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2008年5月17日 (土)

加藤時次郎

 さて、石川三四郎の『消費組合之話』であるが、石川三四郎は何処から協同組合のことを学んだのだろうか。1897年に高野房太郎らによって日本初の労働組合である労働組合期成会がつくられたことは前に書いた。初期の労働運動においては、共済組合や共働店をつくることが運動になっていて、実際に高野房太郎や片山潜による啓蒙活動によって、期成会の中心組合であった鉄工組合の支部には全国で20あまりの共働店がつくられた。また、片山潜は『六合雑誌』や労働組合期成会の機関誌『労働世界』で、イギリスにおけるロッチデールの協同組合や消費組合運動の歴史や機能を紹介したから、石川三四郎もそれらから学んだものと思われる。

 高野房太郎が労働組合期成会をつくる際、それに協力した秀英舎の佐久間貞一がいた。秀英舎は大印刷工場(大日本印刷のルーツ)で、「社員持株制による労使協同会社の実験」であり、その経営者であった佐久間貞一は日本のロバート・オウエンと呼ばれた。日本にロッチデールやロバート・オウエンが紹介されたのは、片山潜らによるものよりもずっと早く、「イギリスで展開した協同組合思想は、日本では明治初期に輸入書籍が流入するとともに、その翻訳書によって普及し」、「日本人によるイギリス消費組合の紹介は、1878(明治11)年『郵便報知新聞』に掲載された馬場武義の「協力商店創立ノ議」が最初である。この翌年、共立商社その他の日本初の消費組合が設立された」(※一橋大学附属図書館HPより)のだった。資本主義や株式会社が未発達な中で、法人企業のひとつの形態として試されたのだと思うが、当時の実業家には、それをやってみようという志もあったということであろうか。

 期成会による共働店は、1900年に制定された治安警察法によって壊滅してしまう。では、石川三四郎の『消費組合之話』を発行した平民社の周辺では消費組合はどうなったのかと見てみると、ドクトル加藤こと加藤時次郎というドイツ帰りの医者が、消費組合づくりを試みている。加藤時次郎は、帰国後、幸徳秋水や内村鑑三や堺利彦と知り合い、社会問題に開眼し、1903年に「直行団」を組織して、機関誌『直言』を発行し出す。そして、この直行団が取り組んだのが消費組合づくりであった。結局、この消費組合づくりは、組合員が集まらなくて成立しなかったのだが、加藤時次郎は『平民新聞』の発行資金を提供し、1905年に『平民新聞』が廃刊になると、『直言』がその代わりをなしている。

 大杉栄が日本脱出をした時に、その金を出したのは有島武郎であったという。では、幸徳秋水がアメリカに脱出した時、その金は誰が出したのかというと、加藤時次郎であった。堺利彦と同郷でもあった加藤時次郎は、1908年に堺利彦が入獄すると、娘の真柄をあずかって育て、福田英子の母や菅野すがが病気になれば自分の病院に入院させてこれを直し、幸徳秋水の刑死をアメリカのエマ・ゴールドマンに知らせ、彼女から送られてきた義捐金を堺利彦に渡し、逆に、荒畑寒村がIWWのための義捐金を募集すれば、これにカンパをし、貧乏アナキストの渡辺政太郎に病院の仕事を手伝わせ、失意の片山潜の渡米の際には送別会を催し餞別を贈っている。要は、社会主義運動のパトロンであって、大逆事件の後、社会主義からは身をひきつつも、サポーターではありつづけたのだった。

 しかし、加藤時次郎は、社会運動の単なるサポーターではなかった。1915年には、加藤病院を「平民病院」と改称して独力で実費診療を開始。1916年には、「平民法律所」を設置して法律相談を開始。1917年には、社会政策実行団を発足させて「一個の強大なる人民生活団体」を志向して機関誌『平民』を発行。『平民』の編集は堺利彦が担当して、自ら翻訳したウィリアム・モリスの『理想郷』も掲載。1918年には、芝区烏森町の「平民倶楽部」の地下に相互扶助の事業として「平民食堂」を開設。1919年には、「平民パン工場」と「平民パン食堂」を開設した。なんらかのかたちで加藤時次郎の事業を利用する人々は、累計20万人いたという。
 さらに、1921年には、横浜にあった造船所の社宅を買い取って、「安価な住宅を中心に共同の食堂、物置、炊事場、野菜・薪炭も共同購買所など共同相互扶助施設」をもった「理想的住宅組合」である「平民知労組合」をつくった。もうほとんどロバート・オウエンの世界である。加藤時次郎は、「予は共産主義者としてよりも、社会改良家としての彼を想ふ」とロバート・オウエンに言及している。佐久間貞一が明治のロバート・オウエンなら、加藤時次郎は大正期のロバート・オウエンであった訳である。

 ロバート・オウエン的試みを、加藤時次郎は自分の資産の許す限り試みている。しかし、事業が拡大すれば、それを担う者への理念の徹底はうすれ、事業に寄生しようとする者も現れ、赤字になる事業もあれば、左派からの批判も起きてくる。共同事業の崩壊は、ロバート・オウエンの時代から現代にいたるまで、その原因に大きな違いはない。そして、1923年9月に起きた関東大震災は、加藤時次郎の事業にも大きな打撃を与えた。

 加藤時次郎は、1930年に73歳で亡くなっている。活動は晩年までつづき、加藤勘十や山崎今朝弥との関係から日本労農党や社会大衆党の結成にも関わり、堺利彦が総選挙に出馬した時には資金をカンパしている。社会主義者であるよりは、社会民主主義者であった訳だが、社会運動の趨勢はコミンテルン系が影響力を強めつつあった。

 加藤時次郎の研究家である成田龍一氏は、「加藤は都市民衆の相互扶助を基礎におき、独力で公に頼ることなく事業を次々に拡大し、意識的空間を切り拓き、共同社会実現の布石を敷いた」(※p210)と、加藤時次郎を大正デモクラシーの一翼に加えている。
 近年、社会民主主義や社会的企業が言われているが、この国に何故それらが根付かなかったのかを考えれば、加藤時次郎が「忘れられた社会運動家」になっていることにもつながっているように思う。これらの見直しは、避けて通れないところである。

Photo ※参考文献:成田龍一『加藤時次郎』(不二出版1983)

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