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2009年7月26日 (日)

脱労働力商品への道-その6-

モリスは、1883年にフランス語版で『資本論』を読んで社会主義者になるのだが、『資本論』を読むと誰もがモリスと同じような理解と構想を持ちえるかと言えば、モリスを読んでからという人はいるかもしれないが、これまでにそんな人はほとんどいなかった。では、モリスの思想を育んだものは何かと問えば、それはやはり当時のイギリス社会と、モリスに先立つ人々の存在であったろう。ラスキンしかりであり、カーライルしかりである。

安川悦子『イギリス労働運動と社会主義』には、以下のようにある。
「若きモリスの思想形成になによりも大きな影響をあたえたのは、イギリス・ロマン主義のもつ芸術観であった。かつて、ドイツからロンドンに渡ったばかりの若いエンゲルスに非常な衝撃をあたえたカーライルが、ほぼその10年あとでオクスフォードに入学したばかりのモリスの心をとらえたのである。カーライルの『過去と現在』(1843)に描かれる非人格的人間関係=「拝金主義」の社会に、エンゲルスもモリスも衝撃をうけたのである。力―ライルとその後継者ラスキンは、モリスが、芸術と社会についての理論、労働の人間形成においてもつ意味などをくみだした責重な思想の泉であった。カーライルがエンゲルスをとおしてマルクスにあたえた衝撃は、マルクスに古典経済学を裏がえしによみとる目であった。それは『経済学・哲学手稿』(1844)での賃労働者の疎外認識となって結実することになる。モリスは、カーライルから現金関係の支配する非人間的「文明社会」への憎しみと、芸術=「労働のよろこび」という二つの視点をかちとるのである。モリスが『資本論(第一巻)』をよんだのは、じつはこの二つの視点からであった。この二つの眼が、『資本論』というるつぼをとおしてでてくるとき、現金関係の支配する現代文明への憎しみは、階級対立と競争の支配する資本主義生産そのものへの憎しみになり、労働の喜びは、あたらしい共産社会の構想となってあらわれる」と。

トマス・カーライルの名前を知ったのは、夏目漱石の『カーライル博物館』からで、漱石はカーライル博物館を4回訪問したと書いている。また、以前、ディケンズの『アメリカ紀行』を読んだ時に、ディケンズがボストンで超絶主義者と交流したとあって、ディケンズは「(超絶主義は)私の友人のカーライル氏から影響を受けている」と書いていたから、カーライルはエマソンを通じて「超絶主義~アメリカン・ルネッサンス」に影響を与えたのだろうと思われたが、エンゲルスを通じてマルクスにまで影響を与えていたとは驚きである。

それで、カーライルを読んでみようと調べてみると、現在、カーライル関係の本はほとんど出ていないし、手に入らない。ネットで調べると、江東区の深川図書館に、戦前に出たカーライル関係が3冊あった。さすが、明治42年に東京市立図書館として開設された深川図書館である。借りてきた3冊のうち、2冊は大正12年、もう1冊は昭和13年に出版されたもので、昭和13年に出た本ではカーライルは既に古典あつかいされていた。カーライルは、昭和に入るともう読まれなくなっていたのである。当時の読者の関心は、マルクス主義に移ってしまったということだろうか。

これは、ラスキンについても同様である。産業主義による環境破壊とブルジョワの俗物性を嫌悪したラスキンは、 ”There is no wealth but Life(生命なくして富はない)” と書いて、古典派経済学に異を唱え、中世の職人仕事に理想を見出し、モリスに大きな影響を与えた。しかし、ラスキンの生きた時代はヴィクトリア期の絶頂にあって、ラスキンには多くの批判もあった中、ラスキンは「手作業に回帰するユートピア的社会改革を企図」して、「聖ジョージ組合」を企画した。

ラスキンの「聖ジョーヂ組合」については、失敗であったとの定評であるが、詳しくふれた書物は少ない。わずかに大熊信行著『社会思想家としてのラスキンとモリス』(論創社 2004)があるが、これも原著は1927年の出版であり、大熊信行がそれを最初に書いたのは1921年の大学の卒業論文としてである。

それによれば、ラスキンは社会批評冊子のような『フォルス・クラヴィゲラ』の刊行と併せて「聖ジョーヂ組合」を企画する。『フォルス・クラヴィゲラ』は、1871年に「大英帝国の職工及び労働者に与ふる書簡」と註して発刊されるのだが、販売形式は謂わば「読者直販」であり、「その印刷は田舎の理想的な印刷所で行われた。ラスキンの理想は幸福なる村落産業の建設にあり、仲買を省き書籍はすべての購読者に定価をもって供給されるべきであり・・・」(P154)、「それは、その出版の全期間における彼の間接直接社会改革に関するすべての思想の雑録集である」(P157)のだった。

「聖ジョーヂ組合(company)」は、1877年に「聖ジョーヂ・ギルド(guild)」と改称、「聖ジョーヂ組合」は設立当初から「聖ジョーヂ資金」を募集して、土地の購入をもくろんでおり、1876年に20エーカーの森林地を手に入れたが、これは資金や運営能力を欠いて失敗した。「聖ジョーヂ組合の、付随的な計画の一つに、家内手工業の復興という産業的実験」もあったようだが、こうしてみると、「聖ジョーヂ組合」はモリスの「ケムルスコット・プレス」や「アート・ワーカーズ・ギルド」に先駆けた試みであったように思える。

ラスキンはこのほかにも、若きトインビーも参加したという道路の修繕とか、貧乏人のための「ラスキン茶店」とかを試みているが、「ラスキン博物館」以外は、ラスキンが自らを「デンマーク・ヒルズのドン・キホーテ」と称したが如く、失敗であったという。しかし、志は高くても、資金力や管理能力や持続力に欠けていたのかもしれないと思うと、ダルマ舎としては「聖ジョージア・ギルド」の失敗を笑えない。私はラスキンに好感をもつのである。

明治・大正期の日本の社会運動家に影響を与えたのは、カーライルやラスキンやモリスの思想であり、賀川豊彦も宮沢賢治も白樺派も、ギルドやスモール・コミュニティづくりを試みた訳であるが、現在では省みられることが少ない。そして、同様な人にエドワード・カーペンターもいるから、カーペンターについても、少しだけ書いておきたい。

モリスが参加した社会民主連盟の機関誌『ジャスティス』の創刊資金を提供したエドワード・カーペンターであったが、稲田敦子『共生思想の先駆的系譜』(木魂社 2000)によれば、「オウエンの問題をすすめて、こうした教育を基盤として人間的な労働の管理と「教育を前提にした経済関係」を提起したのがラスキンであり、この問題をさらに深め内実化しようとしたのがカーペンターであった」(P139)ということである。カーペンターは、煙害公害を告発するとともに、工業と農業を結合させた「産業の村」を構想して、農業と共同生活を実践し、「小規模ながら直接生産の共同体をそれぞれ作り、その中で相互の共同活動を目指そうとしたのである」(P117)とある。

私がカーペンターを知ったのは、石川三四郎の著作からであった。石川三四郎は、大逆事件後の1913年にヨーロッパに渡り、1920年まで亡命生活を送るが、その間にカーペンターを訪ねて、コミュニティ生活を体験している。そして、帰国後は、千歳村に「共学社」を設立して、自らミニ農耕コミュニティを実践した。

カーペンターは、アメリカの詩人ホイットマンに影響を受けている。カーライルがアメリカの超絶主義、アメリカン・ルネッサンスに影響を与え、さらにホイットマンはカーペンターに影響を与え、夏目漱石はカーライルに、石川三四郎はカーペンターに私淑するという関係をみると、ここでもまた、世界はつながり合ってつくられているのだということがよく分かるのである。

※このあたりのことは、2008年5月24日 のブログ「ディケンズ」の次に書こうと思っていたのだったが、その頃、脱労働力商品論を書くためには「労働力商品論」を勉強しなくてはということで、それから1年以上経ってしまった。でも、結局はそれでよかったのである。

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コメント

ご無沙汰です

 9月20日(日)につくば行きになりました。
 都合がつけばおいでください。
 努はOKです。


                   浩

投稿: 平山 浩 | 2009年8月13日 (木) 22時08分

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