« IWWとその可能性 | トップページ | 加藤時次郎 »

2008年5月15日 (木)

石川三四郎

 アメリカでIWWの活動が活発であった頃の日本は、社会主義運動の黎明期であった。黎明期の労働運動であった高野房太郎らの労働組合期成会は、やがて労働組合主義の高野房太郎と社会主義政党運動にシフトした片山潜に分かれ、1900年3月に専制主義的な山県内閣によって制定された治安警察法によって壊滅させられてしまった。
 その後の運動は、キリスト教社会主義者の安部磯雄や片山潜らを中心に社会主義政党づくりへとすすみ、1901年4月には社会民主党が結成されるが、直後に結党禁止となり、やがて日露戦争をむかえる中、非戦論を唱える幸徳秋水らの平民社に移った。『平民新聞』も度々の発行停止で1905年には廃刊となるが、1906年に「いくぶん進歩的自由主義的」な西園寺内閣が成立して社会主義に対する取り締まりが緩和され、堺利彦らを中心にして合法的な日本社会党が結成されたが、1906年にアメリカから帰国した幸徳秋水はゼネストによる社会変革というサンジカリズムの運動を提起し、日本社会党内は幸徳秋水らの直接行動派と片山潜らの議会政策派に分裂し、1907年には解散させられた。
 
72  さて、ある時、神田の古本屋街を歩いて、辻潤の『浮浪漫語』という本を見つけた。昭和29年に発行された3巻本の1冊で、全巻不揃いのせいか安かったので買うと、その中に1枚の写真があった。1907年8月に九段下の教会で開かれた「社会主義夏季講習会」の最中に角筈の十二社で開かれた園遊会に集まった人々の写真であった。そして、本に挟まっていた全集の「月報」には山川均が以下のように書いていた。
 「日本社会党の解散とともに、社会主義運動は革命派と改良派に分かれた・・・この年の8月1日から10日まで、社会主義夏季講習会が開かれたが、講演者は『社会主義史』田添鉄二、『法律論道徳論』幸徳秋水、『社会の起源』堺利彦、『社会主義経済論』山川均、『労働組合論』片山潜、『ストライキ論』西川光二郎で、両派から講師を出しているが、この講演会がおそらく両派の協力した最後の機会であったろう」と。

 この写真には、上記のそうそうたる講師陣のほかに、大杉栄や福田英子から辻潤と中里介山まで写っている。辻潤が、渡辺政太郎の紹介で大杉栄と初対面するのは1914年であるから、ここではすれちがいということだったのだろうが、福田英子もいるのにと思われるところでもある。後に辻潤が渡辺政太郎と出会ったのは、染井にあった福田英子の家であった。

 福田英子は旧姓景山英子といい、自由民権運動家の大井憲太郎が朝鮮の独立を支援しようとして起こした大阪事件の際、爆弾の運び役をやった女性であり、その辺りのことは彼女の書いた『妾の半生涯』に詳しいが、大井健太郎と別れた後は福田友作と再婚して福田英子となり、1907年に『世界婦人』を発行した。『世界婦人』の発行人は、当時、福田家に出入りしていた石川三四郎であり、これは筆禍事件で福田英子が刑務所入りをしないで済むようにということであったからで、案の定、石川三四郎は『世界婦人』に書いた評論の筆禍事件で1907年から1年間、巣鴨監獄に入獄している。

 石川三四郎はリスト教社会主義者で、1903年に幸徳秋水や堺利彦が創刊した平民社に参加し、1905年の『平民新聞』の廃刊後は、木下尚江や安部磯雄らと『新紀元』を創刊。1906年には谷中村をたびたび訪問して田中正造と出会い、堺利彦から日本社会党に誘われた時に、『堺兄に与へて政党を論ず』に「然り供の日本社会党を愛すること甚だ深し。然れども我が社会主義を想ふは社会党を想ふよりも更に大に深厚なり・・・故に遂に大兄が厚情親切にも背きて社会党に入ることを思ひ止まりし也」と書いたのだった。

 では、石川三四郎の「我が社会主義を想ふ」は何かと言えば、巣鴨監獄で書かれた『虚無の霊光』によれば、私的には以下のようである。
 「自我に自治の能力あればこそ、協同生活の実も挙がるのである。協同生活の実挙がりて此に始めて社会が成立するのである。・・・カルヽ・マルクス等の社会民主々義は産業及び政権の統一を主張し、クロポトキン等の無政府共産主義では産業及び政権の分置を唱導して居る。・・・戦争には統一制度を必要とし、平和には自治制度を便利とするので、夫の人生進化の動的観察に基きて階級戦争論を唱導するに至ったマルクスは自然に統一主義に傾き、人生理想の静的観察に基いて相互扶助論を主張するに至ったクロポトキンは自然に自治主義に傾いたのである」。
 「此精神的無政府主義のトルストイや、前掲の個人的無政府主義のスチルネルが、共に理想の満足を将来に望まんとするを排して之を脚下に求めよと唱へたのは甚だ面白い。未来は永遠に到来せぬものである。個人の平安は常に個人の脚下に在る」と。

 辻潤がマックス・シュティルナーの『唯一者とその所有』を翻訳して、『自我経』として出版したのが1920年だから、その10年以上も前におそらく英訳本で読んだのだと思われるが、その要諦を「理想の満足を将来に望まんとするを排して之を脚下に求めよと唱へた」ととらえて、「未来は永遠に到来せぬものである。個人の平安は常に個人の脚下に在る」としたのは、はなはだ卓見であって、これは『ドイツ・イデオロギー』におけるマルクスの「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成さるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる」という書き込みにも通じている。若きマルクスが心はどこか「聖マックス」に通じていながらも、エンゲルスと共に「聖マックス批判」をやって、さらに「統一制度」としての社会主義を唱え、やがて石川三四郎に「自治制度」と対比されているのは、日本の黎明期の社会主義の水準の高さを思わせるものがある。

 『虚無の霊光』には、さらに「前段捿々言へる如く消極的厭世は変じて積極的の革命となるのである。達磨大師も『捨世塵而欲求道者宛如求兎角(せじんをすててみちをもとめんとほつするはあたかもとかくをもとむるがごとし)』と言はれたそうだが、今は之に一言を加ふるの余地も必要もあるまい」ともあるが、これなどほとんど我ダルマ舎の精神でもある。そして、『虚無の霊光』の序に、「此書は亡父十三回忌の紀念として親戚故旧に頒たんが為めに編輯したのである。固より、財産無く、才智無く、学識無く、定まった住家さへ持たぬ今日の我が身にとりては、恩愛深き故人を紀念するにも、僅かに此みすぼらしき小冊子を世に出すが精一ぱいの事である」とあるのを読めば、老いた父がありながら、還暦を前に本当の「財産無く、才智無く、学識無く」状態で、「僅かに此みすぼらしき小冊子を世に出す」とこを企てるわが身の「虚無」を思うばかりである。

 1910年の大逆事件の後、日本の社会主義運動は「冬の時代」に入った。1908年の赤旗事件で入獄していたおかげで難を免れた人々のうち堺利彦は四谷の自宅に「売文社」の看板を掲げて売文業で糊口をしのぎ、山川均は故郷の岡山に帰って薬屋をやり、大杉栄は荒畑寒村と後に「知識的手淫」と自嘲した雑誌『近代思想』を刊行した。そして、『世界婦人』に書いた評論の筆禍事件で刑務所に入っていた石川三四郎も難をのがれ、1913年にヨーロッパに亡命し、帰国したのは1920年であった。

 クリスチャンでもあった石川三四郎は、直接行動主義というよりも求道者的なところがあって、7年にわたるヨーロッパ亡命から帰国した後は、イギリスでカーペンターから学んだ「土民生活(デモクラシー)」を唱え、1924年には安部磯雄らと日本フェビアン協会をつくったりもしたが、1927年からは多摩郡千歳村で、農耕と著述の生活に入ったり、戦後まで生きた。戦後に書かれた『50年後の日本』などは、短編ではあるが、名称的にもE.ベラミーの『かえりみれば(100年後の世界)』を意識したユートピア小説であり、そこには多様な協同組合の複合による協同社会が描かれている。

 石川三四郎は、1904年に『消費組合之話』という冊子を出している。その翌年、これを読んだ若き賀川豊彦は大きな感銘を受け、やがて日本の協同組合運動の指導者になり、世界最大の消費組合であるコープこうべをつくった。亡命中はフランスで農民生活をし、帰国後は農耕と著述で戦中期をくぐった石川三四郎は、協同組合運動の実践をした訳ではなかったが、「購買組合、信用組合、販売組合、生産組合、水利・電利組合、保険組合、教育組合、警察組合」といった組合が複合化された社会が、たえず「変化発展」していくという石川三四郎が描いた社会は、既成化した現在の生協に対しても、今また語られる「協同組合地域社会」や「社会的企業」という概念に対しても、それらの在り方の根源を考える上で、示唆に富んだものを持っている。

※このブログは、2007年11月 9日 のブログ「石川三四郎」をリライトしたものです。

|

« IWWとその可能性 | トップページ | 加藤時次郎 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/113260/41211800

この記事へのトラックバック一覧です: 石川三四郎:

« IWWとその可能性 | トップページ | 加藤時次郎 »