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2010年4月 4日 (日)

還暦の終わりの仕切り直し

私は、ちょうど10年前に会社勤めを辞めた。そこは生協の関連会社で、わけあって出向に出されていたのだったが、思い切って辞めることにしたのだった。そこで、ロバート・オウエンや賀川豊彦に立ち返って、自分なりに協同組合を見直してみようと、このブログを立ち上げて、そこにコミュニティ論を書き出した。

その方向は、前々回のブログに書いたように、これまでの協同組合論がこれまでの近代主義ないしは社会主義論の延長にあったことに対して、「労働力商品論→恐慌論+労農派論→脱労働力商品論」をベースに、脱労働力商品的生き方とその仕組みとしての「新しいコミュニティ→新しい協同組合」という構想とした。そして、私は4月生まれで、昨年が還暦であったから、出来ることなら還暦の間にまとめたいと思ったものだったが、あと1週間で還暦の歳が終わるのに、まだまとまりそうにない。

この1年間の成果と言えば、私の頭に経済学は無理なことが再確認されたことくらいであろうか。そこで、宇野弘蔵の恐慌論から始めるのではなくて、宇野弘蔵の恐慌論はどこから生まれたのかということで、労農派の源流をたどりながら脱労働力商品論を考える、それも私がやることだから、経済学的なやり方ではなく考えてみようと思う次第である。まあ、還暦の終わりの仕切り直しとでも言うか。

昨年は、賀川豊彦がスラムに身を投じてから100年ということで、「賀川豊彦献身100年」というイベントがあれこれあった。一昨年のリーマン・ショック以来の市場経済の見直しもあって、生協関係者が一斉に賀川豊彦の「友愛の経済学」を語り始めたわけである。そこで私も、そういう日本の生協運動を見直してみようと、石川三四郎の『消費組合の話』を読んだ。なぜ石川三四郎からかと言うと、賀川豊彦は若い頃に石川三四郎の『消費組合の話』を読んで、協同組合に目覚めたからであった。

『消費組合の話』の前書きには、「平民社で著述出版を計画した時、予に『消費組合の話』を割当てて呉れたのは枯川兄である、兄は更に之を安部磯雄氏に談じ、安部氏は有益なる参考書を送り賜はつた・・」とある。「枯川兄」とは堺利彦のことであり、「有益なる参考書」とはホリヨーク著の『ロッチデールの先駆者たち』のことであろうが、安部磯雄はアメリカに留学時にイギリスにも渡っているから、そこで手に入れたのであろう。

1904年に『消費組合の話』が出て、1905年に賀川豊彦はそれを読んでいる。賀川豊彦はまだ17歳で徳島に住んでいたが、当時から平民新聞を購読していた。そして、1909年に新川のスラムに入った賀川豊彦は、1912年に協同組合の一膳飯屋『天国屋』をつくったのである。賀川豊彦の協同組合は、いきなり消費組合ではない。一膳飯屋といい、歯ブラシ工場といい、初めは小さな生産組合である。これは、賀川豊彦がイギリスのギルド社会主義などから影響を受けていたこともあるかと思われる。

1903年(明治36)に平民社に参加した石川三四郎は、そこで『消費組合の話』を書いたわけだが、大逆事件後の7年間にわたるヨーロッパ亡命から帰国の後は、小さな農耕コミュニティ「共学舎」に依ってしのぎ、戦後に書いた『五十年後の日本』に、協同組合社会を描いた。また、「共働事業の思い出」という小文に以下のようにも書いている。

「私は明治三十七年に『消費組合の話』といふ小冊子を書いたことがある。・・・主としてホリョークの著書を参考にして、ロツチデールのパイオニアの事業なぞを書いたのだと思ふ。
この小冊子が因縁になって、東京市内に少くとも二つの消費組合が創立され・・私はその両方に関係した。一つは平民病院長加藤時次郎氏が中心になって組織され・・・もう一つはたしか雑貨商を持ってゐた一青年だったと思ふが、その個人の仕事を拗って消費組合の創立に傾倒した。本郷千駄木辺の小民街に居を移し、そこで仕事に着手した」と。

私の馴染みの千駄木で、明治時代に消費組合づくりが試みられたなど、驚きの話であるが、こんな話はこれまでの協同組合史には全く出てこない。賀川豊彦は、後に世界一の生協となった現コープこうべを創った人だから、その原点にあった石川三四郎のことなど、生協業界でもっと評価されてしかるべきなのだが、なぜそうならないのか、まあ、その辺から考えてみたいわけである。

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