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2009年7月19日 (日)

脱労働力商品への道-その3-

次に、「脱労働力商品的働き方」とはどんな働き方なのかを考えてみる。『恐慌論』には、こうある。
「資本家的生産規模の拡大と共にますます大量的に生産される生産手段と生活資料とが過剰となるというのは、かくして単に労働人口に対して過剰であるというのではない。かかる生産手段乃至消費資料が資本として機能する限りにおいて過剰なのである。資本の形態をとらないで、いい換えれば労働者が自ら生産手段を使用して生産をなし、消費資料を自己の生活に使用するというのであれば、なんら過剰となるべきものではない。・・・資本にとってますます多くの資本を投下しながら反って利潤量を減少するということから過剰となったに過ぎない。生産手段にしても同様である。もともと資本の生産過程は生産力の増進に応じて労働日を短縮するという性質をもって発展して来たものではない。・・・資本として過剰となった生産手段も・・・もし労働者が自ら使用するものとして生産されていたとすれば、例えば労働時間の短縮とか、労働の軽減とかのために使用し得るようなものとして生産することも出来たのであって、生産手段としても過剰に生産するということにはならない。さらにまた資本家的には到底実現し得ないような大衆的消費資料の増産にも充て得たのである」と。(P96)

要するに、生産手段も含めて「資本の形態をとらないで、労働者が自ら生産手段を使用して生産をなし、消費資料を自己の生活に使用」するのが「過剰」を生まない方法となるのである。以前にもふれた『中央公論』5月号で、柄谷行人と西部邁が「恐慌・国家・資本主義」というテーマの対談をやっていて、そこで柄谷行人は、「労働力商品を廃棄するとはどういうことか、実はこれは簡単なことで、協同組合にすることです」「協同組合では、自分たち自身が共同所有者、経営者であり、かつ、労働者です。だから、労働力商品は存在しない」と言っているが、これは上記の宇野理論に基づいた発言であろう。

つづけて、柄谷行人は「ぼくがいうのは、資本主義の積極的な揚棄としての協同組合ですね。いまの現実の協同組合とはまた別ですけどね」と言ってはいるが、「現実の協同組合とはまた別の協同組合」について語っているわけではない。現実の協同組合を、いわゆるロッチデール型の消費組合とすれば、それとは別の協同組合というのは生産協同組合であると言いたいのかもしれないが、生産協同組合であると言っただけでは答えにならない。

私は生協を辞めて以来、そのことを考えてきて、このブログもそのために書いているわけだが、これまでの生産協同組合運動がうまくいかないことが多い原因には、その構成員において「脱労働力商品的働き方と生き方」がなしえなかったからではないかと、私は思うわけである。

「脱労働力商品的働き方と生き方」へのヒントは、『恐慌論』にはこうある。
「資本家的には・・労働力の再生産に必要なる以上の生活資料が労働者に与えられるということになれば、労働者は翌日は賃銀労働者として働かなくなるかも知れない。労働者を労働せしめるには一定限度の賃銀によってモの生活を労働者的にしておく外はないというわけである。しかし、これは生産手段が資本としてあり、生活資料が資本の生産物として労働者にとってその賃銀によって買戻されるようになっている、資本家的生産方法を前提としてのことである。これを人間社会一般に通ずることとするわけにはゆかない。労働者が自ら生産手段を使用するという方法は、資本主義のような社会的生産方法の発展した後においては、いわゆる社会主義としてより外にはないと考えられるのであるが、その場合にも、労働者は賃銀労働者としてのように、生活資料の余裕が与えられると労働しなくなるであろうというのは、資本家的社会関係を絶対化するものといってよい。・・・」と。(P96-97)

現代日本における倒産自主生産企業の互助組織である「自主生産ネットワーク」に参加する自主生産企業を見ていると、どこも誰も少ない稼ぎと収入でしのいでいる。とりあえず食わなくては、生活をしなくてはというところは労働者的であるが、たとえ低収入で貧乏ではあっても、それはワーキング・プアとは正反対の働き方である。『恐慌論』には、「労働者が自ら生産手段を使用するという方法は、資本主義のような社会的生産方法の発展した後においては、いわゆる社会主義としてより外にはないと考えられる」とあるが、それは「資本主義のような社会的生産方法の発展した最中において、脱労働力商品的働き方のコミュニティ」として、現実的に在りうるわけである。

倒産自主生産企業というのは、倒産した会社を労働組合が中心になって自主再建したものである。では、そういうプロセスを経る以外に自主生産企業は創れないのかというと、そうではなく、それは個人をベースにした脱労働力的働き方をとおして可能なわけで、私が10年前に会社勤めを辞めて、やろうとしてきたのもそうしたことである。そしてそれは、かつて労働力の商品化が共同体の解体と一体ですすんだのとは逆に、新しいコミュニティの形成と共にすすむのである。

そして、それはいかなるコミュニティかと言うと、このヒントは、『恐慌論』にはこうある。
「一定量の剰余価値を生産している間だけ労働者はその労働力を商品として販売し得るのである。労働力は、一般の商品よりも徹底的に、その所有者にとっては使用価値として役立たない商品であり、またそれだからこそ商品ともなったのであるが、販売し得なければそのまま使用し得ないだけでなく、その使用価値をも失うのである。労働者は常に自ら買戻すべき商品を、他の生産手段と共に一定の利潤をもって生産することなくしては、自ら生産した商品をも消費し得ない」。
「それは人間か自然に働きかけて生活資料乃至生産手段を獲得するという一般的な基本的な経済過程を特殊な形式によって、資本に対して剰余価値を生産するという制限をもってなすものに外ならない」。
「資本家的生産では本来の人間対自然の関係がこの資本の形式の内に包摂せられるために、労働者は自ら生産したものをも直接には消費し得ないのである。次の再生産過程で剰余価値を生産することを予定されなければ、過去生産の一部分を自己のものにすることも出未ない。労動力は商品化されてはいるが、一般商品と同様に特定の使用価値を有すものとして交換されるものではない。商品としての資本の過剰と労働人口の過剰とが同時にあらわれるというのもかかる関係を基礎とするのである」と。

要するに、労働力商品とは、「資本に対して剰余価値を生産する」ために資本家によって買われ、「一定量の剰余価値を生産している間だけ労働者はその労働力を商品として販売し得る」のであり、「販売し得なければそのまま使用し得ないだけでなく、その使用価値をも失うのである」。だから、脱労働力商品への道とは、労働力における使用価値の獲得であり、その使用価値を生かす場としての新しいコミュニティの形成となるわけである。

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