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2008年5月 4日 (日)

IWWとその可能性

 19世紀のアメリカに、ベラミーのようなユートピア小説があったというのを意外と思うのは、アメリカには資本主義のチャンピョンのイメージがあるせいなのかもしれないが、そうであればこそ「金ぴか時代」の裏側では、たくさんの抵抗があったのもまた当然であった。1873に大きな恐慌があり、賃下げや不平等の拡大の中で、鉱山や鉄道ではたびたびストライキが闘われた。1886年には鉄道ゼネストに端を発して、5月4日にシカゴでヘイマーケット事件が起きて多数の労働者が犠牲になった。そして、これがメイデイの始まりとなったように、19世紀後半から20世紀の初頭にかけて、アメリカでは労働運動が盛んであった。

 1869年には、生産者、消費者及び流通業者の協同組合の創設などの協同組合的な産業システムを導入することを主張した労働騎士団(KOL)が全国的に結成され、1886年にはサミュエル・ゴンバースが率いるより労使協調的なアメリカ労働総同盟(AFL)がそれに取って代わった。しかし、WASP系の熟練工を中心にした職業別労働組合であったのAFLは、高い組合費による共済制度をもっていたが、非定住型の労働者や新移民の非熟練工が起こしたストライキに対しては冷淡であった。そこで、中西部の鉄道や鉱山や森林や農園で働く労働者や、東部の工場で働く新移民の非熟練工を組織するために産業別労働組合の必要性が提起されて、1905年にAFLを脱退した一部の組合や社会主義者が集まって、IWW(Industrial Workers of the World=世界産業労働組合)を組織したのだった。

 市場経済が国是であるようなアメリカにおいて、「協同主義共和国」を目指したサンジカリズムの労働運動が興隆したということ自体が驚きであるが、その背景には、ベラミーの描いたユートピアへの共感が「ナショナリスト・クラブ」という国民主義的な運動になったことにつながるものがある。政治的にはヨーロッパの社会主義運動の中でかかげられた「普通選挙制度」などは、アメリカでは既に実施されていたし、ヨーロッパに比べて歴史の浅いアメリカでは、人々はその建国の原点と開拓の経験をまだよく覚えていた。
IWWについて書かれた『ウォブリーズ』と『IWWとアメリカ労働運動の源流』には、以下のように書かれている。

 「アメリカでは、西部の大平原一帯にわたって、罠猟師や商人、自営農民、牧揚主や探鉱者たちについての記憶はいまなお生き生きと人々の胸にとどめられており、すでにロマンティクな神話のゆたかな伝統によってちりばめられていた。・・・ヨーロッパの労働者たちは、この当時には賃金制度より他の制度をほとんど記憶によみがえらすことはできなかった。いいかえるなら、彼らは賃金制度にかわるべき制度をはっきりと心にえがくことさえできなかった」(P.レンショウ『ウォブリーズ』日本評論社p76)。
 「19世紀末に別のアメリカ像を夢みた人々は・・・エドワード・ベラミー、あるいはアメリカ南部や大草原の諸州の人民党員、さらには労働騎士団の影響を受けた数百万の労働者であろうとも、ほとんどのアメリカ人は小さな農場や家内工業の仕事場で自分のために働いていた(旧き良き)時代を回顧し想像した。かれらは独立的な小規模生産者が大共和国(アメリカ)の改革のために自主的に協力する経済や社会を現実のものとして描写することができた」(メルビン・ドボフスキー『IWWとアメリカ労働運動の源流』p19)と。

 だから、20世紀の初頭には既にイギリスを抜いて資本主義のチャンピョンになったアメリカにサンジカリズムの運動、正確にはアメリカ型サンジカリズムの運動であったIWWが興隆したのは決して偶然ではなかったのである。IWWは、「労働者による産業の自主管理」や「協同主義共和国」という「もうひとつのアメリカ」づくりをかかげ、非熟練労働者や英語の話せない移民労働者、黒人、日本人までを組合員にして、アメリカを横断してストライキと反乱をくりかえした。その活動家は「ウォブリー」と呼ばれ、移動は貨物列車をただ乗りする「ホーボー」で、街では石鹸箱に乗ってフリー・スピーチして、「ハレルヤ、俺は無頼漢だ」と歌い、留置所に入れられ、リンチを受け、時には一斉射撃で虐殺もされた(1916年のエベレットの虐殺)。組合員数は、最大でも10万人を超えることはなかったが、発行した赤い組合員証は100万を超え、うち10万枚は黒人に対してであったという。発行数と組合員数が異なるのは、発行しても移動をくりかえす貧しい組合員からは、持続的に組合費を集めることが困難であったからだった。そして彗星の如くきらめきながらも、弾圧でわずか20年足らずで壊滅したのであったが、その後、貧乏人に語り歌い継がれて伝説となり、そこには後に対抗文化へと引き継がれる全てのルーツがあるのだった。

 私は、ドス・パソスやダシール・ハメットやジャック・ケルアックの小説の中に、IWWという言葉を時々見かけた。新しいところではサラ・パレツキーの女探偵ウォーショースキーのシリーズに、ミスタ・コソトレーラスという「組合のころ殴り合いに明け暮れていた」元機械工でウォーショースキーの保護者顔のジジイが出てきて、ウォーショースキーを守るためにパイプレンチを振り回す。彼などはIWW型労働運動家の末裔の味がする。例えば、『レディ・ハートブレイク』には、次のシーンがある。
 「正午、護衛隊の第一陣が到着した。ミスタ・コソトレーラスは作業服を着て、ベルトにパイプレンチを下げていた。・・・連中は路地で見つけた角材や壜を打ち振りながら、じりじり迫ってきた。わたしたちが止める暇もないうちに、ミスタ・コソトレーラスがパイプレソチを抜き、一番近くの暴徒に向かって突進した。ソコロフスキーとクルーガーが待ってましたとばかりに続いた。年寄り三人がいかにも良識ある人間らしく楽しげに、ぜいぜいいいながら戦いの場に飛びこんでいく姿は滑稽でさえあった」と。

 さて、こんなジジイなら私の周りにもけっこういる。IWWは、1913年にオハイオ州のファイアストーン・ゴム会社で6週間にわたるストライキを指導した。ファイアストーン・ゴム社は全米一の自動車タイヤメーカーであったが、1988年に日本のブリジストン社によって買収され、その後、争議が起こった。そして、この争議団が支援を求めて来日した時に、連合が冷たかったのに対して、少数でありながら全力で支援したのがこの手の活動家たちであった。

 IWWの研究家である久田俊夫氏は、「(IWWは)20世紀初頭のアメリカにおいて、政治的救済を得られない不熟練労働者や外国移民の組織化の必要から誕生したアメリカ固有の革命的労働運動であった、ということである」(『妖怪たちの劇場』厳松堂出版p132)として、フランスなどからのサンジカリズムの影響については否定的であるが、P.レンショウの『ウォブリーズ』(1973社会評論社)には、「IWWの創立者たちがシカゴに集ったとき、彼らがなによりも自分たちの運動に刺戟をあたえ模範となることを期待した国はフランスだった・・・1906年のアミアン憲章Charter of Amiensは、直接的な改良のための煽動を、資本主義打倒のための長期的な計画と結合した」、「多数のIWWの創立者たちはアミアン憲章を熟知していて・・・フランス人たちと同様に、労働者階級の権力は、直接行動とゼネストによって彼らが工場や鉱山を占拠し、資本家をロックアウトし、国家を支配するときに獲得されるものと信じていた」(P66-68)としている。

 果たしてどちらが正しいのかと言うよりも、メルビン・ドボフスキー『“ビッグ・ビル”ヘイウッド』(批評社)に、「1870年と1919年の間に展開されたアメリカの職業別組合主義、社会主義、それにサンジカリズムの歴史はより広い西洋世界における数々の重要な出来事の一部分であった。・・・それはまた19世紀と20世紀初頭のアメリカと他の産業先進国の歴史と深い係わりをもっていた」と書いている。

 IWWのサンジカリズムは、イギリスの労働運動に影響を与え、幸徳秋水をつうじて日本にもたらされた。それは、ベラミーが『かえりみれば』を書き、堺利彦がそれを翻訳した今から100年前の「世紀の転換期」にも、既にヨーロッパとアメリカ、それに日本にまで及ぶ「協同主義のグローバリズム」の波があったということなのではなかろうか。

 100年後にアントニオ・ネグリは、IWWについてこう書く。「この点に関して私たちは、聖アウグスティヌスが類廃的なローマ帝国に抗すべく呈示しか、あるプロジェクトの構想から着想を受けとることができるかもしれない。それによれば、境界を画定されたいかなる共同体も、帝国の支配に対するオルタナティヴを用意することに成功しなかったのである。このことを成し遂げうるのは、すべての人びと〔住民〕とすべての言語を共通の行程に結集させる、普遍的ですべてを包含する共同体のみであった」、「このような視点からみると、世界産業労働組合(IWW)は、現代における偉大なアウグスティヌス的プロジェクトである、と言えるだろう。20世紀の最初の20年ほどのあいだに、ウォブリーズと呼ばれた組合員たちは、マサチューセッツ州ローレンスとニュージャージー州パターソンからワシントン州エヴァレットにいたるまで、合衆国を横断しつつ強力なストライキと叛乱を組織してまわった。・・・それは、固定的かつ安定的な支配構造を打ち立てることなく、旧い社会の殼のなかで新しい社会を創出したのである。・・・ウォブリーたちは、膨大かつ流動的な移民のあいだで、並外れた成功を収めた。・・・ウォブリーは中心の不在、IWWの闘争性の柔軟で予測不可能な遍歴を指示するものと推定される。また、・・・IWWが主に重視していたのはそのプロジェクトの普遍性であった。ありとあらゆる言語および人種に属する労働者たち、ありとあらゆる職業に属する労働者たちは、世界中から(じっさいにはメキシコまででしかなかったが)“一大組合”に結集すべきなのだ。」(『帝国』以文社p271-273)と。

 私が時々顔を出す労働組合の事務所は、いつでもたくさんの外国人労働者と、解雇されたアルバイターの若者の相談でにぎわっている。また巡り来た「世紀の転換期」と新たな「帝国」化の始まりにあって、聖アウグスティヌスからこの地点まで世界はつながっていると言うよりは、つなげていかねばならないというのが、ここでの結論である。

※以上は、2006年5月3日に書いた「ベラミーからIWWへ」と、2006年5月8日に書いた「アメリカのサンジカリズム」のブログをリライトしたものです。

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