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2010年4月24日 (土)

うれしき人也

樋口一葉の日記には、「文学界」同人の中では、平田禿木からの書状や訪問が多くみられるが、晩年に平田禿木は、「もし、一葉の恋人を探すとしたら、馬場孤蝶だろうと語った」という(※和田芳恵は『一葉の日記』p289)。一葉晩年の「水のうえ日記」には、「馬場君」の名がしきりに出てくる。

1893年(明治26)12月1日の「塵中日記」には、「文学界」十一月号来る。・・・孤蝶子が『さかわ川』など・・をかしき物なり。『さかわ川』は・・今一息と見えたり」とある。また、1893年(明治27)3月12日に、馬場孤蝶が初めて樋口一葉宅を訪れた日の「日記ちりの中」には、「禿木子、及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし 二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平々々のことばを聞く。うれしき人也」とある。

書くものは「今一息」であるが、対面した本人は「うれしき人也」なのである。これが島崎藤村になると、両者の性格と趣味が合わなかったのか、一葉は藤村(※当時は古藤庵)の文体に影響を受けていると言われているが、その新体詩には批判的だし、日記への記述も少ない。馬場孤蝶と島崎藤村を比べれば、年齢は馬場孤蝶が上だが、文学的には島崎藤村の方が上である。共にミッション系の明治学院の出だが、馬場孤蝶は土佐藩の武士の末裔で、寄席に通い義太夫の趣味があり、優しそうである。一方、島崎藤村は無口、文学以外は無趣味で、いつも思いつめているようなところと「新しい女」好きみたいなところがある。顔も、馬場孤蝶の方が面長でイケメンであろうか。

まあ、そうであれば、いつの時代でも女は馬場孤蝶タイプが好みなのかもしれないが、もうひとつ馬場孤蝶には「故馬場辰猪君の令弟なるよし」の一面がある。馬場辰猪は1850年に土佐生にまれ、1870~1874年、1875~1879年にイギリスに留学、帰国後は自由民権運動に参加、1885年に「爆発物取締規則」違反で逮捕され、無罪放免後1886年にアメリカに亡命。1888年にフィラデルフィアで客死している。(※筑摩書房「明治文学全集12」から)

馬場辰猪がイギリスで生活した1870年代というのは、ヴィクトリア期の隆盛から、資本主義も変わり目の時代であり、モリスが活躍した時代である。その時代をリアルタイムに生きた日本人がいたとは驚きであるが、馬場辰猪はアメリカ亡命後は日本政府の批判をした謂わば国賊でもあり、1888年(明治21)にアメリカで死んだ後、恩師であった福沢諭吉らによって日本に墓碑が建ったのは1896年(明治29)であったのに、それ以前に「孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし」と樋口一葉が馬場辰猪を知っているのにも驚かされる。

馬場孤蝶は「文学界」の同人で、彦根と浦和での中学教員を経て、日本銀行の行員となり、1906年(明治39)に慶応義塾の教授になって、佐藤春夫や西脇順三郎に影響を与えた謂わばモダンな文学者の先駆者であると思っていたら、大逆事件後に大杉栄等の近代思想社の集会や、平塚らいてう等の青鞜社の講演会に参加しているし、山川均と菊栄の結婚式の媒酌もしているのだった。そして、1915年(大正4)の衆議院選挙に、理想選挙を目指して立候補しており、その資金活動のために出版された『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』には、夏目漱石を筆頭に当代の文学者が網羅されている。そして、馬場孤蝶の立候補の仕掛け人のひとりである堺利彦は、そこに以下のような『辰猪と勝弥』の一文を書いている。勝弥というのは、馬場孤蝶の本名である。

 「明治三年の末に生れて、明治の十年代を少年として過した私は、自由党改進党の諸名士に対して特別なる欽仰愛慕の感情を養うて居る。馬場辰猪君の名声の如きは最も深く私の頭に染みこんで居る。馬場勝弥君は明治二年の生れと聞く。辰猪君の名声が遠く九州の一少年に汲ぼした感化から考へて、勝弥君が直接に其の兄君から受けた感化の大なる事は私によく想像が出来る。
 馬場孤蝶の名が初めて文壇に現はれた時、あれは馬場辰猪の弟だと云ふ事を聞いて、私は特に深く注意を引かれて居た。・・・
 後、私が幸徳秋水と交るに及んで、秋水の土佐人たるが為に、殊に馬場兄弟に就いて語る事が多かった。秋水が最初の出獄の後、間もなく瓢然として米国に遊んだのは、馬揚辰猪の跡を学んだのだと評されて居た。私もそう考へて一種の面白味を感じて居た。そして若し秋水が辰猪君と同じく彼地に客死するの運命を持って居るのではあるまいかとさへ気遣って居た。・・・
 (大杉栄宅で初めて孤蝶君に会った帰り道に)私はもはや辰猪君の事を話しださずには居られなかった。すると孤蝶君も頗る気の乗った様子で色々辰猪君の事を私に話して呉れた。殊に其中で、私の確と覚えて居るのは、辰猪君が出獄して間もなく米国に赴く時、特に勝弥君に対して、男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だと云って別れたが、それきり辰猪君は米国で客死したのであるから、勝弥君に取っては、其の一言が亡兄の遺言となって居ると云ふ話である。
 私は大いに此話に動かされて、前に記した秋水の米国行の事なども話した後、あなたも一つ兄君の適意を継いで大いに政治界に活動を試みては如何ですかと、少し立入った話にまで及びかけた・・・」と。(※岩波書店『馬場辰猪全集』から)

これを読むと、馬場辰猪は出獄後アメリカに亡命する直前に最後に会った弟に、「男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だ」と言って別れ、馬場孤蝶が1915年という「冬の時代」に選挙に出馬したのは、堺利彦からうながされたからと言うよりは、アメリカに客死した悲運の兄の志を継いでのことだとも分かるのである。また、1905年(明治38)に幸徳秋水がアメリカに渡ったのは、同じく土佐の民権運動家の馬場辰猪がアメリカに亡命したことにならったことが分かる。また、それ以前に石坂公歴らの民権運動家がアメリカに渡ったのも、そうであったという。1870年代のイギリスに学び、アメリカに客死した民権運動家の思想と生き様は、その後の日本の社会主義や社会運動に引き継がれていったわけである。

結果的に選挙には落選した馬場孤蝶ではあったが、その盛り上がりは大正デモクラシーの幕開けとなり、その後も大学教授の傍ら自由主義的な社会改良運動家として講演や文筆活動を行っている。また、1912年に出版された『樋口一葉全集』の編集を行い、そこに樋口一葉の「日記」を載せたのも馬場孤蝶であった。一葉の妹のくに子が、一葉本人からは焼くように言われながらも、焼かずに残した一葉「日記」は、斎藤緑雨が預かり、1904年(明治37)に緑雨が危篤になった際に、緑雨から馬場孤蝶に託されたわけであった。

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