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2009年11月14日 (土)

原風景としての柏木団の人々

山川均は倉敷の出身で、家は幕末まで郷宿という代官所に来る役人を泊める公認の指定旅館をやっていて、維新後は没落してしまう。この辺りは島崎藤村の馬籠の実家と似てなくもない。そんで、山川均の姉は近所の林家に嫁に行く。この林家は宇野弘蔵の『「資本論」五十年』でも語られているように、宇野弘蔵の実家と仲がよかったようであるが、山川均と宇野弘蔵がそれに気づくのは、宇野弘蔵が東京に出てきて、山川均を訪ねた後になる。

高等小学校を卒業した山川均は、東京遊学を希望するが家が没落してかなわず、同志社出のクリスチャンであった林さんの口利きで、同志社に行くことを親に認めてもらう。同志社ではボート部に所属して琵琶湖を漕ぎまくる一方、読書についてはトルストイやカーペンターから強い感銘や印象を受けたとある。そして、授業に教育勅語が導入されたことに反発して、同志社を退学してしまう。

それから東京に出て来て、学籍のない放浪学生をしながら、やがて「青年の福音」というキリスト教のパンフレットを出版するのだが、これに大正天皇のご成婚について「人生の大惨劇」という文章が書かれて不敬罪となり、3年半の獄中生活を送ることになる。山川均は、この獄中生活期に経済学を勉強する。1904年(明治37)6月の出獄の日、差入れされたものの「看読不許」となっていた『週刊平民新聞』の創刊号をみつけ、岡山に帰る前に、数寄屋橋にあった平民社に立ち寄っている。

さて、故郷に帰ってからの山川均は、前回の日記「山川均のしのぎ」に書いたように、義兄の林家の営む薬局の手伝いなどするわけだが、やがて「現在の生活はもはやこれ以上つづけてはならない」と考え、当時アメリカに渡っていた幸徳秋水に渡米希望の手紙を書く。幸徳秋水からは「アメリカなんか来るところじゃない」という返信があったわけだが、やがて帰国した幸徳秋水は『日刊平民新聞』の発行をすすめ、編集委員に山川均を誘う。1906年(明治39)12月に倉敷を立ち、新橋につくと、その足で築地新富町の平民社をたずねた山川均は、そこではじめて堺利彦と会う。

『日刊平民新聞』は1907年(明治40)1月の創刊で、山川均にとって「平民社入社は、私にとっては、自分の収入で生活した初めての経験でもあった」が、4月には早くも廃刊になってしまう。それから1908年(明治41)1月の屋上演説会事件で3月まで入獄、6月の赤旗事件で懲役2年の判決を受けてまた入獄する。そのおかげで1910年5月の大逆事件からはま逃れるわけだが、同年9月に出獄した後は、また岡山に帰って山川薬店を開くことになる。

だから、山川均の平民社体験はそんなに長い期間ではないのだが、この間にこそ日本の社会主義運動の原風景が見られるように、私は思う。山川均の『ある凡人の記録』に「柏木団の人々」という一節があって、以下のようなことが書かれている。

「新聞の廃刊による打撃は私自身にとっても大きかった。私は、たちまちその日から無収入になった。さいわい守田は結婚して日暮里の金杉に家をもち、秋山の二六新聞に勤めていた。それでともかく僕の家に来いというわけで、私は下宿を引き払って守田の家に同居させてもらうことになった。まもなく、日暮里は使利がわるい・・不潔で不衛生な地帯だったので、守田一家と共に、同志の多く住まっている淀橋の柏木に引越すことになった。当時、幸徳さんは大久保の百人町に、堺さんはすぐ近くの柏木にいたし、平民新聞の同僚だった森近運平、深尾詔なども柏木に集まっていた。・・・五月末に入獄した大杉栄は十一月には出獄し、十月に大阪日報に入社した荒畑寒村も翌年(四十一年)の春には帰ってきて、大逆事件の管野幽月と柏木の住入になっていたように思う。この春は・・柏木の住人総動員で小金井の雪の桜を見物に出かけたことを覚えているから。そのほか赤旗事件の宇都宮率爾、百瀬晋、大逆事件の坂本清馬、後年の「新しい女」という言語のできる以前の新しい女の神川松子など、若い人たちもこの近くに住まっていた。ここに住居をもたない人たちも、暇さえあれば、柏木という地域をクラブのようにして集まっていた。それで柏木は社会主義者-とくに革命派にぞくする社会主義者の巣クツとなり、警察では「柏木団」などと呼んでいた。そのころのこのあたりは・・新築の住宅が建っていたころで、手ごろの新築の貸家がいくらもあり、そこは手車一台でてがるに引越せる身分だけに、よく引越しをした。とくに大杉などは引越し趣味で、毎月のように引越していた。
 幸徳さんは、いまの国電大久保駅と新大久保駅との中間で、やや大久保よりのところを戸山ケ原の方にはいると、すぐ左側にいた・・」。

「青年の多くは、幸徳さんはそういう人として、自分たちより一段上の方においていたせいか、幸徳さんにたいしてはあまり不平や不満の声を聞かなかったが、堺さんの方はむしろ同輩のように考え、堺のオヤジがどうしたのこうしたのと、よく不平をならべていた。・・・四十年の秋ころまでは、あの百人町の幸徳さんの家の、空地をへだてて大きなムクかケヤキの大木の見える`ソガワで、幸徳、堺の二人が議論するのをよく聞いた」。

「このあいだに、守田の家も三度ばかり引越しをしたが、私はあいかわらず、守田の家に寄生をつづけていた。収入のないときは食費さえろくに払えなかったくせに、威張って居候していたが、守田夫妻は親切に世話をしてくれた・・・
 『平民新聞』がなくなってから赤旗事件で入獄するまでの一年四ヵ月のあいだ、ろくに収入になる仕事もなく、いったい私はどうして生活していたものか、考えてみるがよく分らない。・・・しかしいまもこのとおり私が生きているところを見ると、ともかく生活していたものにはちがいない。・・私はそれから今日まで、定まった収入のない生活をしていた時期が多かったが、なんだか人間というものは、平均的にはどうやらこうやら最低生活だけは出来てゆくものだというような安心感があって、定まった収入のないことに、さまで不安を感じないで済んだ」。

「幸徳が東京を離れるについては、幸徳、堺のあいだで今後の運動方針を協定しておく必要があったとみえ、改めて二人の会談がおこなわれた。たしか三河屋だったとおもう。四谷見附の大きなスキ焼屋で、食事をしながら話し合いがおこなわれたが、払はなんということなしに、その席に招かれた。二人がなぜ私をその席に加わらせたかは、よく分らぬが、たぶん二人の間の話し合いが、第三者によって確認されていることが望ましいと考えたからだろうと思う。そしてこの立会人に私が選ばれたのは、当時、私の思想上の立場が、やや二人の中間にあったためだったかもしれぬ。・・・幸徳さんは、二十七日に東京を立って土佐に向った。この夜の会合が、幸徳さんとの永久の訣別になろうとは、もとより夢にも思わなかった」と。

少し長い引用になったが、日本に社会主義が芽生えてくる頃に、それをになった人々の生き様、しのぎ方がよく分かる。そしてこの風景は、決して平民社の人々だけのものでも、過去のものでもなく、誰もがどこかで経験したような風景である。そこで人々の生活を支えているのは、それぞれのささやかなしのぎと、ささやかな稼ぎの中からの謂わば「贈与」であり、そういった関係として成り立つ謂わば「コミュニティ」である。そして、そこに社会主義の原風景もあると、私は思うわけである。

この後、赤旗事件が起きて、堺利彦、山川均、大杉栄らは2年間の刑務所暮らしをすることになるが、おかげで、その間に引き起こされた大逆事件の難からは逃れることができた。しかし、刑期を終えて出獄してきた山川均は、居候先の友人から「東京でまごまごしていても運動はまるきり出来ないし、第一、生活の方法が絶対にない」と言われて、東京を離れることにするのだが、『ある凡人の記録』はここまでで終っている。

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