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2009年11月 8日 (日)

山川均のしのぎ

向坂逸郎に代表される戦後の社会主義協会を見ると、戦後に山川均が思いつめた左派社会党路線を愚直にというか、教条的におし進めて宗派化してしまった感がある。高木郁朗氏は、「(山川均は)無政府主義と科学的社会主義の理論的なちがいを事実上見落とした文人・堺利彦とくらべて、はるかに実践的であったともいえます」(『山川均』すくらむ社1980)と書いていて、「文人・堺利彦」というのは言い得いるが、堺利彦と山川均の関係をみる時に、山川均が労農派らしいのは、その実践があまり理論的でなかった時、「文人・堺利彦」と通じ合った時にあったように、私には思われる。

山川均は、その生きざまはとても凡人のものとは思えないが、その自伝を『ある凡人の記録』と名付けたようなユーモア感覚を持っていて、この非凡なユーモア感覚は、1935年(昭和10)に書かれた『転向常習者の手記』によく現われている。

『転向常習者の手記』の書き出しは、「三月の或る日の朝、例によって食事をしながら新聞をひろげて見ると、『論壇の雄、山川均氏第一線から退却、文筆生活を放棄してうづら屋に転向』といふ三段抜き大見出しの『とくだね』記事が目についた」で始る。

これは、当時山川均が鎌倉郡(現・藤沢市)に移転して、湘南うづら園の経営を始めたことに対して、山川均を揶揄したものだが、さらにコラムで「労農派の総本山、山川均が今後左翼評論家を廃業して、鶉屋に転業するといふ。これは転向はやりの近頃の世相の反映と見るべきだが・・・それよりもこれまで山川氏を神様のやうに讃へてゐた大森義太郎や向坂逸郎氏などはいったいどうするつもりだらう。親分にならって鶉屋か豚屋にでも転業するんならいいが・・・」と揶揄されている。

これに対して、山川均は以下のように「転向常習歴」を披露します。

「私は、三四年の間隔をおいて、薬種商を二度やったことがある。最初のときは明治38年ころだった。私はだしぬけに、小さいながらも一つの薬種店を任された。・・・」
「四十年の春、私は二度目に東京に出て、新聞記者に転向したが、僅かに三四ケ月しかつづかなかった。これは私が転向する前に、新聞の方が没落したためだった。・・・」
「四十二年には、もう一度転向して、私は二度目の薬屋さんになった。しかし同じ薬屋さんとはいふものの、今度は番頭さんではなく、いやしくも独立した一店の主人たることにおいて、いちだんの発展をしたものだった。・・・」
「大正三年だったか、よく覚えないが、私は印刷屋に転向するつもりで九州の福岡に移ったが、これはいろいろの障害で実現しなかった。そのころのもう一つの転向未遂は、写真屋の開業だった。・・・私はよく、重い四ツ切の機械を自転車につけ、峠を越えて六七里もある田舎の小学校の卒業式などに行ったことがある。或る時は、芸者をつれた旦那に追従して、海水浴場にのこのこ出掛けたこともあった。・・・」
「大正四年には、私は山羊牧場の主人だった。しかも舞台は九州の南端だった。競争者に打ち克つために、ないしはほんの僅かばかりの金銭上の利益を獲得するために一生懸命の生活も面白いが、さりとて、ゆるやかにたち昇る桜島の噴煙を眺めつつ、メイメイと啼く山羊を相手に日を送ることも、決して幸福でないことはない。・・・私は二人の青年を使って、五六十頭の山羊を飼ってゐた。毎朝二時に起きて乳を搾ったものだ。・・・」
「大正五年、何年目かに、そして何度目かに、私はまた東京に舞ひもどった。そして、堺君のやってゐた売文社に入れてもらった。パンにペンを突き剌したのが、売文社のマークだった。いふまでもなく、パンのためにペン、売文のしゃれだった。・・・」
「或る日のこと、どういふ風の吹き廻しか、さる雑誌から原稿の依頼を受けた。私は何かの間違ひではないかとさへ思った。そのうち他の雑誌からも、同じく執筆の依鎖を受けた。・・・その頃、これはほんとの原稿生活をやってゐた山ロ孤剣君が、私のために『新日本』の編集者を紹介してくれた。・・・こうして私の文筆生活がはじまった。転向には相違なかったが、これはまた途方もない見当ちがひの、思ひもよらぬ方角への転向であった。
 私は原稿商売に転向はしたものの、では一つ、今後は文筆によって生活しようといふことを、改めて決心してかかったのかといふと、そうではなかった。私はそういふ問題を、慎重に考へてもみなかった。たゞいつもの通りズルズルベッタリが、事実上そういふ成行になったといふだけのものだった。
私は後年、私の主張や私の考へ方がズルズルベッタリで弁証法的でないといふので、猛烈な非難を俗びたことがある。この批評は、なるほどいいところに気がっいたものだと、私は感心した。実際、私の生涯そのものが、ズルズルベッタリなのだ。そのズルズルベッタリズムそのものさへも、私は弁証法的に止揚したり発展したりする手数をかけてやっとのこと把握したわけではなく、ただズルズルベッタリにそうなったに過ぎなかった。
 こういふ生れつきのズルズルベッタリズムが、おそらくは私を転向常習者にしたのだらう」と。(昭和10.7.7)

これは要するに、食うために色々な商売をしたという謂わば「しのぎ」の話である。そして「しのぎ」に苦労するのは、その前段での入獄があって、出獄後の「しのぎ」に苦労するわけである。1900年(明治3)に、山川均は20歳の時に不敬罪で3年6か月の重禁錮刑を受け、出獄後は姉の嫁ぎ先の林さんの援助で薬屋をやる。やがて幸徳秋水に呼ばれて、日刊『平民新聞』の発行を手伝うが、それの発行禁止の後1908年の赤旗事件で2年の刑を受けてまた入獄。その間に大逆事件が起こって、出所後はまた薬屋、印刷屋、もぐりの写真屋、ヤギ牧場の経営などを経て、やがて文筆を生業にするようになるわけである。

文筆は、堺利彦の『へちまの花』に始まり、それが『新社会』と改題された後は編集に参加して、匿名で「大正六・七年(1917・1918)、あの疾風怒涛の時代において一個無名の青年が、吉野、大山等のデモクラシーのチャンピョンを手玉にとった」(大内兵衛「ある平凡でなかった社会主義者」より)わけである。

1918年に山川均は荒畑寒村と小新聞『青服』を発行、発行禁止、新聞紙法違反で入獄。翌年に出獄後、堺利彦らと『社会主義研究』を創刊、荒畑とともに労働組合研究会を開催。1920年は『新社会』を『新社会評論』→『社会主義』と改題、日本社会主義同盟の創立に奔走。1921年には堺、荒畑の協力をえて、『前衛』を個人経営で発行、1922年『前衛』に「無産階級の方向転換」を発表、そして1927年の『労農』の創刊へといたるわけである。(筑摩書房・近代日本思想体系『山川均集』参考)

こう見てくると、匿名時代の山川均の文筆は生業っぽかったが、実名で社会に登場して以降の山川均は、当代一の社会主義の理論家になり、日本社会主義同盟や日本共産党(第一次)の結成に参加し、福本イズムと共産党再建(第二次)、講座派との日本資本主義論争を経て、「労農派の総本山」とされるようになったわけである。そして、1937年には人民戦線事件が起きて、山川均は検挙されるわけであるが、その前にうづら園の経営を企画したのは、やはり次のしのぎを考えたからであったのだろうか。

山川均の父親は、山川均が不敬罪で入獄して以来、門を閉じた生活を送ったというが、山川菊枝「倉敷の父と母」(『山川均全集・第2巻』所載・)によれば、家の中でうづらを飼っていたという。だから、山川均がうづらを飼って時代をしのごうというのは、ごく自然な話なのである。社会主義は理屈になると行き詰まるが、労農派の社会主義には、理屈以前に生活がある。

労農派を代表する堺利彦と山川均に共通することは、今で言えばジャーナリストと言えようか、文筆を生業にしていたことである。とりわけ堺利彦は、文筆でしのぎながら万朝報に入社後に社会主義者になる。そして幸徳秋水と平民社を立ち上げ、筆禍事件で最初の入獄をし、獄中で洋書を読んで経済学や社会主義を勉強する。これは山川均も同様である。もうひとつ堺利彦と山川均に共通することは、事情は異なるが、二人とも学校を中退している。だから、堺利彦と山川均は経済学や社会主義を勉強しても、学者としてそれで食っていけるわけではなかったし、西洋留学もしていない。だから、堺利彦と山川均のマルクス主義の理解については、不備も多かったとは思う。しかし、後の学者グループまでも含めて、労農派が土着社会主義としてあり得るのは、まさにこの二人、とりわけ堺利彦のお陰だと、私は思うわけである。

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