« 還暦の終わりの仕切り直し | トップページ | 坂の下の流れ »

2010年4月13日 (火)

千駄木辺りの話

石川三四郎の「共働事業の思い出」という小文にある、『消費組合の話』が因縁になって創立された二つの消費組合のうち、加藤時次郎氏が中心になって組織されたものについては以前にも書いた。これには平民社も出資している。もう一つの「雑貨商を持ってゐた一青年だったと思ふが、その個人の仕事を拗って消費組合の創立に傾倒した。本郷千駄木辺の小民街に居を移し、そこで仕事に着手した」については、それ以上のことは不明であるが、石川三四郎がどう関係したのか、興味のあるところである。

日本における協同組合の草分けに、1898年(明治31)に高野房太郎が横浜に創った「横浜鉄工共営合資会社」という「共働店」と、1899年(明治32)に同じく高野房太郎が八丁堀に創った「共営社」がある。また、高野房太郎が創った日本初の労働団体である労働組合期成会は、各地で「共働店」づくりをすすめたが、これらもその継続は長くはなかったようである。

資本主義の生成期で、労働組合は出来たばかりで、いわゆる消費者というものが存在しなかった時代に、数少ない組合員だけを対象にした協同組合の存続は困難だったのであろうと思われる。このことは、1820~30年代のイギリスにおいても、たくさんの協同組合づくりが試みられながらも、1844年のロッチデール公正開拓者組合の出現までは、そのどれもが長続きできなかったことと同じである。

私は、最初の試みが長続きしなかったことを否定的に考えないが、ただひとつ気になるのは、労働組合期成会による「共働店」づくりについて、『日本生活協同組合史』において「この運動についてとくに熱意を示したのは片山潜であった」とされていることである。労働組合期成会も、「共働店」づくりも、実際の指導者は高野房太郎である。この辺りも、石川三四郎も含めて見直してみたいところである。

さて、その辺りの見直しは別途書くとして、私が関心をもったのは、明治37年頃の「本郷千駄木辺の小民街」についてである。当時の本郷区の地図を見ると、当時の千駄木は現在の千駄木1丁目と3丁目、それに向丘2丁目の辺りである。また、白山上には肴町や通称三角と呼ばれた道がそのままある。そこには大正期に南天堂があって、白山の聖人と呼ばれたアナキストの渡辺政太郎が北風会をやり、南天堂2階のレストランは大杉栄や辻潤や林芙美子といったアナキストやダダイストの溜まり場になっていた。周辺に学校も多く、現在は文教地区であるその一帯も、当時は水道橋から小石川一帯には、労働組合期成会の主力の鉄工組合があった砲兵工廠や、印刷工場が多くあったから、それらの労働者も「本郷千駄木辺の小民街」にはいたのかもしれない。

また、明治36年(1903年)に英国留学から帰国した夏目漱石は、本郷区駒込千駄木町57番地に転入して、そこで『吾輩は猫である』などの小説を書くわけだが、これはほぼ同時代である。(つづく)

|

« 還暦の終わりの仕切り直し | トップページ | 坂の下の流れ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 千駄木辺りの話:

« 還暦の終わりの仕切り直し | トップページ | 坂の下の流れ »