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2010年4月18日 (日)

坂の下のサロン

「坂の上の雲」は日露戦争の勝利にいたる近代日本のハレの物語であるようだが、私の書く「坂の下の流れ」は、日清戦争前後の近代日本生成期における貧乏人のケの話である。そして、坂の下の貧乏人の話となると、やはり樋口一葉から始めるかなと思うのである。

父・義則の死後、17歳で戸主になった樋口一葉は、1890年(明治23)に本郷菊坂下の貸家に住み、裁縫と洗い張りで生計を立てるが、やがて金を得るために小説を書こうと半井桃水を訪ねて教えを請い、また上野の帝国図書館に通って文学を勉強し、1892年(明治25)に文芸雑誌「都の花」に『うもれ木』を書いた。
「につ記」10月2日には、以下のようにある。

「田邊君よりはがき来る、うもれ木一ト先都の花にのせ度よし全港堂より申来たりたるよし、原稿料は一葉二十五銭とのこと、異存ありや否やとなり、直に承知の返事を出す、母君此はがきを持参して三枝君のもとに此月の費用かりに行く、心よく諾されて六円かり来る、そはうもれ木の原稿料十円斗とれるを目的になり。此夜国子と共に下谷ステーションより池のはた近傍を散歩す」と。

これを読むと、一葉は「原稿料十円斗とれるを目的に」書いたことが分かる。しかし、1893年(明治26)1月に「文学界」が創刊され、1号、2号には原稿を書かなかった一葉ではあるが、「美に憧れ、理想に生きようとする青年作家群の浪漫的いぶき・・青春の夢と悩み・・新しい文学精神」(※和田芳恵『一葉の日記』講談社文芸文庫P190-191)をそこに感じて、大いに影響を受け、共感したものと思われる。

北村透谷は「文学界」の1号に、「・・西行芭蕉の徒、この詩神と逍遥するが為に、富嶽の周辺を往返して、形なく像なき記念碑を空中に構設しはじめたり。詩神去らず、この国なほ愛すべし。詩神去らず、人間なほ味あり」(『富嶽の詩神を思ふ』)と書き、2号に「然れども文学は事業を目的とせざるなり・・・」(『人生に相渉るとは何に謂ぞ』)と書いて、文学における功利主義を批判した。

そして一葉は、2月に「我れは営利の為に筆をとるか。さらば何か故にかくまでにおもひをこらす。得る所は文字の数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。・・・」、6月30日の「につ記」に「人つねの産なければ、常のこゝろなし。手をふところにして、月花にあくがれぬとも、塩そなくして、天寿を終らるべきものならず。かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。・・・せめて文学の上にだけも義務少なき身とならばやとてなむ。・・・とにかくにこえるをみまし空せみのよわたる橋や夢のうきはし」と書いて、文学は「営利の為」でなく、生活のため商ひを別になそうと、1893年(明治26)7月に下谷区龍泉寺町にて荒物・駄菓子屋を開くのである。

引越しが済んで、19日の日記「塵の中」にはこうある。
「今宵は何かむねさわぎて睡りがたし。さるは新生涯をむかへて舊生涯をすてんことのよこたわりて也」と。

新生涯をむかへての日記が「塵の中」とは、一葉の意趣はいかにと思われるところだが、この決意と転居こそが、『たけくらべ』をはじめとする一葉文学の最高峰と、日本における最良の浪漫主義文学運動を生み出すのである。「塵中日記」の1894年(明治27)1月13には、「星野君はじめて来訪」とあり、20日には、「平田君来訪」とある。「日記ちりの中」の3月12日には、「禿木子、及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし 二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平々々のことばを聞く。うれしき人也」とある。

龍泉寺町での荒物・駄菓子屋の商いにいきづまって、1894年(明治27)5月に一葉は、本郷区丸山福山町に転居し、そこには戸川秋骨や島崎藤村もやってくるようになる。島崎藤村の『春』(百九)には、以下の場面がある。

 「どうだね、これから堤さんの許へ出掛けて見ないか。足立君も行ってるかも知れないよ。」こう菅が言出した。 ・・・そこには堤姉妹か年老いた母親にかしずいて、侘しい風雅な女暮しをしていた。いずれも苦労した、談話の面白い人達であったが、ことに姉は和歌から小説に人って、既に一家をなしていた。この人を世に紹介したのは連中の雑誌で、日頃親しくするところから、よく市川や足立や菅がその家を訪ねたものである。で、その日も菅は岸本を誘って、市川と三人連で出掛けようと思った。
 飄逸な、心の置けない堤姉妹の家ですら、岸本は黙って、皆なの談話を聞いて帰るばかりである。どこへ行くのも気が進まなかった。「まあ僕はよそう。」と彼は言った。

と。「堤姉妹」とは樋口一葉、邦子の姉妹で、「連中の雑誌」とは「文学界」のことである。平田禿木や馬場孤蝶や戸川秋骨らは、丸山福山町に一葉を訪ねては夜遅くまで話し込んだようである。この頃の一葉の日記には、「金子調達を申し込む」、「金策たのみに行く」の記述が多く、日々の生活に追われながらも一葉は彼らの話を聞き、「山にそひて、ささやかなる池の上にたてたる」丸山福山町の一葉宅は、若きロマン主義者たちのサロンのようであるが、一方同じ頃、一葉は久佐賀義孝という男を訪ねて千円もの借金を申し込み、妾になれと言われてこれを断ったりしている。

また、「塵の中日記」には、「日々にうつり行こころの、哀れいつの時にか誠のさとりを得て、古潭の水の月をうかべるごとならんとすらん。・・・人はおそるらむ死といふことをも、唯風の前の塵とあきらめて、山櫻ちるをことはりとおもへば、あらしもさまでおそろしからず。唯此死といふ事をかけて、浮世を月花におくらんとす・・・」とあり、次の「水の上日記」の7月1日には、「幸作死去の報あり。母君驚愕、直に參らる。からはその日寺に送りて、日ぐらしの烟とたちのぼらせぬ。浅ましき終を、ちかき人にみる、我身の宿世もそぞろにかなし」と。

従兄弟の病気と死は、「唯此死といふ事をかけて、浮世を月花におくらんとす」と書いた一葉を、せかすように生き急がせたのだろうか。その年の暮れの「文学界」に『大つごもり』を書いた一葉は、年が明けて、「文学界」に『たけくらべ』の連載を始める。「奇跡の十四カ月」が始まったのである。

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