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2008年5月24日 (土)

ディケンズ

 ここから話しが、大正時代の日本から19世紀のイギリスへと飛ぶ。飛ぶと言うよりは、時代的には逆戻りするのだが、世界はつながっているのだから、どこから書こうが、どこから読もうが、あまり変わらない。要は、明治・大正の黎明期の社会運動に、日本の社会運動の原点を探したように、そのまた原点になったイギリスの労働組合や協同組合の原点を探りたい訳である。

 そこで、19世紀のイギリスはどんなであったであろうかと、とりあえずディケンズの小説を読んでみた。例えば、『クリスマス・キャロル』である。『クリスマス・キャロル』が出版されたのは1843年で、1843年は生協に長くいた私にとっては、ロッチデールに世界最初の協同組合が発足した年の前年であり、不況と失業の中で先駆者たちが「共同社会(コミュニティ)」を創ろうとしていた正に真最中の時である。
 『クリスマス・キャロル』は、けちな老人がクリスマスイブに昔の同僚の幽霊と出会って、優しい老人に生まれ変わるという他愛ないと言えば他愛ない物語なのだが、心温まる物語が少しも臭くないのは、ディケンズ一流のレアリズムで、当時のロンドンの下層市民の生活と生業が実によく描かれている。

 次に『オリバー・ツイスト』を読んだ。ディケンズの描くロンドンは貧民街ばかりで、産業革命の先頭を走る大英帝国の首都としては驚きだった。19世紀前半の初期資本主義社会では、蓄積と恐慌、競争と収奪の結果、多くの労働者階級が生み出され、「イギリスにおける労働者階級の状態」的貧しさの中から多くの貧民と孤児が生み出された。オリバー・ツイストも、行き倒れの女から生まれ、救貧院で育てられる。イギリスの救貧院は、1834年制定の救貧法によってできたのだが、そこでのあまりのひもじさに「もっとおかゆをください」とオリバーが言うあたりが、この本の一番の出来である。
 『オリバー・ツイスト』の書かれた時代は、世界初の政治的大衆運動であるチャーティスト運動が盛んになった時代であったが、イギリスにおける階級闘争が暴力革命路線をとることはなかった。オウエンは労働組合や共同社会(コミュニティ)づくりを提唱し、ロッチデールでは協同組合が生まれ、ディケンズは慈善に期待していた。

 次に、ディケンズの代表作である『デイヴィッド・コパフィールド』を読んだ。書かれたのは1849~50年ということであり、ちょうどマルクスが『共産党宣言』を書き、ロンドンに亡命した頃であるが、ディケンズの小説には、唯物史観では見えないディテイルが描かれている。私にとって登場人物の中で魅力的なのは、ベッチー伯母、ミスター・ペゴティー、トラドルズなどである。ベッチー伯母は、巻頭の登場からして余韻を残す。養父にいじめられて逃げ出したデイヴィッドがベッチー伯母の家にたどり着く場面、デイヴィッドを養育しながらも自らは破産したベッチー伯母が、デイヴィッドの下宿にやってくる場面、実直な漁夫のミスター・ペゴティー、いじめられっこの学友で脇役ながらいい役をするトラドルズ、これらの描き方を見れば、ディケンズが例え貧しくとも善意をもって努力する人々の味方であることはよく分かる。貴族などほとんど登場しない。登場人物は、エキストラであろうと、貧しかろうとみな生業を持って生きている。

 ディケンズの小説は、会話が多いが写実は確かで、19世紀のイギリス社会がよく描かれている。フローベールやモーパッサンなどの19世紀フランス小説を読んでもそう思うが、これは世界史の教科書などでは学べないことである。ただ、フローベールやモーパッサンとディケンズはどこか違う。資本主義はイギリスの方が先進的だが、写実主義でいえば、フランス文学の方がより自然だし、優れている。近代社会の成り立ちのちがいだろうか。そこで、次は『二都物語』を読んでみた。

 「二都」とは、ロンドンとパリのことである。物語は1767年から1793年にかけてのことであり、クライマックスは1789年のフランス革命とジャコバン主義の渦巻く1793年のパリである。フランス革命を背景にしているとはいえ、この小説は社会的な歴史小説であるわけではなく、ディケンズ流の読み物であるが、そういった評価とは別に、現代から見ても興味深い構成になっている。物語の中心人物は、一人の女を愛した二人の男である。女の愛を射止めたのは、元フランス貴族のチャールズ・ダーニーで、彼はアメリカ独立戦争でアメリカの味方をしたという理由でイギリスで裁判にかけられる。彼の弁護士の手助けをしていたのが主人公のシドニー・カートンで、後にフランスに戻ったダーニーがジャコバン派によってギロチン刑にかけられる寸前に、カートンがその身代わりになって断頭台に送られるというのが、物語の中心である。

 物語の時代背景には、アメリカの独立戦争がある。アメリカは1776年7月4日に『独立宣言』を発表し、イギリスとの独立戦争の後、1783年のパリ条約でイギリスはアメリカ合衆国の独立を承認した。イギリスとフランスは、17世紀以来、インドやアメリカ大陸の植民地をめぐって戦争をつづけていたが、イギリスは戦争に勝ち、フランスはアメリカ大陸ではアメリカの独立を応援したものの、旧制度(アンシャン=レジーム)の下で抑圧体制をつづけたフランスでは、アメリカの独立も契機になって、1789年に革命が起こった。
 イギリスにおけるチャールズ・ダーニーの裁判では、弁護士の弁護と陪審員による評決でチャールズ・ダーニーは無罪になり、フランスでは、イギリスへの亡命貴族だという密告とジャコバン主義下の熱狂の中で、彼の断頭台送りが即決される。

 フランス革命におけるジャコバン主義、「自由、平等、博愛、しからずんば死か」という独裁と粛清をともなう「(“人民の意志”と称する)人民主義的共和主義」が、隣国のイギリスに与えた影響は大きく、直後にそれを分析したエドマンド・バーグは『フランス革命についての省察』を書いて、「フランスの現状は、人間の権利なる名のもとでの民主的な専制であって、断じて自由などではない」として、「徹底した水平化の行き着く先は結局のところ軍事独裁いがいにはない」ということを喝破して、ナポレオンの登場を予測した。政治家の間だけではなく、民衆の間にもフランス革命とジャコバン主義への恐怖があって、それがディケンズの『二都物語』が読まれる背景にあったのであろう。

 トクヴィルの『アメリカにおける民主主義』の問題意識もそうであったが、フランス革命とジャコバン主義の教訓は、民主主義を徹底すると、それは独裁政治に転化してしまう危険性があるということであり、それはロシア革命にも中国革命にも、どの革命にも当っている。1848年にヨーロッパ各地で起こった2月革命は、当時のイギリスのチャーティスト運動にも影響を与えたが、名誉革命(イギリス人はこの無血革命を誇ってGlorious Revolutionと呼んだ)の国のイギリスでは、いわゆる革命は起こらなかった。

 これは、同じ頃にヨーロッパで盛んであった共産主義者同盟的革命運動が、秘密結社と暴力革命路線、唯物史観と階級闘争主義にシフトしていったのと比べると際立っている。産業革命と初期資本主義の時代、恐慌や不況がくり返され、階層分化と階級対立も先鋭化した時代でもあったろうに、そこにロバート・オウエンのような発想や、ロッチデールにおける協同組合づくり、ディケンズのような小説家が出てくることに、階級対立の中で革命に向かうのとは違うベクトルの出てくるイギリス社会の奥深さがある。

 1948年にドイツやフランスで出版された『共産党宣言』がイギリスで出版されたのは、なんと40年後の1888年であった。ロンドンに亡命したマルクスは、イギリスの資本主義社会を分析して、その原理論となる『資本論』を書いたが、大英帝国の時代へと突き進む19世紀のイギリス資本主義社会は、大英図書館でその社会を分析する貧しい亡命ドイツ人をも飲み込んで、急速にダイナミックに展開したのである。イギリス人にとってはマルクス主義も、ドイツ観念論的な当為であるというよりは、ヨーロッパ思想の one of them だったのであろうか。

 一方、新大陸が発見されて貿易が興隆する中で、イギリス、アメリカ、ヨーロッパの関係は、個別に成立するものではありえなくなっているのも分かる。イギリスのピューリタンがアメリカに渡り、アメリカ革命はフランス革命に影響を及ぼし、フランス革命はまたイギリスに影響を及ぼすように、いうなれば、既にグローバル化が始まっているわけである。これを書いたブログに大内秀明先生から以下のコメントをいただいた。
 「『二都物語』よみましたか?ディツケンズはじめ、スミスなど、当時は新大陸=アメリカ、仏革命=パリを強く意識していたんですね。マルクスもイギリスで市民権が採れず、アメリカに渡ろうと考えていた位ですから。ディケンズとマルクスは直接関係ないようですが、2人が同時期に大英博物館の図書室で勉強していたそうです。」と。

 『アメリカの民主主義』でトクヴィルは、イングランド人がつくったアメリカの開放性と、北アメリカにおけるフランス人入植地の閉鎖性との違いを書いている。しかし、『クリスマス・キャロル』を出版する前年にアメリカを旅したディケンズは、『アメリカ紀行』に、白人に追われて滅び行くインディアンへのオマージュを書き、アメリカの奴隷制度を手厳しくくり返し批判し、アメリカにおける自由と共和主義、「商売とドル」にしか関心がないアメリカに違和感をもって帰国し、『クリスマス・キャロル』には「商売とポンド」を超える価値を書いた。

 一方、ボストンに立ち寄ったディケンズは、そこからおこった超絶主義について、こう書いている。「大地の実は腐敗した物の中で育つ。ボストンでは、これまで述べてきたような腐敗した物から、超越主義者として知られる哲学者たちの一派が出現した・・・もし私がボストンの人間だったら、私は超越主義者になるであろう」と。ディケンズは、超絶主義は「私の友人のカーライル氏から影響を受けている」とするが、前に「グレイト・ウェイヴ」にエマソンに始まるアメリカン・ルネッサンスを書いたように、かように世界はつながっていて、このブログもどこから読み出してもいいわけである。

※このブログは、2006年1月 前後に書いた「ディケンズ」関係のブログをリライトしたものです。

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2008年5月23日 (金)

アナ・ボル論争と測機舎

 武者小路実篤は、日向の「新しき村」のほかに、1920年に村の印刷・出版部門として、池袋に近い長崎村に曠野社をつくった。曠野社は、千坪ほどの土地を持って菜園も営み、「英国の田園工業都市に刺激された、工業と農業の合体したコミューンの実験であった」とされるが、村外から雇用した専門の印刷工の解雇問題から、1926年に争議が発生し、「曠野社は人道主義の美名を借りて営利会社的行動をとった」と批判されたという。
 ラスキンと同様に、白樺派も大正末期にはその影響力を失っていく。それに取って代わったのは、ロシア革命以降、急激に影響力を増したコミンテルン系マルクス主義であった。ロシア革命を勝ち取ったヴォルシェヴィズムはマルクス主義の正統派であり、それは何よりも進歩と真理につながっているように思えた。だから、それを真理だと錯覚した人々は、そうでないものは非科学的で、プチブル的か、反動的なものだから、そういった労働組合や農民組合や協同組合には批判的に介入して、機関を取って、階級的なものに変えようとしたのだった。
 賀川豊彦が「今日労働運動で、私の最も厭な傾向は・・・ジャコビン主義にうつって行く事であります。まるで狂気ざたの様に私には見えます」と書いたのは、まさにこのことであった。そして、階級闘争主義というイデオロギー的な呪縛と、より左派を主張することによる執行部の争奪戦という左翼主義は、戦後の新左翼にいたるまで、日本の社会運動の中では圧倒的につづいたのだった。

 1922年頃に、「アナ・ボル論争」というのがあった。当時の労働運動の分裂と再編を背景に、大杉栄と山川均による自由連合か中央集権かという論争であったのだが、1923年に大杉栄が虐殺されたこともあり、これを期にアナキズム、サンジカリズムの運動は衰退していった。その後の社会主義の経過と崩壊から見れば、大杉栄の言う「労働運動は労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲得運動である」(「労働運動の精神」1919年)という方が、現在でも新鮮味を持っている。一方の山川均にしても、「マルクスはこう言っている」みたいな論やコミンテルンの受け売りはなかった。大杉栄も山川均も、共に平民社以来の同志であり、この論争をもって平民社以来の社会主義は終わりを告げたのだった。

 労働者自治の思想と運動は、ロシアでそうであったように、コミンテルン系マルクス主義からは否定された。また、生産協同組合の運動も空想的社会主義と同様に、過去の決着済みの失敗した運動とされてきた。しかし、1980年にICA(世界協同組合同盟)のモスクワ大会でカナダのレイドロウ博士より『西暦2000年における協同組合』が提起されて以降、日本でも生産協同組合の見直しがすすんだ。しかし、生産協同組合の研究者である樋口兼次氏によれば、それは「日本においては労働者生産協同組合は存在しなかったというおおかたの断定を出発点として、西欧の経験をどのようにして移植するかという位置から論じる傾向」にあったという。
 『アナ・ボル論争』(同時代社2005年)という本を読んだら、著者の大窪一志氏は「日本の左翼運動は1990年代の前半にほぼ壊滅した」、「昭和マルクス主義諸党派は・・・すべて山川を中心とした大正ボル派を源流としている」と書いて、すべての責任を山川均に被いかぶせて、おそらくは自らをも含む過去を清算しようとしていた。清算主義と新たなる西欧の経験の移植からは何も生まれはしないというのが、私の感想であった。

 昭和マルクス主義が捨て去ったそれ以前の運動こそ、見直すべきなのだ。樋口兼次氏によれば、まさに大正期の日本に本格的な生産協同組合の運動はあったのであった。
 現在では、船位測定はGPSになってしまったが、それ以前は六分儀でやるもので、日本の六分儀はほぼ銀座の玉屋製であった。第一次世界大戦によって莫大な利益を上げた玉屋ではあったが、職工の待遇は悪く、1919年に職工たちは待遇改善の申し入れを行った。これが退けられ、工場長次席が解任されるに及んで、1920年3月に総勢15名をもって「独立自重の精神」による「労働者自治工場」の「測機舎」が創業されたのであった。この「測機舎」は、1943年に軍要請で株式会社に変更されるまでの23年間、「創業段階で構想された労働者生産協同組合の原型を維持して発展した」のであった。
 この時期の生産協同組合は、賀川豊彦の指導によって結成された「イエスの友大工生産協同組合」ほかいくつも結成されているという。「イエスの友の会」は前にもふれたが、「一、イエスにありて敬虔なること。二、貧しき者の友となりて労働を愛すること。三、世界平和のために努力すること。四、純潔なる生活を貴ぶこと。五、社会奉仕を旨とすること。」の五か条を綱領として、誰でも入会ができた。おそらく「測機舎」を維持させた背景には、この「五か条の綱領」に通じるものがあったのであろう。現在すすみつつある格差拡大と若者のプレカリアート化に対案するには、「労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲」のためのコミュニティづくり、「五か条の綱領」こそ生かされるべきなのだと私は思う。

 山川均は、当初は幸徳秋水に影響を受けたサンジカリストであったが、1922年に『無産階級運動の方向転換』を書いて、日本の社会主義運動は大衆から離れたごく少数の運動であったから、今後は大衆の中に入って行くべきだとし、日本共産党が創立されると、堺利彦らとこれに参加した。この第一次共産党は、関東大震災後に、堺利彦の提案で1924年にいったん解散してしまうが、再建された共産党では福本イズムがはびこり、山川均は福本和夫から解党主義の批判を受けて共産党を離党、1927年に雑誌『労農』を創刊して非コミンテルン系マルクス主義の労農派の中心になり、合法的な共同戦線党を作るべきだという共同戦線党論を展開、戦後は日本社会党左派の理論的支柱となった。
 福本和夫は、1910年に文部省から命ぜられてヨーロッパに留学、カール・コルシュに学び、ジョルジュ・ルカーチとも交流した。帰国後は、結合の前には分離がなされなければならないという「分離と結合」論の福本イズムを展開して大きな影響を与えたが、コミンテルンの「27年テーゼ」で批判された。その後、長期に入獄。戦後は「日本ルネッサンスの研究」や「フクロウの研究」で知られている。
 福本和夫がヨーロッパ留学から帰国する際、ドイツ留学から帰る宇野弘蔵と船が同じだったという。ここから先は、別項にてつづけたい。

 武者小路実篤の曠野社には、「新しき村」に参加した木村荘十二が住んでいたという。木村荘十二は傾向映画の監督で知られ、戦後に外地から引き上げた後、晩年は江東区大島の団地に住んでいた。奥さんが私のいた生協の組合員で、私が共同購入の配送をしていた頃、配送でうかがうと、夏の暑い時などいつでもキリンレモンを出してくれた。夫婦で団地の子供映画会を主催していて、自作のベトナム映画の上映会などに何度か行ったことがあるし、戦後の代表作の『千羽鶴』は、生協でも上映会をやったりした。
 1970年代当時、東京の東部地区では、倒産企業による自主再建闘争が闘われていた。大島というのは亀戸の隣で、大島団地のある場所は元々は日立だったか東芝だったかの大工場の跡地であった。1917年に、大杉栄は「労働者町に住みたい」と亀戸に移り住んだのだったが、下町の生協に入って江東区に移り住んだ頃の私も、そんな思いであったのだった。

※参考文献:樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティヴ』時潮社2005年
 「近代日本思想体系19(山川均)」筑摩書房
 「近代日本思想体系20(大杉栄)」筑摩書房

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2008年5月22日 (木)

大正ユートピア

 「労働は一個の芸術である。絵を画かなくとも、彫刻をしなくとも人間が刻一刻に刻んで行く労働そのものは立派な創作であり、創造であり、芸術の芸術である」という賀川豊彦の『自由組合論』は、「もとより農民芸術も美を本質とするであろう」という宮沢賢治の『農民芸術概論要綱』を思い起こさせる。また、「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」とする宮沢賢治の「自我」を「人格」に、「集団社会宇宙」を「神」に置き換えれば、それは賀川豊彦の「人格は神格だ。真の人格の建造に神が現れるのだ。誠に人格の建造は神の事業だ」に通ずる。宮沢賢治と賀川豊彦は直接の接触はなかったが、宮沢賢治が『農民芸術概論要綱』を書いた1926年頃に、宮沢賢治は労農党との接触はあったというし、労農党をつくったのは賀川豊彦だったから、全く関係なしとも言えない。そして、もうひとつ両者に共通するものがあるとすれば、ラスキンからの影響だろうか。

 ラスキンは、産業革命以降のイギリスの資本主義の発展原理となった古典派経済学の市場主義と、機械によって創造性を奪われた「人間を除けばなんでも製造する」労働に対して、人間の精神と情愛をもった平穏な経済をめざした。賀川豊彦と宮沢賢治は、ラスキンとマルクスの『資本論』を読んだようだが、両者が共に惹かれたのは、どちらかと言えばラスキンであった。ラスキンの経済学は、現在ではほとんど省みられることはない。古典派経済学には資本主義の常識が語られるが、人を動かすものが金の力だけではないとすれば、市場経済に抗するのにラスキンの経済学に惹かれるのは、まともな読み方と言える。

 若き日にラスキンに啓発され、その思い引き継いだのは、ウィリアム・モリスであった。モリスは、「アーツ・アンド・クラフト」の運動と共に社会主義の政治運動にも参加し、エドワード・ベラミーの『かえりみれば』が描いたユートピアを批判して『ユートピアだより』を書き、同時にそのモチーフであり具現化でもあるケルムスコット・ハウスに拠って、ハマスミス社会主義同盟の会合を行い、ケルムスコット印刷所で本づくりと言うよりは芸術活動を行った。
 明治の産業社会と労働運動の黎明期に、よりよき企業と社会づくりに影響を与えたのはロバート・オウエンであったが、大正期にそれを与えたのはウィリアム・モリスであり、大正時代は、大正デモクラシーの時代というよりは、大正ユートピアの時代であったと言える。1926年に花巻農学校を退職した宮沢賢治は、『農民芸術概論要綱』に「芸術をもってあの灰いろの労働を燃やせ」「芸術の回復は労働に於ける悦びの回復でなければならない Morris“Art is man’s expression of his joy in labour”」とメモし、羅須地人協会を立ち上げる。羅須地人協会は、宮沢賢治にとっての謂わばケルムスコット・ハウスであり、それ自体がユートピアであったのだと私には思える。

 大正ユートピアと言うと、誰もが思い浮かべるのは、白樺派は武者小路実篤の「新しき村」であろうか。1918年に日向の地に創設された「新しき村」は、1日6時間の労働のほかは本を読むも、詩を書くも、絵を描くも自由、やがては図書館、美術館、公会堂、病院もつくろうと理想社会を想い描いたが、現実的には慣れない農作業と粗食にたえられずの離村者も多く、武者小路実篤の執筆活動による収入と村外支援者からのカンパでしのぎながら、現在も埼玉県の毛呂にて継続しているのは、立派なものである。
 もうひとつ、白樺派にはコスモポリタンな傾向がある。関川夏央の『白樺たちの大正』(文春文庫)を読んで驚いたのは、魯迅の実弟の周作人が1919年頃に「新しき村」を訊ねて村外会員にもなり、当時中国で胡適や陳独秀が創刊した啓蒙雑誌『新青年』に「日本の新しき村」という文章を載せて注目を集めたということと、翌年、毛沢東が周作人を訪ねて「新しき村」の話しを聞いたということであった。魯迅が夏目漱石に傾倒して本郷西片の旧漱石邸に住み、夏目漱石の『クレイグ先生』に刺激されて『藤野先生』を書いたという話しとも合わせて、これも謂わば「グレイト・ウェイヴ」の小波であろうか。

 同じく白樺派の有島武郎は、1922年に、自らが所有する北海道の農場を小作人たちに解放し、産業組合法に基づく「有限責任狩太共生農団信用利用組合」とした。これは、土地が再度買い取られて小作人に再転落しないように、土地を組合による共同所有にして各耕作者は組合員として運営参加するという方式であり、有島武郎による私有財産の自己否認であった。有島武郎は、この仕組みを東北帝国大学以来の友人で共にアメリカ留学した森本厚吉に相談してつくったのだったが、森本厚吉は1922年に賀川豊彦が日本農民組合をつくった時に、その評議員にもなった人でもあった。
 有島武郎は、学習院を経て札幌農学校に入学、新渡戸稲造の家に寄宿し、やがてキリスト教に入信、1903年にはアメリカに留学。留学中はホイットマンの詩に親しみ、学業終了後はイギリスに渡ってクロポトキンにも面会、1907年に帰国。1910年に発行の雑誌『白樺』の同人になった。

 前に、もし漱石が私費でアメリカ留学してホイットマンを勉強していたらと書いたが、正にそれをやったのが有島武郎だった。それでどうなったかと言うと、父が横浜税関長で、幼い頃から英語による教育を受けた有島武郎にとって、欧米文化の受容は自然であった。三四郎にとって美祢子はアンコンシャスヒポクリシーであったが、『或る女』の葉子はあからさまにコンシャスヒポクリシーなのである。有島武郎が、『白樺』に『或る女』の連載を始めたのは1911年で、それは夏目漱石の『門』が朝日新聞に連載されるわずか1年前のことである。同じく不倫、姦通を扱いながらも、その表現はまるでちがう。夏目漱石は景を描いて心を表すのに対して、有島武郎はひたすら心を描くといったところだろうか。
 1914年に、夏目漱石は『こころ』に明治の終焉を描く。夏目漱石と有島武郎のちがいは、明治と大正のちがいであろうか。夏目漱石の潰瘍を礎に、大正ユートピアは可能になったと言えなくもない。有島武郎は『或る女』の広告文に、「畏れる事なく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底には何かがある。若しその底に何もなかったら人生の可能性は否定されなければならない。私は無力ながら敢えてこの冒険を企てた」と書いた。大正期とは、「敢えてこの冒険を企て」ることが可能な時代であったのである。
 1922年に大杉栄は、ベルリンで開催される国際アナキスト大会に出席するために日本を脱出するが、その金策のために大杉栄が最後に頼ったのが有島武郎であった。訪ねて来た大杉栄に、有島武郎は千円という大金を渡したという。有島武郎は、1923年6月に「婦人公論」記者の波多野秋子と情死し、大杉栄は同年9月に憲兵隊の甘粕大尉によって虐殺された。

 大正期に、文学者の想い描いたユートピアで言えば、もうひとつ1919年に佐藤春夫の『美しい町』がある。日本人を母に、アメリカ人を父にもつと称するアメリカ帰りの男が、隅田川河口の中洲に「美しい町」をつくろうとする話である。男は「美しい町」に住む人の資格として「彼自身の最も好きな職業を自分の職業として択んだ人。さうしてその故にその職業に最も熟達して居てそれで身を立ててゐる人。商人でなく、役人でなく、軍人でないこと」をあげ、時々、ウィリアムモリスの『何処にもない処からの便り』を読んでいる。そして折にふれ、「今、我々が生活している社会生活は、金銭の無限な勢力という可笑しくて奇怪な言説・・危かしく醜悪な建築物で・・それの改善を叫ぶ人々でさへもそのグロテスケンの一種をもう一つ加へるに過ぎない」と語る。『美しい町』は、御伽噺のような小説である。
 佐藤春夫は、一高の受験を放棄して慶応義塾文学部の予科に入り、あまり授業には出なかったというが永井荷風に学んでいる。詩を書き、絵も描く才人で、大杉栄や辻潤とも交流があった。隅田川が小名木川と合流する万年橋の横に芭蕉記念館の別館があり、その屋上から見ると目の前に優雅な形状の清洲橋があって、その先が中州である。芭蕉記念館の別館の屋上には芭蕉の像もあって、夕暮れに、芭蕉の像に重ねてライトアップされた清洲橋の向こうに『美しい町』の幻影を見るのが、私は好きである。

参考図書:伊藤信吉『ユートピア紀行』(講談社文芸文庫)
      関川夏央『白樺たちの大正』(文春文庫)
      『世界の名著41』中央公論社

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2008年5月19日 (月)

賀川豊彦

 ロバート・オウエンもロッチデールの協同組合も、明治の比較的早い時期に日本に紹介されて、黎明期の労働運動において共働店として試行錯誤されてきたが、これを現在あるようなかたちで最初につくり上げた最大の功労者は、やはり賀川豊彦であろう。賀川豊彦は、加藤時次郎や石川三四郎ほどではないにしても、忘れられた思想家のひとりになりつつあるが、私には忘れられた思想家というよりも、彼らを過去の人にしてしまった経過があるように思われる。
 最近の農薬入り輸入冷凍餃子事件などをみるにつけ、ロッチデール以降の消費組合型の協同組合の行きづまりを感じる訳だが、協同組合の再構築を考えるとすれば、私はやはり今一度、協同組合運動の先駆者たちの初心に学ぶべきだろうと思うわけである。

 賀川豊彦は、1888年に妾の子として神戸に生まれ、父の死後は徳島の実家に引き取られて徳島中学を卒業、徳島中学時代から『平民新聞』を読み、クリスチャンになって明治学院神学部に入り、そこでは授業には出ないで図書館にある洋書を読みつくしたという。1906年に徳島毎日新聞に書いた「世界平和論」には、マルクス、エンゲルス、カーライル、ラスキン、エマーソン、トルストイからの引用があったという。神戸神学校をへて1909年より、神戸の新川の貧民窟に住み込んで伝道生活に入った。
 
 結核と眼病を患いながら、貧しいものに全てを与えつくすような貧民窟での伝道生活は、後に『死線を越えて』などに描かれてベストセラーとなったように、その献身は圧倒的である。1917年に貧民窟でボランティアしていた芝はると結婚し、「伝道(教育・日曜学校・路上伝道)、教育(夜学校・裁縫学校)、人事相談、職業紹介、無料宿泊、簡易食堂、施療」のセツルメントのイエス園づくりをすすめるが、賀川豊彦が面白いのは、前述の加藤時次郎が「平民食堂」を開設したように、1912年に貧民窟に一膳飯屋の「天国屋」を開店し、1917年には貧民窟授産事業として歯ブラシ生産の「自治工場」を開設したりすることである。「天国屋」は食い逃げが多くて3ヶ月で閉店し、歯ブラシ工場も職工の中に原料を盗む者がいたりして、翌年には手を引いてしまうが、めげることがない。
 私は、会社勤めを辞めた後、失業者ユニオンというのに参加した。この失業者ユニオンは、失業者を集めて「リストランテ・元気組」という居酒屋を始めたのだったが、これも2年間で倒産してしまった。では、試みは取るに足らない事であり、失敗だったのかと言えば、前に向かおうとする者たちは、常にこういう試みをするものなのであるというのが、ここでの私の結論である。

 賀川豊彦が「自治工場」をつくろうとした背景には、1914年から3年間のアメリカ留学の経験があった。神学を勉強するためにプリンストン大学に留学した訳だが、そこでの最大の経験は、労働運動に接したことである。IWWの項に書いたが、19世紀後半から20世紀初頭のアメリカは、労働運動の盛んな時代であった。2年間で学位を取得して、1916年にニューヨークの貧民窟を視察しに行った賀川豊彦は、そこで偶然、パンと職を求める6万人の労働者の示威運動に出会った。賀川豊彦は、「この悲壮な示威運動の流れを、舗道に立ちすくんだまま、終わりまで見送り、涙が頬をぬらしているのも気がつかなかった」という。
 そして、帰国を決心した賀川豊彦は、その旅費を稼ぐために、ユタ州オグデンの日本人会の書記として働いた。20世紀初頭のアメリカでは、日本人の排斥運動が起こったごとく、農場や炭鉱では沢山の日本人が働いていたという。当時のアメリカには、ホーボー」と呼ばれた渡り鳥的労働者がいたが、その「ホーボー」という言葉は、日本語の「方々」から来ているとも言われるくらいである。1917年の春に、小作人であるモルモン教徒と日本人がストライキを起こし、賀川豊彦は仲の悪かったモルモン教徒と日本人を団結させて、このストライキを勝利させた。その謝礼として日本人会は100ドルを賀川豊彦に贈り、賀川豊彦はそれで日本に帰ってきたのだった。

 アメリカから帰国した賀川豊彦は、「もし今日、貧民階級をなくしてしまおうと思へば、今日の慈善主義では不可能である」として、労働運動に乗り出した。賀川豊彦の労働運動は、ただの労働組合運動ではない。1917年11月に前述の「共同労作工場」として歯ブラシ工場を設立したように、「労働者自治」の運動である。賀川豊彦は、『自由組合論』にこう書く。
 「労働は一個の芸術である。絵を画かなくとも、彫刻をしなくとも人間が刻一刻に刻んで行く労働そのものは立派な創作であり、創造であり、芸術の芸術である。私は労働の自由を主張する。強制されたる今日の賃銀奴隷の苦痛より自由と喜びの労働の自由に入らねばならぬ。そのために、われらは、労働の自主権すなわち労働者の産業管理権を叫ぶものである」、「われわれの要求するものは生命であり、自由であり、自主である」、「第三の自由(産業の自由)によって初めて人類はパンの問題から解放せられ、愛と相互扶助によって、真の世界に生き得ることができるのである。・・・産業の自由によって人間は初めて、自己に帰ることができるのである。産業の自由が与えられて始めて、神と政治がふたたび人類に帰ってくるのだ。今日の神と政治は強いられた神と政治だ。バンの自由が与えられた時に、われらは初めて、自己の力と光明によって、なんら曇りなき神を礼拝し、政治上の自由を獲得しよう。産業の自由こそわれらの目ざすべき標的である」、「工場を物品の製作所と考えるのは間違いです。工場は人間の働く処です。・・・今日のようにいやいや働く工場ではなく愉快に働ける工場にさえしてくれさえすれば、少々は給金が安くてもかまわないのです。愉快に働けるという第一は自分と家内が食えるだけの生活費と、子供と自分が多少教育と享楽を受ける保証です。第二は工場のデモクラシーです。・・・第三は工場の立憲化です。・・・第四は工場の組合管理です」、「われらはまずわれら生産者がすべての生産機関係を管理するようにせねばならぬ」、「普通選挙はもちろんのこと、産業の組織を政治家し生産者のためにとくに生産者会議を作る必要があるまいか」(『自由組合論』筑摩書房「現代日本思想体系6」)と。

 賀川豊彦は人間を「人格」としてとらえ、「真の表象は人格であらねばならぬ。人格は神格だ。真の人格の建造に神が現れるのだ。誠に人格の建造は神の事業だ」と理解した。それは「産業の自由によって人間は初めて、自己に帰ることができるのである。産業の自由が与えられて始めて、神と政治がふたたび人類に帰ってくるのだ」ということであり、賀川豊彦においては、キリスト者であることと労働運動、とりわけギルド社会主義は、矛盾なく一体化している。

 賀川豊彦は、アメリカで労働組合運動を経験し、帰国後は鈴木文治の友愛会に参加して、1919年には友愛会関西同盟会の理事長になった。賀川豊彦の労働運動は、アメリカ流の労働組合主義であり、かつ、イギリス流のギルド社会主義である。友愛会関西同盟会の創立宣言に、賀川豊彦はこう書く。
 「我等は生産者である。創造者である。労作者である。・・・我等はこの精神をもってかく宣言す、労力は一個の商品ではないと。資本主義文化は、賃金鉄則と、機械の圧迫により、労働者を一個の商品として、社会の最下層に沈淪させてしまった」、「我等は凡ての革命と、暴動と、過激主義(ボルシェヴィキ)思想を否定す。我等はただ自己の生産能力を理性的に信頼して確乎たる建設と創造の道を歩まんとするものである」と。

 前章でみたように、黎明期の日本の労働運動は「共働店」を持ちながらも、治安警察法によって押さえ込まれ、その後の運動は社会主義にシフトして、結局は大逆事件をもって沈黙させられてしまった。だから、1919年の賀川豊彦の労働運動は、労働組合を公認させることと、それを禁止した治安警察法17条を廃棄させることと、普通選挙の実施にあった。しかし、1920年に普通選挙法案は議会で否決され、労働運動においては、関東を中心にゼネストを主張するサンジカリズムの影響が強まり、1920年の友愛会の第8回大会で議会政策か直接行動かが論争になり、賀川豊彦は否定されことになってしまったのだった。

 そこで、賀川豊彦は消費組合つくりをする。1919年に有限責任購買組合大阪共益社をつくり、1920年には有限責任神戸購買組合をつくった。しかし、不況のつづく中、1921年に神戸の三菱造船所と川崎造船所でストライキが起こり、賀川豊彦はこれを指導することになり、日本初の試みとして「工場管理」の方針を決定した。賀川豊彦は、こう書く。「産業管理は暴力による工場占拠ではない。一産業に従事する全労働者の合意的決意による建設的企図である。・・・暴に報いるに愛を以ってし、悪に報いるに最善を以ってしたのが工場管理である」と。
 「工場管理宣言」に驚いた知事は、憲兵隊と歩兵と水兵を動員。会社側は会社を閉鎖してしまい、3万人の大争議は、衝突による犠牲者と賀川豊彦らの検束で敗北したのだが、当時『死線を越えて』が大ベストセラーになった賀川豊彦は、現在の金にすると億を超えるその印税で、争議参加者の救済をしたのだった。賀川豊彦の生活は、外にいる時は伝道か運動、家にいる時は読書と物書きであって、生涯にわたって沢山の本を書いたが、その印税のほとんどは運動のために使われて、賀川豊彦自身はいつでもツギの当ったスーツ姿であったという。

 賀川豊彦は、1922年に杉山元治郎と日本農民組合を創立。1925年に普通選挙法が議会を通過すると、日本農民組合をベースにして、1926年には杉山元治郎を委員長にして労働農民党を結成し、賀川豊彦は執行委員になった。しかしこの頃、労働運動から政党運動にいたるまで急速に共産党が進出して、運動の主導権をめぐる抗争が激化しつつあった。1925年には、労働総同盟が右派の総同盟と左派の日本労働組合評議会に分裂。1926年には、労働農民党も分裂し、労農党から脱退した団体は安部磯雄らの呼びかけで、社会民主主義の社会大衆党を結成。残る農民組合も分裂して、1927年に杉山元治郎を委員長にした全日本農民組合が結成された。賀川豊彦は、こう書く。「今日労働運動で、私の最も厭な傾向は・・・ジャコビン主義にうつって行く事であります。まるで狂気ざたの様に私には見えます」と。

 それ以降、賀川豊彦の運動は協同組合と「イエスの友の会」を中心にしたものにうつって行く。「イエスの友の会」は、1921年に「宗教的組織は広い信仰共同体の中に共存すべきだ」と主張して設立され、「定期的に集まって祈り、初代教会のように各自の収入を出し合い、余暇を福祉活動、医療、教育事業等、社会改革を推し進めるために使った」という。1923年に関東大震災が起こると、賀川豊彦は関東に活動拠点を移し、1924年に「イエスの友の会」も京王線上北沢駅近くの松沢に置かれた。1927年には、江東消費組合を設立。賀川豊彦は、友人の医師からもらったハーレーのサイドカーに乗って飛び回ったという。

 賀川豊彦の活動を省みて驚くのは、その活動範囲とスケールの大きさである。賀川豊彦のつくった神戸消費組合と灘消費組合が後に合併して、世界最大の生協である現在のコープこうべとなる訳だが、コープこうべには様々な施設があって、その中に協同組合学校である協同学苑がある。生協に働いていた頃、研修で行ったことがあったが、大きな壁一面に系図式に賀川豊彦の実績が書かれていた。そしてもうひとつ、賀川豊彦について書かれた近著に、アメリカ人のロバート・シルジェン著『賀川豊彦』があるが、これを読むと賀川豊彦とアメリカとの関係は、プリンストン大学に留学したということだけでなく、後に、実践的キリスト者として、社会改革のために協同組合を広めることを説いて、アメリカ中を講演して回り、アメリカの協同組合に大きな影響を与えていたことが分かる。
 賀川豊彦は、日本では世界最大の生協であるコープこうべの創設者であったのと同時に、アメリカ最大の生協であったバークレー生協なども賀川豊彦の影響を受けて、そこでは日系人が雇用され、理事にも日系人がいたという。コープこうべとバークレー生協は、いわば兄弟生協でもあった訳だが、ロバート・シルジェン著『賀川豊彦』を読んで思うことは、思想というのは一国的なものであるというよりは、グローバルなものであるということである。
 バークレー生協は80年代末に倒産し、コープこうべも経営に苦しんでいるという。成功してエスタブリッシュメントになるということは、協同組合にとっては「死の接吻」となるのだろうか。それとも、賀川豊彦のいなくなった時代、協同組合は何かを忘れてしまったのだろうか。そうだとしたら、それは一体何なのだろうか。

※参考図書:横山春一『賀川豊彦伝』キリスト教新聞社 1951年
      隅谷三喜男『賀川豊彦』日本基督教団出版部 1966年
      三宅正一『激動期の日本社会運動史』現代評論社 1973年
      ロバート・シルジェン『賀川豊彦』新教出版社 2007年
      「現代日本思想体系6」筑摩書房

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2008年5月17日 (土)

加藤時次郎

 さて、石川三四郎の『消費組合之話』であるが、石川三四郎は何処から協同組合のことを学んだのだろうか。1897年に高野房太郎らによって日本初の労働組合である労働組合期成会がつくられたことは前に書いた。初期の労働運動においては、共済組合や共働店をつくることが運動になっていて、実際に高野房太郎や片山潜による啓蒙活動によって、期成会の中心組合であった鉄工組合の支部には全国で20あまりの共働店がつくられた。また、片山潜は『六合雑誌』や労働組合期成会の機関誌『労働世界』で、イギリスにおけるロッチデールの協同組合や消費組合運動の歴史や機能を紹介したから、石川三四郎もそれらから学んだものと思われる。

 高野房太郎が労働組合期成会をつくる際、それに協力した秀英舎の佐久間貞一がいた。秀英舎は大印刷工場(大日本印刷のルーツ)で、「社員持株制による労使協同会社の実験」であり、その経営者であった佐久間貞一は日本のロバート・オウエンと呼ばれた。日本にロッチデールやロバート・オウエンが紹介されたのは、片山潜らによるものよりもずっと早く、「イギリスで展開した協同組合思想は、日本では明治初期に輸入書籍が流入するとともに、その翻訳書によって普及し」、「日本人によるイギリス消費組合の紹介は、1878(明治11)年『郵便報知新聞』に掲載された馬場武義の「協力商店創立ノ議」が最初である。この翌年、共立商社その他の日本初の消費組合が設立された」(※一橋大学附属図書館HPより)のだった。資本主義や株式会社が未発達な中で、法人企業のひとつの形態として試されたのだと思うが、当時の実業家には、それをやってみようという志もあったということであろうか。

 期成会による共働店は、1900年に制定された治安警察法によって壊滅してしまう。では、石川三四郎の『消費組合之話』を発行した平民社の周辺では消費組合はどうなったのかと見てみると、ドクトル加藤こと加藤時次郎というドイツ帰りの医者が、消費組合づくりを試みている。加藤時次郎は、帰国後、幸徳秋水や内村鑑三や堺利彦と知り合い、社会問題に開眼し、1903年に「直行団」を組織して、機関誌『直言』を発行し出す。そして、この直行団が取り組んだのが消費組合づくりであった。結局、この消費組合づくりは、組合員が集まらなくて成立しなかったのだが、加藤時次郎は『平民新聞』の発行資金を提供し、1905年に『平民新聞』が廃刊になると、『直言』がその代わりをなしている。

 大杉栄が日本脱出をした時に、その金を出したのは有島武郎であったという。では、幸徳秋水がアメリカに脱出した時、その金は誰が出したのかというと、加藤時次郎であった。堺利彦と同郷でもあった加藤時次郎は、1908年に堺利彦が入獄すると、娘の真柄をあずかって育て、福田英子の母や菅野すがが病気になれば自分の病院に入院させてこれを直し、幸徳秋水の刑死をアメリカのエマ・ゴールドマンに知らせ、彼女から送られてきた義捐金を堺利彦に渡し、逆に、荒畑寒村がIWWのための義捐金を募集すれば、これにカンパをし、貧乏アナキストの渡辺政太郎に病院の仕事を手伝わせ、失意の片山潜の渡米の際には送別会を催し餞別を贈っている。要は、社会主義運動のパトロンであって、大逆事件の後、社会主義からは身をひきつつも、サポーターではありつづけたのだった。

 しかし、加藤時次郎は、社会運動の単なるサポーターではなかった。1915年には、加藤病院を「平民病院」と改称して独力で実費診療を開始。1916年には、「平民法律所」を設置して法律相談を開始。1917年には、社会政策実行団を発足させて「一個の強大なる人民生活団体」を志向して機関誌『平民』を発行。『平民』の編集は堺利彦が担当して、自ら翻訳したウィリアム・モリスの『理想郷』も掲載。1918年には、芝区烏森町の「平民倶楽部」の地下に相互扶助の事業として「平民食堂」を開設。1919年には、「平民パン工場」と「平民パン食堂」を開設した。なんらかのかたちで加藤時次郎の事業を利用する人々は、累計20万人いたという。
 さらに、1921年には、横浜にあった造船所の社宅を買い取って、「安価な住宅を中心に共同の食堂、物置、炊事場、野菜・薪炭も共同購買所など共同相互扶助施設」をもった「理想的住宅組合」である「平民知労組合」をつくった。もうほとんどロバート・オウエンの世界である。加藤時次郎は、「予は共産主義者としてよりも、社会改良家としての彼を想ふ」とロバート・オウエンに言及している。佐久間貞一が明治のロバート・オウエンなら、加藤時次郎は大正期のロバート・オウエンであった訳である。

 ロバート・オウエン的試みを、加藤時次郎は自分の資産の許す限り試みている。しかし、事業が拡大すれば、それを担う者への理念の徹底はうすれ、事業に寄生しようとする者も現れ、赤字になる事業もあれば、左派からの批判も起きてくる。共同事業の崩壊は、ロバート・オウエンの時代から現代にいたるまで、その原因に大きな違いはない。そして、1923年9月に起きた関東大震災は、加藤時次郎の事業にも大きな打撃を与えた。

 加藤時次郎は、1930年に73歳で亡くなっている。活動は晩年までつづき、加藤勘十や山崎今朝弥との関係から日本労農党や社会大衆党の結成にも関わり、堺利彦が総選挙に出馬した時には資金をカンパしている。社会主義者であるよりは、社会民主主義者であった訳だが、社会運動の趨勢はコミンテルン系が影響力を強めつつあった。

 加藤時次郎の研究家である成田龍一氏は、「加藤は都市民衆の相互扶助を基礎におき、独力で公に頼ることなく事業を次々に拡大し、意識的空間を切り拓き、共同社会実現の布石を敷いた」(※p210)と、加藤時次郎を大正デモクラシーの一翼に加えている。
 近年、社会民主主義や社会的企業が言われているが、この国に何故それらが根付かなかったのかを考えれば、加藤時次郎が「忘れられた社会運動家」になっていることにもつながっているように思う。これらの見直しは、避けて通れないところである。

Photo ※参考文献:成田龍一『加藤時次郎』(不二出版1983)

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2008年5月15日 (木)

石川三四郎

 アメリカでIWWの活動が活発であった頃の日本は、社会主義運動の黎明期であった。黎明期の労働運動であった高野房太郎らの労働組合期成会は、やがて労働組合主義の高野房太郎と社会主義政党運動にシフトした片山潜に分かれ、1900年3月に専制主義的な山県内閣によって制定された治安警察法によって壊滅させられてしまった。
 その後の運動は、キリスト教社会主義者の安部磯雄や片山潜らを中心に社会主義政党づくりへとすすみ、1901年4月には社会民主党が結成されるが、直後に結党禁止となり、やがて日露戦争をむかえる中、非戦論を唱える幸徳秋水らの平民社に移った。『平民新聞』も度々の発行停止で1905年には廃刊となるが、1906年に「いくぶん進歩的自由主義的」な西園寺内閣が成立して社会主義に対する取り締まりが緩和され、堺利彦らを中心にして合法的な日本社会党が結成されたが、1906年にアメリカから帰国した幸徳秋水はゼネストによる社会変革というサンジカリズムの運動を提起し、日本社会党内は幸徳秋水らの直接行動派と片山潜らの議会政策派に分裂し、1907年には解散させられた。
 
72  さて、ある時、神田の古本屋街を歩いて、辻潤の『浮浪漫語』という本を見つけた。昭和29年に発行された3巻本の1冊で、全巻不揃いのせいか安かったので買うと、その中に1枚の写真があった。1907年8月に九段下の教会で開かれた「社会主義夏季講習会」の最中に角筈の十二社で開かれた園遊会に集まった人々の写真であった。そして、本に挟まっていた全集の「月報」には山川均が以下のように書いていた。
 「日本社会党の解散とともに、社会主義運動は革命派と改良派に分かれた・・・この年の8月1日から10日まで、社会主義夏季講習会が開かれたが、講演者は『社会主義史』田添鉄二、『法律論道徳論』幸徳秋水、『社会の起源』堺利彦、『社会主義経済論』山川均、『労働組合論』片山潜、『ストライキ論』西川光二郎で、両派から講師を出しているが、この講演会がおそらく両派の協力した最後の機会であったろう」と。

 この写真には、上記のそうそうたる講師陣のほかに、大杉栄や福田英子から辻潤と中里介山まで写っている。辻潤が、渡辺政太郎の紹介で大杉栄と初対面するのは1914年であるから、ここではすれちがいということだったのだろうが、福田英子もいるのにと思われるところでもある。後に辻潤が渡辺政太郎と出会ったのは、染井にあった福田英子の家であった。

 福田英子は旧姓景山英子といい、自由民権運動家の大井憲太郎が朝鮮の独立を支援しようとして起こした大阪事件の際、爆弾の運び役をやった女性であり、その辺りのことは彼女の書いた『妾の半生涯』に詳しいが、大井健太郎と別れた後は福田友作と再婚して福田英子となり、1907年に『世界婦人』を発行した。『世界婦人』の発行人は、当時、福田家に出入りしていた石川三四郎であり、これは筆禍事件で福田英子が刑務所入りをしないで済むようにということであったからで、案の定、石川三四郎は『世界婦人』に書いた評論の筆禍事件で1907年から1年間、巣鴨監獄に入獄している。

 石川三四郎はリスト教社会主義者で、1903年に幸徳秋水や堺利彦が創刊した平民社に参加し、1905年の『平民新聞』の廃刊後は、木下尚江や安部磯雄らと『新紀元』を創刊。1906年には谷中村をたびたび訪問して田中正造と出会い、堺利彦から日本社会党に誘われた時に、『堺兄に与へて政党を論ず』に「然り供の日本社会党を愛すること甚だ深し。然れども我が社会主義を想ふは社会党を想ふよりも更に大に深厚なり・・・故に遂に大兄が厚情親切にも背きて社会党に入ることを思ひ止まりし也」と書いたのだった。

 では、石川三四郎の「我が社会主義を想ふ」は何かと言えば、巣鴨監獄で書かれた『虚無の霊光』によれば、私的には以下のようである。
 「自我に自治の能力あればこそ、協同生活の実も挙がるのである。協同生活の実挙がりて此に始めて社会が成立するのである。・・・カルヽ・マルクス等の社会民主々義は産業及び政権の統一を主張し、クロポトキン等の無政府共産主義では産業及び政権の分置を唱導して居る。・・・戦争には統一制度を必要とし、平和には自治制度を便利とするので、夫の人生進化の動的観察に基きて階級戦争論を唱導するに至ったマルクスは自然に統一主義に傾き、人生理想の静的観察に基いて相互扶助論を主張するに至ったクロポトキンは自然に自治主義に傾いたのである」。
 「此精神的無政府主義のトルストイや、前掲の個人的無政府主義のスチルネルが、共に理想の満足を将来に望まんとするを排して之を脚下に求めよと唱へたのは甚だ面白い。未来は永遠に到来せぬものである。個人の平安は常に個人の脚下に在る」と。

 辻潤がマックス・シュティルナーの『唯一者とその所有』を翻訳して、『自我経』として出版したのが1920年だから、その10年以上も前におそらく英訳本で読んだのだと思われるが、その要諦を「理想の満足を将来に望まんとするを排して之を脚下に求めよと唱へた」ととらえて、「未来は永遠に到来せぬものである。個人の平安は常に個人の脚下に在る」としたのは、はなはだ卓見であって、これは『ドイツ・イデオロギー』におけるマルクスの「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成さるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる」という書き込みにも通じている。若きマルクスが心はどこか「聖マックス」に通じていながらも、エンゲルスと共に「聖マックス批判」をやって、さらに「統一制度」としての社会主義を唱え、やがて石川三四郎に「自治制度」と対比されているのは、日本の黎明期の社会主義の水準の高さを思わせるものがある。

 『虚無の霊光』には、さらに「前段捿々言へる如く消極的厭世は変じて積極的の革命となるのである。達磨大師も『捨世塵而欲求道者宛如求兎角(せじんをすててみちをもとめんとほつするはあたかもとかくをもとむるがごとし)』と言はれたそうだが、今は之に一言を加ふるの余地も必要もあるまい」ともあるが、これなどほとんど我ダルマ舎の精神でもある。そして、『虚無の霊光』の序に、「此書は亡父十三回忌の紀念として親戚故旧に頒たんが為めに編輯したのである。固より、財産無く、才智無く、学識無く、定まった住家さへ持たぬ今日の我が身にとりては、恩愛深き故人を紀念するにも、僅かに此みすぼらしき小冊子を世に出すが精一ぱいの事である」とあるのを読めば、老いた父がありながら、還暦を前に本当の「財産無く、才智無く、学識無く」状態で、「僅かに此みすぼらしき小冊子を世に出す」とこを企てるわが身の「虚無」を思うばかりである。

 1910年の大逆事件の後、日本の社会主義運動は「冬の時代」に入った。1908年の赤旗事件で入獄していたおかげで難を免れた人々のうち堺利彦は四谷の自宅に「売文社」の看板を掲げて売文業で糊口をしのぎ、山川均は故郷の岡山に帰って薬屋をやり、大杉栄は荒畑寒村と後に「知識的手淫」と自嘲した雑誌『近代思想』を刊行した。そして、『世界婦人』に書いた評論の筆禍事件で刑務所に入っていた石川三四郎も難をのがれ、1913年にヨーロッパに亡命し、帰国したのは1920年であった。

 クリスチャンでもあった石川三四郎は、直接行動主義というよりも求道者的なところがあって、7年にわたるヨーロッパ亡命から帰国した後は、イギリスでカーペンターから学んだ「土民生活(デモクラシー)」を唱え、1924年には安部磯雄らと日本フェビアン協会をつくったりもしたが、1927年からは多摩郡千歳村で、農耕と著述の生活に入ったり、戦後まで生きた。戦後に書かれた『50年後の日本』などは、短編ではあるが、名称的にもE.ベラミーの『かえりみれば(100年後の世界)』を意識したユートピア小説であり、そこには多様な協同組合の複合による協同社会が描かれている。

 石川三四郎は、1904年に『消費組合之話』という冊子を出している。その翌年、これを読んだ若き賀川豊彦は大きな感銘を受け、やがて日本の協同組合運動の指導者になり、世界最大の消費組合であるコープこうべをつくった。亡命中はフランスで農民生活をし、帰国後は農耕と著述で戦中期をくぐった石川三四郎は、協同組合運動の実践をした訳ではなかったが、「購買組合、信用組合、販売組合、生産組合、水利・電利組合、保険組合、教育組合、警察組合」といった組合が複合化された社会が、たえず「変化発展」していくという石川三四郎が描いた社会は、既成化した現在の生協に対しても、今また語られる「協同組合地域社会」や「社会的企業」という概念に対しても、それらの在り方の根源を考える上で、示唆に富んだものを持っている。

※このブログは、2007年11月 9日 のブログ「石川三四郎」をリライトしたものです。

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2008年5月 4日 (日)

IWWとその可能性

 19世紀のアメリカに、ベラミーのようなユートピア小説があったというのを意外と思うのは、アメリカには資本主義のチャンピョンのイメージがあるせいなのかもしれないが、そうであればこそ「金ぴか時代」の裏側では、たくさんの抵抗があったのもまた当然であった。1873に大きな恐慌があり、賃下げや不平等の拡大の中で、鉱山や鉄道ではたびたびストライキが闘われた。1886年には鉄道ゼネストに端を発して、5月4日にシカゴでヘイマーケット事件が起きて多数の労働者が犠牲になった。そして、これがメイデイの始まりとなったように、19世紀後半から20世紀の初頭にかけて、アメリカでは労働運動が盛んであった。

 1869年には、生産者、消費者及び流通業者の協同組合の創設などの協同組合的な産業システムを導入することを主張した労働騎士団(KOL)が全国的に結成され、1886年にはサミュエル・ゴンバースが率いるより労使協調的なアメリカ労働総同盟(AFL)がそれに取って代わった。しかし、WASP系の熟練工を中心にした職業別労働組合であったのAFLは、高い組合費による共済制度をもっていたが、非定住型の労働者や新移民の非熟練工が起こしたストライキに対しては冷淡であった。そこで、中西部の鉄道や鉱山や森林や農園で働く労働者や、東部の工場で働く新移民の非熟練工を組織するために産業別労働組合の必要性が提起されて、1905年にAFLを脱退した一部の組合や社会主義者が集まって、IWW(Industrial Workers of the World=世界産業労働組合)を組織したのだった。

 市場経済が国是であるようなアメリカにおいて、「協同主義共和国」を目指したサンジカリズムの労働運動が興隆したということ自体が驚きであるが、その背景には、ベラミーの描いたユートピアへの共感が「ナショナリスト・クラブ」という国民主義的な運動になったことにつながるものがある。政治的にはヨーロッパの社会主義運動の中でかかげられた「普通選挙制度」などは、アメリカでは既に実施されていたし、ヨーロッパに比べて歴史の浅いアメリカでは、人々はその建国の原点と開拓の経験をまだよく覚えていた。
IWWについて書かれた『ウォブリーズ』と『IWWとアメリカ労働運動の源流』には、以下のように書かれている。

 「アメリカでは、西部の大平原一帯にわたって、罠猟師や商人、自営農民、牧揚主や探鉱者たちについての記憶はいまなお生き生きと人々の胸にとどめられており、すでにロマンティクな神話のゆたかな伝統によってちりばめられていた。・・・ヨーロッパの労働者たちは、この当時には賃金制度より他の制度をほとんど記憶によみがえらすことはできなかった。いいかえるなら、彼らは賃金制度にかわるべき制度をはっきりと心にえがくことさえできなかった」(P.レンショウ『ウォブリーズ』日本評論社p76)。
 「19世紀末に別のアメリカ像を夢みた人々は・・・エドワード・ベラミー、あるいはアメリカ南部や大草原の諸州の人民党員、さらには労働騎士団の影響を受けた数百万の労働者であろうとも、ほとんどのアメリカ人は小さな農場や家内工業の仕事場で自分のために働いていた(旧き良き)時代を回顧し想像した。かれらは独立的な小規模生産者が大共和国(アメリカ)の改革のために自主的に協力する経済や社会を現実のものとして描写することができた」(メルビン・ドボフスキー『IWWとアメリカ労働運動の源流』p19)と。

 だから、20世紀の初頭には既にイギリスを抜いて資本主義のチャンピョンになったアメリカにサンジカリズムの運動、正確にはアメリカ型サンジカリズムの運動であったIWWが興隆したのは決して偶然ではなかったのである。IWWは、「労働者による産業の自主管理」や「協同主義共和国」という「もうひとつのアメリカ」づくりをかかげ、非熟練労働者や英語の話せない移民労働者、黒人、日本人までを組合員にして、アメリカを横断してストライキと反乱をくりかえした。その活動家は「ウォブリー」と呼ばれ、移動は貨物列車をただ乗りする「ホーボー」で、街では石鹸箱に乗ってフリー・スピーチして、「ハレルヤ、俺は無頼漢だ」と歌い、留置所に入れられ、リンチを受け、時には一斉射撃で虐殺もされた(1916年のエベレットの虐殺)。組合員数は、最大でも10万人を超えることはなかったが、発行した赤い組合員証は100万を超え、うち10万枚は黒人に対してであったという。発行数と組合員数が異なるのは、発行しても移動をくりかえす貧しい組合員からは、持続的に組合費を集めることが困難であったからだった。そして彗星の如くきらめきながらも、弾圧でわずか20年足らずで壊滅したのであったが、その後、貧乏人に語り歌い継がれて伝説となり、そこには後に対抗文化へと引き継がれる全てのルーツがあるのだった。

 私は、ドス・パソスやダシール・ハメットやジャック・ケルアックの小説の中に、IWWという言葉を時々見かけた。新しいところではサラ・パレツキーの女探偵ウォーショースキーのシリーズに、ミスタ・コソトレーラスという「組合のころ殴り合いに明け暮れていた」元機械工でウォーショースキーの保護者顔のジジイが出てきて、ウォーショースキーを守るためにパイプレンチを振り回す。彼などはIWW型労働運動家の末裔の味がする。例えば、『レディ・ハートブレイク』には、次のシーンがある。
 「正午、護衛隊の第一陣が到着した。ミスタ・コソトレーラスは作業服を着て、ベルトにパイプレンチを下げていた。・・・連中は路地で見つけた角材や壜を打ち振りながら、じりじり迫ってきた。わたしたちが止める暇もないうちに、ミスタ・コソトレーラスがパイプレソチを抜き、一番近くの暴徒に向かって突進した。ソコロフスキーとクルーガーが待ってましたとばかりに続いた。年寄り三人がいかにも良識ある人間らしく楽しげに、ぜいぜいいいながら戦いの場に飛びこんでいく姿は滑稽でさえあった」と。

 さて、こんなジジイなら私の周りにもけっこういる。IWWは、1913年にオハイオ州のファイアストーン・ゴム会社で6週間にわたるストライキを指導した。ファイアストーン・ゴム社は全米一の自動車タイヤメーカーであったが、1988年に日本のブリジストン社によって買収され、その後、争議が起こった。そして、この争議団が支援を求めて来日した時に、連合が冷たかったのに対して、少数でありながら全力で支援したのがこの手の活動家たちであった。

 IWWの研究家である久田俊夫氏は、「(IWWは)20世紀初頭のアメリカにおいて、政治的救済を得られない不熟練労働者や外国移民の組織化の必要から誕生したアメリカ固有の革命的労働運動であった、ということである」(『妖怪たちの劇場』厳松堂出版p132)として、フランスなどからのサンジカリズムの影響については否定的であるが、P.レンショウの『ウォブリーズ』(1973社会評論社)には、「IWWの創立者たちがシカゴに集ったとき、彼らがなによりも自分たちの運動に刺戟をあたえ模範となることを期待した国はフランスだった・・・1906年のアミアン憲章Charter of Amiensは、直接的な改良のための煽動を、資本主義打倒のための長期的な計画と結合した」、「多数のIWWの創立者たちはアミアン憲章を熟知していて・・・フランス人たちと同様に、労働者階級の権力は、直接行動とゼネストによって彼らが工場や鉱山を占拠し、資本家をロックアウトし、国家を支配するときに獲得されるものと信じていた」(P66-68)としている。

 果たしてどちらが正しいのかと言うよりも、メルビン・ドボフスキー『“ビッグ・ビル”ヘイウッド』(批評社)に、「1870年と1919年の間に展開されたアメリカの職業別組合主義、社会主義、それにサンジカリズムの歴史はより広い西洋世界における数々の重要な出来事の一部分であった。・・・それはまた19世紀と20世紀初頭のアメリカと他の産業先進国の歴史と深い係わりをもっていた」と書いている。

 IWWのサンジカリズムは、イギリスの労働運動に影響を与え、幸徳秋水をつうじて日本にもたらされた。それは、ベラミーが『かえりみれば』を書き、堺利彦がそれを翻訳した今から100年前の「世紀の転換期」にも、既にヨーロッパとアメリカ、それに日本にまで及ぶ「協同主義のグローバリズム」の波があったということなのではなかろうか。

 100年後にアントニオ・ネグリは、IWWについてこう書く。「この点に関して私たちは、聖アウグスティヌスが類廃的なローマ帝国に抗すべく呈示しか、あるプロジェクトの構想から着想を受けとることができるかもしれない。それによれば、境界を画定されたいかなる共同体も、帝国の支配に対するオルタナティヴを用意することに成功しなかったのである。このことを成し遂げうるのは、すべての人びと〔住民〕とすべての言語を共通の行程に結集させる、普遍的ですべてを包含する共同体のみであった」、「このような視点からみると、世界産業労働組合(IWW)は、現代における偉大なアウグスティヌス的プロジェクトである、と言えるだろう。20世紀の最初の20年ほどのあいだに、ウォブリーズと呼ばれた組合員たちは、マサチューセッツ州ローレンスとニュージャージー州パターソンからワシントン州エヴァレットにいたるまで、合衆国を横断しつつ強力なストライキと叛乱を組織してまわった。・・・それは、固定的かつ安定的な支配構造を打ち立てることなく、旧い社会の殼のなかで新しい社会を創出したのである。・・・ウォブリーたちは、膨大かつ流動的な移民のあいだで、並外れた成功を収めた。・・・ウォブリーは中心の不在、IWWの闘争性の柔軟で予測不可能な遍歴を指示するものと推定される。また、・・・IWWが主に重視していたのはそのプロジェクトの普遍性であった。ありとあらゆる言語および人種に属する労働者たち、ありとあらゆる職業に属する労働者たちは、世界中から(じっさいにはメキシコまででしかなかったが)“一大組合”に結集すべきなのだ。」(『帝国』以文社p271-273)と。

 私が時々顔を出す労働組合の事務所は、いつでもたくさんの外国人労働者と、解雇されたアルバイターの若者の相談でにぎわっている。また巡り来た「世紀の転換期」と新たな「帝国」化の始まりにあって、聖アウグスティヌスからこの地点まで世界はつながっていると言うよりは、つなげていかねばならないというのが、ここでの結論である。

※以上は、2006年5月3日に書いた「ベラミーからIWWへ」と、2006年5月8日に書いた「アメリカのサンジカリズム」のブログをリライトしたものです。

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エドワード・ベラミー『かえりみれば』

 19世紀後半のアメリカは、「金ぴか時代」と言われている。南北戦争以降の60年間に、アメリカはそれまでの農業国からイギリスをしのぐ工業国へと大発展している。鉄道、鉄鋼、石油といった新しい産業を中心に「トラスト」と呼ばれる巨大な株式会社ができて、産業を支配していった。ロックフェラーのスタンダード石油や、J.P.モルガンのUSスチールといったトラストは国内市場や外国貿易を独占し、寡占化にともなって倒産した独立自営の小企業主たちは賃金労働者となったりした。また、南欧東欧からの新移民が激増して、アメリカの人口は1860年の3100万人から、1910年の9200万人へと3倍増し、言葉の不自由な新移民は都市のスラムに住んでスウェット・ワークして、工業化の底辺を支えた。

 鈴木直次著『アメリカ産業社会の盛衰』(岩波新書)には、「工業力の躍進とともに、“メイド・イン・アメリカ”は世界へ浸透した。20世紀が始まった最初の年、1901年に、あるイギリス人ジャーナリストは“世界のアメリカ化”という一文を雑誌に発表して、いかにアメリカ製品がイギリスの家庭に入り込んでいるかを明らかにした」とあった。このアメリカを中国に、イギリスをアメリカに置き換えれば、100年前のアメリカは、現在の中国と同じことをやっていたのが分かる。新移民たちが「スウェットショップ(労働搾取工場)」に押し込まれて、安価な消費財の生産に携わるところなど、まるで、かつての日本の女工哀史や、内陸の農村から出てきて上海の工場で働く現在の中国の女工さんと同じである。

 また、オットー・L・ベットマン著『金ぴか時代の民衆生活・古き良き時代の悲惨な事情』(草風社)によれば、1877年に経済危機、1893年から1898年にかけては不況で、全労働者の5人に1人に当る400万人が失業者し、1890年には、人口の1%の人々が得た利益は、残りの99%の人の総収入と同じであったという。そして、1881年から1900年の間に、600万人以上の人をまきこんで、2378回のストライキがあったという。

 しかし、産業界と政界が一体となったアメリカでは、ストライキに対して大統領が州兵をして弾圧させるというのも、あたりまえのことであったし、1890年には「シャーマン反トラスト法」が成立したものの、実際にトラストが規制されることはなかったという。1892年にはカーネギー製鋼会社で、1894年にはブルマン車輌会社で大きなストライキが起こった。
さて、そんな時代を背景に、1888年にエドワード・ベラミーの『かえりみれば(Looking Backward)』が発表された。1888年といえば、イギリスにおいてマルクスの『共産党宣言』が初翻訳された年であるが、そんな時代に、アメリカでは共産主義社会を先取りするかのようなユートピア小説が出版され、多くの読者を獲得していったのである。

 その背景には、アメリカにおける弱肉強食を是とする社会的ダーヴィニズムがあたりまえの、むき出しの市場原理主義の現実があったのだと思われる。『かえりみれば』の書き出しにある、車に乗った勝ち組と、その車の綱を引く苦力のごとき負け組みとの対比の比喩を読めば、競争社会における多数の負け組みの状況と、現在また再生されようとしている市場原理社会の原点がよく分かる。

 現在の日本ではベラミーはほとんど読まれないというか、知る人も少ないが、アメリカに留学した安部磯雄は、ベラミーを読んで社会主義者になったという。堺利彦はそれを『百年後の新社会』と題して翻訳し、賀川豊彦はベラミーに感激して、ベラミーの娘を訪ねたという。そこで、ベラミーについて、インターネットで検索していたら、「サンフランシスコ・クロニクル紙」の「独立記念日の社説」というのがあって、そこには「異義あり!」ということで、次のような内容であった。

 9/11以来、ブッシュ大統領とアシュクロフト法務長官は、彼らの政策に反対し、人権と自由擁護をかかげる市民たちの愛国心を問い、かれらの意見を排斥してきた。しかし、それはたいへんなお門違いというものだ。「異義を唱えること」ほどアメリカ的なことはない。そして、アメリカ合衆国独立記念日の今日ほど、その歴史の再検討に適した日はないだろう。「異議申し立て」の伝統。イギリスに反対して革命を誘発したアメリカ植民者たちは、ボストン港に紅茶を投げ捨てただけでなく、イギリス王朝と貴族社会を否認する、共和国政府を創造した。トマス・ジェファーソンの輝かしい言葉で書かれた「独立宣言」は、「すべての人の平等」を謳ったばかりでなく、「政府が、その目的達成の障害になった場合は、市民が異義を唱える。」ことを奨励した。それに止まらず、「合衆国の父」たちは、憲法制定にあたり、補足第一条で、発言、集会、請願の自由を保証し、「異義を唱える」権利をわれわれに与えた。・・・たとえば、1881年に、今使われている「忠誠の誓い」を書いたフランシス・ベラミーは、社会主義を奉じる編集者で、キリストを社会主義者と呼んだばかりに、ボストンの教会から追放された。彼のいとこのエドワード・ベラミーが書いたユートピア小説「Looking Backward」は、何千人ものミドルクラスのアメリカ人を鼓舞して「愛国者(nationalist)クラブ」に入会させた。・・・「異義を唱える」ことは、決して反愛国的ではない。「異義あり!」こそアメリカ流なのだ。独立記念日おめでとう!(翻訳:風砂子デアンジェリス)。

 この社説にあるように、アメリカではベラミーはまだ知られているようである。ベラミーの描くユートピアは共産主義社会であるが、ベストセラーになった『かえりみれば』は、当時、多数の読者を「愛国者(nationalist)クラブ」に参加させたという。ベラミーにとっては、ユートピアとナショナリズムはつながっていて、ナショナリズムの実現は、共産主義的ユートピアの実現であった。次項に書くが、20世紀の初頭のアメリカにはIWW(世界産業労働組合)という、サンジカリズムを基調にした過激な労働運動の興隆があった。IWWの争議では、ベラミーの「愛国者(nationalist)クラブ」の運動と同様に、赤旗ではなくて星条旗が振られたという。要するに、アメリカにおける異議申し立ての背景にあるのは「建国の精神に帰れ」ということなのである。建国時にあった平等で民主的なコミュニティこそが、アメリカ人にとってはユートピアに近いものなのではないかと思われるが、これが「アメリカ流」なのであろう。

 それから、もうひとつ、アメリカ人の運動は「建国の精神に帰れ」というのと同時に「進取の精神」という特徴がある。インターネットでベラミーを検索すると、日本の大学でベラミーをやっているのは、文学部というよりも都市工学みたいなゼミであったりして、これはユートピアの中心には、フーリエでもオウエンでも、いつも壮大な建築物が構想されているせいなのかもしれない。これは、産業化の初期においては、住宅ほかインフラから食品販売にいたるまで、行政や他の民間セクターは未発達であったから、せいぜい資本家が工場の周辺に自ら貧弱なそれを用意していたせいだからではないかと思われた。だから、その時代のユートピア的コミュニティは、せいぜい数千名規模だが、その中心に壮大な建築物を共有する相互扶助的な社会として構想されたのであろう。ロバート・オウエンの協同組合の店舗というのも、その中に位置づけられている。そして、それよりも工業化のすすんだ時代のベラミーの場合は、ボストンという都市の規模でそれが構想されており、モノを購入する場は近代的なスーパーのイメージである。

 ウィリアム・モリスは、ベラミーの『かえりみれば』を読んで、『ユートピアだより』を書いたと言われる。ベラミーの描いたユートピアの革新的かつ機能的なことに異議を申し立てた訳である。モリスが『ユートピアだより』に描いた社会は、イギリス社会の歴史と伝統を背景にした非工業的な社会であったが、ベラミーの描いたユートピアには、現在のインターネット配信を連想させる電話による音楽の配信まで登場するのである。

※以上は、2006年3月27日に書いた「エドワード・ベラミー『かえりみれば』」のブログをリライトしたものです。

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2008年5月 2日 (金)

夏目漱石の『私の個人主義』

 「余は如何なる点からしても戦争と云う事に幾分の趣味も有する事が出来ない。又国家と云うものを尊重する事が出来ない」という永井荷風の一文は、夏目漱石の『私の個人主義』にある「必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません」という一文を思い起こさせる。

Photo  『私の個人主義』は、漱石が1914年に学習院で行った講演で、聴衆は学習院に学ぶ支配階級の子弟たちである。漱石は、支配階級の子弟たちに向けてこう言う。
「今までの論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三ヵ条に帰着するのであります」(岩波文庫『私の個人主義』p126)と。要は、漱石は「ノブレス・オブリージュ」を説いている訳である。

 そして、さらに漱石が「実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません」と書いたのを見れば、やはり荷風が「「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。・・フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる」書いたのを思い出す。

 荷風はアメリカを嫌ったが、アメリカ流の自主独立にして公共的な市民精神は会得した。同じく、漱石はイギリスを嫌っても、イギリス流の自由主義と個人主義は会得していたのである。『私の個人主義』で、漱石はさらにこう述べる。
「それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。・・・私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務というものを納得せられん事を願って已まないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです」(岩波文庫『私の個人主義』p129)と。

Photo_2  日本に帰った後の漱石と荷風の文学行為は、その本質において通底している。大逆事件とすれちがった荷風は『花火』を書いたが、漱石は『私の個人主義』に「彼ら(イギリス人)は不平があると能く示威運動を遣ります。しかし政府は決して干渉がましい事をしません。黙って放って置くのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴は働かないのです」(岩波文庫『私の個人主義』p128)と書き、同年に『こころ』を書いた。「御大葬の夜私はいつものとおり書斎にすわって、合図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました」と。

 フローベールの『感情教育』を読むと、フローベールにとって若き日に体験した2月革命とその反動であった6月事件は、近代化と文学にとってのひとつのイニシエーションであったのではなかろうかと思う訳だが、日本の近代化と文学にとっては、明治維新と大逆事件がそうであったのではないかと思う。明治は終っても、日本は外発的な近代化を「上滑りに滑って」いかねばならず、それは現在にいたるまでつづいている。荷風は、やがて国家主義的になっていく時代の中で、引きこもりと脱国家主義的空間への放浪をくり返す。そして、私がフーテンしながらこんなことを書いているのも、所詮はそのつづきを生きているのだと、私は勝手に思っているのだ。

 さて、次にアメリカにとって近代化のイニシエーションは何であったかと考えると、南北戦争(1861-65)であったかと思う。19世紀初頭のイギリスにおける産業革命と資本主義の進展は、国境を超えて市場を拡大させ、戦争をも含めて旧い社会を変えていった。1853年に日本に黒船が押し寄せ、1860年には日米修好通商条約を結ぶために日本から遣米使節団が送られ、それを見たホイットマンが「ブロードウェイの行列 日本使節団を歓迎して」と言う詩を書いたことは前に書いた。ウォルト・ホイットマンは、印刷工や小学校教師、民主党系の新聞社の記者や編集者をする政治ジャーナリストであったが、1855年に詩集『草の葉』を出版、以後、生涯にわたって『草の葉』を改版する。そして南北戦争後、1866年にリンカーン大統領が暗殺されると、ホイットマンは次の書き出しで始まる「遅咲きのライラックが前庭に咲いたとき」という詩を書いている。

“遅咲きのライラックが前庭に咲いて、
 西の夜空に大きな星が早くも沈んでいったとき、
 わたしは嘆き悲しんだ、そしてなお、永久に帰ってくる
 春ごとに嘆き悲しむことであろう。・・・”

 ホイットマンにしてはめずらしい叙情的な詩である。ホイットマンが『草の葉』に描こうとしたのは、アメリカという国の原風景であったが、この詩は、南北戦争前後からの産業発展の中で失われていくアメリカの原風景へのオマージュであるような気がする。そして、アメリカ人の近代化への対抗は、いつでもそんな形をとっている。
 南北戦争後のホイットマンは、アメリカ資本主義の発展からは離れて、ニュー・ジャージー州キャムデン近郊に住んで自然の中で暮し、漱石や荷風と同様に『日記』を書いた。そこに「わがアメリカの優秀性と生命力は、われわれの一般大衆の中にあるのであって、旧世界におけるように紳士階級の中にはないのです」(『自選日記・下巻』P109)とあるように、相変わらずポピュリストであり自然主義者であったのだった。

 ホイットマンは1892年3月に亡くなるのだが、同年10月に若き夏目漱石は「文壇における平等主義者の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」という文章を書いたことは、前にもふれた。その後、1900年に夏目漱石は文部省派遣の留学生としてイギリスに渡り、産業化の進んだ近代西洋を目の当たりにした漱石は、ノイローゼになって帰国するのだが、もし漱石がその5年後に私費でアメリカに渡った永井荷風と同様に、私費でアメリカに渡ってホイットマンとかエマソンの研究でもしていたら、果たして漱石はノイローゼになっただろうか。そして、もし幸徳秋水が1905年にアメリカでなくて、イギリスに亡命していたら、果たして幸徳秋水は如何なる社会主義者として帰国しただろうか。
 次は、また少しだけ19世紀末から20世紀初頭のアメリカへもどってみる。

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