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2008年5月19日 (月)

賀川豊彦

 ロバート・オウエンもロッチデールの協同組合も、明治の比較的早い時期に日本に紹介されて、黎明期の労働運動において共働店として試行錯誤されてきたが、これを現在あるようなかたちで最初につくり上げた最大の功労者は、やはり賀川豊彦であろう。賀川豊彦は、加藤時次郎や石川三四郎ほどではないにしても、忘れられた思想家のひとりになりつつあるが、私には忘れられた思想家というよりも、彼らを過去の人にしてしまった経過があるように思われる。
 最近の農薬入り輸入冷凍餃子事件などをみるにつけ、ロッチデール以降の消費組合型の協同組合の行きづまりを感じる訳だが、協同組合の再構築を考えるとすれば、私はやはり今一度、協同組合運動の先駆者たちの初心に学ぶべきだろうと思うわけである。

 賀川豊彦は、1888年に妾の子として神戸に生まれ、父の死後は徳島の実家に引き取られて徳島中学を卒業、徳島中学時代から『平民新聞』を読み、クリスチャンになって明治学院神学部に入り、そこでは授業には出ないで図書館にある洋書を読みつくしたという。1906年に徳島毎日新聞に書いた「世界平和論」には、マルクス、エンゲルス、カーライル、ラスキン、エマーソン、トルストイからの引用があったという。神戸神学校をへて1909年より、神戸の新川の貧民窟に住み込んで伝道生活に入った。
 
 結核と眼病を患いながら、貧しいものに全てを与えつくすような貧民窟での伝道生活は、後に『死線を越えて』などに描かれてベストセラーとなったように、その献身は圧倒的である。1917年に貧民窟でボランティアしていた芝はると結婚し、「伝道(教育・日曜学校・路上伝道)、教育(夜学校・裁縫学校)、人事相談、職業紹介、無料宿泊、簡易食堂、施療」のセツルメントのイエス園づくりをすすめるが、賀川豊彦が面白いのは、前述の加藤時次郎が「平民食堂」を開設したように、1912年に貧民窟に一膳飯屋の「天国屋」を開店し、1917年には貧民窟授産事業として歯ブラシ生産の「自治工場」を開設したりすることである。「天国屋」は食い逃げが多くて3ヶ月で閉店し、歯ブラシ工場も職工の中に原料を盗む者がいたりして、翌年には手を引いてしまうが、めげることがない。
 私は、会社勤めを辞めた後、失業者ユニオンというのに参加した。この失業者ユニオンは、失業者を集めて「リストランテ・元気組」という居酒屋を始めたのだったが、これも2年間で倒産してしまった。では、試みは取るに足らない事であり、失敗だったのかと言えば、前に向かおうとする者たちは、常にこういう試みをするものなのであるというのが、ここでの私の結論である。

 賀川豊彦が「自治工場」をつくろうとした背景には、1914年から3年間のアメリカ留学の経験があった。神学を勉強するためにプリンストン大学に留学した訳だが、そこでの最大の経験は、労働運動に接したことである。IWWの項に書いたが、19世紀後半から20世紀初頭のアメリカは、労働運動の盛んな時代であった。2年間で学位を取得して、1916年にニューヨークの貧民窟を視察しに行った賀川豊彦は、そこで偶然、パンと職を求める6万人の労働者の示威運動に出会った。賀川豊彦は、「この悲壮な示威運動の流れを、舗道に立ちすくんだまま、終わりまで見送り、涙が頬をぬらしているのも気がつかなかった」という。
 そして、帰国を決心した賀川豊彦は、その旅費を稼ぐために、ユタ州オグデンの日本人会の書記として働いた。20世紀初頭のアメリカでは、日本人の排斥運動が起こったごとく、農場や炭鉱では沢山の日本人が働いていたという。当時のアメリカには、ホーボー」と呼ばれた渡り鳥的労働者がいたが、その「ホーボー」という言葉は、日本語の「方々」から来ているとも言われるくらいである。1917年の春に、小作人であるモルモン教徒と日本人がストライキを起こし、賀川豊彦は仲の悪かったモルモン教徒と日本人を団結させて、このストライキを勝利させた。その謝礼として日本人会は100ドルを賀川豊彦に贈り、賀川豊彦はそれで日本に帰ってきたのだった。

 アメリカから帰国した賀川豊彦は、「もし今日、貧民階級をなくしてしまおうと思へば、今日の慈善主義では不可能である」として、労働運動に乗り出した。賀川豊彦の労働運動は、ただの労働組合運動ではない。1917年11月に前述の「共同労作工場」として歯ブラシ工場を設立したように、「労働者自治」の運動である。賀川豊彦は、『自由組合論』にこう書く。
 「労働は一個の芸術である。絵を画かなくとも、彫刻をしなくとも人間が刻一刻に刻んで行く労働そのものは立派な創作であり、創造であり、芸術の芸術である。私は労働の自由を主張する。強制されたる今日の賃銀奴隷の苦痛より自由と喜びの労働の自由に入らねばならぬ。そのために、われらは、労働の自主権すなわち労働者の産業管理権を叫ぶものである」、「われわれの要求するものは生命であり、自由であり、自主である」、「第三の自由(産業の自由)によって初めて人類はパンの問題から解放せられ、愛と相互扶助によって、真の世界に生き得ることができるのである。・・・産業の自由によって人間は初めて、自己に帰ることができるのである。産業の自由が与えられて始めて、神と政治がふたたび人類に帰ってくるのだ。今日の神と政治は強いられた神と政治だ。バンの自由が与えられた時に、われらは初めて、自己の力と光明によって、なんら曇りなき神を礼拝し、政治上の自由を獲得しよう。産業の自由こそわれらの目ざすべき標的である」、「工場を物品の製作所と考えるのは間違いです。工場は人間の働く処です。・・・今日のようにいやいや働く工場ではなく愉快に働ける工場にさえしてくれさえすれば、少々は給金が安くてもかまわないのです。愉快に働けるという第一は自分と家内が食えるだけの生活費と、子供と自分が多少教育と享楽を受ける保証です。第二は工場のデモクラシーです。・・・第三は工場の立憲化です。・・・第四は工場の組合管理です」、「われらはまずわれら生産者がすべての生産機関係を管理するようにせねばならぬ」、「普通選挙はもちろんのこと、産業の組織を政治家し生産者のためにとくに生産者会議を作る必要があるまいか」(『自由組合論』筑摩書房「現代日本思想体系6」)と。

 賀川豊彦は人間を「人格」としてとらえ、「真の表象は人格であらねばならぬ。人格は神格だ。真の人格の建造に神が現れるのだ。誠に人格の建造は神の事業だ」と理解した。それは「産業の自由によって人間は初めて、自己に帰ることができるのである。産業の自由が与えられて始めて、神と政治がふたたび人類に帰ってくるのだ」ということであり、賀川豊彦においては、キリスト者であることと労働運動、とりわけギルド社会主義は、矛盾なく一体化している。

 賀川豊彦は、アメリカで労働組合運動を経験し、帰国後は鈴木文治の友愛会に参加して、1919年には友愛会関西同盟会の理事長になった。賀川豊彦の労働運動は、アメリカ流の労働組合主義であり、かつ、イギリス流のギルド社会主義である。友愛会関西同盟会の創立宣言に、賀川豊彦はこう書く。
 「我等は生産者である。創造者である。労作者である。・・・我等はこの精神をもってかく宣言す、労力は一個の商品ではないと。資本主義文化は、賃金鉄則と、機械の圧迫により、労働者を一個の商品として、社会の最下層に沈淪させてしまった」、「我等は凡ての革命と、暴動と、過激主義(ボルシェヴィキ)思想を否定す。我等はただ自己の生産能力を理性的に信頼して確乎たる建設と創造の道を歩まんとするものである」と。

 前章でみたように、黎明期の日本の労働運動は「共働店」を持ちながらも、治安警察法によって押さえ込まれ、その後の運動は社会主義にシフトして、結局は大逆事件をもって沈黙させられてしまった。だから、1919年の賀川豊彦の労働運動は、労働組合を公認させることと、それを禁止した治安警察法17条を廃棄させることと、普通選挙の実施にあった。しかし、1920年に普通選挙法案は議会で否決され、労働運動においては、関東を中心にゼネストを主張するサンジカリズムの影響が強まり、1920年の友愛会の第8回大会で議会政策か直接行動かが論争になり、賀川豊彦は否定されことになってしまったのだった。

 そこで、賀川豊彦は消費組合つくりをする。1919年に有限責任購買組合大阪共益社をつくり、1920年には有限責任神戸購買組合をつくった。しかし、不況のつづく中、1921年に神戸の三菱造船所と川崎造船所でストライキが起こり、賀川豊彦はこれを指導することになり、日本初の試みとして「工場管理」の方針を決定した。賀川豊彦は、こう書く。「産業管理は暴力による工場占拠ではない。一産業に従事する全労働者の合意的決意による建設的企図である。・・・暴に報いるに愛を以ってし、悪に報いるに最善を以ってしたのが工場管理である」と。
 「工場管理宣言」に驚いた知事は、憲兵隊と歩兵と水兵を動員。会社側は会社を閉鎖してしまい、3万人の大争議は、衝突による犠牲者と賀川豊彦らの検束で敗北したのだが、当時『死線を越えて』が大ベストセラーになった賀川豊彦は、現在の金にすると億を超えるその印税で、争議参加者の救済をしたのだった。賀川豊彦の生活は、外にいる時は伝道か運動、家にいる時は読書と物書きであって、生涯にわたって沢山の本を書いたが、その印税のほとんどは運動のために使われて、賀川豊彦自身はいつでもツギの当ったスーツ姿であったという。

 賀川豊彦は、1922年に杉山元治郎と日本農民組合を創立。1925年に普通選挙法が議会を通過すると、日本農民組合をベースにして、1926年には杉山元治郎を委員長にして労働農民党を結成し、賀川豊彦は執行委員になった。しかしこの頃、労働運動から政党運動にいたるまで急速に共産党が進出して、運動の主導権をめぐる抗争が激化しつつあった。1925年には、労働総同盟が右派の総同盟と左派の日本労働組合評議会に分裂。1926年には、労働農民党も分裂し、労農党から脱退した団体は安部磯雄らの呼びかけで、社会民主主義の社会大衆党を結成。残る農民組合も分裂して、1927年に杉山元治郎を委員長にした全日本農民組合が結成された。賀川豊彦は、こう書く。「今日労働運動で、私の最も厭な傾向は・・・ジャコビン主義にうつって行く事であります。まるで狂気ざたの様に私には見えます」と。

 それ以降、賀川豊彦の運動は協同組合と「イエスの友の会」を中心にしたものにうつって行く。「イエスの友の会」は、1921年に「宗教的組織は広い信仰共同体の中に共存すべきだ」と主張して設立され、「定期的に集まって祈り、初代教会のように各自の収入を出し合い、余暇を福祉活動、医療、教育事業等、社会改革を推し進めるために使った」という。1923年に関東大震災が起こると、賀川豊彦は関東に活動拠点を移し、1924年に「イエスの友の会」も京王線上北沢駅近くの松沢に置かれた。1927年には、江東消費組合を設立。賀川豊彦は、友人の医師からもらったハーレーのサイドカーに乗って飛び回ったという。

 賀川豊彦の活動を省みて驚くのは、その活動範囲とスケールの大きさである。賀川豊彦のつくった神戸消費組合と灘消費組合が後に合併して、世界最大の生協である現在のコープこうべとなる訳だが、コープこうべには様々な施設があって、その中に協同組合学校である協同学苑がある。生協に働いていた頃、研修で行ったことがあったが、大きな壁一面に系図式に賀川豊彦の実績が書かれていた。そしてもうひとつ、賀川豊彦について書かれた近著に、アメリカ人のロバート・シルジェン著『賀川豊彦』があるが、これを読むと賀川豊彦とアメリカとの関係は、プリンストン大学に留学したということだけでなく、後に、実践的キリスト者として、社会改革のために協同組合を広めることを説いて、アメリカ中を講演して回り、アメリカの協同組合に大きな影響を与えていたことが分かる。
 賀川豊彦は、日本では世界最大の生協であるコープこうべの創設者であったのと同時に、アメリカ最大の生協であったバークレー生協なども賀川豊彦の影響を受けて、そこでは日系人が雇用され、理事にも日系人がいたという。コープこうべとバークレー生協は、いわば兄弟生協でもあった訳だが、ロバート・シルジェン著『賀川豊彦』を読んで思うことは、思想というのは一国的なものであるというよりは、グローバルなものであるということである。
 バークレー生協は80年代末に倒産し、コープこうべも経営に苦しんでいるという。成功してエスタブリッシュメントになるということは、協同組合にとっては「死の接吻」となるのだろうか。それとも、賀川豊彦のいなくなった時代、協同組合は何かを忘れてしまったのだろうか。そうだとしたら、それは一体何なのだろうか。

※参考図書:横山春一『賀川豊彦伝』キリスト教新聞社 1951年
      隅谷三喜男『賀川豊彦』日本基督教団出版部 1966年
      三宅正一『激動期の日本社会運動史』現代評論社 1973年
      ロバート・シルジェン『賀川豊彦』新教出版社 2007年
      「現代日本思想体系6」筑摩書房

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コメント

「派遣切り」・「2009年問題」・「雇用対策」は何処へ
◆急務は「現在の雇用」
政治(与野党共)もマスコミもジャーナリストも、皆大変だと言葉だけの心配に留まっているように思われます。と言うのは、「労働者派遣法改正案」は見直し審議待ちの足踏み状態で進展しておらず、その先が見えないため、「派遣切り」に歯止めがかかりません。「派遣切り」を加速させている要因は、政府及び厚生労働省の不十分な対応にあるということを理解しているのか疑いたくなります。いったい「雇用対策」はどこへ行ってしまったのでしょうか?とくに製造派遣の「抵触日(3月1日)」が過ぎてしまった現在のわが国において、最重要視されるべき課題はまさに「雇用対策」です。「雇用対策」ができれば、わが国の景気の底支えは可能です。雇用が底支えできれば、将来に対する不安も緩和されます。何といっても一番は「現在の雇用」です。数年先の雇用対策では意味がありません。
◆救済手立ては「雇用創出プラン(福祉雇用)」!
詳細は下記のブログをご参照下さい
◆人事総務部ブログ&リンク集
 http://www.xn--3kq4dp1l5y0dq7t.jp/

投稿: 人事総務部-ブログ&リンク集- | 2009年3月13日 (金) 08時38分

雇用創出プラン(福祉雇用)の提言
◆本当に「雇用のミスマッチ」なのか
世界同時不況による異常な雇用危機に対し、地方自治体が実施しているのは2~3ヶ月間の臨時短期雇用のため、期限到来で終了してしまいます。次の一手をどのように考えているのでしょうか。実際のところ、政府や厚生労働省は掛け声だけで地方自治体に一任(丸投げ)です。マスコミやエコノミストは、人材が不足している「介護・農業・林業」分野に人材をシフトすべきと、ひたすら「雇用のミスマッチ」を訴えています。しかし、この雇用危機に対して、一体誰が真剣に考えているのか疑わざるを得ず、製造業に従事している非正規労働者の生活を真剣に心配しているとは思えません。
雇用創出プランは下記のブログにてご確認下さい
◆人事総務部ブログ&リンク集
 http://www.xn--3kq4dp1l5y0dq7t.jp/

投稿: 人事総務部-ブログ&リンク集- | 2009年3月13日 (金) 08時39分

非正規雇用の論議より“最低賃金”の論議が格差社会を是正する

◆問題は「賃金格差」
非正規雇用対策に注目が集まってしまい、“格差”の論議の影が薄くなっています。しかし、一番重要な問題は“賃金格差”なのです。同じように仕事をして、賃金に格差があること、これ自体が最大の問題なのです。わが国ではこれまでの終身雇用制と年功序列が、「同一作業、同一賃金」の問題を複雑にしました。この道は、先が長く険しい道のりです。

◆今こそ「最低賃金見直し」論議を

 しかし、正規社員も非正規社員も同様に仕事をして格差が是正されて行けば、雇用の流動化はスムーズに行え、そして日本の新しい雇用形態となっていくものと考えます。そこで、この不況時にこそ「最低賃金の見直し」の論議と実施をすべきです。パートタイムやアルバイトの多い業界からの反発が予想されますが、それこそ雇用対策の助成金を活用し、3年~5年をかけて補助金額を逓減していけばソフトランディングも可能です。そして、これらが曳いては、わが国の内需拡大を早める最適な方策と考えます。
詳細は下記をご覧下さい
◆人事総務部ブログ&リンク集
 http://www.xn--3kq4dp1l5y0dq7t.jp/

投稿: 人事総務部-ブログ&リンク集- | 2009年6月 7日 (日) 23時34分

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