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2008年5月22日 (木)

大正ユートピア

 「労働は一個の芸術である。絵を画かなくとも、彫刻をしなくとも人間が刻一刻に刻んで行く労働そのものは立派な創作であり、創造であり、芸術の芸術である」という賀川豊彦の『自由組合論』は、「もとより農民芸術も美を本質とするであろう」という宮沢賢治の『農民芸術概論要綱』を思い起こさせる。また、「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」とする宮沢賢治の「自我」を「人格」に、「集団社会宇宙」を「神」に置き換えれば、それは賀川豊彦の「人格は神格だ。真の人格の建造に神が現れるのだ。誠に人格の建造は神の事業だ」に通ずる。宮沢賢治と賀川豊彦は直接の接触はなかったが、宮沢賢治が『農民芸術概論要綱』を書いた1926年頃に、宮沢賢治は労農党との接触はあったというし、労農党をつくったのは賀川豊彦だったから、全く関係なしとも言えない。そして、もうひとつ両者に共通するものがあるとすれば、ラスキンからの影響だろうか。

 ラスキンは、産業革命以降のイギリスの資本主義の発展原理となった古典派経済学の市場主義と、機械によって創造性を奪われた「人間を除けばなんでも製造する」労働に対して、人間の精神と情愛をもった平穏な経済をめざした。賀川豊彦と宮沢賢治は、ラスキンとマルクスの『資本論』を読んだようだが、両者が共に惹かれたのは、どちらかと言えばラスキンであった。ラスキンの経済学は、現在ではほとんど省みられることはない。古典派経済学には資本主義の常識が語られるが、人を動かすものが金の力だけではないとすれば、市場経済に抗するのにラスキンの経済学に惹かれるのは、まともな読み方と言える。

 若き日にラスキンに啓発され、その思い引き継いだのは、ウィリアム・モリスであった。モリスは、「アーツ・アンド・クラフト」の運動と共に社会主義の政治運動にも参加し、エドワード・ベラミーの『かえりみれば』が描いたユートピアを批判して『ユートピアだより』を書き、同時にそのモチーフであり具現化でもあるケルムスコット・ハウスに拠って、ハマスミス社会主義同盟の会合を行い、ケルムスコット印刷所で本づくりと言うよりは芸術活動を行った。
 明治の産業社会と労働運動の黎明期に、よりよき企業と社会づくりに影響を与えたのはロバート・オウエンであったが、大正期にそれを与えたのはウィリアム・モリスであり、大正時代は、大正デモクラシーの時代というよりは、大正ユートピアの時代であったと言える。1926年に花巻農学校を退職した宮沢賢治は、『農民芸術概論要綱』に「芸術をもってあの灰いろの労働を燃やせ」「芸術の回復は労働に於ける悦びの回復でなければならない Morris“Art is man’s expression of his joy in labour”」とメモし、羅須地人協会を立ち上げる。羅須地人協会は、宮沢賢治にとっての謂わばケルムスコット・ハウスであり、それ自体がユートピアであったのだと私には思える。

 大正ユートピアと言うと、誰もが思い浮かべるのは、白樺派は武者小路実篤の「新しき村」であろうか。1918年に日向の地に創設された「新しき村」は、1日6時間の労働のほかは本を読むも、詩を書くも、絵を描くも自由、やがては図書館、美術館、公会堂、病院もつくろうと理想社会を想い描いたが、現実的には慣れない農作業と粗食にたえられずの離村者も多く、武者小路実篤の執筆活動による収入と村外支援者からのカンパでしのぎながら、現在も埼玉県の毛呂にて継続しているのは、立派なものである。
 もうひとつ、白樺派にはコスモポリタンな傾向がある。関川夏央の『白樺たちの大正』(文春文庫)を読んで驚いたのは、魯迅の実弟の周作人が1919年頃に「新しき村」を訊ねて村外会員にもなり、当時中国で胡適や陳独秀が創刊した啓蒙雑誌『新青年』に「日本の新しき村」という文章を載せて注目を集めたということと、翌年、毛沢東が周作人を訪ねて「新しき村」の話しを聞いたということであった。魯迅が夏目漱石に傾倒して本郷西片の旧漱石邸に住み、夏目漱石の『クレイグ先生』に刺激されて『藤野先生』を書いたという話しとも合わせて、これも謂わば「グレイト・ウェイヴ」の小波であろうか。

 同じく白樺派の有島武郎は、1922年に、自らが所有する北海道の農場を小作人たちに解放し、産業組合法に基づく「有限責任狩太共生農団信用利用組合」とした。これは、土地が再度買い取られて小作人に再転落しないように、土地を組合による共同所有にして各耕作者は組合員として運営参加するという方式であり、有島武郎による私有財産の自己否認であった。有島武郎は、この仕組みを東北帝国大学以来の友人で共にアメリカ留学した森本厚吉に相談してつくったのだったが、森本厚吉は1922年に賀川豊彦が日本農民組合をつくった時に、その評議員にもなった人でもあった。
 有島武郎は、学習院を経て札幌農学校に入学、新渡戸稲造の家に寄宿し、やがてキリスト教に入信、1903年にはアメリカに留学。留学中はホイットマンの詩に親しみ、学業終了後はイギリスに渡ってクロポトキンにも面会、1907年に帰国。1910年に発行の雑誌『白樺』の同人になった。

 前に、もし漱石が私費でアメリカ留学してホイットマンを勉強していたらと書いたが、正にそれをやったのが有島武郎だった。それでどうなったかと言うと、父が横浜税関長で、幼い頃から英語による教育を受けた有島武郎にとって、欧米文化の受容は自然であった。三四郎にとって美祢子はアンコンシャスヒポクリシーであったが、『或る女』の葉子はあからさまにコンシャスヒポクリシーなのである。有島武郎が、『白樺』に『或る女』の連載を始めたのは1911年で、それは夏目漱石の『門』が朝日新聞に連載されるわずか1年前のことである。同じく不倫、姦通を扱いながらも、その表現はまるでちがう。夏目漱石は景を描いて心を表すのに対して、有島武郎はひたすら心を描くといったところだろうか。
 1914年に、夏目漱石は『こころ』に明治の終焉を描く。夏目漱石と有島武郎のちがいは、明治と大正のちがいであろうか。夏目漱石の潰瘍を礎に、大正ユートピアは可能になったと言えなくもない。有島武郎は『或る女』の広告文に、「畏れる事なく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底には何かがある。若しその底に何もなかったら人生の可能性は否定されなければならない。私は無力ながら敢えてこの冒険を企てた」と書いた。大正期とは、「敢えてこの冒険を企て」ることが可能な時代であったのである。
 1922年に大杉栄は、ベルリンで開催される国際アナキスト大会に出席するために日本を脱出するが、その金策のために大杉栄が最後に頼ったのが有島武郎であった。訪ねて来た大杉栄に、有島武郎は千円という大金を渡したという。有島武郎は、1923年6月に「婦人公論」記者の波多野秋子と情死し、大杉栄は同年9月に憲兵隊の甘粕大尉によって虐殺された。

 大正期に、文学者の想い描いたユートピアで言えば、もうひとつ1919年に佐藤春夫の『美しい町』がある。日本人を母に、アメリカ人を父にもつと称するアメリカ帰りの男が、隅田川河口の中洲に「美しい町」をつくろうとする話である。男は「美しい町」に住む人の資格として「彼自身の最も好きな職業を自分の職業として択んだ人。さうしてその故にその職業に最も熟達して居てそれで身を立ててゐる人。商人でなく、役人でなく、軍人でないこと」をあげ、時々、ウィリアムモリスの『何処にもない処からの便り』を読んでいる。そして折にふれ、「今、我々が生活している社会生活は、金銭の無限な勢力という可笑しくて奇怪な言説・・危かしく醜悪な建築物で・・それの改善を叫ぶ人々でさへもそのグロテスケンの一種をもう一つ加へるに過ぎない」と語る。『美しい町』は、御伽噺のような小説である。
 佐藤春夫は、一高の受験を放棄して慶応義塾文学部の予科に入り、あまり授業には出なかったというが永井荷風に学んでいる。詩を書き、絵も描く才人で、大杉栄や辻潤とも交流があった。隅田川が小名木川と合流する万年橋の横に芭蕉記念館の別館があり、その屋上から見ると目の前に優雅な形状の清洲橋があって、その先が中州である。芭蕉記念館の別館の屋上には芭蕉の像もあって、夕暮れに、芭蕉の像に重ねてライトアップされた清洲橋の向こうに『美しい町』の幻影を見るのが、私は好きである。

参考図書:伊藤信吉『ユートピア紀行』(講談社文芸文庫)
      関川夏央『白樺たちの大正』(文春文庫)
      『世界の名著41』中央公論社

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