少なく世を送る者なり。家なく、助けなく、暴風暴雨に悩められ、辛うじて五十年の歳月を踏み超ゆるなり・・・」(『女学雑誌』明治23年3月「自制に感あり」、岩波文庫『北村透谷選集』P73から)。

「行いて家々の実情を看視せよ、天寒むく雪降れるに曖かき火を囲みて顔色ある者幾家かある、彼等が帰り来れる主人公を慰めん為めに供ふるの肉幾片かある、妙齢の少女頬に紅ゐなく、幼少の児童手に読本なくして路傍に彷徨する者の数、算ふ可きや、母病めるに児は家にありて看護する能はず、出でて其の日の職業を務むれども医薬を買ふの余銭なし、共に侶に死を待ちつ、若くは自らを殺しつ、死を招き、社会は其の表面が日に月に粉飾せられ壮麗に趣くに関せず、裡面に於いて日に月に腐敗し、病哀し、困弊するの状を見る事、豈に偶然の観念ならんや。・・・
一国の最多数を占むる者は貧民なり、而して一国の隆替を支配する者も亦貧民なり。侯卿貴人は昌ゆるとも亦た衰ろふとも、彼等は一呼吸にありて出来たり、又た一呼吸によりて没す可し、一国を守る者は勇敢なる勉励なる農夫、若くは貧民にあり、彼等若しー度び滅されなば、国と家とを守る者、果して誰となす」(明治24-25年頃「慈善事業の進歩を望む」、岩波文庫『北村透谷選集』P327-330から)と。

1893年(明治26)に「文学界」が創刊され、そこで一葉の文学的開花が始まるわけだが、北村透谷の文学の基底に「日本資本主義の発展の過程で下積みにされた幾百万の人びと、とくに窮民の運命に深い共感」があったように、樋口一葉の文学の基底にもそれがあり、それが『たけくらべ』や『にごりえ』を生み出した。龍泉寺町に転居して以来、一葉は久佐賀義孝という男を訪ねてつきあい、千円もの借金を申し込むのだが、この大金は何のためかと問えば、和田芳恵は『一葉の日記』に、以下のように書いている。

「この久佐賀に・・と一葉が頼んだ事業は、和歌以外のものと考えられる。・・・この事業は、日記にはないが、下層社会を対象にした実際運動であったらしい」(p242-244)。「一葉は、吉原というものの存在を社会悪とも病弊とも考えたようである。・・一葉が、こういう人肉の市がたっているのは、表面は花やかに見えても、日本の下層社会の貧困が、家庭の娘を売る原因になっていることに、素僕な怒りを感じたと見てよかろう」(p259)と。

また、1896年(明治29)2月22日の日記「みづの上」には、以下のようにある。

「しばし文机に頬づえつきておもへば、誠にわれは女成けるものを、何事のおもひありとて、そはなすべき事かは。(本文改行)われに風月のおもひ有やいなやをしらず。塵の世をすてゝ深山にはしらんこゝろあるにもあらず。さるを、厭世家とゆびさす人あり。そは何のゆゑならん。はかなき草紙にすみつけて世に出せば、当代の秀逸など有ふれたる言の葉をならべて、明日はそしらん口の端にうやうやしきほめ詞など、あな侘しからずや。かゝる界に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といへるもなく、我れをしるもの空しさをおもへば、あやしう一人この世に生れし心地ぞする。我れは女なり。いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事かあらぬか」と。

同じ「文学界」に文章を書きながら、北村透谷と樋口一葉が会うことはなかった。和田芳恵は、一葉のただ一人の男弟子であった穴沢清次郎氏から聞いた話として、『一葉の日記』に、以下のように書いている。
 「一葉が穴沢清次郎氏に、透谷を尊敬していたこと、また、自殺したその日に、家人に一葉を訪ねると云って出たが、砲兵工廠のあたりまできて気がかわって帰った。もし、逢っていたら、死ななかったかもしれないのに、残念なことをしたと語ったそうである」(p269)と。

また、穴沢清次郎氏は、談話「樋口一葉の思い出」(小学館『全集・樋口一葉・一葉伝説』)に、以下のように語っている。
 「北村透谷のことをしきりにほめていた」、「弱き者、不遇の人に強き同情を寄せ、得意がって反省なき世の幅利き者に、辛辣に当たった女史をして、若し当世に活かしめば、人は左翼文壇の系列に女史を数えたかもしれません」と。

一葉は、透谷に会いたかったのであろうと思われる。

|

« 坂の下のサロン | トップページ | うれしき人也 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 北村透谷と樋口一葉:

« 坂の下のサロン | トップページ | うれしき人也 »