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2008年5月 2日 (金)

夏目漱石の『私の個人主義』

 「余は如何なる点からしても戦争と云う事に幾分の趣味も有する事が出来ない。又国家と云うものを尊重する事が出来ない」という永井荷風の一文は、夏目漱石の『私の個人主義』にある「必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません」という一文を思い起こさせる。

Photo  『私の個人主義』は、漱石が1914年に学習院で行った講演で、聴衆は学習院に学ぶ支配階級の子弟たちである。漱石は、支配階級の子弟たちに向けてこう言う。
「今までの論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三ヵ条に帰着するのであります」(岩波文庫『私の個人主義』p126)と。要は、漱石は「ノブレス・オブリージュ」を説いている訳である。

 そして、さらに漱石が「実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません」と書いたのを見れば、やはり荷風が「「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。・・フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる」書いたのを思い出す。

 荷風はアメリカを嫌ったが、アメリカ流の自主独立にして公共的な市民精神は会得した。同じく、漱石はイギリスを嫌っても、イギリス流の自由主義と個人主義は会得していたのである。『私の個人主義』で、漱石はさらにこう述べる。
「それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。・・・私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務というものを納得せられん事を願って已まないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです」(岩波文庫『私の個人主義』p129)と。

Photo_2  日本に帰った後の漱石と荷風の文学行為は、その本質において通底している。大逆事件とすれちがった荷風は『花火』を書いたが、漱石は『私の個人主義』に「彼ら(イギリス人)は不平があると能く示威運動を遣ります。しかし政府は決して干渉がましい事をしません。黙って放って置くのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴は働かないのです」(岩波文庫『私の個人主義』p128)と書き、同年に『こころ』を書いた。「御大葬の夜私はいつものとおり書斎にすわって、合図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました」と。

 フローベールの『感情教育』を読むと、フローベールにとって若き日に体験した2月革命とその反動であった6月事件は、近代化と文学にとってのひとつのイニシエーションであったのではなかろうかと思う訳だが、日本の近代化と文学にとっては、明治維新と大逆事件がそうであったのではないかと思う。明治は終っても、日本は外発的な近代化を「上滑りに滑って」いかねばならず、それは現在にいたるまでつづいている。荷風は、やがて国家主義的になっていく時代の中で、引きこもりと脱国家主義的空間への放浪をくり返す。そして、私がフーテンしながらこんなことを書いているのも、所詮はそのつづきを生きているのだと、私は勝手に思っているのだ。

 さて、次にアメリカにとって近代化のイニシエーションは何であったかと考えると、南北戦争(1861-65)であったかと思う。19世紀初頭のイギリスにおける産業革命と資本主義の進展は、国境を超えて市場を拡大させ、戦争をも含めて旧い社会を変えていった。1853年に日本に黒船が押し寄せ、1860年には日米修好通商条約を結ぶために日本から遣米使節団が送られ、それを見たホイットマンが「ブロードウェイの行列 日本使節団を歓迎して」と言う詩を書いたことは前に書いた。ウォルト・ホイットマンは、印刷工や小学校教師、民主党系の新聞社の記者や編集者をする政治ジャーナリストであったが、1855年に詩集『草の葉』を出版、以後、生涯にわたって『草の葉』を改版する。そして南北戦争後、1866年にリンカーン大統領が暗殺されると、ホイットマンは次の書き出しで始まる「遅咲きのライラックが前庭に咲いたとき」という詩を書いている。

“遅咲きのライラックが前庭に咲いて、
 西の夜空に大きな星が早くも沈んでいったとき、
 わたしは嘆き悲しんだ、そしてなお、永久に帰ってくる
 春ごとに嘆き悲しむことであろう。・・・”

 ホイットマンにしてはめずらしい叙情的な詩である。ホイットマンが『草の葉』に描こうとしたのは、アメリカという国の原風景であったが、この詩は、南北戦争前後からの産業発展の中で失われていくアメリカの原風景へのオマージュであるような気がする。そして、アメリカ人の近代化への対抗は、いつでもそんな形をとっている。
 南北戦争後のホイットマンは、アメリカ資本主義の発展からは離れて、ニュー・ジャージー州キャムデン近郊に住んで自然の中で暮し、漱石や荷風と同様に『日記』を書いた。そこに「わがアメリカの優秀性と生命力は、われわれの一般大衆の中にあるのであって、旧世界におけるように紳士階級の中にはないのです」(『自選日記・下巻』P109)とあるように、相変わらずポピュリストであり自然主義者であったのだった。

 ホイットマンは1892年3月に亡くなるのだが、同年10月に若き夏目漱石は「文壇における平等主義者の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」という文章を書いたことは、前にもふれた。その後、1900年に夏目漱石は文部省派遣の留学生としてイギリスに渡り、産業化の進んだ近代西洋を目の当たりにした漱石は、ノイローゼになって帰国するのだが、もし漱石がその5年後に私費でアメリカに渡った永井荷風と同様に、私費でアメリカに渡ってホイットマンとかエマソンの研究でもしていたら、果たして漱石はノイローゼになっただろうか。そして、もし幸徳秋水が1905年にアメリカでなくて、イギリスに亡命していたら、果たして幸徳秋水は如何なる社会主義者として帰国しただろうか。
 次は、また少しだけ19世紀末から20世紀初頭のアメリカへもどってみる。

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コメント

ダルマ舎さん
 連休頑張っていますね。小生、作並で庭仕事と館のガイドに精出しています。アメリカとべラミーについて、リライトが始まったので期待しますが、その前に「漱石の個人主義」面白く読みました。荷風との対比も面白いですね。ただ、漱石も荷風も、余りよく読んでいないので書き込む資格なし。申し訳ありませんね。
 その代わりと言うのも何ですが、作並で桜井君の編による宇野先生の「『資本論』と私」を読んでいたら、インテリの資格として、宇野先生がよくわれわれに「社会科学としての経済学を通じて己の社会的な客観的役割を理解し、文学により直接その心情を通して己の人間としての居場所を知る」これがインテリになる条件だ、と繰り返されていたことを紹介しています。
 別にインテリを自任する気はありませんが、学問する人間として、小生も忘れられない言葉として、絶えず念頭にあります。文学は広く文芸でしょうが、モリスと『資本論』のマルクスの関係も、2人のインテリの交流として考えたいですね。
 参考までに。

投稿: 大内秀明 | 2008年5月 5日 (月) 11時50分

先生、コメントありがとうございます。

4月に入ってから仕事をしないで、『本』の構想ばかりしています。構想する本の書名は『脱労働力商品論』とし、以下の章立てを考えていています。

1.脱労働力商品論
2.世界はつながっている
3.脱共同体の共同体論
4.ユートピアとしてのコミュニティ

今ブログにリライトしているのは、2章の「世界はつながっている」の部分で、「世界はつながっている」の意味は「脱唯物史観的歴史の見方」です。
この部分は、文学論的に書けるので、私には書き易いのですが、他の章は私には手におえないところがあるので、ご相談したいところです。

それで、館に伺いたいのですが、5月中に片付けなければならない仕事があって、それが済んだら伺おうかと思っています。

投稿: ダルマ舎 | 2008年5月 5日 (月) 15時31分

平山君
 
 本の構想、だんだん固まってきますね。お手伝い出来るところは、協力します。ゆっくりご相談しましょう。

 率直な感想ですが、本の題名硬すぎませんか?脱労働力商品論はサブタイトルにして、「人間はなぜ働かなければいけないのか」と言った感じに出来ませんか?

 君の書き始めている「世界はつながっている」は、良いですね!他も、そんな調子でどうですか?

 小生、SBIの総会もあり、29日から上京します。その時でも少し相談しませんか?

投稿: 大内秀明 | 2008年5月 5日 (月) 18時56分

タイトルを「脱労働力商品論」としたのは、読者となるかもしれない若い人たちに、宇野経済学のエッセンスを知らせたい、ということがあります。昨年末に行った「宇野弘蔵没後30周年集会」で感じたことは、若い人がそれに関心を持てるように、宇野理論を語らなくてはダメだということです。

『本』の書き出しは、序章「賢治とモリスの館」ということで、
“私がその館に行くようになったのは、会社勤めを辞めた後、50代の半ば頃からであった。”
というふうに始めようかと思っています。

要は、物語のように、読みやすくしたい訳ですが、宇野理論のエッセンスは、正確に伝えなくてはいけないので、そこをお願いしたいところです。
先生が以前書かれた『「資本論」の常識』を、さらに分かりやすくした『労働力商品論の常識』といったところですかね。よろしくお願いします。

投稿: ダルマ舎 | 2008年5月 5日 (月) 20時26分

平山君

 まだ作並です。
 貴兄のお考え、分かりました。大賛成です。
 ともかく、ゆっくり話し合いましょう。
 君の仕事の進行状態をみて、29日か30日に会えればと 思います。
 作並にご来訪、大歓迎です。
  
 宜しく。 

投稿: 大内秀明 | 2008年5月 6日 (火) 10時25分

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