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2009年11月 1日 (日)

堺利彦と宇野弘蔵

前回書いたように、『「資本論」五十年』によれば、宇野弘蔵の社会主義入門は、中学から高校にかわる頃に大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文を読んでからということで、『「資本論」五十年』には、堺利彦が書いた序文に載っていたという「社会主義鳥瞰図」が転載されている。

Photo この間、『堺利彦全集』(法律文化社刊)を読んでいたら、1914年に書かれた「大杉君と僕」という文章に、『「資本論」五十年』に載っているのと同じ図が載っていて、宇野弘蔵は1897年の生まれだから1914年は宇野弘蔵が「中学から高校にかわる頃」だから、まさに宇野弘蔵はこれを読んで社会主義入門をしたのであろうと思われる。

「大杉君と僕」には、以下のように社会主義が解説されている。
「日本の社会主義運動に三派の別が生じていた。今でもボンヤリその形が残っている。
 一、温和派(あるいは修正派)
 一、マルクス派は(あるいは正純派)
 一、直接行動派(あるいは無政府的社会主義)
 これを人について言えば、安部磯雄君は右翼に属し、幸徳秋水君は左翼に属し、僕自身は中間派に属していた。そのうち、幸徳君は殺されたが、安部君と僕とはほぼ昔のままの立場で続いている。そして今日、幸徳君の立場を継承している者は、すなわち大杉栄君である。・・・
 すべて主義態度の範囲はそう明瞭に区分することのできるものではない。実際運動に当たっては、種々の便宜上、どこかに一線を画して、党派団体の区分をつけるけれど、理論の上から見る時には、あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。この関係をやや明瞭に示すため、左に一つの表を作ってみる」という具合である。

1914年(大正3)というのは、大逆事件の後、堺利彦は売文社を立ち上げてしのぎをしながら、やっと『へちまの花』を創刊した年である。『へちまの花』は、翌年に『新社会』と改題され、『「資本論」五十年』によれば、宇野弘蔵はこれを読むわけであるが、その内容は、堺利彦の『日本社会主義運動小史』(昭和3年)には、以下のようにある。

「大正5年1月、山川均君が五年間の沈黙を破って、郷里岡山から上京した。そして売文社に入って『新社会』に執筆した。・・・(『新社会』の) 内容の目次には、社会主義の四派(高畠)、唯物史観解説(堺)、マルクス経済論(高畠)、歴史を見る目(山川)、剰余価値(高畠)、農業問題の真相(山川)、社会主義と個人主義(高畠、堺)、マルサス人口論の価値(高畠)、・・・ 大正6年2月、カウツキー著高畠訳の『資本論解説』が「新社会」に載りはじめた。・・・ 大正8年5月、雑誌『新社会』は新たにマルクス主義を「旗印」として出現した。・・・そしてこの日本に「マルクス大流行の現象」をきたし、「社会主義の研究」が「一種の流行」になった。資本論の翻訳が三種も着手された。カウツキーの『資本論解説』((高畠訳)が「大歓迎を受」けた。マルクス伝』(堺、山川著)も出た」と。
そして、若き宇野弘蔵は、これらを読んだものと思われる。

さて、『へちまの花』であるが、その創刊の「序」に堺利彦は以下のように書いている。

「近来、カフェとかバアとかいうものがにはかに流行するが、しかしそれがみな大なり小なり常連のお客などこしらえて、それぞれ面白げなクラブになっている。わが『へちまの花』もやはりそんな意味で、文界の一小クラブになりたいと望んでいる。別に業々しい主張も抱負もないが、ただ売文社という殺風景な商店にもこれだけの余裕と趣味とのあることを見てほしい」と。

へーっ、大正3年に「カフェとかバアとかいうものがにはかに流行」したとは驚きだが、さらに驚くのは『へちまの花』という書名も含めて、堺利彦の幅の広さと奥行きの深さであり、ユーモアと泰然自若とした生き様である。前記の「社会主義鳥瞰図」の解説には、以下のようにある。

「すべて主義態度の範囲はそう明瞭に区分することのできるものではない。・・・理論の上から見る時には、あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。・・・面白いことは、社会主義の左端なるシンヂカリスト(サンジカリスト)と、その右端のまた一歩右なる労働組合主義の一半とが、その非政治派、非議会派たる点において一致していることである。進歩派と保守派とその両端においてかえって相近づくは注意すべき現象である。また左の表の全体を見渡すと、左端も右端も同じく個人主義で、ここにも思想の環が一周してさらに相近づかんとする形が現われている。実例をもってこの点を考えてみるに、極端なる自由貿易論者や自由競争論者は、政府的の干渉をできうべきだけ排斥し、個人の活動をできうべきだけ拡大せんとする点において、すこぶる無政府的傾向を有している・・・」と。

やがてロシア革命が起こり、日本にボルシェヴィズムが入って来て以降、日本の左翼は「より左であることが正しい」という左翼主義と階級闘争というイデオロギーに呪縛されスタイルになるが、宇野弘蔵が『新社会』から学んだものは、堺利彦流の「ひとつの考え方に呪縛されない思想の構え」みたいなものもあったように私には思えるのだが。

宇野弘蔵は山川均とは同郷、それこそ家が近かったみたいなことまであって、交流があったが、堺利彦との直接の面識はなかったのではあるまいか。堺利彦が1921年(大正10)に書いた「日本社会運動の人々」という文章には、大原社会問題研究所について以下の記述がある。

「大原社会問題研究所は岡山の紡績成金大原孫三郎氏の道楽事業である。・・・所長は高野岩三郎氏で、その下に森戸辰男、櫛田民蔵の二氏がいる。つまり何の事はない、元帝大教授の避難場所という形である。・・・クロポトキン学者の森戸氏と、マルクス学者の櫛田氏とは、何と言っても大原研究所の誇りである。・・・その外、研究所は多数の若い秀才を善っていると聞く。それがニワトリになるものやら、アヒルになるものやら」と。

まあ、「ニワトリになるものやら、アヒルになるものやら」の中に、宇野弘蔵がいたということであろうか、1921年(大正10)に東京帝国大学を卒業した宇野弘蔵は大原社会問題研究所に入所している。

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コメント

今日はお疲れ様でした。久し振りに刺激的な話しを聞くことが出来て楽しいひとときでした。

投稿: 清水信義 | 2010年3月 6日 (土) 22時53分

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