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2009年8月16日 (日)

宇野弘蔵

『恐慌論』を読んで、その内容もさることながら、宇野弘蔵自身にも興味がわいて、『資本論五十年』を読んでみた。宇野弘蔵は社会科学系のビッグネームで、さらに昨今、柄谷行人や佐藤優が「宇野弘蔵は新カント派に影響を受けている」と書いているのを読むと、宇野弘蔵を読んでそれが解るのかと柄谷行人や佐藤優にも感心してしまうのだが、『資本論五十年』を読んでみると、「ぼくには昔、新カント派を少々やっていたことがある」(上巻p366)とあって、なんだそうだったのかと思うのだった。

そうだったのかと思うのは、そこにそう書いてあったからと言うよりも、私は学生の頃に哲学を趣味にしていて、新カント派も少し読んだ。大学に入った頃にエンゲルスの『反デューリング論』を読んで、マルクス主義入門として分かりやすかったのだったが、その自然弁証法のあまりの素朴さ、近代主義的な限界に物足りず、フッサールの現象学や新カント派を読んだ訳である。宇野弘蔵はその後に読んだのだったが、割とすんなり読めたのは、そのせいだったかと思った訳である。

宇野弘蔵の社会主義入門は、中学から高校にかわる頃に大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文を読んでからということで、当初は大杉栄のサンディカリズムの影響を受けたという。しかし若い頃の読書は、石川啄木、土岐哀果、谷崎潤一郎、有島武郎、ドフトエフスキー、西田幾太郎、リッケルト、萩原朔太郎・・・さらに戦中は芭蕉を読んでしのぐ、と多彩である。そして、高校で高橋里美からドイツ語を習うのだが、高橋里美は新カント派の哲学者で、後に東北大学の学長になった人である。

宇野弘蔵は宇野経済学を確立した人だから、若い頃からものすごく優秀であったと思っていたら、第一志望の中学には落ち、東大を出た後は大学に残らずに大原社会問題研究所に就職し、『資本論』を勉強するためのドイツ留学は私費だし、帰国後、東北大学に職を得るが、民戦線事件に連座して逮捕されて大学を辞めるまで、ずーっと助教授のままであったという。

ところが、宇野弘蔵が凡人とちがうのは、大原社会問題研究所に就職したせいかどうか、そこの所長の高野岩三郎のハーフの娘を嫁にもらい、東北大学では論文を書かずにいて教授にならなかったが、そこで経済政策論と原理論をかたちづくる。当時、中央では講座派と労農派による日本資本主義論争などあったわけだが、宇野曰く「資本論研究の天国だった」東北大学にいて、それを克服する論の構築をすすめ、「資本主義の成立と農村分解の過程」を書いたわけである。

宇野弘蔵は、自らを「労農派ではない」としているが、本書では「労農派はだいたい正しいと思っていた」(p355)としている。東北大学での研究生活というのは、中央と距離をおいていただけではなくて、科学とイデオロギー、理論と実践といった見極めをすすめたから、実践問題も含めて、「労農派ではない」としたのではなかろうか。

宇野弘蔵は、ドイツ留学からの帰国船で福本和夫といっしょになる。福本和夫は、後に福本イズム旋風で、堺利彦や山川均らがつくってきた日本の社会主義運動を「総括」してしまい、山川均を運動から追い出してしまうのだが、山川均と宇野弘蔵は同じ「倉敷もん」で、家も近所で、山川均の姉と宇野弘蔵の家は親しかったようである。しかし、大逆事件に連座した社会主義者のことなど郷里では伏せられていたのか、「山川さんのものはずいぶん読んでいる」宇野弘蔵は、やがて東京にでて山川均を訪ね、ご近所であったことが分かって驚いている。

また、向坂逸郎とは大学時代からドイツ留学時もいっしょで、仲はよかったようであるが、宇野弘蔵が『資本論』の研究を目指してあれこれしゃべるのに対して、向坂逸郎はほとんど何も話さずにいて、マルクス・エンゲルスを全部読んでやろうと、ドイツ留学時はひたすら本を買いあさっていたというのが、性格が出ているようで面白い。

宇野弘蔵の経済学は、「含蓄経済学」と言われるという。ふつうマルクス主義者というと、哲学や文学などについては唯物論と社会主義レアリズムだから、そうでないものは「観念論だ」「非合理主義だ」「ブルジョワイデオロギーだ」「プチブル文学だ」ということになって、自らもそれらに親しむことはしないし、マルクス主義のイデオロギー以外は含蓄することもない。

宇野弘蔵がおもしろいのは、若き日にサンディカリズムや新カント派の影響を受けたことのほかに、萩原朔太郎の詩に親しんだりもしている。そして、朔太郎の『月にほえる』などは晩年まで愛蔵しているように、イデオロギーにとらわれないその感性は、ずっと変わらなかったのであろうと思われる。これは、理論的に経済学とイデオロギーを峻別する以前からそうなのであり、そのことが含蓄経済学につながっているのではないかと、私は思うわけである。

宇野弘蔵が東北大学にいた時に、同僚のフランス文学者の河野与一と名士訪問をやって、東北大学の同僚だった阿部次郎、木下杢太郎、小宮豊隆といった文学者を訪ねたりしているが、当時の東北大学には新カント派の高橋里美だけでなく、現象学研究の三宅剛一、ヘーゲル研究の武市健人、それにカール・レーヴィットまでいたのであった。西田幾多郎の講演を聴きに行って、西田と高橋里美が論争を始めたことを面白そうに書いている。

宇野弘蔵は「東北大学にいてよかった」と書いているが、東大でも京大でもない当時の東北大学の環境が、含蓄経済学の宇野経済学を育んだのではなかろうか。それでも宇野弘蔵は、人民戦線事件にからんで治安維持法によって逮捕、投獄されてしまう。しかし、治安維持法による逮捕者としては例外的に無罪を勝ち取る。それには高橋里美らによる熱心な弁護があったというが、これが東大、京大であったらどうだったであろうか。

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閑話休題

本来ここには「脱労働力商品論-その7-」を載せる予定であるのだが、「脱労働力商品論-その6-」をアップした後に、パソコンのハード・ディスクが壊れてしまった。それで、書きかけの「脱労働力商品論-その7-」のデータが消えてしまい、その上、パソコンの復旧に3週間近くもかかってしまって、異常気象の夏のせいもあってか、いささか気力がなえている。

パソコンの復旧に時間がかかってしまったのは、ちょうどDTP仕事の最中であったために、修理するより早かろうとパソコンを新調したのだったが、OSがちがったせいか、新しいパソコンにはそれまで使っていた仕事用のソフトやフォントがインストゥール出来ない。あわててOSの入れ替えをやったのだが、これがなかなか上手くいかない。それで、旧いパソコンの修理に出したり、この際とばかりにソフトのヴァージョンアップもやったりして、まあ、時間も金もかかってしまったわけである。

会社勤めを辞めて10年目になる。会社勤めを辞めた後、これからは自分で仕事して食って行こうと、DTPを覚えて「本づくりSOHOダルマ舎」を立ち上げた。その時にパソコンやソフトやフォントやプリンターやスキャナーといったDTPの仕事環境を買いそろえて、その後もパソコンやソフトやフォントの買い替えもしてきたものの、環境と機材が時代おくれになっていたのが、環境の修復に時間のかかった大きな理由だったかもしれない。ささやかな個人事業であろうと、ちゃんと減価償却して、仕事を回して、仕事環境を更新していかなくてはいけない。

還暦の夏にパソコンと格闘して弱気になると、もうパソコン仕事は止めるかなと思ったりもするが、これを止めるとダルマ舎も閉店となってしまう。しかし、還暦を過ぎても定年のない人生を、と始めたダルマ舎だから、これからが本番でやめるわけにはいかない。パソコンの新調とソフトのヴァージョンアップついでに、10年前に買ったプリンターとスキャナーも買い替えるつもりで、予定外の出費だが、ダルマ舎立ち上げの初心に還ってといった心境になるしかない。

ハード・ディスクのデータは消えてしまっても、ブログやSNSにアップした文章は消えることがない。仕事や旅行の予定があって、「脱労働力商品論-その7-」を書きなおす余裕がないので、これ以降のブログは、この間にSNSに書いたものをリライトするものである。旅行はまた東北旅行だから、そこから帰ったら少しは気力も回復するかもしれない。いやはやの夏である。

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