« ギルド社会主義から自主生産闘争への道 | トップページ | ニュー・ハーモニー »

2009年7月 4日 (土)

ソローと個人主義

前のブログから早半年以上が過ぎてしまった。お手軽だから、ついついSNSばかりになってしまうのだが、このブログが他のブログにリンクされていたり、そこにコメントがあったりするのを見て、少数でも読んでくれている人がいるのかと思うと、やはり時々はブログも書かねばと思うところである。

そこで、この半年間にSNSに書いたことのリライトになってしまうが、このブログの主旨にそったものをいくつか転載しておきたい。リライトするから、SNSよりもこちらの方がまとまりは良いかもしれない。

今年の年初めの読書は、ソローから始まった。なぜソローかと言うと、この間「コミュニティ論」を考えてきて、労働力商品論から19世紀イギリス社会主義へと読書してきたわけだが、脱労働力商品論、脱労働力商品的行き方のポイントは、ソロー的な個人主義にあるのではという気がするからである。

個人主義というのは、自由主義や民主主義や市場経済とセットになって、資本主義を支える理念であるわけだが、資本主義的な個人主義というのは「個人の財産の不可侵権」みたいな「ブルジョワ個人主義」であって、ソロー流の「絶対的個人主義」とはちがう。民主主義にしても、ソローの言う個人主義によって支えられない限り、多数決による専制に行き着き、政権を取ってしまえば、なんでも出来ることになってしまう。

同様に、個人主義は相互扶助とは相入れないかのようにも思えるが、個人主義のない相互扶助など、ただの集団主義でしかない。要は、コミュニティを支えるのも個人主義が基礎になるということであり、その個人主義を支えるものこそが、脱労働力商品的生き方であって、ソローの『ウォールデン』は、そのリアリズムであると思うわけである。
ソローは『森の生活』に、以下のように書いている。

「私が2年間の経験から学んだことは、もし人間が簡素な生活を営み、自分で栽培した作物だけを食べ、必要以上のものは栽培せず、しかも、その作物をわずかな量の贅沢品や値段の高い物と交換などしなければ、ほんの数ロッド(1ロッドは約25.3平方メートル)の土地だけ耕やせばそれで十分であろう」。

「ウォールデンで生活していた間、私は測量、大工の仕事、それに村のいろいろな日雇いの仕事など、十指に余る仕事をこなしていたわけだが、結局のところ稼いだのは13ドル34セントだった」。

「私には自分なりの好みというものがあり、特に気ままにやっていくことに重きを置いていたし、また苦しくても、なんとかうまく暮せたから、わざわざ私の時間を費ってまでして、豪華なカーペットとか立派な家具、あるいは美味い料理とか、ギリシア式やゴシック式の邸宅を手に入れたいとは思わなかった」。

「私にとって、日雇の仕事がなによりも一番独立心を強くさせることがわかった。なにしろ年に30日か40日だけ働けば暮せるからである。・・・要するに、私が確信していることは、信念と経験から判断すれば、われわれが質素で、賢い生き方さえすれば、この地上で自分一人養ってぃくのは、さして辛いことではなく、楽しいことだという事実である」と。

『ウォールデン』とともにソローのもうひとつの代表作の『市民の反抗』は、「統治することのもっとも少ない政府こそ最良の政府」で書き出されている。それは「小さな政府こそ最良の政府」につながりかねないところでもあるが、トクヴィルの見たアメリカのコミュニティにつながっている。

『中央公論』5月号で、柄谷行人氏と西部邁氏が「恐慌・国家・資本主義」というテーマの対談をやっていて、そこで西部邁氏はアメリカのコミュニティについて、以下のように言っている。

「アメリカ流のアソシエーションの考え方は、ゲマインシャフトというよりゲゼルシャフトに基づいている。つまり、合理的な個人がいて、単なる利害とは異なる、お互いのsympathy(同情)やpity(憐憫の感情)も含めて、お互い意識的に契約、約束事を交わすものとしてアソシエーションができるというものです。そういう意味では、societyの、ある一つの特殊ケースとして考えられている」、「人間には良かれ悪しかれ、本源的に共同体に拘束され尽くされたくないという自由への欲求があって、コミュニティにはまり込んだならば、人間は窒息する。それだからこそ当然、ぼくがいうコミュニティの土台の上にアソシエーションがある」と。

西部邁氏はアメリカ嫌いに見えるが、上記の見方は正論であるように思う。

『市民の反抗』は、「市民的不服従」の精神のバイブルとなり、インドのマハトラ・ガンジーやキング牧師らの非暴力不服従の運動を支えた。そして『ウォールデン』は、ビートジェネレーションに始まる対抗文化運動のバイブルになったが、ビートジェネレーションのキイ・ワードは、ジャック・ケルアック曰くsympathy(共感)である。

ソローの師にエマソンがいて、エマソンもソローも、イギリス人のカーライルやラスキンやモリスと同様に、明治~大正期の日本の知識人には大きな影響を与えた。イギリスに留学してカーライルを学んだ夏目漱石は、日露戦争後に国家主義が強まる中で、「私の個人主義」を講じた。ソローが書いた唯一の文学評論も『トマス・カーライルとその作品』であった。そんで私は、ソロー的生き方をしながら、「私の個人主義」を書きたいと思うところである。農業については、最近、雇用情勢の悪化の中で、農業が見直されているようであるが、企業的営農でなくて、ソロー的農業ができないものかと、あれこれと考えているところである。

|

« ギルド社会主義から自主生産闘争への道 | トップページ | ニュー・ハーモニー »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ソローと個人主義:

« ギルド社会主義から自主生産闘争への道 | トップページ | ニュー・ハーモニー »