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2010年4月25日 (日)

『蝶くらべ』と『たけくらべ』

『文学界』が創刊された1893年(明治26)に、23歳の堺枯川は『蝶くらべ』という小説を書いている。これは樋口一葉が『文学界』に『たけくらべ』の連載を始めるのよりも2年早く、ちょうど樋口一葉が、「人つねの産なければ、常のこゝろなし。・・・かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。・・・とにかくにこえるをみまし空せみのよわたる橋や夢のうきはし」と書いて、下谷区龍泉寺町にて荒物・駄菓子屋を開いた頃のことである。

1889年(明治22)に、月謝不納で一高を除席になった堺利彦は、大阪で小学校の教員をしながら小説を書き始めて、枯川漁史と称して地方新聞などに翻案小説を載せだした。翻案小説というのは、これも共立学校→一高と進んで英語はできた堺利彦が、外国の小説をいいかげんに訳してデフォルメしたものと思われるが、『蝶くらべ』もその頃に書かれたものであり、題名は『○○くらべ』と似てはいるが、内容的にはくらべようもない。

1893年(明治26)に教員を辞めた堺利彦は「文士兼新聞小説家」になり、母の死後、東京に出てくる。当時、都新聞に勤めていた兄の1895年(明治28)の9月の日記には弟・枯川のことが以下のように書かれていると、堺利彦自身が自らの『堺利彦伝』に書いている

 「二二日、午後二時ごろより空少し晴れたれば父上を案内して枯川、小林も同道にて浅草に遊びー直に飲む」
 「二三日、雨をおかし夜出で枯川と共に蕎麦を食う」
 「二六日夜、父上枯川同道にて寄席に行く」
 「二九日蹴月枯川と京橋の角に飲む」
 「二日、夜父上のお供して寄常に行き女義太夫を聞きぬ」と。

樋口一葉が、運命に追われるようにして、その「奇跡の十四カ月」を走り抜けている頃のことであるが、これが、後に労農派を創出した堺利彦の25歳の姿である。1896年(明治29)に結婚した頃から、堺利彦はやっと放縦生活から抜けて行く。樋口一葉の死後に出た『一葉全集』を読んだ堺利彦は、1897年(明治30)に『読一葉全集』として、以下のように書いている。

「藤むらさきの表紙に碧梧の一葉、末枯の寂あはれにゆかしく、中天に題して一葉全集といふ。・・短生涯廿六年、苦辛を嘗め尽して世と戦ひたる故樋口夏子の遺著、読まんとして先づ涙さしぐむ。
 我が始めて一葉女史の作を読みしは、去年一月の国民之友春期付録に於ける「別路」なりき。一読して先づ其の才思を認め、再読して稍不快の念を起しぬ。不快の念とは何ぞや。我は此に白状す、一女子にして此の如きを思ひ我が文の及ばざるを傀ぢたりし也。猶在住に云へば多少の嫉妬なりし也。之を三読するに及びては、坐に敬意今生じてふ止る所を知らざりき。後女史の作三、四を読むことを得て、いよく其の敬すべぎを知りぬ、それと同時に女史が艱難数奇なる半生の経歴を漏聞きては、いよいよますます其の敬すべきを知りぬ」と。

堺利彦は、1899年(明治32)に万朝報社に職を得て、そこで幸徳秋水と知り合い、1903年(明治36)に日露戦争の危機がせまると、非戦論を唱えて幸徳秋水とともに万朝報社を退社、平民社を創設して、そこから日本の社会主義が始まるというのが通説で、「労農派論」というのもだいたいこの辺りから始まるものなのだが、私はもう少しその源流を歩いてみようと思う。その源流こそが、「坂の下の流れ」の世界なのである。

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