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2010年4月29日 (木)

横山源之助

「坂の上」の主人公の秋山兄弟は、兄の好古は師範学校から教員を経て陸軍士官学校にすすみ、弟の真之は東大予備門(のち一高)を経て海軍兵学校へとすすむ。一方、「坂の下」のもうひとり、左官屋に引き取られた私生児であった横山源之助は、富山県中学校に入学したものの、翌年には東京に出て木賃宿を泊まり歩き、英吉利法律学校(後の中央大学)に学んで弁護士をめざしたものの、天涯茫々のフーテンとなり、やがて毎日新聞に職を得る。

「坂の上」も「坂の下」も、どちらの主人公も旧制中学を中退し、青雲の志を抱いて東京に出てところは同じだが、職業の選択で大きく分かれる。松山藩士の子弟であった秋山兄弟は軍人になり、私生児で職人を義父とした横山源之助はジャーナリストになる。明治20年代の就業状況について思えば、二葉亭四迷の『浮雲』が日本初の言文一致小説であると同時に、日本初のリストラ小説でもあるように、帝大や官立学校出身者が官僚群を構成しつつある一方、旧士族系の役人には、門閥政治や新体制によるリストラも多かったようである。

また、政府の殖産政策による新しい産業が起こる一方で、都市では松原岩五郎が『最暗黒の東京』(1893年・明治26)に描いたように、車夫をはじめとする雑多な生業が底辺部を構成し、まさに松原岩五郎がこれをルポしたごとくに、たくさんの新聞、出版、印刷などのジャーナリズムが起こってくる。二葉亭四迷の『浮雲』を読んでそれに打たれた横山源之助は二葉亭四迷を訪ね、やはりそこに出入りしていた松原岩五郎と懇意になり、さらに幸田露伴や内田露庵とも懇意になる。

そして、横山源之助は明治27年に毎日新聞に入社すると、底辺生活のルポを書いて好評を得る。そして、前に記した如く、明治29年1月に樋口一葉を訪ねるのだが、それは一葉の描く『にごりえ』『たけくらべ』の世界が、横山源之助がルポする「日本の下層社会」に通とシンパシーしたからであろうか。

そして「二葉亭四迷に我れを引あはさんといふ」とは、横山源之助は樋口一葉の素質を見抜いて、自らが私淑する当代一優れた文学者である二葉亭四迷に紹介しようとしたのか、一葉の描く世界が二葉亭四迷の志に通底していることを、二葉亭にも知らせようとしたのか、しかし対面は実現しないまま、横山源之助が北陸への調査活動をしていた最中に、樋口一葉はその短い生涯を終えてしまう。

横山源之助の代表作である『日本の下層社会』に描かれた桐生・足利地方への調査活動と『日本の下層社会』の出版は、日本のロバート・オウエンと言われた秀英舎(後の大日本印刷)の佐久間貞一の援助に依っている。

明治30年6月、横山源之助が関西で、調査活動をしていた時に、アメリカ帰りの高野房太郎らによって日本初の労働組合である労働組合期成会が設立され、佐久間貞一はこれにも参加している。労働組合期成会には、やはりアメリカ帰りのラサール流社会主義者の片山潜が参加して、機関誌「労働世界」が発行されるようになり、帰京した横山源之助もこれに関わっていく。そして、そこから発行された社会叢書で横山源之助の『内地雑居之日本』が出される。

内地雑居とは、明治32年から実施された諸外国との通商航海条約の改正によって、諸外国によるそれまでの治外法権と関税自主権の廃止への引き換えとして、外国人の国内居住が自由になったことであり、謂わば「自由化」であった。『内地雑居之日本』に横山源之助は、こう書く。

「日清戦争により最も激しく影響を見たるは、工業社会を第一となす、各種の機械工業起こりたるも、此二三年来の事にして、即ち日清戦争以来のことなり・・・労働問題の起こりたるも、同盟罷工生じたるも、工場条例の発布せられんとするも、皆戦争以後なり、今ま内地雑居の暁、資本に欠乏せる我が工業界に外国の資本入り込み、外国の資本家が親ら工場を建て、我が労働の安きを機会として、工業に従事する暁は果たして如何なるべきや・・・」(岩波文庫P14-15)と。

そして、『内地雑居之日本』に横山源之助は、その結論をこう書く。

「労働問題最後の解釈は賃金問題にあらず、時間の短縮問題にあらず・・・工業社会に占むる労働者は位置問題なり、或意味にては資本家に対する権利問題なり、之を他の意味にていへば失業者問題なり、此の問題を解釈するを得るにあらざれば、未だ労働問題を解釈し得たりと見るべからず」(P111)
「即ち余は諸君に工業上の共和を望めるを以て、政治の上に於ても社会主義を取るべしと唱導せんとす。・・・君主政治の国家に於ても共和は之を容るるに足る、英国は君主政治なり、然れども政治上の共和は行われ居るにあらずや、且国体に反するの故に、社会主義を排斥するが如きは、愚の骨頂なり・・・国体云々を口実として社会主義の入来るを排斥せんとするものあらば、却って社会主義の勢力を大ならしむべし」(P117-118)と。

横山源之助は英吉利法律学校で、イギリスの法律と社会を勉強している。だから、後の社会主義者のような「革命」については否定的である。そして、その見識と日本の下層社会のフィールドワークで得たものをベースにして書いた『日本の下層社会』と『内地雑居之日本』は、生成期の日本の資本主義から生まれ、「日本的風土、日本的労働運動に適応された最初の社会主義」(立花雄一『評伝・横山源之助』P150)と言えるだろう。

労働組合期成会の運動は、労働者の団結を禁止した明治33年制定の治安警察法により、終焉を余儀なくされ、失意の高野房太郎は、労働組合運動から身を引いて中国に渡り、流浪のはてに1904年に青島で客死した。横山源之助は、社会主義にシフトした片山潜と分かれ、明治34年の社会民主党の創立にも参加していない。非革命的な改良主義的な労働運動を志向、実践しようとしたわけだが、横山源之助を頼って富山から東京に出てきた育ての親家族10名の生活を背負って売文業をせざるを得なかったようである。

大正4年6月3日、横山源之助は貧困の中、白山前町の間借りの2階で結核に肺炎を併発して死んだ。横山源之助と別れてアメリカに渡った片山潜が、その後ロシアに渡ってコミンテルンの委員になり、その葬儀ではスターリンによって棺がかつがれ、クレムリンに葬られたのとは比べようもない死であり、横山源之助の名は日本の運動の中でも忘れられてしまった。横山源之助が若い頃に住んだ谷中初音町も、白山前町も、坂の途中みたいな所である。とりわけ、白山前町は、樋口一葉の亡くなった丸山福山町とは目と鼻の先である。

戦後の昭和24年、岩波文庫と中央労働学園から『日本の下層社会』が復刻された。中央労働学園版で解説を書いた土屋喬雄は、「横山源之助の名は、この(『日本の下層社会』と『職工事情』)二つの労働事情調査の古典に結び付いており、この古典とともに彼の名は不滅である」(立花雄一『評伝・横山源之助』から孫引き)とした。土屋喬雄は、労農派の学者である。

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