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2010年4月13日 (火)

坂の下の流れ

同時代の団子坂下の情景を、夏目漱石は『三四郎』に以下のように団子坂を描いている。

 「何所か静かな所はないでせうか」と女が聞いた。
 谷中と千駄木が谷で出逢うと、一番低い所に小川が流れている。・・美禰子の立っている所は、此小川が、丁度谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋の傍である。
 「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いて見た。・・・
 二人の足の下には小さな河が流れている。・・美禰子の視線は遠くの向こふにある。向こふは廣い畠で、森の上が空になる。空の色が段々変って来る。・・・

これは、団子坂の菊人形見物の折、三四郎と美禰子が二人きりになった場面である。この後に「迷子の英訳を知って入らしつて」「教えて上げませうか」「ストレイ・シープ、解って?」という彼有名な美禰子の謎の言葉がつづく。

現在では、団子坂を下りるとすぐに不忍通りがあるのだが、『三四郎』の時代の地図には不忍通りはない。その先に現在では暗渠になっている藍染川という流れがあって、『三四郎』に「一番低い所に小川が流れている」とされる小川が藍染川なのではないかと思われる。現在では「へびみち」と呼ばれる曲がりくねった暗渠上の道は、当時の藍染川に重なる。

前に「馴染みの千駄木」と書いたが、この暗渠の上にあるよみせ通りという曲がりくねった商店街と、日暮里駅から来るとそこにぶつかる谷中銀座は、学生を辞めて白山上の南天堂書店で働きだし、団子坂下のアパートに4年半暮らした私にとっては馴染みの街である。

昨年末に、NHKの大河ドラマで司馬遼太郎の『坂の上の雲』があって、NHKの大河ドラマにも司馬遼太郎にも、ほとんど関心のない私であったが、少し観てみた。それは、その少し前に出た関川夏央の『「坂の上の雲」と日本人』(文春文庫2009年10月)を読んだからで、この本を読むと、なぜ今『坂の上の雲』なのかが分かるのだった。

司馬遼太郎が『坂の上の雲』を産経新聞に連載し始めたのは1968年で、当時の世相と戦後民主主義的なものの見方に対して、司馬遼太郎は日露戦争前にあって、その後失われた近代日本の原像を示そうとしたとのことである。『「坂の上の雲」と日本人』の「解説」に内田樹氏はこう書く。

 別にむずかしい話でもないから、結論から言ってしまうが、それは司馬遼太郎が「日露戦争以後的なもの」と「1968年以後的なもの」の間にある種の同質性を感知し、それを嫌ったという点である。
 「司馬遼太郎は日露戦争までの日本を、若い健康な日本と考えました。若くて健康な日本の受難とその克服を、『坂の上の雲』にえがききったわけです。しかし、その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのかと考え続けたのでもありました」(301P)
 関川さんはこう書いている。そして、その「不健康な四十年」(司馬はこれを「奇胎」と形容している)が偶発的なものでも外来のものでもなく、日本国民の心性のうちに深く根づいたものであることを、敗戦後二十年経ったときに直感した。そのきっかけを与えたのが「68年」だと関川さんは見立てている。
 「彼が、終戦から二十年近くたった高度成長という日本の輝かしい時期にこういう物語を発想したこと、そして一九六八年という反体制色に満ちた猛々しい印象の時代に実際に書き始め、筆を置いたのが青年層の反体制的心情が急激に萎縮した七二年であったというのは、とても興味深いことです。」(13頁)と。

内田樹氏は「解説」に「関川さんも私も、この68年の大群衆にリアルタイムで巻き込まれていた」と書いているが、私も同世代である。内田樹はフランス思想が専門で、主に構造主義であるようだ。だから、戦後思想を風靡したサルトルの実存主義などには批判的である。一方、関川夏央は島崎藤村以来の自然主義と私小説、そういうものとしての日本の純文学にうんざりしているきらいがある。そして両者とも、自らの世代が影響を受けたマルクス主義、イデオロギーに批判的である。

若い頃にサルトルと島崎藤村とマルクスに慣れ親しんだ私には、彼らにもそうであった時代があったのではないかと思われる訳だが、『「坂の上の雲」と日本人』が文庫本で出て、私がそれを読んだのは、ちょうどこのブログに「労農派論」を書き始めた頃であったから、その書名にインスパイアーされた私は、書き始めた「労農派論」を「坂の下の流れ」というイメージで書いてみようと思ったのだった。そして、その思い付きの元には夏目漱石の『三四郎』と千駄木辺りの情景があるのだった。

日露戦争は、ヨーロッパの歴史で言えば1848年に相当するくらい、近代日本の原点である。司馬遼太郎は『坂の上の雲』でそれを描き、その40年後にNHKはそれを大河ドラマ化する。しかし、そこに描かれる近代日本国家の原像のもう一方に、日露戦争を前後して、平民社という日本の社会主義の原像もまた生まれたわけである。有楽町にあった平民社の前はドブであったそうだから、「坂の下の流れ」はさしずめ「軒の下のドブ」でもあろうか。

『坂の上の雲』に描かれた近代日本の国家像が、その後「昭和二十年に至る不健康な四十年」を生み出し、さらに戦後にも再生されるように、平民社に結集した日本の社会主義も、その後の「不健康な四十年」をへてイデオロギーと化して、それが戦後にも引き継がれた。40年前の青年が還暦を過ぎる今年は、大逆事件から100年目の年である。そして私は、「坂の下の流れ」を見直してみようと思うわけである。

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