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2009年11月14日 (土)

原風景としての柏木団の人々

山川均は倉敷の出身で、家は幕末まで郷宿という代官所に来る役人を泊める公認の指定旅館をやっていて、維新後は没落してしまう。この辺りは島崎藤村の馬籠の実家と似てなくもない。そんで、山川均の姉は近所の林家に嫁に行く。この林家は宇野弘蔵の『「資本論」五十年』でも語られているように、宇野弘蔵の実家と仲がよかったようであるが、山川均と宇野弘蔵がそれに気づくのは、宇野弘蔵が東京に出てきて、山川均を訪ねた後になる。

高等小学校を卒業した山川均は、東京遊学を希望するが家が没落してかなわず、同志社出のクリスチャンであった林さんの口利きで、同志社に行くことを親に認めてもらう。同志社ではボート部に所属して琵琶湖を漕ぎまくる一方、読書についてはトルストイやカーペンターから強い感銘や印象を受けたとある。そして、授業に教育勅語が導入されたことに反発して、同志社を退学してしまう。

それから東京に出て来て、学籍のない放浪学生をしながら、やがて「青年の福音」というキリスト教のパンフレットを出版するのだが、これに大正天皇のご成婚について「人生の大惨劇」という文章が書かれて不敬罪となり、3年半の獄中生活を送ることになる。山川均は、この獄中生活期に経済学を勉強する。1904年(明治37)6月の出獄の日、差入れされたものの「看読不許」となっていた『週刊平民新聞』の創刊号をみつけ、岡山に帰る前に、数寄屋橋にあった平民社に立ち寄っている。

さて、故郷に帰ってからの山川均は、前回の日記「山川均のしのぎ」に書いたように、義兄の林家の営む薬局の手伝いなどするわけだが、やがて「現在の生活はもはやこれ以上つづけてはならない」と考え、当時アメリカに渡っていた幸徳秋水に渡米希望の手紙を書く。幸徳秋水からは「アメリカなんか来るところじゃない」という返信があったわけだが、やがて帰国した幸徳秋水は『日刊平民新聞』の発行をすすめ、編集委員に山川均を誘う。1906年(明治39)12月に倉敷を立ち、新橋につくと、その足で築地新富町の平民社をたずねた山川均は、そこではじめて堺利彦と会う。

『日刊平民新聞』は1907年(明治40)1月の創刊で、山川均にとって「平民社入社は、私にとっては、自分の収入で生活した初めての経験でもあった」が、4月には早くも廃刊になってしまう。それから1908年(明治41)1月の屋上演説会事件で3月まで入獄、6月の赤旗事件で懲役2年の判決を受けてまた入獄する。そのおかげで1910年5月の大逆事件からはま逃れるわけだが、同年9月に出獄した後は、また岡山に帰って山川薬店を開くことになる。

だから、山川均の平民社体験はそんなに長い期間ではないのだが、この間にこそ日本の社会主義運動の原風景が見られるように、私は思う。山川均の『ある凡人の記録』に「柏木団の人々」という一節があって、以下のようなことが書かれている。

「新聞の廃刊による打撃は私自身にとっても大きかった。私は、たちまちその日から無収入になった。さいわい守田は結婚して日暮里の金杉に家をもち、秋山の二六新聞に勤めていた。それでともかく僕の家に来いというわけで、私は下宿を引き払って守田の家に同居させてもらうことになった。まもなく、日暮里は使利がわるい・・不潔で不衛生な地帯だったので、守田一家と共に、同志の多く住まっている淀橋の柏木に引越すことになった。当時、幸徳さんは大久保の百人町に、堺さんはすぐ近くの柏木にいたし、平民新聞の同僚だった森近運平、深尾詔なども柏木に集まっていた。・・・五月末に入獄した大杉栄は十一月には出獄し、十月に大阪日報に入社した荒畑寒村も翌年(四十一年)の春には帰ってきて、大逆事件の管野幽月と柏木の住入になっていたように思う。この春は・・柏木の住人総動員で小金井の雪の桜を見物に出かけたことを覚えているから。そのほか赤旗事件の宇都宮率爾、百瀬晋、大逆事件の坂本清馬、後年の「新しい女」という言語のできる以前の新しい女の神川松子など、若い人たちもこの近くに住まっていた。ここに住居をもたない人たちも、暇さえあれば、柏木という地域をクラブのようにして集まっていた。それで柏木は社会主義者-とくに革命派にぞくする社会主義者の巣クツとなり、警察では「柏木団」などと呼んでいた。そのころのこのあたりは・・新築の住宅が建っていたころで、手ごろの新築の貸家がいくらもあり、そこは手車一台でてがるに引越せる身分だけに、よく引越しをした。とくに大杉などは引越し趣味で、毎月のように引越していた。
 幸徳さんは、いまの国電大久保駅と新大久保駅との中間で、やや大久保よりのところを戸山ケ原の方にはいると、すぐ左側にいた・・」。

「青年の多くは、幸徳さんはそういう人として、自分たちより一段上の方においていたせいか、幸徳さんにたいしてはあまり不平や不満の声を聞かなかったが、堺さんの方はむしろ同輩のように考え、堺のオヤジがどうしたのこうしたのと、よく不平をならべていた。・・・四十年の秋ころまでは、あの百人町の幸徳さんの家の、空地をへだてて大きなムクかケヤキの大木の見える`ソガワで、幸徳、堺の二人が議論するのをよく聞いた」。

「このあいだに、守田の家も三度ばかり引越しをしたが、私はあいかわらず、守田の家に寄生をつづけていた。収入のないときは食費さえろくに払えなかったくせに、威張って居候していたが、守田夫妻は親切に世話をしてくれた・・・
 『平民新聞』がなくなってから赤旗事件で入獄するまでの一年四ヵ月のあいだ、ろくに収入になる仕事もなく、いったい私はどうして生活していたものか、考えてみるがよく分らない。・・・しかしいまもこのとおり私が生きているところを見ると、ともかく生活していたものにはちがいない。・・私はそれから今日まで、定まった収入のない生活をしていた時期が多かったが、なんだか人間というものは、平均的にはどうやらこうやら最低生活だけは出来てゆくものだというような安心感があって、定まった収入のないことに、さまで不安を感じないで済んだ」。

「幸徳が東京を離れるについては、幸徳、堺のあいだで今後の運動方針を協定しておく必要があったとみえ、改めて二人の会談がおこなわれた。たしか三河屋だったとおもう。四谷見附の大きなスキ焼屋で、食事をしながら話し合いがおこなわれたが、払はなんということなしに、その席に招かれた。二人がなぜ私をその席に加わらせたかは、よく分らぬが、たぶん二人の間の話し合いが、第三者によって確認されていることが望ましいと考えたからだろうと思う。そしてこの立会人に私が選ばれたのは、当時、私の思想上の立場が、やや二人の中間にあったためだったかもしれぬ。・・・幸徳さんは、二十七日に東京を立って土佐に向った。この夜の会合が、幸徳さんとの永久の訣別になろうとは、もとより夢にも思わなかった」と。

少し長い引用になったが、日本に社会主義が芽生えてくる頃に、それをになった人々の生き様、しのぎ方がよく分かる。そしてこの風景は、決して平民社の人々だけのものでも、過去のものでもなく、誰もがどこかで経験したような風景である。そこで人々の生活を支えているのは、それぞれのささやかなしのぎと、ささやかな稼ぎの中からの謂わば「贈与」であり、そういった関係として成り立つ謂わば「コミュニティ」である。そして、そこに社会主義の原風景もあると、私は思うわけである。

この後、赤旗事件が起きて、堺利彦、山川均、大杉栄らは2年間の刑務所暮らしをすることになるが、おかげで、その間に引き起こされた大逆事件の難からは逃れることができた。しかし、刑期を終えて出獄してきた山川均は、居候先の友人から「東京でまごまごしていても運動はまるきり出来ないし、第一、生活の方法が絶対にない」と言われて、東京を離れることにするのだが、『ある凡人の記録』はここまでで終っている。

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2009年11月 8日 (日)

山川均のしのぎ

向坂逸郎に代表される戦後の社会主義協会を見ると、戦後に山川均が思いつめた左派社会党路線を愚直にというか、教条的におし進めて宗派化してしまった感がある。高木郁朗氏は、「(山川均は)無政府主義と科学的社会主義の理論的なちがいを事実上見落とした文人・堺利彦とくらべて、はるかに実践的であったともいえます」(『山川均』すくらむ社1980)と書いていて、「文人・堺利彦」というのは言い得いるが、堺利彦と山川均の関係をみる時に、山川均が労農派らしいのは、その実践があまり理論的でなかった時、「文人・堺利彦」と通じ合った時にあったように、私には思われる。

山川均は、その生きざまはとても凡人のものとは思えないが、その自伝を『ある凡人の記録』と名付けたようなユーモア感覚を持っていて、この非凡なユーモア感覚は、1935年(昭和10)に書かれた『転向常習者の手記』によく現われている。

『転向常習者の手記』の書き出しは、「三月の或る日の朝、例によって食事をしながら新聞をひろげて見ると、『論壇の雄、山川均氏第一線から退却、文筆生活を放棄してうづら屋に転向』といふ三段抜き大見出しの『とくだね』記事が目についた」で始る。

これは、当時山川均が鎌倉郡(現・藤沢市)に移転して、湘南うづら園の経営を始めたことに対して、山川均を揶揄したものだが、さらにコラムで「労農派の総本山、山川均が今後左翼評論家を廃業して、鶉屋に転業するといふ。これは転向はやりの近頃の世相の反映と見るべきだが・・・それよりもこれまで山川氏を神様のやうに讃へてゐた大森義太郎や向坂逸郎氏などはいったいどうするつもりだらう。親分にならって鶉屋か豚屋にでも転業するんならいいが・・・」と揶揄されている。

これに対して、山川均は以下のように「転向常習歴」を披露します。

「私は、三四年の間隔をおいて、薬種商を二度やったことがある。最初のときは明治38年ころだった。私はだしぬけに、小さいながらも一つの薬種店を任された。・・・」
「四十年の春、私は二度目に東京に出て、新聞記者に転向したが、僅かに三四ケ月しかつづかなかった。これは私が転向する前に、新聞の方が没落したためだった。・・・」
「四十二年には、もう一度転向して、私は二度目の薬屋さんになった。しかし同じ薬屋さんとはいふものの、今度は番頭さんではなく、いやしくも独立した一店の主人たることにおいて、いちだんの発展をしたものだった。・・・」
「大正三年だったか、よく覚えないが、私は印刷屋に転向するつもりで九州の福岡に移ったが、これはいろいろの障害で実現しなかった。そのころのもう一つの転向未遂は、写真屋の開業だった。・・・私はよく、重い四ツ切の機械を自転車につけ、峠を越えて六七里もある田舎の小学校の卒業式などに行ったことがある。或る時は、芸者をつれた旦那に追従して、海水浴場にのこのこ出掛けたこともあった。・・・」
「大正四年には、私は山羊牧場の主人だった。しかも舞台は九州の南端だった。競争者に打ち克つために、ないしはほんの僅かばかりの金銭上の利益を獲得するために一生懸命の生活も面白いが、さりとて、ゆるやかにたち昇る桜島の噴煙を眺めつつ、メイメイと啼く山羊を相手に日を送ることも、決して幸福でないことはない。・・・私は二人の青年を使って、五六十頭の山羊を飼ってゐた。毎朝二時に起きて乳を搾ったものだ。・・・」
「大正五年、何年目かに、そして何度目かに、私はまた東京に舞ひもどった。そして、堺君のやってゐた売文社に入れてもらった。パンにペンを突き剌したのが、売文社のマークだった。いふまでもなく、パンのためにペン、売文のしゃれだった。・・・」
「或る日のこと、どういふ風の吹き廻しか、さる雑誌から原稿の依頼を受けた。私は何かの間違ひではないかとさへ思った。そのうち他の雑誌からも、同じく執筆の依鎖を受けた。・・・その頃、これはほんとの原稿生活をやってゐた山ロ孤剣君が、私のために『新日本』の編集者を紹介してくれた。・・・こうして私の文筆生活がはじまった。転向には相違なかったが、これはまた途方もない見当ちがひの、思ひもよらぬ方角への転向であった。
 私は原稿商売に転向はしたものの、では一つ、今後は文筆によって生活しようといふことを、改めて決心してかかったのかといふと、そうではなかった。私はそういふ問題を、慎重に考へてもみなかった。たゞいつもの通りズルズルベッタリが、事実上そういふ成行になったといふだけのものだった。
私は後年、私の主張や私の考へ方がズルズルベッタリで弁証法的でないといふので、猛烈な非難を俗びたことがある。この批評は、なるほどいいところに気がっいたものだと、私は感心した。実際、私の生涯そのものが、ズルズルベッタリなのだ。そのズルズルベッタリズムそのものさへも、私は弁証法的に止揚したり発展したりする手数をかけてやっとのこと把握したわけではなく、ただズルズルベッタリにそうなったに過ぎなかった。
 こういふ生れつきのズルズルベッタリズムが、おそらくは私を転向常習者にしたのだらう」と。(昭和10.7.7)

これは要するに、食うために色々な商売をしたという謂わば「しのぎ」の話である。そして「しのぎ」に苦労するのは、その前段での入獄があって、出獄後の「しのぎ」に苦労するわけである。1900年(明治3)に、山川均は20歳の時に不敬罪で3年6か月の重禁錮刑を受け、出獄後は姉の嫁ぎ先の林さんの援助で薬屋をやる。やがて幸徳秋水に呼ばれて、日刊『平民新聞』の発行を手伝うが、それの発行禁止の後1908年の赤旗事件で2年の刑を受けてまた入獄。その間に大逆事件が起こって、出所後はまた薬屋、印刷屋、もぐりの写真屋、ヤギ牧場の経営などを経て、やがて文筆を生業にするようになるわけである。

文筆は、堺利彦の『へちまの花』に始まり、それが『新社会』と改題された後は編集に参加して、匿名で「大正六・七年(1917・1918)、あの疾風怒涛の時代において一個無名の青年が、吉野、大山等のデモクラシーのチャンピョンを手玉にとった」(大内兵衛「ある平凡でなかった社会主義者」より)わけである。

1918年に山川均は荒畑寒村と小新聞『青服』を発行、発行禁止、新聞紙法違反で入獄。翌年に出獄後、堺利彦らと『社会主義研究』を創刊、荒畑とともに労働組合研究会を開催。1920年は『新社会』を『新社会評論』→『社会主義』と改題、日本社会主義同盟の創立に奔走。1921年には堺、荒畑の協力をえて、『前衛』を個人経営で発行、1922年『前衛』に「無産階級の方向転換」を発表、そして1927年の『労農』の創刊へといたるわけである。(筑摩書房・近代日本思想体系『山川均集』参考)

こう見てくると、匿名時代の山川均の文筆は生業っぽかったが、実名で社会に登場して以降の山川均は、当代一の社会主義の理論家になり、日本社会主義同盟や日本共産党(第一次)の結成に参加し、福本イズムと共産党再建(第二次)、講座派との日本資本主義論争を経て、「労農派の総本山」とされるようになったわけである。そして、1937年には人民戦線事件が起きて、山川均は検挙されるわけであるが、その前にうづら園の経営を企画したのは、やはり次のしのぎを考えたからであったのだろうか。

山川均の父親は、山川均が不敬罪で入獄して以来、門を閉じた生活を送ったというが、山川菊枝「倉敷の父と母」(『山川均全集・第2巻』所載・)によれば、家の中でうづらを飼っていたという。だから、山川均がうづらを飼って時代をしのごうというのは、ごく自然な話なのである。社会主義は理屈になると行き詰まるが、労農派の社会主義には、理屈以前に生活がある。

労農派を代表する堺利彦と山川均に共通することは、今で言えばジャーナリストと言えようか、文筆を生業にしていたことである。とりわけ堺利彦は、文筆でしのぎながら万朝報に入社後に社会主義者になる。そして幸徳秋水と平民社を立ち上げ、筆禍事件で最初の入獄をし、獄中で洋書を読んで経済学や社会主義を勉強する。これは山川均も同様である。もうひとつ堺利彦と山川均に共通することは、事情は異なるが、二人とも学校を中退している。だから、堺利彦と山川均は経済学や社会主義を勉強しても、学者としてそれで食っていけるわけではなかったし、西洋留学もしていない。だから、堺利彦と山川均のマルクス主義の理解については、不備も多かったとは思う。しかし、後の学者グループまでも含めて、労農派が土着社会主義としてあり得るのは、まさにこの二人、とりわけ堺利彦のお陰だと、私は思うわけである。

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山川均と宇野弘蔵

宇野弘蔵は堺利彦との接触は少なかったが、山川均とはけっこうあった。なにせ同じ「倉敷もん」であるだけでなく、家もご近所だったのである。山川均の『自伝』には「上のほうの姉は十六歳で、私の家とま向かいの林家に嫁入りした」とあり、宇野弘蔵の『「資本論」五十年・上』には、「(山川均は)『新社会』やその他で高等学校時代に読んでいる。もちろんそのときは山川さんをぼくの知っていた山川さんだということは知らなかったんだ。また初めは無名氏というペンネームで書いていて、それを読んで非常に感心したね」「山川さんといったら昔社会主義者で、あのうちは閉門したうちだというだけなんですよ。・・・たとえばぼくのうちなんか山川さんの姉さんのうちとは非常に親しいんだけど、それでも全然話してない。だから無名氏が山川均氏で、山川均氏がぼくの近所の人だという、これには驚いた」(P89-90)とある。

また、宇野弘蔵の結婚については、「(彼女)を山川さんの姉さんの主人、前に話した薬屋をやっている林さんが見て、考えたことなのです。ところがそれを聞いて大原(孫三郎)さんがそれは非常にいい、自分が仲人をしてやろうというわけで、急にそういうことになった」(前掲書P176)とある。大原孫三郎は紡績事業で財を成した中国地方の財閥で、大原社会問題研究所をはじめ様々な社会事業で知られるロバート・オウエン的な実業家だが、山川均とは中学時代からの友人で、山川均が不敬罪で入獄も刑務所に面会に訪れており、出獄して倉敷に帰った山川均は大原孫三郎からブルタニカを借りて読んでいる。

さらに、宇野弘蔵はこうも述べている。「山川さんのうちは倉敷の町でも貴族階級だけれど、ぼくのうちなんか・・中流ですね。・・山川さんの姉さんの嫁いでいた林さんは薬屋さんだったが、やっぱり貴族階級みたいな気がしていたね」。「らっぱ吹いたり旗をふることはどうしてもできん。それが悪いというのではないが、できない。山川さんも、ぼくはそう思うんだけれど、政党政治家になれないのが当然だという感じがするんだ。それは性格的にそうだと思う。・・・だから戦後、大分活動されたが、ぼくにはどうも山川さんのなさるべきことではなかったような気がするんだね」(前掲書P71)と。要は、二人のバックボーンに「中流~貴族階級」である「倉敷もん」の世界があったということなのだろうが、この世界はいわゆる労農派の学者グループにも通じているように思う。

宇野弘蔵は高梁中学時代の友人の西雅雄から『新社会』を教えられ、『新社会』でカウツキーの『資本論解説』を読んで初めてマルクスの名前を知ったという(前掲書p53)。1917年に東大に入学した後に、西雅雄と堺利彦や山川均を訪ねており、堺利彦や山川均からの影響のされ方については、「やっぱり山川さんのものをずいぶん読んでいるからね。堺さんのものはあまりそうたいして読んでいない」(前掲書p91)ということで、堺利彦を訪ねたのは二度だけだということであるが、山川均については「山川さんのところに初めて行ったとき・・夜訪れていったら、とても喜んで、上がれといって。そのとき英訳の『共産党宣言』をもらった。(私が近くの宇野さんの子どもだということは)そういう話をすればすぐ向こうはよく知っているんだ」(前掲書p72)と述べている。

その後も「山川さんなんかの会合」には顔を出していたようで、徳田球一とも同席したりしているが、実践活動には誘われることも参加することもなかったという。山川均の知り合いということで、参加を認められていたといったところだろうか。学生時代の宇野弘蔵は、サンディカリズムの傾向を持ちながら、「社会主義というより『資本論』です。これを知りたいと思っていた」(前掲書p101)と述べている。

山川均に、1919年前後に書かれたと思われる「国家社会主義と労働運動」という論文がある。以下は、その一部である。

「社会主義は多くの人々によって、資本私有制度の撤廃であり、資本公有制度の主張であると解せられている。しかしながら社会主義が、少なくとも現代の労働階級の社会主義が、資本私有の撤廃を主張して居るのは、賃銀制度廃止の方法として、これを主張しているものであることを忘れてはならぬ。社会主義が資本私有の廃止を主張しているのは、その廃止は必然に、賃銀制度の廃止を伴うという前提によるものであって、もし資本私有制度廃止が、同時に賃銀制度の廃止を意味せぬとしたならば、資本私有の廃止と存置とは、もとより社会主義の関知せざるところである。
 マルクスの経済学説によれば、剰余価値の搾取は、労働力が商品として売られることに基因するものである。労働力が商品として売られる問は、労働者は生産行程の支配者ではなく、したがって厳密なる意味での生産者ではなくて、単に原料や機械と均しく、生産費の一項目を構成する《労働と名付ける》商品の売手である。そして労働力が商品たる間は、剰余価値は正当に、詐欺または掠奪のごとき個人的の不正手段によらずして、生産者以外のものの収得に帰するものである。そして賃銀制度は必然に労働力を商品とみなすことを前掲としてのみ、なりたち得るものである。したがって賃銀制度は必然に、剰余価値の生産を意味するものである。そして剰余価値の生産の存続する限りは、労働問題は永久の宿題として存続するに相違ない。
 そこでこの最後の意味における国家社会主義が、労働問題を解決するかどうかという問題は、必ずしも単に国家社会主義の結果が、資本私有制度を撤廃するか否かという《ことによってのみ決定せられるものではなく、》その資本私有制度の撤廃が、賃銀制度の廃止を意味するや否やという一事にかかっている。・・・《賃銀制度の廃止を伴なわぬ国家社会主義は、畢竟、国家資本主義である。労働者はいぜんとしてその商品たる労働力を売って、その剰余価値を引き渡さなければならぬ。労働者はいぜんとして、賃銀という一様のあつもののために、生産物に対する相続の権利を売らなければならぬ。そして剰金価値に対する労働階級の奪還戦は、永久に歌われねばならぬであろう。》」(勁草書房『山川均全集・2』から)と。

「ボルシェヴィズムより前からマルクス主義者」であり、サンディカリズムをもくぐった山川均が、まだボルシェヴィズムの国家社会主義的実態を知らない頃に書いた文章であると思われるが、社会主義を「賃銀制度=労働力の商品化の廃止」として位置付けた画期的な論文であると、私には思われる。

その後の山川均について、宇野弘蔵はこう述べている。
「山川さんでも一時はサンディカリスティックだったのだが、本来はマルキスティックだったのではないか。そしてそれから後にはボルシェヴィズムにはいるというわけでしょう。ボルシェヴィズムにはいれば当然政党運動ということになる。おそらくそこに例の方向転換に行くきっかけがあるのじゃないかな」と。

そしてそれは、前述の「だから戦後、大分活動されたが、ぼくにはどうも山川さんのなさるべきことではなかったような気がするんだね」という感想につながっていると、私には思われるわけである。また、宇野弘蔵の労働力商品論も、山川均からのヒントもあったのではないかとも思うわけだが、どうだろうか・・・。

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2009年11月 1日 (日)

労農派の本流

労農派は、1927年に発刊された雑誌『労農』に拠った堺利彦、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、鈴木茂三郎、黒田寿男、大森義太郎、向坂逸郎らが中心で、1932年来の日本資本主義論争の中で、『日本資本主義発達講座』に拠った講座派に対して労農派と呼ばれるようになった。

また、大森義太郎と向坂逸郎は、1928年から改造社版『マルクス・エンゲルス全集』や『経済学全集』の編集に携わり、1930年からは『改造』に「世界情報」を連載して、その執筆陣には大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、高橋正雄、美濃部亮吉らのいわゆる教授グループを集め、また「日本資本主義論争」には櫛田民蔵も参加している。

1937年に、有沢広巳が宇野弘蔵に招かれて東北帝国大学で講義を行った時に、いっしょに行った大森義太郎と向坂逸郎も学生相手に講演を行い、これが翌年の宇野弘蔵の検挙につなげられるわけだが、宇野弘蔵も大内兵衛も自ら労農派だという意識はなかった。

これは、労農派が共同戦線党の樹立と無産戦線の統一を理念にかかげて、合法無産政党づくりをすすめたことに対して、実践的なかかわりを持たなかったことにあったのではないかと思われるが、そのことは結果的に労農派の純粋性を保つ上ではよかったのではないかと思われる。なぜなら労農派とは、堺利彦に代表される日本の土着型社会主義と、大内兵衛や宇野弘蔵に代表される純粋な資本主義研究とが一体的に表現されたものだからであると私は思う。

Photo_2 上山春平は『日本の思想』において、労農派を日本の土着社会主義だとし、以下のように書いている。

 「労農派と共産党ないし講座派との対立点を検討してみると、労農派が、若干の基本的な点において、共産党や講座派の誤謬を克服する見地を先取しえていたことに気づくのであるが、それは、共産党や講座派が、レーニン主義ないしスターリン主義を権威主義的に信奉する受動的な思想態度を脱しきれないのに対して、労農派が一方において、土着的な民主主義運動の伝統を継承しながら、他方において、マルクス理論の研究を深め、それを指針として、日本の特殊条件に適応した社会主義を主体的に形成しようとする態度を貫いて来たからではないか、と私は考えている。
 今日の知識層の常識に投影された労農派の姿は、多くのばあい、共産党的ないし講座派的なフィルターを通した姿であり、かなりゆがめられたもののように思われる。そのゆがみをなおして、もとの姿を偏見なく検討するならば、そこに、日本土着の社会主義思想の貴重な遺産を見いだすことができるのではあるまいか。・・・ここで私が問題にしたいのは、むしろ思想の態度なのである。たとえば、中江兆民や内村鑑三の思想は、内容の点ではフランス的民主思想やキリスト教思想といった外来思想に他ならないが、彼らの思想態度には、何人も否定しえない強烈な主体的・内発的な姿勢がみとめられる。労農派のマルクス主義摂取の態度にも、中江や内村の態度に通じる内発性ないし土着性がみとめられる、ということを私は指摘したいのである」と。

そして、堺利彦と宇野弘蔵に共通するのも正にこの「内発的ないし主体的な思想態度」であろうかと思うわけである。

例えば、マルクス主義は、いわばヨーロッパの土着思想であるから、三段階論などはヨーロッパには生まれようがない。宇野弘蔵が三段階論を生み出さざるを得なかったのは、ヨーロッパ生まれの思想で日本を分析するためだったからであり、宇野弘蔵のそこが、輸入ものの思想をすぐに吹聴したり、外の権威に盲従したりした非主体的な態度とちがうわけである。

労農派のめざす共同戦線党づくりは無産大衆党に始まり、全国労農大衆党と社会民衆党との合同、7党合同による社会大衆党となるすが、社会大衆党は右派が中心で、満州事変から2・26事件、そして戦争へという時代の中で、合法無産政党は右派が中心のまま、戦後はみんなまとまって日本社会党に結集した。

そして戦後、山川均は右派を批判して山川新党、社会主義協会をつくり、これが左派社会党となって右派社会党と論争し、山川均なき後の社会主義協会は向坂逸郎が中心になって、やがてこれが労農派の流れと見られるようになるわけだが、「山川均~向坂逸郎」という狭義の労農派の前に、「堺利彦~山川均」といういわゆる労農派があり、さらに、ロシア革命以降のコミンテルン派社会主義の前に、日本の土着型社会主義が生まれ、広義の労農派はここに始まると私は思うわけである。

だとすれば、私は、宇野弘蔵は労農派の異端と言うよりも、内発性と主体性をもった日本の土着型社会主義の本流だと私は思うし、その後、向坂逸郎の社会主義協会が、当初の労農派が批判した宗派的なグループになり、宇野弘蔵の純粋資本主義論がイデオロギー批判の原理になったことを思えば、ますます宇野弘蔵こそ労農派の本流だと私は思うわけである。

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日本社会運動の人々

堺利彦の「日本社会運動の人々」には、最初は「友愛会」で鈴木文治、賀川豊彦、麻生久らが紹介され、2番目には「他の労働運動の人々」で信友会と正進会の二つの活版工組合、そして3番目には前述した「大原研究所の人々」で、以下、『我等』の長谷川如是閑ら、新人会や建設者同盟といった「学生団体の人々」、大川周明らの猶存社や北一輝、馬場孤蝶や有島武郎や武者小路実篤といった「文学界の人々」、与謝野晶子や平塚明や山川菊枝らの婦人連、川上肇や福田徳三や権田保之助といった学者連、注目の新人は加藤勘十、最後に「社会主義同盟の人々」として「 山川均、大杉栄、荒畑勝三、山崎今朝弥の諸氏はただ姓名だけに止めておく。新帰朝の石川三四郎氏も右同断。片山潜氏は海外にいるので別問題としておく。安部磯雄氏がやや新活動の気勢を示しているのはうれしい」とある。

1921年(大正10)は、山川均が『前衛』を創刊し、関西では賀川豊彦が指導して神戸の川崎・三菱造船所で大争議が起きた年である。その前年の1920年(大正9年)に、堺利彦は「社会主義同盟」を組織しているから、さらに大正デモクラシーの時代にようやく各方面に育ちはじめた運動をまとめて社会主義政党づくりをめざして、その範囲を「日本社会運動の人々」にまで構想していたのではないかと思われる。これは極めて今日的発想ですらある。

1922年(大正11)に、山川均の『無産階級運動の方向転換』が発表され、堺利彦らは日本共産党創設(第一次)に参加するが、組織論的には後のボルシェヴィキ型共産党的な党でなくて、後に労農派がかかげた共同戦線党的なものであった。ロシア革命が起こった当初、日本の社会主義者は「社会主義革命が起こったこと」に対して誰もが期待したが、その日本への波及がやがて「コミンテルンによる指導の絶対性」となって現れた時に、ボルシェヴィキ型コミュニズムへの違和感からか、堺利彦は日本共産党(第一次)を解党し、山川均ともども以後の共産党に参加することはなかった。

第二次共産党をリードしたのは、ヨーロッパ留学でマルクス主義の新知識をしこたま仕入れて帰国した福本和夫であった。1925年に福本和夫は『「方向転換」はいかなる諸過程をとるか』を書いて、日本資本主義が急激な没落過程にあるとの認識から、山川均の無産階級運動の方向転換』を批判してはなばなしくデビューし、福本イズムで一世を風靡し、若いインテリたちは最新の輸入思想に熱狂して「結合の前の分離」という宗派主義、分裂主義的傾向に走った。

福本和夫は、コミンテルンの「27年テーゼ」で批判されて失脚するが、以後の共産党はコミンテルンの絶対的な指導を受け入れて、唯一の前衛党である共産党の指導による階級闘争という左翼主義路線で、その路線をとらない社会民主主義派への批判と運動への介入をつづることになる。戦後になると、ソ連や共産党を批判して新左翼が登場するが、「前衛党の指導による階級闘争という左翼主義路線」は新左翼も同じで、これらはソ連の崩壊までつづく。

さて、前述したように、宇野弘蔵はドイツ留学から帰国する船で福本和夫といっしょになったわけだが、船上で二人の間に会話があったとすれば、おそらく福本和夫がルカーチやカール・コルシュから仕入れた最新の知識をさかんに吹聴したのに対して、宇野弘蔵はフンフンとそれを聞いていただけなのではないかと私は思う。

1924年(大正13)にドイツ留学から帰国した宇野弘蔵は、東北帝国大学に助教授の職を得て、1938年(昭和13)にいわゆる労農派教授グループ事件に連座して検挙され、出獄後に退職するまでそこで研究生活を送る。中央では1927年(昭和2年)に、山川均、堺利彦らによって雑誌『労農』が創刊され、1932年来『日本資本主義発達講座』に拠った講座派との間で日本資本主義論争が起こるのだが、仙台からそれを見ながら、宇野弘蔵は1935年に「資本主義の成立と農村分解の過程」を書いて、ささやかにデビューしたのであった。

1925年に成立した普通選挙法以来、社会主義運動は無産政党づくりと、対立と分裂による離散集合がつづいた。晩年の堺利彦もその中で、1928年(昭和3)に無産大衆党の組織に参加、1929年(昭和4年)には日本大衆党より東京市会議員選挙に立候補して当選、1930(昭和5)には衆議院の総選挙に東京無産党より立候補して落選、1931年(昭和6)には全国労農大衆党結成され顧問となるなど、全国を飛び回る活動をつづけたが、1931年12月に脳溢血再発、1933年(昭和9)1月22日に63歳で永眠した。

1919年(大正8)に堺利彦は「政治運動、社会運動、労働運動」という文章を書いて、その中の「進歩主義の思想的大同団体」という章に、以下のように書いている。
「わたしはまた普通選挙運動と労働党との外に、労働運動と社会運動と政治運動とを結合させる予備団体(あるいは予備運動)の発生すべき可能を認めている。・・・黎明会なるものが創立された時、一般進歩主義者の間に多大の人気を呼び起こしたが、その人気はすなわちばく然たる半無意識の社会的要求であった。・・・そこで黎明会に失望した社会的要求は今やさらに同性質の、そしていっそう態度の鮮明な、いっそう範囲の広い、いっそう活動的な思想団体の発生を迫り出そうとしている。わたしは確かにその機運がそこここに動き漂うていると思う」と。

堺利彦が思い描いていた共同戦線、社会主義とは、単なる無産政党の合同ではなかった。「進歩主義の思想的大同団体」と「多様な社会運動」を礎にしたものだと思われる。そして、これも極めて今日的発想である。

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堺利彦と宇野弘蔵

前回書いたように、『「資本論」五十年』によれば、宇野弘蔵の社会主義入門は、中学から高校にかわる頃に大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文を読んでからということで、『「資本論」五十年』には、堺利彦が書いた序文に載っていたという「社会主義鳥瞰図」が転載されている。

Photo この間、『堺利彦全集』(法律文化社刊)を読んでいたら、1914年に書かれた「大杉君と僕」という文章に、『「資本論」五十年』に載っているのと同じ図が載っていて、宇野弘蔵は1897年の生まれだから1914年は宇野弘蔵が「中学から高校にかわる頃」だから、まさに宇野弘蔵はこれを読んで社会主義入門をしたのであろうと思われる。

「大杉君と僕」には、以下のように社会主義が解説されている。
「日本の社会主義運動に三派の別が生じていた。今でもボンヤリその形が残っている。
 一、温和派(あるいは修正派)
 一、マルクス派は(あるいは正純派)
 一、直接行動派(あるいは無政府的社会主義)
 これを人について言えば、安部磯雄君は右翼に属し、幸徳秋水君は左翼に属し、僕自身は中間派に属していた。そのうち、幸徳君は殺されたが、安部君と僕とはほぼ昔のままの立場で続いている。そして今日、幸徳君の立場を継承している者は、すなわち大杉栄君である。・・・
 すべて主義態度の範囲はそう明瞭に区分することのできるものではない。実際運動に当たっては、種々の便宜上、どこかに一線を画して、党派団体の区分をつけるけれど、理論の上から見る時には、あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。この関係をやや明瞭に示すため、左に一つの表を作ってみる」という具合である。

1914年(大正3)というのは、大逆事件の後、堺利彦は売文社を立ち上げてしのぎをしながら、やっと『へちまの花』を創刊した年である。『へちまの花』は、翌年に『新社会』と改題され、『「資本論」五十年』によれば、宇野弘蔵はこれを読むわけであるが、その内容は、堺利彦の『日本社会主義運動小史』(昭和3年)には、以下のようにある。

「大正5年1月、山川均君が五年間の沈黙を破って、郷里岡山から上京した。そして売文社に入って『新社会』に執筆した。・・・(『新社会』の) 内容の目次には、社会主義の四派(高畠)、唯物史観解説(堺)、マルクス経済論(高畠)、歴史を見る目(山川)、剰余価値(高畠)、農業問題の真相(山川)、社会主義と個人主義(高畠、堺)、マルサス人口論の価値(高畠)、・・・ 大正6年2月、カウツキー著高畠訳の『資本論解説』が「新社会」に載りはじめた。・・・ 大正8年5月、雑誌『新社会』は新たにマルクス主義を「旗印」として出現した。・・・そしてこの日本に「マルクス大流行の現象」をきたし、「社会主義の研究」が「一種の流行」になった。資本論の翻訳が三種も着手された。カウツキーの『資本論解説』((高畠訳)が「大歓迎を受」けた。マルクス伝』(堺、山川著)も出た」と。
そして、若き宇野弘蔵は、これらを読んだものと思われる。

さて、『へちまの花』であるが、その創刊の「序」に堺利彦は以下のように書いている。

「近来、カフェとかバアとかいうものがにはかに流行するが、しかしそれがみな大なり小なり常連のお客などこしらえて、それぞれ面白げなクラブになっている。わが『へちまの花』もやはりそんな意味で、文界の一小クラブになりたいと望んでいる。別に業々しい主張も抱負もないが、ただ売文社という殺風景な商店にもこれだけの余裕と趣味とのあることを見てほしい」と。

へーっ、大正3年に「カフェとかバアとかいうものがにはかに流行」したとは驚きだが、さらに驚くのは『へちまの花』という書名も含めて、堺利彦の幅の広さと奥行きの深さであり、ユーモアと泰然自若とした生き様である。前記の「社会主義鳥瞰図」の解説には、以下のようにある。

「すべて主義態度の範囲はそう明瞭に区分することのできるものではない。・・・理論の上から見る時には、あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。・・・面白いことは、社会主義の左端なるシンヂカリスト(サンジカリスト)と、その右端のまた一歩右なる労働組合主義の一半とが、その非政治派、非議会派たる点において一致していることである。進歩派と保守派とその両端においてかえって相近づくは注意すべき現象である。また左の表の全体を見渡すと、左端も右端も同じく個人主義で、ここにも思想の環が一周してさらに相近づかんとする形が現われている。実例をもってこの点を考えてみるに、極端なる自由貿易論者や自由競争論者は、政府的の干渉をできうべきだけ排斥し、個人の活動をできうべきだけ拡大せんとする点において、すこぶる無政府的傾向を有している・・・」と。

やがてロシア革命が起こり、日本にボルシェヴィズムが入って来て以降、日本の左翼は「より左であることが正しい」という左翼主義と階級闘争というイデオロギーに呪縛されスタイルになるが、宇野弘蔵が『新社会』から学んだものは、堺利彦流の「ひとつの考え方に呪縛されない思想の構え」みたいなものもあったように私には思えるのだが。

宇野弘蔵は山川均とは同郷、それこそ家が近かったみたいなことまであって、交流があったが、堺利彦との直接の面識はなかったのではあるまいか。堺利彦が1921年(大正10)に書いた「日本社会運動の人々」という文章には、大原社会問題研究所について以下の記述がある。

「大原社会問題研究所は岡山の紡績成金大原孫三郎氏の道楽事業である。・・・所長は高野岩三郎氏で、その下に森戸辰男、櫛田民蔵の二氏がいる。つまり何の事はない、元帝大教授の避難場所という形である。・・・クロポトキン学者の森戸氏と、マルクス学者の櫛田氏とは、何と言っても大原研究所の誇りである。・・・その外、研究所は多数の若い秀才を善っていると聞く。それがニワトリになるものやら、アヒルになるものやら」と。

まあ、「ニワトリになるものやら、アヒルになるものやら」の中に、宇野弘蔵がいたということであろうか、1921年(大正10)に東京帝国大学を卒業した宇野弘蔵は大原社会問題研究所に入所している。

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