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2010年4月29日 (木)

横山源之助

「坂の上」の主人公の秋山兄弟は、兄の好古は師範学校から教員を経て陸軍士官学校にすすみ、弟の真之は東大予備門(のち一高)を経て海軍兵学校へとすすむ。一方、「坂の下」のもうひとり、左官屋に引き取られた私生児であった横山源之助は、富山県中学校に入学したものの、翌年には東京に出て木賃宿を泊まり歩き、英吉利法律学校(後の中央大学)に学んで弁護士をめざしたものの、天涯茫々のフーテンとなり、やがて毎日新聞に職を得る。

「坂の上」も「坂の下」も、どちらの主人公も旧制中学を中退し、青雲の志を抱いて東京に出てところは同じだが、職業の選択で大きく分かれる。松山藩士の子弟であった秋山兄弟は軍人になり、私生児で職人を義父とした横山源之助はジャーナリストになる。明治20年代の就業状況について思えば、二葉亭四迷の『浮雲』が日本初の言文一致小説であると同時に、日本初のリストラ小説でもあるように、帝大や官立学校出身者が官僚群を構成しつつある一方、旧士族系の役人には、門閥政治や新体制によるリストラも多かったようである。

また、政府の殖産政策による新しい産業が起こる一方で、都市では松原岩五郎が『最暗黒の東京』(1893年・明治26)に描いたように、車夫をはじめとする雑多な生業が底辺部を構成し、まさに松原岩五郎がこれをルポしたごとくに、たくさんの新聞、出版、印刷などのジャーナリズムが起こってくる。二葉亭四迷の『浮雲』を読んでそれに打たれた横山源之助は二葉亭四迷を訪ね、やはりそこに出入りしていた松原岩五郎と懇意になり、さらに幸田露伴や内田露庵とも懇意になる。

そして、横山源之助は明治27年に毎日新聞に入社すると、底辺生活のルポを書いて好評を得る。そして、前に記した如く、明治29年1月に樋口一葉を訪ねるのだが、それは一葉の描く『にごりえ』『たけくらべ』の世界が、横山源之助がルポする「日本の下層社会」に通とシンパシーしたからであろうか。

そして「二葉亭四迷に我れを引あはさんといふ」とは、横山源之助は樋口一葉の素質を見抜いて、自らが私淑する当代一優れた文学者である二葉亭四迷に紹介しようとしたのか、一葉の描く世界が二葉亭四迷の志に通底していることを、二葉亭にも知らせようとしたのか、しかし対面は実現しないまま、横山源之助が北陸への調査活動をしていた最中に、樋口一葉はその短い生涯を終えてしまう。

横山源之助の代表作である『日本の下層社会』に描かれた桐生・足利地方への調査活動と『日本の下層社会』の出版は、日本のロバート・オウエンと言われた秀英舎(後の大日本印刷)の佐久間貞一の援助に依っている。

明治30年6月、横山源之助が関西で、調査活動をしていた時に、アメリカ帰りの高野房太郎らによって日本初の労働組合である労働組合期成会が設立され、佐久間貞一はこれにも参加している。労働組合期成会には、やはりアメリカ帰りのラサール流社会主義者の片山潜が参加して、機関誌「労働世界」が発行されるようになり、帰京した横山源之助もこれに関わっていく。そして、そこから発行された社会叢書で横山源之助の『内地雑居之日本』が出される。

内地雑居とは、明治32年から実施された諸外国との通商航海条約の改正によって、諸外国によるそれまでの治外法権と関税自主権の廃止への引き換えとして、外国人の国内居住が自由になったことであり、謂わば「自由化」であった。『内地雑居之日本』に横山源之助は、こう書く。

「日清戦争により最も激しく影響を見たるは、工業社会を第一となす、各種の機械工業起こりたるも、此二三年来の事にして、即ち日清戦争以来のことなり・・・労働問題の起こりたるも、同盟罷工生じたるも、工場条例の発布せられんとするも、皆戦争以後なり、今ま内地雑居の暁、資本に欠乏せる我が工業界に外国の資本入り込み、外国の資本家が親ら工場を建て、我が労働の安きを機会として、工業に従事する暁は果たして如何なるべきや・・・」(岩波文庫P14-15)と。

そして、『内地雑居之日本』に横山源之助は、その結論をこう書く。

「労働問題最後の解釈は賃金問題にあらず、時間の短縮問題にあらず・・・工業社会に占むる労働者は位置問題なり、或意味にては資本家に対する権利問題なり、之を他の意味にていへば失業者問題なり、此の問題を解釈するを得るにあらざれば、未だ労働問題を解釈し得たりと見るべからず」(P111)
「即ち余は諸君に工業上の共和を望めるを以て、政治の上に於ても社会主義を取るべしと唱導せんとす。・・・君主政治の国家に於ても共和は之を容るるに足る、英国は君主政治なり、然れども政治上の共和は行われ居るにあらずや、且国体に反するの故に、社会主義を排斥するが如きは、愚の骨頂なり・・・国体云々を口実として社会主義の入来るを排斥せんとするものあらば、却って社会主義の勢力を大ならしむべし」(P117-118)と。

横山源之助は英吉利法律学校で、イギリスの法律と社会を勉強している。だから、後の社会主義者のような「革命」については否定的である。そして、その見識と日本の下層社会のフィールドワークで得たものをベースにして書いた『日本の下層社会』と『内地雑居之日本』は、生成期の日本の資本主義から生まれ、「日本的風土、日本的労働運動に適応された最初の社会主義」(立花雄一『評伝・横山源之助』P150)と言えるだろう。

労働組合期成会の運動は、労働者の団結を禁止した明治33年制定の治安警察法により、終焉を余儀なくされ、失意の高野房太郎は、労働組合運動から身を引いて中国に渡り、流浪のはてに1904年に青島で客死した。横山源之助は、社会主義にシフトした片山潜と分かれ、明治34年の社会民主党の創立にも参加していない。非革命的な改良主義的な労働運動を志向、実践しようとしたわけだが、横山源之助を頼って富山から東京に出てきた育ての親家族10名の生活を背負って売文業をせざるを得なかったようである。

大正4年6月3日、横山源之助は貧困の中、白山前町の間借りの2階で結核に肺炎を併発して死んだ。横山源之助と別れてアメリカに渡った片山潜が、その後ロシアに渡ってコミンテルンの委員になり、その葬儀ではスターリンによって棺がかつがれ、クレムリンに葬られたのとは比べようもない死であり、横山源之助の名は日本の運動の中でも忘れられてしまった。横山源之助が若い頃に住んだ谷中初音町も、白山前町も、坂の途中みたいな所である。とりわけ、白山前町は、樋口一葉の亡くなった丸山福山町とは目と鼻の先である。

戦後の昭和24年、岩波文庫と中央労働学園から『日本の下層社会』が復刻された。中央労働学園版で解説を書いた土屋喬雄は、「横山源之助の名は、この(『日本の下層社会』と『職工事情』)二つの労働事情調査の古典に結び付いており、この古典とともに彼の名は不滅である」(立花雄一『評伝・横山源之助』から孫引き)とした。土屋喬雄は、労農派の学者である。

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2010年4月25日 (日)

『蝶くらべ』と『たけくらべ』

『文学界』が創刊された1893年(明治26)に、23歳の堺枯川は『蝶くらべ』という小説を書いている。これは樋口一葉が『文学界』に『たけくらべ』の連載を始めるのよりも2年早く、ちょうど樋口一葉が、「人つねの産なければ、常のこゝろなし。・・・かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。・・・とにかくにこえるをみまし空せみのよわたる橋や夢のうきはし」と書いて、下谷区龍泉寺町にて荒物・駄菓子屋を開いた頃のことである。

1889年(明治22)に、月謝不納で一高を除席になった堺利彦は、大阪で小学校の教員をしながら小説を書き始めて、枯川漁史と称して地方新聞などに翻案小説を載せだした。翻案小説というのは、これも共立学校→一高と進んで英語はできた堺利彦が、外国の小説をいいかげんに訳してデフォルメしたものと思われるが、『蝶くらべ』もその頃に書かれたものであり、題名は『○○くらべ』と似てはいるが、内容的にはくらべようもない。

1893年(明治26)に教員を辞めた堺利彦は「文士兼新聞小説家」になり、母の死後、東京に出てくる。当時、都新聞に勤めていた兄の1895年(明治28)の9月の日記には弟・枯川のことが以下のように書かれていると、堺利彦自身が自らの『堺利彦伝』に書いている

 「二二日、午後二時ごろより空少し晴れたれば父上を案内して枯川、小林も同道にて浅草に遊びー直に飲む」
 「二三日、雨をおかし夜出で枯川と共に蕎麦を食う」
 「二六日夜、父上枯川同道にて寄席に行く」
 「二九日蹴月枯川と京橋の角に飲む」
 「二日、夜父上のお供して寄常に行き女義太夫を聞きぬ」と。

樋口一葉が、運命に追われるようにして、その「奇跡の十四カ月」を走り抜けている頃のことであるが、これが、後に労農派を創出した堺利彦の25歳の姿である。1896年(明治29)に結婚した頃から、堺利彦はやっと放縦生活から抜けて行く。樋口一葉の死後に出た『一葉全集』を読んだ堺利彦は、1897年(明治30)に『読一葉全集』として、以下のように書いている。

「藤むらさきの表紙に碧梧の一葉、末枯の寂あはれにゆかしく、中天に題して一葉全集といふ。・・短生涯廿六年、苦辛を嘗め尽して世と戦ひたる故樋口夏子の遺著、読まんとして先づ涙さしぐむ。
 我が始めて一葉女史の作を読みしは、去年一月の国民之友春期付録に於ける「別路」なりき。一読して先づ其の才思を認め、再読して稍不快の念を起しぬ。不快の念とは何ぞや。我は此に白状す、一女子にして此の如きを思ひ我が文の及ばざるを傀ぢたりし也。猶在住に云へば多少の嫉妬なりし也。之を三読するに及びては、坐に敬意今生じてふ止る所を知らざりき。後女史の作三、四を読むことを得て、いよく其の敬すべぎを知りぬ、それと同時に女史が艱難数奇なる半生の経歴を漏聞きては、いよいよますます其の敬すべきを知りぬ」と。

堺利彦は、1899年(明治32)に万朝報社に職を得て、そこで幸徳秋水と知り合い、1903年(明治36)に日露戦争の危機がせまると、非戦論を唱えて幸徳秋水とともに万朝報社を退社、平民社を創設して、そこから日本の社会主義が始まるというのが通説で、「労農派論」というのもだいたいこの辺りから始まるものなのだが、私はもう少しその源流を歩いてみようと思う。その源流こそが、「坂の下の流れ」の世界なのである。

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2010年4月24日 (土)

うれしき人也

樋口一葉の日記には、「文学界」同人の中では、平田禿木からの書状や訪問が多くみられるが、晩年に平田禿木は、「もし、一葉の恋人を探すとしたら、馬場孤蝶だろうと語った」という(※和田芳恵は『一葉の日記』p289)。一葉晩年の「水のうえ日記」には、「馬場君」の名がしきりに出てくる。

1893年(明治26)12月1日の「塵中日記」には、「文学界」十一月号来る。・・・孤蝶子が『さかわ川』など・・をかしき物なり。『さかわ川』は・・今一息と見えたり」とある。また、1893年(明治27)3月12日に、馬場孤蝶が初めて樋口一葉宅を訪れた日の「日記ちりの中」には、「禿木子、及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし 二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平々々のことばを聞く。うれしき人也」とある。

書くものは「今一息」であるが、対面した本人は「うれしき人也」なのである。これが島崎藤村になると、両者の性格と趣味が合わなかったのか、一葉は藤村(※当時は古藤庵)の文体に影響を受けていると言われているが、その新体詩には批判的だし、日記への記述も少ない。馬場孤蝶と島崎藤村を比べれば、年齢は馬場孤蝶が上だが、文学的には島崎藤村の方が上である。共にミッション系の明治学院の出だが、馬場孤蝶は土佐藩の武士の末裔で、寄席に通い義太夫の趣味があり、優しそうである。一方、島崎藤村は無口、文学以外は無趣味で、いつも思いつめているようなところと「新しい女」好きみたいなところがある。顔も、馬場孤蝶の方が面長でイケメンであろうか。

まあ、そうであれば、いつの時代でも女は馬場孤蝶タイプが好みなのかもしれないが、もうひとつ馬場孤蝶には「故馬場辰猪君の令弟なるよし」の一面がある。馬場辰猪は1850年に土佐生にまれ、1870~1874年、1875~1879年にイギリスに留学、帰国後は自由民権運動に参加、1885年に「爆発物取締規則」違反で逮捕され、無罪放免後1886年にアメリカに亡命。1888年にフィラデルフィアで客死している。(※筑摩書房「明治文学全集12」から)

馬場辰猪がイギリスで生活した1870年代というのは、ヴィクトリア期の隆盛から、資本主義も変わり目の時代であり、モリスが活躍した時代である。その時代をリアルタイムに生きた日本人がいたとは驚きであるが、馬場辰猪はアメリカ亡命後は日本政府の批判をした謂わば国賊でもあり、1888年(明治21)にアメリカで死んだ後、恩師であった福沢諭吉らによって日本に墓碑が建ったのは1896年(明治29)であったのに、それ以前に「孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし」と樋口一葉が馬場辰猪を知っているのにも驚かされる。

馬場孤蝶は「文学界」の同人で、彦根と浦和での中学教員を経て、日本銀行の行員となり、1906年(明治39)に慶応義塾の教授になって、佐藤春夫や西脇順三郎に影響を与えた謂わばモダンな文学者の先駆者であると思っていたら、大逆事件後に大杉栄等の近代思想社の集会や、平塚らいてう等の青鞜社の講演会に参加しているし、山川均と菊栄の結婚式の媒酌もしているのだった。そして、1915年(大正4)の衆議院選挙に、理想選挙を目指して立候補しており、その資金活動のために出版された『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』には、夏目漱石を筆頭に当代の文学者が網羅されている。そして、馬場孤蝶の立候補の仕掛け人のひとりである堺利彦は、そこに以下のような『辰猪と勝弥』の一文を書いている。勝弥というのは、馬場孤蝶の本名である。

 「明治三年の末に生れて、明治の十年代を少年として過した私は、自由党改進党の諸名士に対して特別なる欽仰愛慕の感情を養うて居る。馬場辰猪君の名声の如きは最も深く私の頭に染みこんで居る。馬場勝弥君は明治二年の生れと聞く。辰猪君の名声が遠く九州の一少年に汲ぼした感化から考へて、勝弥君が直接に其の兄君から受けた感化の大なる事は私によく想像が出来る。
 馬場孤蝶の名が初めて文壇に現はれた時、あれは馬場辰猪の弟だと云ふ事を聞いて、私は特に深く注意を引かれて居た。・・・
 後、私が幸徳秋水と交るに及んで、秋水の土佐人たるが為に、殊に馬場兄弟に就いて語る事が多かった。秋水が最初の出獄の後、間もなく瓢然として米国に遊んだのは、馬揚辰猪の跡を学んだのだと評されて居た。私もそう考へて一種の面白味を感じて居た。そして若し秋水が辰猪君と同じく彼地に客死するの運命を持って居るのではあるまいかとさへ気遣って居た。・・・
 (大杉栄宅で初めて孤蝶君に会った帰り道に)私はもはや辰猪君の事を話しださずには居られなかった。すると孤蝶君も頗る気の乗った様子で色々辰猪君の事を私に話して呉れた。殊に其中で、私の確と覚えて居るのは、辰猪君が出獄して間もなく米国に赴く時、特に勝弥君に対して、男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だと云って別れたが、それきり辰猪君は米国で客死したのであるから、勝弥君に取っては、其の一言が亡兄の遺言となって居ると云ふ話である。
 私は大いに此話に動かされて、前に記した秋水の米国行の事なども話した後、あなたも一つ兄君の適意を継いで大いに政治界に活動を試みては如何ですかと、少し立入った話にまで及びかけた・・・」と。(※岩波書店『馬場辰猪全集』から)

これを読むと、馬場辰猪は出獄後アメリカに亡命する直前に最後に会った弟に、「男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だ」と言って別れ、馬場孤蝶が1915年という「冬の時代」に選挙に出馬したのは、堺利彦からうながされたからと言うよりは、アメリカに客死した悲運の兄の志を継いでのことだとも分かるのである。また、1905年(明治38)に幸徳秋水がアメリカに渡ったのは、同じく土佐の民権運動家の馬場辰猪がアメリカに亡命したことにならったことが分かる。また、それ以前に石坂公歴らの民権運動家がアメリカに渡ったのも、そうであったという。1870年代のイギリスに学び、アメリカに客死した民権運動家の思想と生き様は、その後の日本の社会主義や社会運動に引き継がれていったわけである。

結果的に選挙には落選した馬場孤蝶ではあったが、その盛り上がりは大正デモクラシーの幕開けとなり、その後も大学教授の傍ら自由主義的な社会改良運動家として講演や文筆活動を行っている。また、1912年に出版された『樋口一葉全集』の編集を行い、そこに樋口一葉の「日記」を載せたのも馬場孤蝶であった。一葉の妹のくに子が、一葉本人からは焼くように言われながらも、焼かずに残した一葉「日記」は、斎藤緑雨が預かり、1904年(明治37)に緑雨が危篤になった際に、緑雨から馬場孤蝶に託されたわけであった。

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北村透谷と樋口一葉

山路愛山を批判して、『人生に相渉るとは何に謂ぞ』に「文学は事業を目的とせざるなり」と書いた北村透谷は、1894年(明治26)5月17日、自宅の庭で縊死を遂げる。そして、同年6月に「文学は糊口の為になすべき物ならず」と書いた樋口一葉は、7月に龍泉寺町に転居して駄菓子屋を開業し、「新生涯」を始めた。樋口一葉が北村透谷に、シンパシー以上のリスぺクトの念を抱いていたのであろうと思われる。

北村透谷は、1868年(明治元年)に小田原に生まれ、1881年(明治14)に東京に移住して泰明小学校に転向。おりからの自由民権運動に触発され、1883年(明治16)には神奈川県会の臨時書記となり、英語の勉強のためにグランド・ホテルでボーイをやり、三多摩自由党の領袖石坂昌孝父子と知り合う。東京専門学校政治科に入学・中退後、1884-85年(明治17-19)に富士山に登り、松方デフレの最中、各地を放浪。1888年(明治21)に石坂美那との新婚生活に入り、やがて政治から文学への道を歩み始める。

北村透谷の民権運動からの離脱の背景には、1881年(明治14)に出された「国会開設の詔」による自由民権運動の体制内化による変質や、大井憲太郎らが起こした大阪事件があった。政府は、国会の開設と欽定憲法の制定を表明した一方で、民権活動家への監視と弾圧を強めた。そして、「自由民権運動は明治政府とは異なる近代国民国家形成の構想を主張して人民を主体に戦ったものである」(色川大吉『北村透谷』P268)が、1890年(明治23)に開設された国会と、国民の100分の1の有権者による制限選挙の結果代議士になった「田舎政治家の多くは且ての敵、藩閥政府を打倒して、自由民権の理想を実現しようとした志を忘れ、その地位を利用して権力への割り込みや一身の栄達をはかることに狂奔していた。透谷はこの元民権家たちの変質を見逃せない。さらに、この代議士たちに糞蠅のようにたかる暴力壮士たちの行動を許すことができなかった」のであった。(前掲書P22-23)

美那との結婚を契機にキリスト教に入信した北村透谷は、1889年(明治22)に『楚囚之誌』を、1891年(明治24)には『蓬莱曲』を自費出版し、劇作にのめりこんで行くわけだが、1892年の日本平和会の創立に参加した北村透谷は、その機関誌「平和」の編集主筆となり、また、木村熊二が始めた明治女学校の二代目校長の巌本善治が主宰する「女学雑誌」などに評論を書のであるが、「日本資本主義の発展の過程で下積みにされた幾百万の人びと、とくに窮民の運命に深い共感を寄せていた」(前掲書P186)透谷は、以下のように書くのである。

「君知らずや、人は魚の如し、暗きに棲み、暗きに迷ふて、寒むく、食少なく世を送る者なり。家なく、助けなく、暴風暴雨に悩められ、辛うじて五十年の歳月を踏み超ゆるなり・・・」(『女学雑誌』明治23年3月「自制に感あり」、岩波文庫『北村透谷選集』P73から)。

「行いて家々の実情を看視せよ、天寒むく雪降れるに曖かき火を囲みて顔色ある者幾家かある、彼等が帰り来れる主人公を慰めん為めに供ふるの肉幾片かある、妙齢の少女頬に紅ゐなく、幼少の児童手に読本なくして路傍に彷徨する者の数、算ふ可きや、母病めるに児は家にありて看護する能はず、出でて其の日の職業を務むれども医薬を買ふの余銭なし、共に侶に死を待ちつ、若くは自らを殺しつ、死を招き、社会は其の表面が日に月に粉飾せられ壮麗に趣くに関せず、裡面に於いて日に月に腐敗し、病哀し、困弊するの状を見る事、豈に偶然の観念ならんや。・・・
一国の最多数を占むる者は貧民なり、而して一国の隆替を支配する者も亦貧民なり。侯卿貴人は昌ゆるとも亦た衰ろふとも、彼等は一呼吸にありて出来たり、又た一呼吸によりて没す可し、一国を守る者は勇敢なる勉励なる農夫、若くは貧民にあり、彼等若しー度び滅されなば、国と家とを守る者、果して誰となす」(明治24-25年頃「慈善事業の進歩を望む」、岩波文庫『北村透谷選集』P327-330から)と。

1893年(明治26)に「文学界」が創刊され、そこで一葉の文学的開花が始まるわけだが、北村透谷の文学の基底に「日本資本主義の発展の過程で下積みにされた幾百万の人びと、とくに窮民の運命に深い共感」があったように、樋口一葉の文学の基底にもそれがあり、それが『たけくらべ』や『にごりえ』を生み出した。龍泉寺町に転居して以来、一葉は久佐賀義孝という男を訪ねてつきあい、千円もの借金を申し込むのだが、この大金は何のためかと問えば、和田芳恵は『一葉の日記』に、以下のように書いている。

「この久佐賀に・・と一葉が頼んだ事業は、和歌以外のものと考えられる。・・・この事業は、日記にはないが、下層社会を対象にした実際運動であったらしい」(p242-244)。「一葉は、吉原というものの存在を社会悪とも病弊とも考えたようである。・・一葉が、こういう人肉の市がたっているのは、表面は花やかに見えても、日本の下層社会の貧困が、家庭の娘を売る原因になっていることに、素僕な怒りを感じたと見てよかろう」(p259)と。

また、1896年(明治29)2月22日の日記「みづの上」には、以下のようにある。

「しばし文机に頬づえつきておもへば、誠にわれは女成けるものを、何事のおもひありとて、そはなすべき事かは。(本文改行)われに風月のおもひ有やいなやをしらず。塵の世をすてゝ深山にはしらんこゝろあるにもあらず。さるを、厭世家とゆびさす人あり。そは何のゆゑならん。はかなき草紙にすみつけて世に出せば、当代の秀逸など有ふれたる言の葉をならべて、明日はそしらん口の端にうやうやしきほめ詞など、あな侘しからずや。かゝる界に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といへるもなく、我れをしるもの空しさをおもへば、あやしう一人この世に生れし心地ぞする。我れは女なり。いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事かあらぬか」と。

同じ「文学界」に文章を書きながら、北村透谷と樋口一葉が会うことはなかった。和田芳恵は、一葉のただ一人の男弟子であった穴沢清次郎氏から聞いた話として、『一葉の日記』に、以下のように書いている。
 「一葉が穴沢清次郎氏に、透谷を尊敬していたこと、また、自殺したその日に、家人に一葉を訪ねると云って出たが、砲兵工廠のあたりまできて気がかわって帰った。もし、逢っていたら、死ななかったかもしれないのに、残念なことをしたと語ったそうである」(p269)と。

また、穴沢清次郎氏は、談話「樋口一葉の思い出」(小学館『全集・樋口一葉・一葉伝説』)に、以下のように語っている。
 「北村透谷のことをしきりにほめていた」、「弱き者、不遇の人に強き同情を寄せ、得意がって反省なき世の幅利き者に、辛辣に当たった女史をして、若し当世に活かしめば、人は左翼文壇の系列に女史を数えたかもしれません」と。

一葉は、透谷に会いたかったのであろうと思われる。

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2010年4月18日 (日)

坂の下のサロン

「坂の上の雲」は日露戦争の勝利にいたる近代日本のハレの物語であるようだが、私の書く「坂の下の流れ」は、日清戦争前後の近代日本生成期における貧乏人のケの話である。そして、坂の下の貧乏人の話となると、やはり樋口一葉から始めるかなと思うのである。

父・義則の死後、17歳で戸主になった樋口一葉は、1890年(明治23)に本郷菊坂下の貸家に住み、裁縫と洗い張りで生計を立てるが、やがて金を得るために小説を書こうと半井桃水を訪ねて教えを請い、また上野の帝国図書館に通って文学を勉強し、1892年(明治25)に文芸雑誌「都の花」に『うもれ木』を書いた。
「につ記」10月2日には、以下のようにある。

「田邊君よりはがき来る、うもれ木一ト先都の花にのせ度よし全港堂より申来たりたるよし、原稿料は一葉二十五銭とのこと、異存ありや否やとなり、直に承知の返事を出す、母君此はがきを持参して三枝君のもとに此月の費用かりに行く、心よく諾されて六円かり来る、そはうもれ木の原稿料十円斗とれるを目的になり。此夜国子と共に下谷ステーションより池のはた近傍を散歩す」と。

これを読むと、一葉は「原稿料十円斗とれるを目的に」書いたことが分かる。しかし、1893年(明治26)1月に「文学界」が創刊され、1号、2号には原稿を書かなかった一葉ではあるが、「美に憧れ、理想に生きようとする青年作家群の浪漫的いぶき・・青春の夢と悩み・・新しい文学精神」(※和田芳恵『一葉の日記』講談社文芸文庫P190-191)をそこに感じて、大いに影響を受け、共感したものと思われる。

北村透谷は「文学界」の1号に、「・・西行芭蕉の徒、この詩神と逍遥するが為に、富嶽の周辺を往返して、形なく像なき記念碑を空中に構設しはじめたり。詩神去らず、この国なほ愛すべし。詩神去らず、人間なほ味あり」(『富嶽の詩神を思ふ』)と書き、2号に「然れども文学は事業を目的とせざるなり・・・」(『人生に相渉るとは何に謂ぞ』)と書いて、文学における功利主義を批判した。

そして一葉は、2月に「我れは営利の為に筆をとるか。さらば何か故にかくまでにおもひをこらす。得る所は文字の数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。・・・」、6月30日の「につ記」に「人つねの産なければ、常のこゝろなし。手をふところにして、月花にあくがれぬとも、塩そなくして、天寿を終らるべきものならず。かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。・・・せめて文学の上にだけも義務少なき身とならばやとてなむ。・・・とにかくにこえるをみまし空せみのよわたる橋や夢のうきはし」と書いて、文学は「営利の為」でなく、生活のため商ひを別になそうと、1893年(明治26)7月に下谷区龍泉寺町にて荒物・駄菓子屋を開くのである。

引越しが済んで、19日の日記「塵の中」にはこうある。
「今宵は何かむねさわぎて睡りがたし。さるは新生涯をむかへて舊生涯をすてんことのよこたわりて也」と。

新生涯をむかへての日記が「塵の中」とは、一葉の意趣はいかにと思われるところだが、この決意と転居こそが、『たけくらべ』をはじめとする一葉文学の最高峰と、日本における最良の浪漫主義文学運動を生み出すのである。「塵中日記」の1894年(明治27)1月13には、「星野君はじめて来訪」とあり、20日には、「平田君来訪」とある。「日記ちりの中」の3月12日には、「禿木子、及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし 二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平々々のことばを聞く。うれしき人也」とある。

龍泉寺町での荒物・駄菓子屋の商いにいきづまって、1894年(明治27)5月に一葉は、本郷区丸山福山町に転居し、そこには戸川秋骨や島崎藤村もやってくるようになる。島崎藤村の『春』(百九)には、以下の場面がある。

 「どうだね、これから堤さんの許へ出掛けて見ないか。足立君も行ってるかも知れないよ。」こう菅が言出した。 ・・・そこには堤姉妹か年老いた母親にかしずいて、侘しい風雅な女暮しをしていた。いずれも苦労した、談話の面白い人達であったが、ことに姉は和歌から小説に人って、既に一家をなしていた。この人を世に紹介したのは連中の雑誌で、日頃親しくするところから、よく市川や足立や菅がその家を訪ねたものである。で、その日も菅は岸本を誘って、市川と三人連で出掛けようと思った。
 飄逸な、心の置けない堤姉妹の家ですら、岸本は黙って、皆なの談話を聞いて帰るばかりである。どこへ行くのも気が進まなかった。「まあ僕はよそう。」と彼は言った。

と。「堤姉妹」とは樋口一葉、邦子の姉妹で、「連中の雑誌」とは「文学界」のことである。平田禿木や馬場孤蝶や戸川秋骨らは、丸山福山町に一葉を訪ねては夜遅くまで話し込んだようである。この頃の一葉の日記には、「金子調達を申し込む」、「金策たのみに行く」の記述が多く、日々の生活に追われながらも一葉は彼らの話を聞き、「山にそひて、ささやかなる池の上にたてたる」丸山福山町の一葉宅は、若きロマン主義者たちのサロンのようであるが、一方同じ頃、一葉は久佐賀義孝という男を訪ねて千円もの借金を申し込み、妾になれと言われてこれを断ったりしている。

また、「塵の中日記」には、「日々にうつり行こころの、哀れいつの時にか誠のさとりを得て、古潭の水の月をうかべるごとならんとすらん。・・・人はおそるらむ死といふことをも、唯風の前の塵とあきらめて、山櫻ちるをことはりとおもへば、あらしもさまでおそろしからず。唯此死といふ事をかけて、浮世を月花におくらんとす・・・」とあり、次の「水の上日記」の7月1日には、「幸作死去の報あり。母君驚愕、直に參らる。からはその日寺に送りて、日ぐらしの烟とたちのぼらせぬ。浅ましき終を、ちかき人にみる、我身の宿世もそぞろにかなし」と。

従兄弟の病気と死は、「唯此死といふ事をかけて、浮世を月花におくらんとす」と書いた一葉を、せかすように生き急がせたのだろうか。その年の暮れの「文学界」に『大つごもり』を書いた一葉は、年が明けて、「文学界」に『たけくらべ』の連載を始める。「奇跡の十四カ月」が始まったのである。

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2010年4月17日 (土)

藪下通りと道灌山

関川夏央は『「坂の上の雲」と日本人』に、「そして一九六八年という反体制色に満ちた猛々しい印象の時代に実際に書き始め、筆を置いたのが青年層の反体制的心情が急激に萎縮した七二年であったというのは、とても興味深いことです。」(13頁)と書くが、私が団子坂下のアパートに暮らし始めたのも1972年の暮れのことであった。

団子坂上から根津に向かって藪下通りという間道がある。根津に向かってだらだらと下るその道は、ちょっと都会離れした小道で、私はその坂途中の左手下のアパートに住んだのだったが、坂途中の右奥は本当に崖下で、漱石の『門』の宗助が住む崖下の家のイメージであった。1972年の夏に、大学をやめると言って父と言い争いして家を出て、白山上の南天堂で働きだし、翌年に結婚をして、団子坂下のアパートで新婚生活を始めた私は、漱石の『それから』と『門』の世界に惹かれて、その世界を生きてみたいと思ったのだった。

樋口一葉の『日記』、明治27年6月の「水の上日記」に、以下のくだりがある。
「四日 はれ。午後より、小石川亡老君の墓参をなす。天王寺也。きのふ三年の祭成しを得ゆかざりしかば、邦子と共に参る也。墓前に花を奉り、静に首をあげてあたりをみれば、何方より来にけん、小蝶二つ、花の露をすひ、石面にうつり、とかくさりやらぬさま、哀れにもさびし。邦子としばしここにかたりて、それより寺内を逍ゑうす。雲井龍雄の碑文などをみる。夕日のかげくらく成ほど、雨雲さへおこりたちて、空の色の物すさまじかいに、そそやといそぐ。團子坂より藪下を過ぎて根津神社の坂にかかる。・・・」と。

谷中天王寺に墓参りに行った帰り道に、「團子坂より藪下を」ぬけ、根津神社前の坂を上って、本郷追分から丸山福山町の自宅に帰ったのであろうか。思えば一葉も坂下の人である。本郷菊坂下に住み、下谷竜泉で駄菓子屋を営んだ後、最後の棲家となった丸山福山町も坂下みたいな所だからである。坂の下の世界は樋口一葉にもつながっていて、明治29年1月の「水の上日記」には、以下のくだりがある。

「かどを訪ふ者、日一日と多し。毎日の岡野正味、天涯茫々生など不可思儀の人々来る。茫々生は、うき世に友といふ者なき人世間は目して人間の外におけりとおぼし。此人とび来て、二葉亭四迷に我れを引あはさんといふ。半日がほどをかたりき」と。

「天涯茫々生」とは、毎日新聞の記者で明治32年に出版された生成期の日本資本主義の底辺層をルポした『日本の下層社会』で知られる横山源之助のことである。横山源之助は、明治4年に私生児として魚津に生まれ、左官屋に育てられたが、16歳で東京に出奔、弁護士になろうと英吉利法律学校(後の中央大学)に学び、卒業してから毎日新聞に入るまでの4年間を谷中初音町に住んでいたという。本人の「回想記」には、以下のようにある。(※立花雄一『評伝・横山源之助』からの孫引き)

「谷中に引っ込んで弁護士試験の準備に取り掛かったが、法律書は其方退に小説や宗教書に耽っていた。・・・空漠とした宗教書や、小説類を読み耽って、お仕舞には試験が一二か月前に迫ったが、其様なことに頓着なく、菜根譚の写本を懐にして、飄然と道灌山や滝の川に出掛けて、日を消したことが一二度ではない」と。

ついでに書いておけば、島崎藤村の『春』には、以下の記述がある。

「四月のはじめ、彼は独りで家を出て、上野公園から谷中を通って、道灌山まで歩いて行った。誰も来ないような場所へ彼は行きたいと思うのであった。彼の懐には平素愛読する李白の詩集があった。そこまで彼は泣きに行った。思うさま泣いた」(『春』百十二)と。

1891年(明治24)~1895年(明治28)頃、横山源之助は谷中初音町に住み、天涯茫々と自称する如くフーテンのように生きていて、司法試験の勉強そっちのけで「菜根譚の写本を懐にして、飄然と道灌山や滝の川に出掛け」、その少し後くらいだろうか、1895年(明治28)に島崎藤村は、李白の詩集を持って、道灌山に泣きに行っている。

私の出た高校は道灌山にあったから、勉強嫌いな私は授業を抜け出すと、谷中や道灌山周辺でわけもなく日を消したことが幾度もあった。団子坂上の藪下通りを根津とは逆の方角に行くと動坂があり、そこに野山先生という現代文の先生が住んでいて、野山先生の授業で樋口一葉の『たけくらべ』と、島崎藤村の『春』と、夏目漱石の『三四郎』を紐解かれたものだった。そして、私は次第にその世界に耽溺していったのだった。

藤村の『春』(百十二)には、先の文章の前に、以下の文章がある。

 「青木(北村透谷)は死ぬ、岡見(星野天知)は隠れる、足立(馬場孤蝶)は任地を指して出掛けてしまう、市川(平田禿木)、菅(戸川秋骨)、福富(上田敏)は相継いで学問とか芸術の鑑賞とかいう方へ向いた。連中は共同の事業に疲れて来た。・・・
 何のかんのと言っても、連中は互いに離れることが出来なかった。こういう中で岸本は大根畠の二階に籠って、自分は自分だけの道路を進みたいと思っていた。自分等の眼前にはまだまだ開拓されていない領分がある。・・青木はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った。・・」と。

1894年(明治27)に北村透谷が自殺し、やがて「文学界」の同人たちはそれぞれの道を歩き始める中、『春』によれば藤村は、「青木はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った」と透谷へのオマージュをこめて、やがて仙台に下って文学への道を歩み始める。北村透谷の「未完成な事業」とは、果たして藤村流の文学だったかはともかくとして、団子坂下に移り住んだ私は、文学や北村透谷的には民権運動みたいなことをやろうと思ったのだった。

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2010年4月13日 (火)

坂の下の流れ

同時代の団子坂下の情景を、夏目漱石は『三四郎』に以下のように団子坂を描いている。

 「何所か静かな所はないでせうか」と女が聞いた。
 谷中と千駄木が谷で出逢うと、一番低い所に小川が流れている。・・美禰子の立っている所は、此小川が、丁度谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋の傍である。
 「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いて見た。・・・
 二人の足の下には小さな河が流れている。・・美禰子の視線は遠くの向こふにある。向こふは廣い畠で、森の上が空になる。空の色が段々変って来る。・・・

これは、団子坂の菊人形見物の折、三四郎と美禰子が二人きりになった場面である。この後に「迷子の英訳を知って入らしつて」「教えて上げませうか」「ストレイ・シープ、解って?」という彼有名な美禰子の謎の言葉がつづく。

現在では、団子坂を下りるとすぐに不忍通りがあるのだが、『三四郎』の時代の地図には不忍通りはない。その先に現在では暗渠になっている藍染川という流れがあって、『三四郎』に「一番低い所に小川が流れている」とされる小川が藍染川なのではないかと思われる。現在では「へびみち」と呼ばれる曲がりくねった暗渠上の道は、当時の藍染川に重なる。

前に「馴染みの千駄木」と書いたが、この暗渠の上にあるよみせ通りという曲がりくねった商店街と、日暮里駅から来るとそこにぶつかる谷中銀座は、学生を辞めて白山上の南天堂書店で働きだし、団子坂下のアパートに4年半暮らした私にとっては馴染みの街である。

昨年末に、NHKの大河ドラマで司馬遼太郎の『坂の上の雲』があって、NHKの大河ドラマにも司馬遼太郎にも、ほとんど関心のない私であったが、少し観てみた。それは、その少し前に出た関川夏央の『「坂の上の雲」と日本人』(文春文庫2009年10月)を読んだからで、この本を読むと、なぜ今『坂の上の雲』なのかが分かるのだった。

司馬遼太郎が『坂の上の雲』を産経新聞に連載し始めたのは1968年で、当時の世相と戦後民主主義的なものの見方に対して、司馬遼太郎は日露戦争前にあって、その後失われた近代日本の原像を示そうとしたとのことである。『「坂の上の雲」と日本人』の「解説」に内田樹氏はこう書く。

 別にむずかしい話でもないから、結論から言ってしまうが、それは司馬遼太郎が「日露戦争以後的なもの」と「1968年以後的なもの」の間にある種の同質性を感知し、それを嫌ったという点である。
 「司馬遼太郎は日露戦争までの日本を、若い健康な日本と考えました。若くて健康な日本の受難とその克服を、『坂の上の雲』にえがききったわけです。しかし、その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのかと考え続けたのでもありました」(301P)
 関川さんはこう書いている。そして、その「不健康な四十年」(司馬はこれを「奇胎」と形容している)が偶発的なものでも外来のものでもなく、日本国民の心性のうちに深く根づいたものであることを、敗戦後二十年経ったときに直感した。そのきっかけを与えたのが「68年」だと関川さんは見立てている。
 「彼が、終戦から二十年近くたった高度成長という日本の輝かしい時期にこういう物語を発想したこと、そして一九六八年という反体制色に満ちた猛々しい印象の時代に実際に書き始め、筆を置いたのが青年層の反体制的心情が急激に萎縮した七二年であったというのは、とても興味深いことです。」(13頁)と。

内田樹氏は「解説」に「関川さんも私も、この68年の大群衆にリアルタイムで巻き込まれていた」と書いているが、私も同世代である。内田樹はフランス思想が専門で、主に構造主義であるようだ。だから、戦後思想を風靡したサルトルの実存主義などには批判的である。一方、関川夏央は島崎藤村以来の自然主義と私小説、そういうものとしての日本の純文学にうんざりしているきらいがある。そして両者とも、自らの世代が影響を受けたマルクス主義、イデオロギーに批判的である。

若い頃にサルトルと島崎藤村とマルクスに慣れ親しんだ私には、彼らにもそうであった時代があったのではないかと思われる訳だが、『「坂の上の雲」と日本人』が文庫本で出て、私がそれを読んだのは、ちょうどこのブログに「労農派論」を書き始めた頃であったから、その書名にインスパイアーされた私は、書き始めた「労農派論」を「坂の下の流れ」というイメージで書いてみようと思ったのだった。そして、その思い付きの元には夏目漱石の『三四郎』と千駄木辺りの情景があるのだった。

日露戦争は、ヨーロッパの歴史で言えば1848年に相当するくらい、近代日本の原点である。司馬遼太郎は『坂の上の雲』でそれを描き、その40年後にNHKはそれを大河ドラマ化する。しかし、そこに描かれる近代日本国家の原像のもう一方に、日露戦争を前後して、平民社という日本の社会主義の原像もまた生まれたわけである。有楽町にあった平民社の前はドブであったそうだから、「坂の下の流れ」はさしずめ「軒の下のドブ」でもあろうか。

『坂の上の雲』に描かれた近代日本の国家像が、その後「昭和二十年に至る不健康な四十年」を生み出し、さらに戦後にも再生されるように、平民社に結集した日本の社会主義も、その後の「不健康な四十年」をへてイデオロギーと化して、それが戦後にも引き継がれた。40年前の青年が還暦を過ぎる今年は、大逆事件から100年目の年である。そして私は、「坂の下の流れ」を見直してみようと思うわけである。

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千駄木辺りの話

石川三四郎の「共働事業の思い出」という小文にある、『消費組合の話』が因縁になって創立された二つの消費組合のうち、加藤時次郎氏が中心になって組織されたものについては以前にも書いた。これには平民社も出資している。もう一つの「雑貨商を持ってゐた一青年だったと思ふが、その個人の仕事を拗って消費組合の創立に傾倒した。本郷千駄木辺の小民街に居を移し、そこで仕事に着手した」については、それ以上のことは不明であるが、石川三四郎がどう関係したのか、興味のあるところである。

日本における協同組合の草分けに、1898年(明治31)に高野房太郎が横浜に創った「横浜鉄工共営合資会社」という「共働店」と、1899年(明治32)に同じく高野房太郎が八丁堀に創った「共営社」がある。また、高野房太郎が創った日本初の労働団体である労働組合期成会は、各地で「共働店」づくりをすすめたが、これらもその継続は長くはなかったようである。

資本主義の生成期で、労働組合は出来たばかりで、いわゆる消費者というものが存在しなかった時代に、数少ない組合員だけを対象にした協同組合の存続は困難だったのであろうと思われる。このことは、1820~30年代のイギリスにおいても、たくさんの協同組合づくりが試みられながらも、1844年のロッチデール公正開拓者組合の出現までは、そのどれもが長続きできなかったことと同じである。

私は、最初の試みが長続きしなかったことを否定的に考えないが、ただひとつ気になるのは、労働組合期成会による「共働店」づくりについて、『日本生活協同組合史』において「この運動についてとくに熱意を示したのは片山潜であった」とされていることである。労働組合期成会も、「共働店」づくりも、実際の指導者は高野房太郎である。この辺りも、石川三四郎も含めて見直してみたいところである。

さて、その辺りの見直しは別途書くとして、私が関心をもったのは、明治37年頃の「本郷千駄木辺の小民街」についてである。当時の本郷区の地図を見ると、当時の千駄木は現在の千駄木1丁目と3丁目、それに向丘2丁目の辺りである。また、白山上には肴町や通称三角と呼ばれた道がそのままある。そこには大正期に南天堂があって、白山の聖人と呼ばれたアナキストの渡辺政太郎が北風会をやり、南天堂2階のレストランは大杉栄や辻潤や林芙美子といったアナキストやダダイストの溜まり場になっていた。周辺に学校も多く、現在は文教地区であるその一帯も、当時は水道橋から小石川一帯には、労働組合期成会の主力の鉄工組合があった砲兵工廠や、印刷工場が多くあったから、それらの労働者も「本郷千駄木辺の小民街」にはいたのかもしれない。

また、明治36年(1903年)に英国留学から帰国した夏目漱石は、本郷区駒込千駄木町57番地に転入して、そこで『吾輩は猫である』などの小説を書くわけだが、これはほぼ同時代である。(つづく)

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2010年4月 4日 (日)

還暦の終わりの仕切り直し

私は、ちょうど10年前に会社勤めを辞めた。そこは生協の関連会社で、わけあって出向に出されていたのだったが、思い切って辞めることにしたのだった。そこで、ロバート・オウエンや賀川豊彦に立ち返って、自分なりに協同組合を見直してみようと、このブログを立ち上げて、そこにコミュニティ論を書き出した。

その方向は、前々回のブログに書いたように、これまでの協同組合論がこれまでの近代主義ないしは社会主義論の延長にあったことに対して、「労働力商品論→恐慌論+労農派論→脱労働力商品論」をベースに、脱労働力商品的生き方とその仕組みとしての「新しいコミュニティ→新しい協同組合」という構想とした。そして、私は4月生まれで、昨年が還暦であったから、出来ることなら還暦の間にまとめたいと思ったものだったが、あと1週間で還暦の歳が終わるのに、まだまとまりそうにない。

この1年間の成果と言えば、私の頭に経済学は無理なことが再確認されたことくらいであろうか。そこで、宇野弘蔵の恐慌論から始めるのではなくて、宇野弘蔵の恐慌論はどこから生まれたのかということで、労農派の源流をたどりながら脱労働力商品論を考える、それも私がやることだから、経済学的なやり方ではなく考えてみようと思う次第である。まあ、還暦の終わりの仕切り直しとでも言うか。

昨年は、賀川豊彦がスラムに身を投じてから100年ということで、「賀川豊彦献身100年」というイベントがあれこれあった。一昨年のリーマン・ショック以来の市場経済の見直しもあって、生協関係者が一斉に賀川豊彦の「友愛の経済学」を語り始めたわけである。そこで私も、そういう日本の生協運動を見直してみようと、石川三四郎の『消費組合の話』を読んだ。なぜ石川三四郎からかと言うと、賀川豊彦は若い頃に石川三四郎の『消費組合の話』を読んで、協同組合に目覚めたからであった。

『消費組合の話』の前書きには、「平民社で著述出版を計画した時、予に『消費組合の話』を割当てて呉れたのは枯川兄である、兄は更に之を安部磯雄氏に談じ、安部氏は有益なる参考書を送り賜はつた・・」とある。「枯川兄」とは堺利彦のことであり、「有益なる参考書」とはホリヨーク著の『ロッチデールの先駆者たち』のことであろうが、安部磯雄はアメリカに留学時にイギリスにも渡っているから、そこで手に入れたのであろう。

1904年に『消費組合の話』が出て、1905年に賀川豊彦はそれを読んでいる。賀川豊彦はまだ17歳で徳島に住んでいたが、当時から平民新聞を購読していた。そして、1909年に新川のスラムに入った賀川豊彦は、1912年に協同組合の一膳飯屋『天国屋』をつくったのである。賀川豊彦の協同組合は、いきなり消費組合ではない。一膳飯屋といい、歯ブラシ工場といい、初めは小さな生産組合である。これは、賀川豊彦がイギリスのギルド社会主義などから影響を受けていたこともあるかと思われる。

1903年(明治36)に平民社に参加した石川三四郎は、そこで『消費組合の話』を書いたわけだが、大逆事件後の7年間にわたるヨーロッパ亡命から帰国の後は、小さな農耕コミュニティ「共学舎」に依ってしのぎ、戦後に書いた『五十年後の日本』に、協同組合社会を描いた。また、「共働事業の思い出」という小文に以下のようにも書いている。

「私は明治三十七年に『消費組合の話』といふ小冊子を書いたことがある。・・・主としてホリョークの著書を参考にして、ロツチデールのパイオニアの事業なぞを書いたのだと思ふ。
この小冊子が因縁になって、東京市内に少くとも二つの消費組合が創立され・・私はその両方に関係した。一つは平民病院長加藤時次郎氏が中心になって組織され・・・もう一つはたしか雑貨商を持ってゐた一青年だったと思ふが、その個人の仕事を拗って消費組合の創立に傾倒した。本郷千駄木辺の小民街に居を移し、そこで仕事に着手した」と。

私の馴染みの千駄木で、明治時代に消費組合づくりが試みられたなど、驚きの話であるが、こんな話はこれまでの協同組合史には全く出てこない。賀川豊彦は、後に世界一の生協となった現コープこうべを創った人だから、その原点にあった石川三四郎のことなど、生協業界でもっと評価されてしかるべきなのだが、なぜそうならないのか、まあ、その辺から考えてみたいわけである。

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