« 坂の下の流れ | トップページ | 坂の下のサロン »

2010年4月17日 (土)

藪下通りと道灌山

関川夏央は『「坂の上の雲」と日本人』に、「そして一九六八年という反体制色に満ちた猛々しい印象の時代に実際に書き始め、筆を置いたのが青年層の反体制的心情が急激に萎縮した七二年であったというのは、とても興味深いことです。」(13頁)と書くが、私が団子坂下のアパートに暮らし始めたのも1972年の暮れのことであった。

団子坂上から根津に向かって藪下通りという間道がある。根津に向かってだらだらと下るその道は、ちょっと都会離れした小道で、私はその坂途中の左手下のアパートに住んだのだったが、坂途中の右奥は本当に崖下で、漱石の『門』の宗助が住む崖下の家のイメージであった。1972年の夏に、大学をやめると言って父と言い争いして家を出て、白山上の南天堂で働きだし、翌年に結婚をして、団子坂下のアパートで新婚生活を始めた私は、漱石の『それから』と『門』の世界に惹かれて、その世界を生きてみたいと思ったのだった。

樋口一葉の『日記』、明治27年6月の「水の上日記」に、以下のくだりがある。
「四日 はれ。午後より、小石川亡老君の墓参をなす。天王寺也。きのふ三年の祭成しを得ゆかざりしかば、邦子と共に参る也。墓前に花を奉り、静に首をあげてあたりをみれば、何方より来にけん、小蝶二つ、花の露をすひ、石面にうつり、とかくさりやらぬさま、哀れにもさびし。邦子としばしここにかたりて、それより寺内を逍ゑうす。雲井龍雄の碑文などをみる。夕日のかげくらく成ほど、雨雲さへおこりたちて、空の色の物すさまじかいに、そそやといそぐ。團子坂より藪下を過ぎて根津神社の坂にかかる。・・・」と。

谷中天王寺に墓参りに行った帰り道に、「團子坂より藪下を」ぬけ、根津神社前の坂を上って、本郷追分から丸山福山町の自宅に帰ったのであろうか。思えば一葉も坂下の人である。本郷菊坂下に住み、下谷竜泉で駄菓子屋を営んだ後、最後の棲家となった丸山福山町も坂下みたいな所だからである。坂の下の世界は樋口一葉にもつながっていて、明治29年1月の「水の上日記」には、以下のくだりがある。

「かどを訪ふ者、日一日と多し。毎日の岡野正味、天涯茫々生など不可思儀の人々来る。茫々生は、うき世に友といふ者なき人世間は目して人間の外におけりとおぼし。此人とび来て、二葉亭四迷に我れを引あはさんといふ。半日がほどをかたりき」と。

「天涯茫々生」とは、毎日新聞の記者で明治32年に出版された生成期の日本資本主義の底辺層をルポした『日本の下層社会』で知られる横山源之助のことである。横山源之助は、明治4年に私生児として魚津に生まれ、左官屋に育てられたが、16歳で東京に出奔、弁護士になろうと英吉利法律学校(後の中央大学)に学び、卒業してから毎日新聞に入るまでの4年間を谷中初音町に住んでいたという。本人の「回想記」には、以下のようにある。(※立花雄一『評伝・横山源之助』からの孫引き)

「谷中に引っ込んで弁護士試験の準備に取り掛かったが、法律書は其方退に小説や宗教書に耽っていた。・・・空漠とした宗教書や、小説類を読み耽って、お仕舞には試験が一二か月前に迫ったが、其様なことに頓着なく、菜根譚の写本を懐にして、飄然と道灌山や滝の川に出掛けて、日を消したことが一二度ではない」と。

ついでに書いておけば、島崎藤村の『春』には、以下の記述がある。

「四月のはじめ、彼は独りで家を出て、上野公園から谷中を通って、道灌山まで歩いて行った。誰も来ないような場所へ彼は行きたいと思うのであった。彼の懐には平素愛読する李白の詩集があった。そこまで彼は泣きに行った。思うさま泣いた」(『春』百十二)と。

1891年(明治24)~1895年(明治28)頃、横山源之助は谷中初音町に住み、天涯茫々と自称する如くフーテンのように生きていて、司法試験の勉強そっちのけで「菜根譚の写本を懐にして、飄然と道灌山や滝の川に出掛け」、その少し後くらいだろうか、1895年(明治28)に島崎藤村は、李白の詩集を持って、道灌山に泣きに行っている。

私の出た高校は道灌山にあったから、勉強嫌いな私は授業を抜け出すと、谷中や道灌山周辺でわけもなく日を消したことが幾度もあった。団子坂上の藪下通りを根津とは逆の方角に行くと動坂があり、そこに野山先生という現代文の先生が住んでいて、野山先生の授業で樋口一葉の『たけくらべ』と、島崎藤村の『春』と、夏目漱石の『三四郎』を紐解かれたものだった。そして、私は次第にその世界に耽溺していったのだった。

藤村の『春』(百十二)には、先の文章の前に、以下の文章がある。

 「青木(北村透谷)は死ぬ、岡見(星野天知)は隠れる、足立(馬場孤蝶)は任地を指して出掛けてしまう、市川(平田禿木)、菅(戸川秋骨)、福富(上田敏)は相継いで学問とか芸術の鑑賞とかいう方へ向いた。連中は共同の事業に疲れて来た。・・・
 何のかんのと言っても、連中は互いに離れることが出来なかった。こういう中で岸本は大根畠の二階に籠って、自分は自分だけの道路を進みたいと思っていた。自分等の眼前にはまだまだ開拓されていない領分がある。・・青木はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った。・・」と。

1894年(明治27)に北村透谷が自殺し、やがて「文学界」の同人たちはそれぞれの道を歩き始める中、『春』によれば藤村は、「青木はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った」と透谷へのオマージュをこめて、やがて仙台に下って文学への道を歩み始める。北村透谷の「未完成な事業」とは、果たして藤村流の文学だったかはともかくとして、団子坂下に移り住んだ私は、文学や北村透谷的には民権運動みたいなことをやろうと思ったのだった。

|

« 坂の下の流れ | トップページ | 坂の下のサロン »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 藪下通りと道灌山:

« 坂の下の流れ | トップページ | 坂の下のサロン »