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2009年11月 1日 (日)

日本社会運動の人々

堺利彦の「日本社会運動の人々」には、最初は「友愛会」で鈴木文治、賀川豊彦、麻生久らが紹介され、2番目には「他の労働運動の人々」で信友会と正進会の二つの活版工組合、そして3番目には前述した「大原研究所の人々」で、以下、『我等』の長谷川如是閑ら、新人会や建設者同盟といった「学生団体の人々」、大川周明らの猶存社や北一輝、馬場孤蝶や有島武郎や武者小路実篤といった「文学界の人々」、与謝野晶子や平塚明や山川菊枝らの婦人連、川上肇や福田徳三や権田保之助といった学者連、注目の新人は加藤勘十、最後に「社会主義同盟の人々」として「 山川均、大杉栄、荒畑勝三、山崎今朝弥の諸氏はただ姓名だけに止めておく。新帰朝の石川三四郎氏も右同断。片山潜氏は海外にいるので別問題としておく。安部磯雄氏がやや新活動の気勢を示しているのはうれしい」とある。

1921年(大正10)は、山川均が『前衛』を創刊し、関西では賀川豊彦が指導して神戸の川崎・三菱造船所で大争議が起きた年である。その前年の1920年(大正9年)に、堺利彦は「社会主義同盟」を組織しているから、さらに大正デモクラシーの時代にようやく各方面に育ちはじめた運動をまとめて社会主義政党づくりをめざして、その範囲を「日本社会運動の人々」にまで構想していたのではないかと思われる。これは極めて今日的発想ですらある。

1922年(大正11)に、山川均の『無産階級運動の方向転換』が発表され、堺利彦らは日本共産党創設(第一次)に参加するが、組織論的には後のボルシェヴィキ型共産党的な党でなくて、後に労農派がかかげた共同戦線党的なものであった。ロシア革命が起こった当初、日本の社会主義者は「社会主義革命が起こったこと」に対して誰もが期待したが、その日本への波及がやがて「コミンテルンによる指導の絶対性」となって現れた時に、ボルシェヴィキ型コミュニズムへの違和感からか、堺利彦は日本共産党(第一次)を解党し、山川均ともども以後の共産党に参加することはなかった。

第二次共産党をリードしたのは、ヨーロッパ留学でマルクス主義の新知識をしこたま仕入れて帰国した福本和夫であった。1925年に福本和夫は『「方向転換」はいかなる諸過程をとるか』を書いて、日本資本主義が急激な没落過程にあるとの認識から、山川均の無産階級運動の方向転換』を批判してはなばなしくデビューし、福本イズムで一世を風靡し、若いインテリたちは最新の輸入思想に熱狂して「結合の前の分離」という宗派主義、分裂主義的傾向に走った。

福本和夫は、コミンテルンの「27年テーゼ」で批判されて失脚するが、以後の共産党はコミンテルンの絶対的な指導を受け入れて、唯一の前衛党である共産党の指導による階級闘争という左翼主義路線で、その路線をとらない社会民主主義派への批判と運動への介入をつづることになる。戦後になると、ソ連や共産党を批判して新左翼が登場するが、「前衛党の指導による階級闘争という左翼主義路線」は新左翼も同じで、これらはソ連の崩壊までつづく。

さて、前述したように、宇野弘蔵はドイツ留学から帰国する船で福本和夫といっしょになったわけだが、船上で二人の間に会話があったとすれば、おそらく福本和夫がルカーチやカール・コルシュから仕入れた最新の知識をさかんに吹聴したのに対して、宇野弘蔵はフンフンとそれを聞いていただけなのではないかと私は思う。

1924年(大正13)にドイツ留学から帰国した宇野弘蔵は、東北帝国大学に助教授の職を得て、1938年(昭和13)にいわゆる労農派教授グループ事件に連座して検挙され、出獄後に退職するまでそこで研究生活を送る。中央では1927年(昭和2年)に、山川均、堺利彦らによって雑誌『労農』が創刊され、1932年来『日本資本主義発達講座』に拠った講座派との間で日本資本主義論争が起こるのだが、仙台からそれを見ながら、宇野弘蔵は1935年に「資本主義の成立と農村分解の過程」を書いて、ささやかにデビューしたのであった。

1925年に成立した普通選挙法以来、社会主義運動は無産政党づくりと、対立と分裂による離散集合がつづいた。晩年の堺利彦もその中で、1928年(昭和3)に無産大衆党の組織に参加、1929年(昭和4年)には日本大衆党より東京市会議員選挙に立候補して当選、1930(昭和5)には衆議院の総選挙に東京無産党より立候補して落選、1931年(昭和6)には全国労農大衆党結成され顧問となるなど、全国を飛び回る活動をつづけたが、1931年12月に脳溢血再発、1933年(昭和9)1月22日に63歳で永眠した。

1919年(大正8)に堺利彦は「政治運動、社会運動、労働運動」という文章を書いて、その中の「進歩主義の思想的大同団体」という章に、以下のように書いている。
「わたしはまた普通選挙運動と労働党との外に、労働運動と社会運動と政治運動とを結合させる予備団体(あるいは予備運動)の発生すべき可能を認めている。・・・黎明会なるものが創立された時、一般進歩主義者の間に多大の人気を呼び起こしたが、その人気はすなわちばく然たる半無意識の社会的要求であった。・・・そこで黎明会に失望した社会的要求は今やさらに同性質の、そしていっそう態度の鮮明な、いっそう範囲の広い、いっそう活動的な思想団体の発生を迫り出そうとしている。わたしは確かにその機運がそこここに動き漂うていると思う」と。

堺利彦が思い描いていた共同戦線、社会主義とは、単なる無産政党の合同ではなかった。「進歩主義の思想的大同団体」と「多様な社会運動」を礎にしたものだと思われる。そして、これも極めて今日的発想である。

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