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2009年7月26日 (日)

脱労働力商品への道-その6-

モリスは、1883年にフランス語版で『資本論』を読んで社会主義者になるのだが、『資本論』を読むと誰もがモリスと同じような理解と構想を持ちえるかと言えば、モリスを読んでからという人はいるかもしれないが、これまでにそんな人はほとんどいなかった。では、モリスの思想を育んだものは何かと問えば、それはやはり当時のイギリス社会と、モリスに先立つ人々の存在であったろう。ラスキンしかりであり、カーライルしかりである。

安川悦子『イギリス労働運動と社会主義』には、以下のようにある。
「若きモリスの思想形成になによりも大きな影響をあたえたのは、イギリス・ロマン主義のもつ芸術観であった。かつて、ドイツからロンドンに渡ったばかりの若いエンゲルスに非常な衝撃をあたえたカーライルが、ほぼその10年あとでオクスフォードに入学したばかりのモリスの心をとらえたのである。カーライルの『過去と現在』(1843)に描かれる非人格的人間関係=「拝金主義」の社会に、エンゲルスもモリスも衝撃をうけたのである。力―ライルとその後継者ラスキンは、モリスが、芸術と社会についての理論、労働の人間形成においてもつ意味などをくみだした責重な思想の泉であった。カーライルがエンゲルスをとおしてマルクスにあたえた衝撃は、マルクスに古典経済学を裏がえしによみとる目であった。それは『経済学・哲学手稿』(1844)での賃労働者の疎外認識となって結実することになる。モリスは、カーライルから現金関係の支配する非人間的「文明社会」への憎しみと、芸術=「労働のよろこび」という二つの視点をかちとるのである。モリスが『資本論(第一巻)』をよんだのは、じつはこの二つの視点からであった。この二つの眼が、『資本論』というるつぼをとおしてでてくるとき、現金関係の支配する現代文明への憎しみは、階級対立と競争の支配する資本主義生産そのものへの憎しみになり、労働の喜びは、あたらしい共産社会の構想となってあらわれる」と。

トマス・カーライルの名前を知ったのは、夏目漱石の『カーライル博物館』からで、漱石はカーライル博物館を4回訪問したと書いている。また、以前、ディケンズの『アメリカ紀行』を読んだ時に、ディケンズがボストンで超絶主義者と交流したとあって、ディケンズは「(超絶主義は)私の友人のカーライル氏から影響を受けている」と書いていたから、カーライルはエマソンを通じて「超絶主義~アメリカン・ルネッサンス」に影響を与えたのだろうと思われたが、エンゲルスを通じてマルクスにまで影響を与えていたとは驚きである。

それで、カーライルを読んでみようと調べてみると、現在、カーライル関係の本はほとんど出ていないし、手に入らない。ネットで調べると、江東区の深川図書館に、戦前に出たカーライル関係が3冊あった。さすが、明治42年に東京市立図書館として開設された深川図書館である。借りてきた3冊のうち、2冊は大正12年、もう1冊は昭和13年に出版されたもので、昭和13年に出た本ではカーライルは既に古典あつかいされていた。カーライルは、昭和に入るともう読まれなくなっていたのである。当時の読者の関心は、マルクス主義に移ってしまったということだろうか。

これは、ラスキンについても同様である。産業主義による環境破壊とブルジョワの俗物性を嫌悪したラスキンは、 ”There is no wealth but Life(生命なくして富はない)” と書いて、古典派経済学に異を唱え、中世の職人仕事に理想を見出し、モリスに大きな影響を与えた。しかし、ラスキンの生きた時代はヴィクトリア期の絶頂にあって、ラスキンには多くの批判もあった中、ラスキンは「手作業に回帰するユートピア的社会改革を企図」して、「聖ジョージ組合」を企画した。

ラスキンの「聖ジョーヂ組合」については、失敗であったとの定評であるが、詳しくふれた書物は少ない。わずかに大熊信行著『社会思想家としてのラスキンとモリス』(論創社 2004)があるが、これも原著は1927年の出版であり、大熊信行がそれを最初に書いたのは1921年の大学の卒業論文としてである。

それによれば、ラスキンは社会批評冊子のような『フォルス・クラヴィゲラ』の刊行と併せて「聖ジョーヂ組合」を企画する。『フォルス・クラヴィゲラ』は、1871年に「大英帝国の職工及び労働者に与ふる書簡」と註して発刊されるのだが、販売形式は謂わば「読者直販」であり、「その印刷は田舎の理想的な印刷所で行われた。ラスキンの理想は幸福なる村落産業の建設にあり、仲買を省き書籍はすべての購読者に定価をもって供給されるべきであり・・・」(P154)、「それは、その出版の全期間における彼の間接直接社会改革に関するすべての思想の雑録集である」(P157)のだった。

「聖ジョーヂ組合(company)」は、1877年に「聖ジョーヂ・ギルド(guild)」と改称、「聖ジョーヂ組合」は設立当初から「聖ジョーヂ資金」を募集して、土地の購入をもくろんでおり、1876年に20エーカーの森林地を手に入れたが、これは資金や運営能力を欠いて失敗した。「聖ジョーヂ組合の、付随的な計画の一つに、家内手工業の復興という産業的実験」もあったようだが、こうしてみると、「聖ジョーヂ組合」はモリスの「ケムルスコット・プレス」や「アート・ワーカーズ・ギルド」に先駆けた試みであったように思える。

ラスキンはこのほかにも、若きトインビーも参加したという道路の修繕とか、貧乏人のための「ラスキン茶店」とかを試みているが、「ラスキン博物館」以外は、ラスキンが自らを「デンマーク・ヒルズのドン・キホーテ」と称したが如く、失敗であったという。しかし、志は高くても、資金力や管理能力や持続力に欠けていたのかもしれないと思うと、ダルマ舎としては「聖ジョージア・ギルド」の失敗を笑えない。私はラスキンに好感をもつのである。

明治・大正期の日本の社会運動家に影響を与えたのは、カーライルやラスキンやモリスの思想であり、賀川豊彦も宮沢賢治も白樺派も、ギルドやスモール・コミュニティづくりを試みた訳であるが、現在では省みられることが少ない。そして、同様な人にエドワード・カーペンターもいるから、カーペンターについても、少しだけ書いておきたい。

モリスが参加した社会民主連盟の機関誌『ジャスティス』の創刊資金を提供したエドワード・カーペンターであったが、稲田敦子『共生思想の先駆的系譜』(木魂社 2000)によれば、「オウエンの問題をすすめて、こうした教育を基盤として人間的な労働の管理と「教育を前提にした経済関係」を提起したのがラスキンであり、この問題をさらに深め内実化しようとしたのがカーペンターであった」(P139)ということである。カーペンターは、煙害公害を告発するとともに、工業と農業を結合させた「産業の村」を構想して、農業と共同生活を実践し、「小規模ながら直接生産の共同体をそれぞれ作り、その中で相互の共同活動を目指そうとしたのである」(P117)とある。

私がカーペンターを知ったのは、石川三四郎の著作からであった。石川三四郎は、大逆事件後の1913年にヨーロッパに渡り、1920年まで亡命生活を送るが、その間にカーペンターを訪ねて、コミュニティ生活を体験している。そして、帰国後は、千歳村に「共学社」を設立して、自らミニ農耕コミュニティを実践した。

カーペンターは、アメリカの詩人ホイットマンに影響を受けている。カーライルがアメリカの超絶主義、アメリカン・ルネッサンスに影響を与え、さらにホイットマンはカーペンターに影響を与え、夏目漱石はカーライルに、石川三四郎はカーペンターに私淑するという関係をみると、ここでもまた、世界はつながり合ってつくられているのだということがよく分かるのである。

※このあたりのことは、2008年5月24日 のブログ「ディケンズ」の次に書こうと思っていたのだったが、その頃、脱労働力商品論を書くためには「労働力商品論」を勉強しなくてはということで、それから1年以上経ってしまった。でも、結局はそれでよかったのである。

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脱労働力商品への道-その5-

1881年にマルクス主義を奉じたハイドマンが中心になって社会民主連盟がつくられ、ウィリアム・モリスはベルフォアド・バックスの紹介で、1883年にこれに参加するが、1888年にモリスはハイドマンと決別して、社会主義同盟をつくる。そして、その原因はどこにあったのかというと、安川悦子『イギリス労働運動と社会主義』(御茶ノ水書房 1982)によれば、以下のとおりである。

「モリスが主観的に、「労働の喜び」を歴史発展の原動力=労働者の革命的意志形成の中味にしようとしたのにたいして、ハインドマンは、資本主義生産の客観法則のなかでうみだされる労働者の窮乏化と、生産と交換の矛盾が歴史を動かす原動力と考えた。したがってこの矛盾を打破する最上の方策は、生産の社会化に対応する「交換の社会化」つまりは、「生産と交換の国家機構の達成」であった。具体的には、労働力の国家管理土地、鉄道の国有化、船舶運輸業の国有化、銀行信用機関の国有化、事業や生産業への重い累進課税という提案となってあらわれる。これがハインドマンの社会民主連盟の綱領であった・・・モリスやバックスやエリナ・マルクス夫妻が、ハインドマンと決裂した原因は、ハインドマンの独裁的性格は別として、ここにのべたことにあった。基本的には労働者ぬきで、啓蒙された支配階級による議会をつうじての漸進的な社会主義の実現というハインドマンの道は、かれらにはうけいれがたかったのである」と。(P256-257)

自由主義の段階を終えたイギリスの資本主義は、やがては帝国主義へとつながる金融資本主義の段階に入るわけだが、ポスト自由主義の時代というのは、国家主義的傾向の強くなる時代でもある。労働運動もポスト・トレードユニオニズムのサンジカリスムや労働者政党づくりが起こり、やがて労働運動はサンジカリズムよりも労働者政党と選挙を通じて議会、国政で多数派になることによる要求の実現という傾向をおびる。これは、後発資本主義国のドイツでも日本でも同様で、さらに自由主義と市民社会の成熟の乏しい後発資本主義国では、マルクスの教条主義的な解釈による革命運動が広がるわけである。

さて、ハイドマンと決別したモリスは、バックスやエリナ・マルクス夫妻と1888年に社会主義同盟をつくるも、1890年にその機関を奪った無政府主義者と決別して、ハマミス社会主義者協会を設立する。しかし、その後もモリスは社会主義同盟の機関誌「コモンウィール」に『ユートピアだより』を連載する。そして、そこに描かれた世界こそ、モリスの解釈したマルクスの世界であり、脱労働力商品への道なのである。

例えば、『恐慌論』に「資本家的には、一定の社会として歴史的に決定されている労働力の再生産に必要なる以上の生活資料が労働者に与えられるということになれば、労働者は翌日は賃銀労働者として働かなくなるかも知れない。労働者を労働せしめるには一定限度の賃銀によってモの生活を労働者的にしておく外はないというわけである。しかし、これは・・・資本家的生産方法を前提としてのことである。これを人間社会一般に通ずることとするわけにはゆかない。・・・労働者は賃銀労働者としてのように、生活資料の余裕が与えられると労働しなくなるであろうというのは、資本家的社会関係を絶対化するものといってよい。・・・」(P96-97)とある部分について、『ユートピアだより』のなかで「わたし」とハモンド老人のやりとりは、以下のとおりである。

「労働の報酬が現実にない場合に、あなた方はどういうふうにして人々を働かせられるのか、ことにどうしてその人々を勤勉に働かせらえるのか?」
「労働の報酬がないって?」ハモンドはきびしい顔でいった。「労働の報酬は生きることそのものです。それでは足りませんか」
「しかし、とくに良い仕事にも報酬なしですか」と私はいった。
「報酬はたっぷりありますよ」と彼はいった。「つまり創造という報酬がです。神の得たもう賃銀━昔の人ならそぅいったかもしれません。創造の喜び━それはつまり優秀な仕事ができたという意味なのですが・・」(第15章)と。

また、『恐慌論』に「労働力は、一般の商品よりも徹底的に、その所有者にとっては使用価値として役立たない商品であり、またそれだからこそ商品ともなったのであるが、販売し得なければそのまま使用し得ないだけでなく、その使用価値をも失うのである。労働者は常に自ら買戻すべき商品を、他の生産手段と共に一定の利潤をもって生産することなくしては、自ら生産した商品をも消費し得ない。・・・資本家的生産では本来の人間対自然の関係がこの資本の形式の内に包摂せられるために、労働者は自ら生産したものをも直接には消費し得ないのである。次の再生産過程で剰余価値を生産するとどを予定されなければ、過去生産の一部分を自己のものにすることも出未ない。労動力は商品化されてはいるが、一般商品と同様に特定の使用価値を有すものとして交換されるものではない。商品としての資本の過剰と労働人口の過剰とが同時にあらわれるというのもかかる関係を基礎とするのである」(P102)とある部分については、以下のとおりである。

「はっきりしているのは、前の文明時代において、人々は商品の生産の問題では一種の悪循環におちいっていたということです。・・・この世界市場は、いったん勣きはじめると、人々を強制して、ますます多くこれらの商品を、その必要と否とにかかわらず、生産させつづけました。そこで〔当然〕かれらは真の必需品を生産する労苦から目分自身を解放しえなかったのに、かれらはいんちきな人為的な必需品をとめどなくつくりだしたのです。それらは、前に申しあげた世界市場の鉄則のもと、生活を支える真の必需品と等しい重要さをもつようになりました。・・・かれらがこの不必要な生産という恐るべき重荷を負ってよろめき歩いていくことを余儀なくされてしまったので、人々は労働とその成果を、ある一つの角度から以外には見ることが不可能になってしまいました。すなわち、どんなものをつくるばあいでも、それに費やす労働量はできるだけ最小限しか使わぬように、しかも同時に、つくる品物はできるだけ多くつくるように、不断に努力すること、これです。このいわゆる『生産費の低減』のためにはあらゆるものが犠牲にされました」。
「われわれがつくる品物は必要だからつくられるのです。人々は、あたかも自分自身のためにつくっているかのように、隣人たちに使ってもらうためにつくります。まったくなんの知識もない、コソトロールのできない、漠然たる市場のためにつくるのではありません。売買というものはいっさいありませんので、なにか求められることを見越して品物をつくるなどということは気違い沙汰にすぎますまい。強いてそれを買わせることのできる人間などは、もはやいないからです。ですから、つくられるものはすべて良く、そしてどこまでもその目的にかなっているのです。純粋な使用のため以外には、なにものもつくられることはありえません」(第15章)と。

ここには、オウエンの時代の資本主義への対案であった「自足的農業コロニーづくり」を超える分析と対案がある。それは、『ユートピアだより』はベラミーの『かえりみれば』のリアクションとして書かれたという経緯にあるように、モリスは明確に生産力主義、管理主義的な社会主義に対する「NO!」の世界を描いているのであり、その要諦は、人々が無価値な労働力商品であることを止めた世界を描くことにあったのだと、私は思うわけである。

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2009年7月20日 (月)

脱労働力商品への道-その4-

ということで、次は「新しいコミュニティ」とはどういうものか、という話になる。前にふれたように、柄谷行人氏は「労働力商品を廃棄するとはどういうことか、実はこれは簡単なことで、協同組合にすることです。・・・ぼくがいうのは、資本主義の積極的な揚棄としての協同組合ですね。いまの現実の協同組合とはまた別ですけどね」と言っているわけだが、私的には、それはいわゆる協同組合というよりは、「脱労働力商品的働き方と生き方と一体になったコミュニティ」ということになる。協同組合的に言えば、「ポスト・ロッチデール型の協同組合」とでもなるだろうか。

ロッチデールの協同組合を生んだイギリスをモデルに協同組合史的にみれば、協同組合は産業革命の進展とともに発生した。中川雄一郎『イギリス協同組合思想研究』(日本経済評論社 1984)によれば、イギリス協同組合運動は1760年以来、3つの時代区分をもつということで、その第一は「1760年に設立された・・船大工による協同製粉所からの・・初期あるいは原生的と称される協同組合運動」であり、第二は「(オウエンの)いわゆる協同組合共同体の建設を目的にした協同組合運動」であり、第三は「最初の近代的協同組合といわれるロッチデール公正先駆者組合の出現とその後の発展である」というふうになる。

そして、この第二と第三の時期というのは、『恐慌論』に「1819年の戦後恐慌を最後として、イギリスはいわゆる景気循環の過程を周期的に繰り返すという典型的な形で示すことになるのである」(P27)、「17、18世紀西欧諸国に発生し、イギリスにおける発展によって始めて歴史的に一時代をなして来た資本主義は、産業革命を経て19世紀20年代に至って漸くその基礎を確立すると共に、資本主義に特有なる発展過程を示すことになったのである。一方に労働力の商品化、他方に生産手段の固定資本化の増進か実現されるということは決して偶然的なることではない」(P126)とあるように、まさにイギリスにおいて純粋資本主義が確立し、ヴィクトリア期の大繁栄を迎えた時期だったのであり、ロッチデールの成功というのも、その中での成功なのであった。要は、協同組合の成功も、労働力の商品化を前提にしていたわけである。

28名の設立者の半数がオウエン主義者であったロッチデールの先駆者たちは、1844年にロッチデール公正先駆者組合を創って、その目的を「食料品、衣類等を売る店舗を設置する」こと以外に次のように宣言した。
「多数の住宅を建設または購入し・・・組合員の住居にあてる」、「失職した組合員に職を与えるため、物品の生産を始める」、「組合は若干の土地を購入し、矢職した組合員にこれを耕作させる」、「実現が可能になりしだい、本組合は生産、分配、教育および政治のカを備える。・・・自給自足の国内植民地を建設し、同様の植民地を創らんとする他の諸組合を援助する」、「禁酒ホテルを開く」と。

これを読むと、当初の先駆者たちの大きな目的に「失職した組合員に職を与えるための国内植民地(コミュニティ)の建設」があったことがわかる。しかし、やがて「利用割戻し」や「出資配当」といった功利主義的な運営によって、成功への道を歩み始めるのと併せて、併設した生産協同組合を閉鎖し、協同社会建設の目的を放棄したのである。D.H.コールの『イギリス労働運動史』(岩波書店)には以下のようにある。
「オーウェンの理念はなお或る程度人々の胸に懐かれていて、“協同主義共和国”は協同組合主義者の口に言葉として残っていた。しかしただ商業をするだけになってしまったこの運動の方法は、あまりによく節約と自助を説くヴィクトリア時代の支配的哲学に適合していたので、そのためそれ以前の一切のものが一掃されてしまった」(『イギリス労働運動史Ⅱ』(P41)と。

私は現役の生協職員であった頃は、この辺りのことばかりを考えていた。だから、このあたりを書き出すと長くなるから、ここではこれ以上書かない。ただ、森戸辰男が昭和13年に出した『オウエン モリス』(岩波書店)には、以下のように書かれていて、私がそんなことを考える半世紀以上も前に、すでにここまで見えていたということで、以下を載せておく。

「英国の資本主義は19世紀の間に3段階の発展をとげたといはれている。第2期は自由主義の姿における英国資本主義の全盛時代であって・・・しかしこの自由主義的資本主義の繁栄は、すでに70年代の後半頃から段々と破綻の兆候を示し・・・かつてオウエンの指導の下に全国大労働組合として支配階級に強い衝撃を与えた労働組合運動は・・・資本主義下における労働条件の維持改善を目的とする協調的組合となり、オウエン的千年王国の控室と考えられた協同組合は、ロッチデール先駆者組合の新たなる発足によって、資本主義下における協調的小売組合としての消費組合に転化した」(『オウエン モリス』P160-162)と。

ここでは既にロッチデールの本質が喝破されている。「労働組合運動は・・・資本主義下における労働条件の維持改善を目的とする協調的組合となり」ということは、労働力の商品化が完成して、労働運動、とりわけ労働組合運動は、労働力の商品化を前提とした運動として完成したということでもある。そして、同時に労働者は労働力の再生産のために自らが生産した生活資料を買い取る消費者になり、協同組合運動はロッチデール型の消費組合として「成功」したわけである。だから、資本主義のパラダイム内にある協同組合運動と労働組合運動は、オウエン流の「協同社会の建設」や生産協同組合について、否定的になるわけである。

森戸辰男は、オウエン主義の要諦を次のように書いている。
「オウエンの社会思想は、第一に、協同主義と呼ばれて、共存共労の自足的小協同団体を基礎形態とするものであり、この団体の中心目的はつねに性格形成に存してした。すなはち、すなはち、彼は貧窮と悪徳と不幸との原因である自由競争と営利と分争と私有財産とを原理とする資本主義社会を協同・一致・共労・共存の協同体に転換することによってのみ富裕と美徳と幸福が可能となるものと信じた」(P61)。
そして、ニュー・ラナークからニュー・ハーモニー、さらにオウエンの生涯を貫いた信念は、まさにそれであった。

『空想から科学への社会主義の発展』の中で、ロバート・オーウェンらを「空想的(ユートピア)社会主義者」としたエンゲルスは、「資本主義的生産の未熟な状態、未熟な階級状態には、未熟な諸理論が対応した」としたが、エンゲルスがユートピア性の否定ゆえに、自らが後に破綻した中央集権的な科学的社会主義のルーツのひとりになってしまったが、G.D.H.コールが「オーウェンが父となった社会主義、協同組合運動は自由な協同体への奉仕の要求をおし進め、国家の要求に従属し力の貯蔵所としての中央集権権力の樹立を欲しなかった」(『オウエン自叙伝』解説)と書くように、オウエン流の協同社会の構想は「共存共労の自足的小協同団体を基礎形態とするもの」であったのだった。

オウエンやフーリエに見られるように、19世紀前半の自由主義的資本主義に対するオルタナティブは、謂わば「自足的農業コロニー」づくりであった。そして、自由主義的な純粋資本主義が確立した後、イギリスはどうなったのかというと、『恐慌論』には、こうある。
「ところが19世紀70年代以後になると、その周期性の点ではそれほどでもないが、好況、恐慌、不況の循環の過程自身は漸次に異った様相を示して来る。73年の恐慌後の不況か恢復されて好況に向ったのは70年代末であったが、80年代初めの好況は、極めて短期間であったし、またその好況から83年以後の不況への転換も従来のような急激な恐慌現象を伴りものではなかった。90年における転換も同様であった。98年乃至1900年における繁栄が不況に転換する際にもイギリスはもはやドイツにおけるような産業恐慌を経験しなかった」と。(P30-31)

「産業革命を経て19世紀20年代に至って漸くその基礎を確立」したイギリスの資本主義は、「73年の恐慌後」には既に行き詰まりの兆候を見せる。後発の資本主義国であるドイツやアメリカは、保護主義的政策や株式会社制度や金融資本でイギリスを追い上げていく。イギリスは排外主義的な帝国主義戦争に向かい、国内では増大した非熟練労働者によるストライキが続発し、イギリス人からは見向きもされなかったロンドン在住の亡命ドイツ人のマルクスの本を、やがてイギリス人も読むようになり、イギリスにもマルクス主義による社会主義の運動が生まれる。

しかし、1880年代初頭のイギリスでは、マルクスの『共産党宣言』も『資本論』もエンゲルスの『空想から科学へ』も、ドイツ語版か須ランス語版で読むしかなかった。これは、19世紀のイギリスは資本主義の唯一の勝ち組で、労働組合運動も勝ち組的なトレード・ユニオニズムであったからでもあるのだが、もうひとには、イギリスにおける議会主義と市民社会の成熟といったことがあった。それ故に、エンゲルスもマルクスもそこから学ぶことが多かったわけだが、そのことはイギリスにマルクス主義の教条主義的な解釈から逃れた思想や運動を生みだし、ウィリアム・モリスらによるギルド・コミュニティの形成といった脱労働力商品化の試みも生まれるのである。

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2009年7月19日 (日)

脱労働力商品への道-その3-

次に、「脱労働力商品的働き方」とはどんな働き方なのかを考えてみる。『恐慌論』には、こうある。
「資本家的生産規模の拡大と共にますます大量的に生産される生産手段と生活資料とが過剰となるというのは、かくして単に労働人口に対して過剰であるというのではない。かかる生産手段乃至消費資料が資本として機能する限りにおいて過剰なのである。資本の形態をとらないで、いい換えれば労働者が自ら生産手段を使用して生産をなし、消費資料を自己の生活に使用するというのであれば、なんら過剰となるべきものではない。・・・資本にとってますます多くの資本を投下しながら反って利潤量を減少するということから過剰となったに過ぎない。生産手段にしても同様である。もともと資本の生産過程は生産力の増進に応じて労働日を短縮するという性質をもって発展して来たものではない。・・・資本として過剰となった生産手段も・・・もし労働者が自ら使用するものとして生産されていたとすれば、例えば労働時間の短縮とか、労働の軽減とかのために使用し得るようなものとして生産することも出来たのであって、生産手段としても過剰に生産するということにはならない。さらにまた資本家的には到底実現し得ないような大衆的消費資料の増産にも充て得たのである」と。(P96)

要するに、生産手段も含めて「資本の形態をとらないで、労働者が自ら生産手段を使用して生産をなし、消費資料を自己の生活に使用」するのが「過剰」を生まない方法となるのである。以前にもふれた『中央公論』5月号で、柄谷行人と西部邁が「恐慌・国家・資本主義」というテーマの対談をやっていて、そこで柄谷行人は、「労働力商品を廃棄するとはどういうことか、実はこれは簡単なことで、協同組合にすることです」「協同組合では、自分たち自身が共同所有者、経営者であり、かつ、労働者です。だから、労働力商品は存在しない」と言っているが、これは上記の宇野理論に基づいた発言であろう。

つづけて、柄谷行人は「ぼくがいうのは、資本主義の積極的な揚棄としての協同組合ですね。いまの現実の協同組合とはまた別ですけどね」と言ってはいるが、「現実の協同組合とはまた別の協同組合」について語っているわけではない。現実の協同組合を、いわゆるロッチデール型の消費組合とすれば、それとは別の協同組合というのは生産協同組合であると言いたいのかもしれないが、生産協同組合であると言っただけでは答えにならない。

私は生協を辞めて以来、そのことを考えてきて、このブログもそのために書いているわけだが、これまでの生産協同組合運動がうまくいかないことが多い原因には、その構成員において「脱労働力商品的働き方と生き方」がなしえなかったからではないかと、私は思うわけである。

「脱労働力商品的働き方と生き方」へのヒントは、『恐慌論』にはこうある。
「資本家的には・・労働力の再生産に必要なる以上の生活資料が労働者に与えられるということになれば、労働者は翌日は賃銀労働者として働かなくなるかも知れない。労働者を労働せしめるには一定限度の賃銀によってモの生活を労働者的にしておく外はないというわけである。しかし、これは生産手段が資本としてあり、生活資料が資本の生産物として労働者にとってその賃銀によって買戻されるようになっている、資本家的生産方法を前提としてのことである。これを人間社会一般に通ずることとするわけにはゆかない。労働者が自ら生産手段を使用するという方法は、資本主義のような社会的生産方法の発展した後においては、いわゆる社会主義としてより外にはないと考えられるのであるが、その場合にも、労働者は賃銀労働者としてのように、生活資料の余裕が与えられると労働しなくなるであろうというのは、資本家的社会関係を絶対化するものといってよい。・・・」と。(P96-97)

現代日本における倒産自主生産企業の互助組織である「自主生産ネットワーク」に参加する自主生産企業を見ていると、どこも誰も少ない稼ぎと収入でしのいでいる。とりあえず食わなくては、生活をしなくてはというところは労働者的であるが、たとえ低収入で貧乏ではあっても、それはワーキング・プアとは正反対の働き方である。『恐慌論』には、「労働者が自ら生産手段を使用するという方法は、資本主義のような社会的生産方法の発展した後においては、いわゆる社会主義としてより外にはないと考えられる」とあるが、それは「資本主義のような社会的生産方法の発展した最中において、脱労働力商品的働き方のコミュニティ」として、現実的に在りうるわけである。

倒産自主生産企業というのは、倒産した会社を労働組合が中心になって自主再建したものである。では、そういうプロセスを経る以外に自主生産企業は創れないのかというと、そうではなく、それは個人をベースにした脱労働力的働き方をとおして可能なわけで、私が10年前に会社勤めを辞めて、やろうとしてきたのもそうしたことである。そしてそれは、かつて労働力の商品化が共同体の解体と一体ですすんだのとは逆に、新しいコミュニティの形成と共にすすむのである。

そして、それはいかなるコミュニティかと言うと、このヒントは、『恐慌論』にはこうある。
「一定量の剰余価値を生産している間だけ労働者はその労働力を商品として販売し得るのである。労働力は、一般の商品よりも徹底的に、その所有者にとっては使用価値として役立たない商品であり、またそれだからこそ商品ともなったのであるが、販売し得なければそのまま使用し得ないだけでなく、その使用価値をも失うのである。労働者は常に自ら買戻すべき商品を、他の生産手段と共に一定の利潤をもって生産することなくしては、自ら生産した商品をも消費し得ない」。
「それは人間か自然に働きかけて生活資料乃至生産手段を獲得するという一般的な基本的な経済過程を特殊な形式によって、資本に対して剰余価値を生産するという制限をもってなすものに外ならない」。
「資本家的生産では本来の人間対自然の関係がこの資本の形式の内に包摂せられるために、労働者は自ら生産したものをも直接には消費し得ないのである。次の再生産過程で剰余価値を生産することを予定されなければ、過去生産の一部分を自己のものにすることも出未ない。労動力は商品化されてはいるが、一般商品と同様に特定の使用価値を有すものとして交換されるものではない。商品としての資本の過剰と労働人口の過剰とが同時にあらわれるというのもかかる関係を基礎とするのである」と。

要するに、労働力商品とは、「資本に対して剰余価値を生産する」ために資本家によって買われ、「一定量の剰余価値を生産している間だけ労働者はその労働力を商品として販売し得る」のであり、「販売し得なければそのまま使用し得ないだけでなく、その使用価値をも失うのである」。だから、脱労働力商品への道とは、労働力における使用価値の獲得であり、その使用価値を生かす場としての新しいコミュニティの形成となるわけである。

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2009年7月17日 (金)

脱労働力商品への道-その2-

さて、それでは「脱労働力商品的生き方」なり、そういった人々の「コミュニティ」はどこに成立するのかと言えば、それは現在の資本主義社会の中であり、市民社会の中である。純粋資本主義は19世紀イギリス社会を対象化して抽出しえたわけであるが、19世紀イギリス社会は資本家と労働者だけで成り立っていたわけではない。

「19世紀の国際的な商品交歓の中心にあってイギリスは、その中葉には最も典型的な資本主義国となったのであるが、しかも資本家でも、労働者でも、また資本家的土地所有者でもないというような旧来の社会層を残していた」(P15)のである。「旧来の社会層」というのは、いわゆる小生産者、農民、職人層ではあるが、カーライルやラスキンやカーペンターやモリスといった知識層もいて、その周辺において協同組合やギルドといった非資本主義的な試みをする人々も多数いたわけである。

農民を中心とする小生産者が多数を占めた戦前の日本のような後進資本主義国において、大正期以降には、ラスキンやカーペンターやモリスらに学んだ知識層による試みが始まるが、明治期においては、知識層は孤立しており、カーライルを学んだロンドン帰りの夏目漱石は、文学を試みるしかなかった。そして、そこに所謂「遊民(高等遊民)」を描くわけであるが、遊民とは単にブルジョワや地主の遊び人の息子であるわけではなかった。漱石の描いた遊民は、いわばトータルにものが見える、時代認識のできる人であった。

近年、いわゆるグローバリゼーションや格差拡大がすすむが、世界中の人々が労働力商品化されたわけではない。私自身の例をあげて申し訳ないが、「貧乏な遊民(下等遊民)」も増えているわけである。「貧乏な遊民」というのは、いわゆるワーキング・プアであるわけではない。どちらかと言うと、高等遊民と同様にトータルにものが見える、時代認識のできる人である。そして、どうしてそれが可能になるのかと言えば、労働力商品ななることから逃れているからである。

では、労働力商品にならずして、どうやって生活するのかと言えば、昔ふうに言えば、いわゆる「小生産者」になることである。『恐慌論』によれば「小生産者はその労働手段としての道具や、或いは生産手段としての原料は商品として買入れるにしても、その労働自身は自らの労働力によるものであって、その生産過程は決して全面的な商品の生産とはいえない。それと相対応してその生産物もまた徹底的に商品たるものではない。少くともその一部は自己のための使用価値として、いい換えれば商品としてではなく生産するという傾向を残すものである。たといかかる生産過程からいわゆる剰余労働生産物にあたるものを得るとしても、それは自己の労働によるものであって、資本のように客観的にその獲得を追求するものではない」(P54)ということであり、要するに、自分で仕事の手段とスキルを持っていて、営利追求ばかりを目的にしない働き方と言える。

そう、私はDTPをやるためのソフトやパソコン他の機材とスキルを持っているが、仕事のない時は、自分のために使っている。

「労働力が商品化すというのは、勿論、労働力の所有者が生産手段を所有しないために、自らこれを使用し得ない、ということを前提とするわけであるが、労働力が商品化してくると労働者が他人のために労働するということによって生産過程が行われる。これは単に生産物か商品として他人のための使用価値をなすというだけのことではない。生産過程そのものがその生産過程において労働する労働者にとって他人のための生産過程である。商品形態は社会の基礎にまで入って来るわけである」(P54)。

だから、商品形態は社会の基礎にまで入った資本主義社会を変えるためには、「労働力の所有者が生産手段を所有すること」、そういうものとしての「脱労働力商品的生き方」が必要なわけである。そして、近年の脱工業化の進行は、人々が脱労働力商品的に生きる可能性を増している。

大内秀明氏は『恐慌論の形成』にこう書いている。
「ポスト工業 化の知識社会は、工業化社会における機械=資本による 支配とは異なり、知識労働力の自発的・自主的なサービス労働が中心となる」。(P276)
「労働手段が機器=facility になったり、工場制度の意義が薄れて仕事場・工房=workshopになったり、さらに情報機器の利用によりモバイル型就労やテレワークも拡大する。そのため、サテライトオフィスや在宅勤務などのSOHOといった市民社会型生活者の生産活動も増加する」。
「ポストエ業化によって、これら公益的事業体が、NPO(非営利活動法人)などとして、その活動領域をいちじるしく拡大している。工業化の企業社会に代わって、ポストエ業化のNPO社会への転換さえ予想されるが、①非営利性、②多様なミッション(使命)、③ボランティアの参加、④水平ネット型組織、モジュール(部分単位)型など、独自の新たな組織原理をもった経営体が登場している。このように知識サービスの就業により、工業化の企業社会における正規従業員を中心とした資本・賃労働関係は崩壊して、ポスト資本主義社会ともいえる知識社会の地平が見えはじめたともいえるのではないか」(P277)と。

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2009年7月13日 (月)

脱労働力商品への道-その1-

これまでの引用をさらに要約すれば、資本主義とは「労働者の生活資料は資本家にとっては販売しなければならない商品であり、労働者にとっては、賃銀として得た貨幣をもって購入しなければならない商品であるに過ぎない。労働者も賃銀か得られなければこれを購入することは出来ない。資本家にしても労働者に売ることか出来なければ、その価格の低落をも避けることは出来ない」社会なのであり、「労働力が特殊な商品であることに資本主義自身の存立の基礎もある」のであるが、「人間の労働力が自然に働きかけて物を生産し、その物によって労働力を再生産するといういわゆる自然と人間との問の物質代謝の過程が、資本主義社会では商品形態を通して資本の生産過程として行われているのであって、そこに資本主義に特有な形態的な無理がある」わけである。

そこで、この「無理」を解消しようというのが「脱労働力商品への道」ということになるのだが、しかも、「資本家的再生産過程の極めて複雑な関係は、一方ではかかる不均衡を来たす要因を増加すると共に、また他方ではその不均衡を均衡化する機構をも確立してくるのであって、単に無政府的に盲目的に生産されるということのみから恐慌の可能性を強調することは、他の一面を見失うものとして決して資本主義を理解する所以ではない。資本主義はそんな簡単なものではないのである」(P52)であるように、そのプロセスは、かつての社会主義運動のように、恐慌を革命に、政治的に運動して権力を奪取して・・・という具合にはいかない。

資本主義が、19世紀中葉のイギリスにおいて典型的なかたちで成立した後、後発のドイツ、アメリカにおける政策的な展開から、金融資本や株式会社を発達させ、さらには国家をも巻き込んで行き詰った後も、ポスト工業化と合わせた現在のいわゆるグローバリゼーション的な展開を見ると、「資本主義はそんな簡単なものではないのである」というのは実感でもあるが、それが近年の「100年に一度の金融パニック」を発生させるのを見れば、資本主義が「労働力の商品化」という不治の病を抱え込んだままであることも、またしかりなのである。

そこで、「脱労働力商品への道」を考えるわけだが、そのヒントは『恐慌論』を逆に読み解くことにある。例えば、資本主義社会における「販売と購買の分離」と「購買と支払との分離」については、『恐慌論』には以下のようにある。

「元来、商品経済なるものは個々の生産者の生産物が商品として互いに交換せられるということを基礎とするものである。しかし個々の生産者がその生産物を直接に他の生産者の生産物と交換するといういわゆる物々交換の形ではなお商品経済とはいい得ない。商品の交換が貨幣を通して商品の流通として行われ、販売と購買とが分離し得ることになり、貨幣をもってすればいつでも自己の必要とする生産物を商品として買い得ると向時に、商品は生産されたからといって必ずしも売れるとはいえない関係を展開するにいたってはじめて商品経済といい得ることになる」。(P50-51)

「また商品経済の一定の発展を基礎にして、貨幣がいつでも商品を買い得るものとして、商品経済に特有な富の形態をなすに至ると、一方では貨幣そのものの蓄蔵が行われる傾向を生じ、他方ではそれを基礎にして貨幣なくして商品を購入し、後に自ら生産した他の商品を販売して得る貨幣をもって支払いをするという、購買と支払との分離も行われ得ることになる。こうなると自己の商品を一定の価格で販売し得ない場合には、支払い不能に陥らざるを得ない」。(P51)

ここにある「販売と購買の分離」と「購買と支払との分離」を逆に読み解くとは、「販売と購買の分離」と「購買と支払との分離」をなくせばいいということではない。もともと恐慌の必然性でないものを無くしても、それだけでポスト資本主義に移行できるわけはない。せいぜい、旧い共同体に戻ってしまうだけである。

労働力の商品化が止揚されゆく社会がポスト資本主義なのである。しかし、資本主義と労働力商品化の蔓延した世界が、いきなり労働力の商品化を止めるわけではない。どちらかと言うと、脱労働力商品への道を歩み出した人々が、市場社会の中に仕事とコニュニティを創り出しながら、長い時間をかけてそうなるのであるが、資本主義が成立する=労働力が商品化されるまでには、300年近い年月を経ていることを思えば、それを解消するためには、同じように長い年月がかかるかもしれない。そして、コミュニティの形成と言っても、それはかつての非市場経済的な共同体へ戻ることではない。

これまで、どの時代でもどの国でも、恐慌や不況を契機に構想された、競争的な市場経済社会でないものとしての共同体は、労働価値説を基礎に私有財産を否定して、共同所有で平等で、農業を中心にした自給自足的な社会であり、結果的にはそのほとんどが短期で失敗している。これは、規模的には国家レベルであったソ連やかつての中国も同様で、社会主義を市場経済の否定と考えたからであるが、これもまたそれ故に失敗した。

『恐慌論』に「商品経済なるものは、元来は社会と社会との間に発生する関係である。それは社会の内部から発生するというものではない。それだからこそまた古代、中世のように商品経済をその社会の原理としない社会においても多かれ少かれ商品経済を入れ得たのである」(P37)とあるように、資本主義型商品経済以前にも商品経済は存在したのであり、脱労働力商品化のすすむポスト資本主義社会においても存在するのである。

資本主義型商品経済以前にも以後にも、資本主義型市場経済よりも広い世界があって、そこには市場機能が存在するし、脱労働力商品への歩み自体がそれを否定しないで、新しいコミュニティを形成するわけである。しかし、新しいコミュニティはコミュニティとコミュニティの間に商品経済が発生させるというよりは、すでにある資本主義型商品経済を少なくしていくためのコミュニティであり、資本とその増殖を目的にするのではない、脱労働力商品的に仕事する人々のためのコミュニティである。

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2009年7月11日 (土)

そして、恐慌へ

そして、労働力商品の矛盾が恐慌に転化していくのは、次のとおりとなる。

「資本主義は社会の基本的な関係として資本家と労働者との関係をも労働力を商品化して商品形態をもってし、全社会を商品経済化したのであるが、・・・労働者は人間であって、資源ではない。単なる物としてあるわけではないし、また単なる物として生産されるわけにはゆかない。・・・労働の、したがってまた資本主義社会では資本の生産物たる消費資料によって年々再生産されるのである。またそれでこそ資本も一社会を支配する形態となったのである。労働人口の過不足自身が前にも述べたように資本家的生産の発展の内部的要因となってあらわれるのであって、それは資本主義に内在的なる矛盾をなすのである。単なる物と物との問の矛盾でなく、人間を物とする形態自身から生ずる矛盾である」。(P98-99)

「資本の過剰としての商品の過剰は・・、勿論、これを社会的に処理し得れば恐慌として発現するものではない。しかし社会的に処理するということ自身がすでに商品経済として不可能なことなのである。・・・個々の資本は、互いに出来得るだけ早く売抜けようとする。いい換えれば過剰生産物の処理自身がすでに商品経済的に行われるのである。それは資本の過剰が直接に利潤率の低落によってではなく、間接に利子率の昂騰による支払不能によって暴露されるのと対応した現象といってよい。かくして資本の過剰は同時にまた人口の過剰として現われざるを得ない。・・・一応は人口に対する資本の過剰としてあらわれ、それがまた資本に対する人口の過剰の形態に転化するのであるが、それは一定の資本家と労働者との関係の下においては、資本は自ら生産したものをも資本として処理し得ないことになるということを示すものに外ならない。労働者もその労働力を商品として販売して資本の形態を与えることなくしては、これを労働力たらしめることを得ないという関係にあることから生ずることである。資本が資本として過剰なのである。そしてそれがまた産業資本と貸付資本との対立の形式において表現せられなければならない所以をなすのである」。(P99-100)

「かくて過剰の資本と過剰の人口とは決して相容れないものではない。好況期の発展過程では貨幣は単に商品交換の手段に過ぎないものとしてあらわれ、商品のみが真に価値あるものとして、しかも資本として労働者の剰余労働を獲得し得るものとして資本家の手にあった。ところが今や商品はより多くの価値を得る手段どころか、単なる商品としても販売し得ないものとなっている」。
「貨幣のみが価値を有するものとなり、あらゆる商品はひたすらに貨幣への転化を求めつつある。資本もまた貸付資本としての貨幣形態にあるもののみが資本としてあるかの如き観を呈して来る。元来は利潤の一部分を利子として分与せられるに過ぎない貸付資本が、産業資本に代って資本を代表するものとなるわけである。それは全く資本家的生産方法に内在的なる矛盾の爆発の顛倒した表現に外ならない」。
「商品乃至生産手段の形態にある巨額の資本が、その資本形態の故にその活動を渋滞し、それがためにかかる現象を呈するのである。資本の蓄積ばかりでなく、再生産過程自身が全体にわたって停滞することになり、労働者は失業するか、労働時間を減ぜられるか、賃銀を切り下げられるかする。自ら生産した消費資料を購入すべき貨幣を手に入れることか出来なくなる。消費資料は有り余るほどにありなからこれを生産した労働者自身も消費することか出来ないということになる。それは生産手段が有り余るほどありなから資本として労働力と結合せられないということと相対応した現象をなすわけである」と。(P101)

宇野弘蔵は、『資本論』を純粋資本主義の原理論として、その要諦に労働力商品論をおいて、マルクス未完の「恐慌論」を「経済学の原理論のいわば結論をなす」とした。しかし、マルクスが『資本論』に対象化したイギリスにおける純粋資本主義の時代は、1820年から約半世紀で、1873年以降には、資本主義の金融資本主義化や株式会社の普及が始まり、20世紀の大恐慌を経た後は、国家による資本主義への介入が始まった。

いわば国家社会主義であったソ連型社会主義は崩壊したが、一方の資本主義が景気循環と資本の過剰を解決したかと言えば、資金ジャブジャブ的な「社会的処理」によって、恐慌は回避されているに過ぎないと言えるし、労働力の商品化の問題は、近年の格差、ワーキングプア問題に見られるように、矛盾の発現を強めてさえいる。脱労働力商品論を構想する所以であるが、さて、いよいよここから先が「脱労働力商品論の構想」となる。

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労働力なる商品とは

さて、では「労働力なる商品」とはどういうことかと言うことであるが、これは宇野弘蔵に学ぶということで、『恐慌論』のノートになってしまうが、以下のようになる。

「資本主義社会の再生産過程においては、・・資本自身によっては生産せられない労働力なる商品が、他の一切の商品と相対応する重要な地位を占めている。むしろ他の一切の商品をして商品たらしめるといってもよい地位を占めている。資本の再生産過程は・・・労働力なる商品が資本にとって有利に購入し得ないということになると、極めて重大な影響を受けずにはいない。固定資本の投下と更新も、実はこの労働力なる商品に対する資本の特有な関係によって規定され、一定の時期におけるその集中化の傾向もこれによって始めて解明されるのである」。(P59)

「恐慌現象は、資本主義社会にとって解決のない矛盾として、いい換えればその必然的崩壊をもたらすものとして解明されるのではない。新らしい資本と労働との関係の下に現実的に解決されながら繰り返してあらわれるものとして解明されなければならない。いわゆる景気の循環過程において好況と不況とを結ぶものとして、その意義も明らかになる」となる」。(P60)

「資本にとってはその生産物がいかに増加するにしても、利潤量が資本の増加に反して減少するということになれば、その資本は過剰の資本たることに間違いはない。これは全く労働力なる商品が特殊の商品であることを基礎とする資本家的生産方法に特有なる矛盾の現われに外ならない。労働力が他の商品と同様に資本によって直接生産されるものであれば、決してこういう現象は起らないのであるが、しかしまた労働力がかかる特殊な商品であることに資本主義自身の存立の基礎もあるのである」。(P82)

「人間の労働力が自然に働きかけて物を生産し、その物によって労働力を再生産するといういわゆる自然と人間との問の物質代謝の過程が、資本主義社会では商品形態を通して資本の生産過程として行われているのであって、そこに資本主義に特有な形態的な無理がある。資本は、その形態として当然に要請せられる無限の蓄積を続けようとしても、この点で続け得なくなる。その価値増殖は、元来商品でもない労働力を商品化することによって行われているのであって、無限の価値増殖の要求も、それがために反対物に転化せざるを得ないのである」。(P82)

「好況期の蓄積が常に資本の構成をますます高度化し、一方で過剰人口を形成しながら、他方でその過剰人口を動員するという方法をもって行われ得るならば、資本は一般的利潤率を傾向的に低落しながらも利潤量は資本の高度化による生産力の増進にしたかってますます増加するということにもなるであろう。ところか事実は決してそういう方法をもって資本の蓄積が行われるわけではない。すでに述べたように好況期の蓄積は、一定の与えられたる構成をもってますます大規模の生産が行われるという傾向をとるのであって、それは当然に一定量の労働力に対する需要増加によって賃銀の騰貴を免れないのである」。(P82-83)

「労働賃銀は労働力なる商品の価格として一般に資本主義社会においては他の商品と同様に労働力の再生産に要する労働時間によって決定される価値を基準として変動するのであるが、すでにしばしば述べて来たように他の商品と異って資本自身によって直接的に生産されるものではない。したがってまたその価値が労働力の生産に要する労働時間によって決定されるといっても、資本にとってはそれだけの労働時間をもってすれば常に生産されるというものではない。労働者の生活資料を生産するに要する労働時間によって間接的に決定されるというに過ぎない。しかもこの生活資料は労働者自身によって資本の生産過程において生産され、資本の生産物として資本をなし、資本家にとってはこれか生産手段に対する労働力を保障するものとなっている。・・・また実際労働者の生活資料は資本家にとっては販売しなければならない商品であり、労働者にとっては、賃銀として得た貨幣をもって購入しなければならない商品であるに過ぎない。労働者も賃銀か得られなければこれを購入することは出来ない。資本家にしても労働者に売ることか出来なければ、その価格の低落をも避けることは出来ない」。(P 93)

要するに、資本主義とは「労働力なる商品が、他の一切の商品をして商品たらしめるといってもよい地位を占めている」、「労働者の生活資料は資本家にとっては販売しなければならない商品であり、労働者にとっては、賃銀として得た貨幣をもって購入しなければならない商品であるに過ぎない。労働者も賃銀か得られなければこれを購入することは出来ない。資本家にしても労働者に売ることか出来なければ、その価格の低落をも避けることは出来ない」社会なのである。

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2009年7月10日 (金)

さて、恐慌論

さて、恐慌論であるが、これまでマルクス主義的には「恐慌の必然性=革命の必然性」として理解され、19世紀後半からの金融資本主義の成立は、20世紀に入るとレーニンの『帝国主義論』とロシア革命によって、それこそ20世紀は「戦争と革命の世紀」となり、左翼主義は「帝国主義戦争を内乱へ」とアジったものであったが、20世紀末近くに起こったベルリンの壁とソ連の崩壊は、恐慌論そのものを沈黙、忘れさせてしまった観がある。

2005年に出版された大内秀明氏の『恐慌論の形成』(日本評論社)は、「何で今さら恐慌論」的に、ほとんど売れなかったのではないかと思われるが、昨年来「100年に一度の金融危機」が到来すると、突然、風俗現象的に「恐慌論」が書店に並ぶ昨今となった。

大内秀明氏の『恐慌論の形成』は、40年前に出された氏の『価値論の形成』(東京大学出版会1964)の姉妹書であり、『価値論の形成』が宇野弘蔵の『価値論』を対象にした価値形態論の理論形成史であるように、『恐慌論の形成』も宇野弘蔵の『恐慌論』を対象にした理論形成史であり、「金融パニックの不可避」に言及している。その「序文」には、以下のようにある。

「恐慌の消滅が「恐慌論」の消滅、その不在になってはならないと思う。・・・ポスト冷戦の90年代、IT革命がアメリカ経済の復権をもたらし、ニューエコノミーの楽観論が「景気循環の消滅」を主張した。「恐慌の消滅」から「景気循環の消滅」である。しかし同時に、新型バブル経済の崩壊は、日本経済を長期不況の淵に沈めた。東京発の世界金融恐慌の恐怖のシナリオがくり返された。
 人類史上類例をみない長期のゼロ金利や量的緩和によって、金融パニックは回避された。「恐慌の消滅」は、恐慌の回避にすぎなかったし、問題の解決ではなかった。もし、超低金利を拒否する政治力学が作動したら、金融パニックは不可避だったのではないか。そして回避された恐慌こそ、巨額の不良債権を足かせとした「資金の過剰」、設備の過剰としての「資本過剰」、そして「労働過剰」の三つの過剰を暴露することになったのだ」と。

これまで見てきたように、恐慌の発生は、人々にそのリアクションとして非市場主義的な経済の在り方や共同体といったものを構想させてきた。そして私は、10年前に会社勤めを辞めて、「金融パニックの不可避」の状況の中から、このブログで、コミュニティの在り方を模索してきて、それを「脱労働力商品的生き方」としてきたわけである。

「脱労働力商品的生き方」とは、宇野弘蔵によれば、人間を「労働力商品」とすることに資本主義成立の要諦があり、同時にそこに恐慌の原因があるのだとすれば、なるべく労働力商品にならないような生き方をしようということである。もともと私自身は、若い頃から大企業への就職意欲が乏しく、書店員から生協職員、その後はSOHOと、小生産者的に生きてきたわけだが、それは「私なりに」であって、一般的な「脱労働力商品的生き方」というわけではなかった。そこで、やっと一般的な「脱労働力商品的生き方」とは何かを考えてみようと、宇野弘蔵の『恐慌論』を読んでみたのであった。

宇野弘蔵の『恐慌論』(岩波書店「宇野弘蔵著作集・5」)には、以下のようにある。

「元来、恐慌なるものは貸付資金の回収不能が時を同じうして相当広汎に生ずるところに現われるものであって、現象的には必ず金融恐慌をなすものである」。(P24)

「投機的物価騰貴は銀行を中心とするあらゆる金融機関の手に集中せられる資金の融通と、さらにまた生産規模の拡大によってその形成を予想される資金を目あてに行われるいわゆる信用の創造とによって、賃銀の実質的騰貴を最後まで阻止することになるのであるが、しかしそれがために生ずる資金の需要増加は、現実に商品の販売によってその価値を実現せられて形成せられる資金の供給によって充足せられないために利子率をますます騰貴せしめずにはおかない。借入資金は勿論のこと、その利子の支払いさえまた借入資金をもってせられることになる。かくて商品の売却によってその支払いをなさざるを得なくなると、投機的に釣上げられた価格は反動的に急激に下落して、想定された利潤率は現実的に極度の低落を見ることになり、支払不能に陥らざるを得ない。そこに恐慌現象を生ずるのである」。(P79)

「貨幣のみが価値を有するものとなり、あらゆる商品はひたすらに貨幣への転化を求めつつある。資本もまた貸付資本としての貨幣形態にあるもののみが資本としてあるかの如き観を呈して来る。元来は利潤の一部分を利子として分与せられるに過ぎない貸付資本が、産業資本に代って資本を代表するものとなるわけである。それは全く資本家的生産方法に内在的なる矛盾の爆発の顛倒した表現に外ならない」と。(P101)

これを読むと、日本のバブル経済の破綻とその後の長期不況も、昨年来のアメリカ発の金融パニックも、その原因はいわゆる恐慌と同じである。では、その恐慌の原因となるのは何かというと、エンゲルス、レーニン流のいわゆる「社会的性質と領有の私的性質との矛盾」ではなくて、それこそ「労働力なる商品」なのである。

「労働力の商品化は、資本主義社会の根本的な基礎をなすものであるが、しかしまた元来商品として生産されたものでもないものが商品化しているのであって、その根本的弱点をなしている。恐慌現象が資本主義社会の根本的矛盾の発現として、そしてまた同時にその現実的解決をなすということは、この労働力の商品化にその根拠を有しているのである.。恐慌論は、先に述べた典型的恐慌現象を基礎にして、資本の蓄積の増進と共に、資本にとって一定の限度をもった条件の下に商品化し得る労働力を中心として周期的にその矛盾が爆発し、またその矛盾が現実的に解決されるという関係がいかにして必然的に生ずるかを明らかにするものとして、経済学の原理論のいわば結論をなすのである」(P60)となる。

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2009年7月 5日 (日)

やっと、恐慌論

ロバート・オウエンは、19世紀初頭の産業革命の最中、自らニュー・ラナークで成功裏に工場経営を行った経営者であったが、当時まさにその姿を現そうとしていた競争主義的な資本主義に対しては、対応を異にした。1920年に『ラナーク州への報告』の中で、共同村の建設を提言したわけだが、その背景には、1819年のナポレオン戦争後の恐慌と、それによる労働者の悲惨な実態があった。

前回の日記に書いた、超絶主義者たちがつくったブルック・ファーム共同体も、アメリカにおける産業革命後の1837年の恐慌を背景にあり、ニュー・ハーモニー共同体もブルック・ファーム共同体も、いわば市場主義に対する対案であるといえる。そして、両者とも目指したものは、農業を基礎にして、共同所有と自給自足の小共同体づくりであった。

Photo_2 宇野弘蔵の『恐慌論』には、「「1818年の戦後恐慌を最後として、イギリスはいわゆる景気循環の過程を周期的に繰り返すという典型的な形で示すことになるのである」、「19世紀20年代以後には、25年、36年、47年、57年、66年と殆んど一様に10年内外の周期をもって恐慌が襲来している。・・・「恐慌はもはや偶然的なる現象とはいえない。・・・例えば25年の恐慌は、南米におけるスペィン、ポルトガルの植民地の独立による、それらの地域への市場の拡大を原因とする繁栄によるものであった。これに対して36年の恐慌では、30年代前半におけるイギリス、アメリカの鉄道建設と対米輸出の異常な増進とによる繁栄にもとづくものであって、アメリカ自身における恐慌がその口火を切った。・・・また50年代においては40年代末のカリフォルニア、50年代初めのオーストーフリアの金鉱の開発による販路の拡大や53年のクリミヤ戦争による景気の恢復か重要な要因をなして来る。・・・」(p27-29)とある。

そして、アメリカはどうだったかと言えば、猿谷要『アメリカ500年の物語』(平凡社)によれば、「産業革命の一つのシンボルである蒸気機関車は、それからまもない1830年、ボルティモア=オハイオ鉄道の開通となって登場する。南北戦争直前の1860年までには、ミシシッピ川以東の地に鉄道網が細かく行きわたるほど敷かれることになった。
とはいえ19世紀の初め、アメリカ人の大半は農民だった。それもたいてい自給自足の形をとっていて、近くの人びとと物々交換をして暮していた。それが10年たち20年たつうちに、農家は一種類か二種類の作物を集中して栽培し、市場でそれを売るようになった。家にいて糸を紡いでいた農家の女性たちは、繊維工場で働く女工となって家を出ていった。
 こうして市場経済の社会に切り換っていくと、当然のことながら好況と不況が交互に現われてきた。最初の経済恐慌が1819年に現われているのをみると、この頃から北部の社会が次第に資本主義化していったのがわかる。経済恐慌はその後1829年、37年、47年、57年とほぼ周期的に起った」(p83)とある。

イギリスより少し遅れて、アメリカ(東部)でも、急速に産業革命と資本主義化が進行していたことが分かる。恐慌の原因は、外国貿易とは直接にはつながらないが、市場主義による競争社会=資本主義と、その結果による恐慌への対案は、どこの国であろうとそう変わるものではない。一言で言えば、「コミュニティの建設」となるわけである。

ニュー・ハーモニーからも、ブルック・ファームからも、それが確認できるわけであるが、これまでどのコミュニティづくりも失敗していおり、私がこのブログを書き出したのも、まさにそこから出発したわけで、そんなで、少なくとも還暦までにはオウエンのニュー・ハーモニーまでは押さえておきたかったわけである。

Photo_3 4年前に大内秀明氏の『恐慌論の形成』(日本評論社)が出版されて、私は2005年10月15日 のこのブログに「恐慌論の形成とコニュニティの形成」という読後感想を書き、「恐慌論の形成が、ポスト工業化社会におけるコミュニティの形成につながっているという発見」をしたと書いた。※下記参照
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2005/10/post_0053.html 

それ以降、私は「脱労働力商品論としてのコミュニティ論」を考えてきたわけだが、それから4年たって、やっと「恐慌論」にたどりついたわけである。まあ、なんと悠長な日々であったかと思うが、まあ、私はそんなものである。

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ブルック・ファーム・ファランクス

もうひとつ、アメリカにおけるコミュニティづくりで調べたかったのは、1840年代のアメリカン・ルネッサンスの最中に、超絶主義者たちがボストン近郊につくった「ブルック・ファーム共同体」についてであった。1941年から始まったこの共同体は、1844年には「ブルック・ファーム・ファランクス」と改名されるが、それはフーリエ主義(ファランステール)の影響からであったという。

それより先に、アメリカでニュー・ハーモニー共同体づくりに失敗したロバート・オウエンは、その『自叙伝』に「フーリエが一つの実際的共同体を形成するために・・社会の形成に関するすべての知識を得たのは、この報告書からであった」(『自叙伝』p406)と書いている。「この報告書」とは『ラナック州への報告』のことで、オウエンはフーリエなど私のまねだとしている訳だが、果たしてアメリカにおけるフーリエ主義の共同体は如何であったのか、というのが知りたいことであった。

結論から言うと、「ブルック・ファーム・ファランクス」は「ニュー・ハーモニー共同体」よりは長く続いたけれど、7年目に火事と財政難から終焉している。『緋文字』を書いたホーソーンは、大金を投じてそこに入植したが、「夢想的な兄弟たちとの労役と非現実的な計画の共同生活を経験」(『緋文字』p41)して幻滅し、半年ほどで撤退している。

Photo ブルック・ファームについて、超絶主義の提唱者であったエマソンは懐疑的であったようである。濱田政二郎『ユートピアとアメリカ文学』(研究社 1973)には「冷静な個性尊重者であるエマソンが、幾家族もの農業に未熟な者たちが営む、いわば晴耕雨読の共同生活が、はたして円滑に行われるかどうかについて、大きな疑問を抱いていたことは確かである」(p84)、「エマソンが賢明にも予言したように、ブルック・ファーム解体の原因も、せんじつめると関係者各人そのもの、つまり構成要素としての人間にあったようだ」(p88)とある。

理想主義的なコミュニティづくりの失敗の原因が「構成要素としての人間にある」というのは、オウエンのニュー・ハーモニーにも通じているし、同様の多くの試みにも通じている。では、いかにしたらコミュニティづくりは上手くいくのかを考えた時に、同時代の唯一の成功例としてあるのが、前々回に書いたソローの「ウォールデン」である。「ウォールデン」は、いわゆる共同体ではないが、個人主義をベースに置いている。前にも書いたが、それをベースにしないと、相互扶助はうまくいかないというのが私見である。

1836年に『自然』を書いて超絶主義を提唱したエマソンは、イギリス資本主義形成期において反時代主義的であったカーライルと交流して影響を受け、ソローはエマソンに私淑し、さらにエマソンは無名のホイットマンを見出す。そして、若き夏目漱石は「”Leaves of Grass” を通読するときは作者は是れ宛然たる一個の好詩人なるべし蓋し其文学史上に占むべき地位に至っては百世の後自ら定論あり余の如き外国人が入らざる品評を試むるの要なきなり・・」(「文壇における平等主義者ウオルト・ホイットマンの詩について」1893)という文章を書き、後にイギリスに留学した漱石は、「漱石発狂す」と言われながらも、カーライル博物館に4回も足を運んでいる。

私は漱石の『それから』と『門』と『こころ』が好きで、何度も読んだ。そして、私が代助や宋助や先生の生き方に見るのは、漱石の「私の個人主義」への歩みである。それは、ソーローやホイットマンにつながる個人主義であり、いわゆるブルジョワ・イデオロギー、功利主義には相容れない個人主義である。

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2009年7月 4日 (土)

ニュー・ハーモニー

1 私は4月生まれだから、春が来ると歳をとる。しかも、今年は還暦である。そこで、還暦までに調べておきたいことがいくつかあって、3月半ば頃、都立中央図書館に行ってきた。場所は南麻布の有栖川宮記念公園の中、最寄り駅は広尾で、駅を出ると、通りに洒落たカフェテラスが並び、そこの客にも道行く人にも外国人が多い街であった。

調べ物は、この間の読書で詳細が分からないことについて、関係文献を調べてネットで検索すると、その多くが都立中央図書館にあったのであるが、どの本も貸出不可となっていたので、ノートかコピーを取りに行ったのであった。

ネットで検索した資料IDを図書館のパソコンに入力すると、選び出された本がカウンターに現れる。それを待つ間は、まるで大学病院での診察待ちの時のようである。受け取った資料を閲覧室に持っていって、必要な部分をチェックして、それを複写の窓口に持っていくと、きれいに複写してくれる。複写1枚が25円で2000円分複写したが、これらの本を古書店で購入したら、けっこうな金額になるだろうから、安いものである。

Photo 調べたもののひとつは、ロバート・オウエンのニュー・ハーモニーについてであった。オウエンの『自叙伝』には、ニュー・ハーモニーについては書かれていないので、ニュー・ハーモニーがいかに形成され、そしてどうなったのかは、先達の調べた本をよむしかない。そして、丸山武志『オウエンのユートピアと共生社会』(ミネルヴァ書房1999年刊)という本を読んだ。

オウエンは、19世紀初頭の産業革命の最中、イギリスにおいて純粋な資本主義が成立しつつあった時代に、自らニュー・ラナークで成功裏に工場経営を行い、そこで体験した産業革命のオルタナティブを求めてアメリカに渡るが、その試みは、わずか3年足らずで失敗してしまう。なぜ失敗したのかについては、以前に少し書いたが、では、ニュー・ハーモニーの成立の経過と、その後はどうなってしまったのだろうか、というようなことを知りたかったわけである。

New_harmony72 アメリカ自体がピューリタンによる共同体づくりに始まるわけだが、クェーカー教徒によるものや、やがてユタを治めるモルモン教など、前回の日記にも書いたけど、たくさんの共同体づくりが行われ、その中で、ドイツから来たラップ派がインディアナ州ニュー・ハーモニーつくった共同体が居ぬきで売りに出されて、オウエンはそれを買った。
※写真は、オウエン時代のニュー・ハーモニーを再現した模型図、前掲書から

武者小路実篤の「新しき村」もそうであるが、ユートピアがつくられる土地は、どこも不動産屋の類が斡旋している。いい話が持ち込まれて、それを見に行って、気に入って、買うわけである。めざす共同社会は私的所有を否定しても、とりあえず大金を出して土地を購入するところから始まるのは面白いというか、コミューンづくりのリアリズムであろうか。

ニュー・ハーモニーのわずか3年足らずで、オウエンはニュー・ハーモニーの共同体づくりに失敗してしまうのだが、ニュー・ハーモニーの町自体は、その後もそこに住みつづけた人々によって現在まで残されているという。共同体の運営をめぐって、オウエンはアメリカ流の個人主義と意見を異にして、そこを去ったわけだが、アメリカ流の個人主義も彼らなりにハーモニーを求めていたわけであり、ソローやホイットマンの生き方というのは、そういうものであったのではないかと思うわけである。

ニュー・ハーモニーの失敗については、別途書きたいと思うが、結論だけを書けば、私はニュー・ハーモニーを否定的に見ない。ロバート・オウエンは、労働組合や協同組合の生みの親であるが、オウエンの思想のエッセンスは「協同思想と協同社会の建設」にある。

高校生の世界史の授業で、先生が黒板に「ロバート・オウエン」という文字を書いたシーンを、今でも覚えている。その日から40年以上が経って、この春に私は還暦を迎えたのだが、その時からず~っと私は「空想的社会主義者」のままでこの歳になってしまった。そして、「100年に一度の経済危機」と言われる中で、私はいまだに「ニュー・ハーモニー」を夢想しているのである。

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ソローと個人主義

前のブログから早半年以上が過ぎてしまった。お手軽だから、ついついSNSばかりになってしまうのだが、このブログが他のブログにリンクされていたり、そこにコメントがあったりするのを見て、少数でも読んでくれている人がいるのかと思うと、やはり時々はブログも書かねばと思うところである。

そこで、この半年間にSNSに書いたことのリライトになってしまうが、このブログの主旨にそったものをいくつか転載しておきたい。リライトするから、SNSよりもこちらの方がまとまりは良いかもしれない。

今年の年初めの読書は、ソローから始まった。なぜソローかと言うと、この間「コミュニティ論」を考えてきて、労働力商品論から19世紀イギリス社会主義へと読書してきたわけだが、脱労働力商品論、脱労働力商品的行き方のポイントは、ソロー的な個人主義にあるのではという気がするからである。

個人主義というのは、自由主義や民主主義や市場経済とセットになって、資本主義を支える理念であるわけだが、資本主義的な個人主義というのは「個人の財産の不可侵権」みたいな「ブルジョワ個人主義」であって、ソロー流の「絶対的個人主義」とはちがう。民主主義にしても、ソローの言う個人主義によって支えられない限り、多数決による専制に行き着き、政権を取ってしまえば、なんでも出来ることになってしまう。

同様に、個人主義は相互扶助とは相入れないかのようにも思えるが、個人主義のない相互扶助など、ただの集団主義でしかない。要は、コミュニティを支えるのも個人主義が基礎になるということであり、その個人主義を支えるものこそが、脱労働力商品的生き方であって、ソローの『ウォールデン』は、そのリアリズムであると思うわけである。
ソローは『森の生活』に、以下のように書いている。

「私が2年間の経験から学んだことは、もし人間が簡素な生活を営み、自分で栽培した作物だけを食べ、必要以上のものは栽培せず、しかも、その作物をわずかな量の贅沢品や値段の高い物と交換などしなければ、ほんの数ロッド(1ロッドは約25.3平方メートル)の土地だけ耕やせばそれで十分であろう」。

「ウォールデンで生活していた間、私は測量、大工の仕事、それに村のいろいろな日雇いの仕事など、十指に余る仕事をこなしていたわけだが、結局のところ稼いだのは13ドル34セントだった」。

「私には自分なりの好みというものがあり、特に気ままにやっていくことに重きを置いていたし、また苦しくても、なんとかうまく暮せたから、わざわざ私の時間を費ってまでして、豪華なカーペットとか立派な家具、あるいは美味い料理とか、ギリシア式やゴシック式の邸宅を手に入れたいとは思わなかった」。

「私にとって、日雇の仕事がなによりも一番独立心を強くさせることがわかった。なにしろ年に30日か40日だけ働けば暮せるからである。・・・要するに、私が確信していることは、信念と経験から判断すれば、われわれが質素で、賢い生き方さえすれば、この地上で自分一人養ってぃくのは、さして辛いことではなく、楽しいことだという事実である」と。

『ウォールデン』とともにソローのもうひとつの代表作の『市民の反抗』は、「統治することのもっとも少ない政府こそ最良の政府」で書き出されている。それは「小さな政府こそ最良の政府」につながりかねないところでもあるが、トクヴィルの見たアメリカのコミュニティにつながっている。

『中央公論』5月号で、柄谷行人氏と西部邁氏が「恐慌・国家・資本主義」というテーマの対談をやっていて、そこで西部邁氏はアメリカのコミュニティについて、以下のように言っている。

「アメリカ流のアソシエーションの考え方は、ゲマインシャフトというよりゲゼルシャフトに基づいている。つまり、合理的な個人がいて、単なる利害とは異なる、お互いのsympathy(同情)やpity(憐憫の感情)も含めて、お互い意識的に契約、約束事を交わすものとしてアソシエーションができるというものです。そういう意味では、societyの、ある一つの特殊ケースとして考えられている」、「人間には良かれ悪しかれ、本源的に共同体に拘束され尽くされたくないという自由への欲求があって、コミュニティにはまり込んだならば、人間は窒息する。それだからこそ当然、ぼくがいうコミュニティの土台の上にアソシエーションがある」と。

西部邁氏はアメリカ嫌いに見えるが、上記の見方は正論であるように思う。

『市民の反抗』は、「市民的不服従」の精神のバイブルとなり、インドのマハトラ・ガンジーやキング牧師らの非暴力不服従の運動を支えた。そして『ウォールデン』は、ビートジェネレーションに始まる対抗文化運動のバイブルになったが、ビートジェネレーションのキイ・ワードは、ジャック・ケルアック曰くsympathy(共感)である。

ソローの師にエマソンがいて、エマソンもソローも、イギリス人のカーライルやラスキンやモリスと同様に、明治~大正期の日本の知識人には大きな影響を与えた。イギリスに留学してカーライルを学んだ夏目漱石は、日露戦争後に国家主義が強まる中で、「私の個人主義」を講じた。ソローが書いた唯一の文学評論も『トマス・カーライルとその作品』であった。そんで私は、ソロー的生き方をしながら、「私の個人主義」を書きたいと思うところである。農業については、最近、雇用情勢の悪化の中で、農業が見直されているようであるが、企業的営農でなくて、ソロー的農業ができないものかと、あれこれと考えているところである。

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