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2008年5月23日 (金)

アナ・ボル論争と測機舎

 武者小路実篤は、日向の「新しき村」のほかに、1920年に村の印刷・出版部門として、池袋に近い長崎村に曠野社をつくった。曠野社は、千坪ほどの土地を持って菜園も営み、「英国の田園工業都市に刺激された、工業と農業の合体したコミューンの実験であった」とされるが、村外から雇用した専門の印刷工の解雇問題から、1926年に争議が発生し、「曠野社は人道主義の美名を借りて営利会社的行動をとった」と批判されたという。
 ラスキンと同様に、白樺派も大正末期にはその影響力を失っていく。それに取って代わったのは、ロシア革命以降、急激に影響力を増したコミンテルン系マルクス主義であった。ロシア革命を勝ち取ったヴォルシェヴィズムはマルクス主義の正統派であり、それは何よりも進歩と真理につながっているように思えた。だから、それを真理だと錯覚した人々は、そうでないものは非科学的で、プチブル的か、反動的なものだから、そういった労働組合や農民組合や協同組合には批判的に介入して、機関を取って、階級的なものに変えようとしたのだった。
 賀川豊彦が「今日労働運動で、私の最も厭な傾向は・・・ジャコビン主義にうつって行く事であります。まるで狂気ざたの様に私には見えます」と書いたのは、まさにこのことであった。そして、階級闘争主義というイデオロギー的な呪縛と、より左派を主張することによる執行部の争奪戦という左翼主義は、戦後の新左翼にいたるまで、日本の社会運動の中では圧倒的につづいたのだった。

 1922年頃に、「アナ・ボル論争」というのがあった。当時の労働運動の分裂と再編を背景に、大杉栄と山川均による自由連合か中央集権かという論争であったのだが、1923年に大杉栄が虐殺されたこともあり、これを期にアナキズム、サンジカリズムの運動は衰退していった。その後の社会主義の経過と崩壊から見れば、大杉栄の言う「労働運動は労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲得運動である」(「労働運動の精神」1919年)という方が、現在でも新鮮味を持っている。一方の山川均にしても、「マルクスはこう言っている」みたいな論やコミンテルンの受け売りはなかった。大杉栄も山川均も、共に平民社以来の同志であり、この論争をもって平民社以来の社会主義は終わりを告げたのだった。

 労働者自治の思想と運動は、ロシアでそうであったように、コミンテルン系マルクス主義からは否定された。また、生産協同組合の運動も空想的社会主義と同様に、過去の決着済みの失敗した運動とされてきた。しかし、1980年にICA(世界協同組合同盟)のモスクワ大会でカナダのレイドロウ博士より『西暦2000年における協同組合』が提起されて以降、日本でも生産協同組合の見直しがすすんだ。しかし、生産協同組合の研究者である樋口兼次氏によれば、それは「日本においては労働者生産協同組合は存在しなかったというおおかたの断定を出発点として、西欧の経験をどのようにして移植するかという位置から論じる傾向」にあったという。
 『アナ・ボル論争』(同時代社2005年)という本を読んだら、著者の大窪一志氏は「日本の左翼運動は1990年代の前半にほぼ壊滅した」、「昭和マルクス主義諸党派は・・・すべて山川を中心とした大正ボル派を源流としている」と書いて、すべての責任を山川均に被いかぶせて、おそらくは自らをも含む過去を清算しようとしていた。清算主義と新たなる西欧の経験の移植からは何も生まれはしないというのが、私の感想であった。

 昭和マルクス主義が捨て去ったそれ以前の運動こそ、見直すべきなのだ。樋口兼次氏によれば、まさに大正期の日本に本格的な生産協同組合の運動はあったのであった。
 現在では、船位測定はGPSになってしまったが、それ以前は六分儀でやるもので、日本の六分儀はほぼ銀座の玉屋製であった。第一次世界大戦によって莫大な利益を上げた玉屋ではあったが、職工の待遇は悪く、1919年に職工たちは待遇改善の申し入れを行った。これが退けられ、工場長次席が解任されるに及んで、1920年3月に総勢15名をもって「独立自重の精神」による「労働者自治工場」の「測機舎」が創業されたのであった。この「測機舎」は、1943年に軍要請で株式会社に変更されるまでの23年間、「創業段階で構想された労働者生産協同組合の原型を維持して発展した」のであった。
 この時期の生産協同組合は、賀川豊彦の指導によって結成された「イエスの友大工生産協同組合」ほかいくつも結成されているという。「イエスの友の会」は前にもふれたが、「一、イエスにありて敬虔なること。二、貧しき者の友となりて労働を愛すること。三、世界平和のために努力すること。四、純潔なる生活を貴ぶこと。五、社会奉仕を旨とすること。」の五か条を綱領として、誰でも入会ができた。おそらく「測機舎」を維持させた背景には、この「五か条の綱領」に通じるものがあったのであろう。現在すすみつつある格差拡大と若者のプレカリアート化に対案するには、「労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲」のためのコミュニティづくり、「五か条の綱領」こそ生かされるべきなのだと私は思う。

 山川均は、当初は幸徳秋水に影響を受けたサンジカリストであったが、1922年に『無産階級運動の方向転換』を書いて、日本の社会主義運動は大衆から離れたごく少数の運動であったから、今後は大衆の中に入って行くべきだとし、日本共産党が創立されると、堺利彦らとこれに参加した。この第一次共産党は、関東大震災後に、堺利彦の提案で1924年にいったん解散してしまうが、再建された共産党では福本イズムがはびこり、山川均は福本和夫から解党主義の批判を受けて共産党を離党、1927年に雑誌『労農』を創刊して非コミンテルン系マルクス主義の労農派の中心になり、合法的な共同戦線党を作るべきだという共同戦線党論を展開、戦後は日本社会党左派の理論的支柱となった。
 福本和夫は、1910年に文部省から命ぜられてヨーロッパに留学、カール・コルシュに学び、ジョルジュ・ルカーチとも交流した。帰国後は、結合の前には分離がなされなければならないという「分離と結合」論の福本イズムを展開して大きな影響を与えたが、コミンテルンの「27年テーゼ」で批判された。その後、長期に入獄。戦後は「日本ルネッサンスの研究」や「フクロウの研究」で知られている。
 福本和夫がヨーロッパ留学から帰国する際、ドイツ留学から帰る宇野弘蔵と船が同じだったという。ここから先は、別項にてつづけたい。

 武者小路実篤の曠野社には、「新しき村」に参加した木村荘十二が住んでいたという。木村荘十二は傾向映画の監督で知られ、戦後に外地から引き上げた後、晩年は江東区大島の団地に住んでいた。奥さんが私のいた生協の組合員で、私が共同購入の配送をしていた頃、配送でうかがうと、夏の暑い時などいつでもキリンレモンを出してくれた。夫婦で団地の子供映画会を主催していて、自作のベトナム映画の上映会などに何度か行ったことがあるし、戦後の代表作の『千羽鶴』は、生協でも上映会をやったりした。
 1970年代当時、東京の東部地区では、倒産企業による自主再建闘争が闘われていた。大島というのは亀戸の隣で、大島団地のある場所は元々は日立だったか東芝だったかの大工場の跡地であった。1917年に、大杉栄は「労働者町に住みたい」と亀戸に移り住んだのだったが、下町の生協に入って江東区に移り住んだ頃の私も、そんな思いであったのだった。

※参考文献:樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティヴ』時潮社2005年
 「近代日本思想体系19(山川均)」筑摩書房
 「近代日本思想体系20(大杉栄)」筑摩書房

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