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2008年4月28日 (月)

永井荷風

72  幸徳秋水がアメリカに滞在していた頃、西海岸から始まりアメリカに4年以上滞在した日本人がいた。永井荷風である。文学者の洋行というと、森鴎外や夏目漱石が思い浮かぶが、それらの官費によるミッションをもった決死の洋行とは違い、永井荷風の洋行は日本郵船の1等客室で行く遊学と放浪であった。明治の時代に足掛け5年にわたるアメリカとフランスでの放浪は、背が高く細面で当時のイケメンな面影とも重なって、日本文学史上のエポックメイキングとも言えるが、帰朝後の永井荷風の生き様は、日本の近代化を見直す鏡であるとも言える。

Nkafu  永井荷風の書いた『あめりか物語』は、1903年にアメリカに渡った永井荷風が、カレッジに学び、ワシントンの日本大使館でアルバイトし、ニューヨークで銀行員をしながら、1907年にフランスに渡るまでの4年間を、エッセイというよりは短編小説で描いた物語である。当時のアメリカには、様々なかたちで日本人が渡っており、登場する人物はそれらの日本人であったり、荷風の分身であったりする。

 永井荷風は、アメリカに4年滞在したが、実はアメリカが嫌いであった。『ふらんす物語』にある「再会」という短編小説には、こう書かれている。
「その頃、吾々は共に米国にいながら、米国が大嫌いで、というのは、二人とも初めから欧洲に行きたい心は矢の如くであっても、苦学や自活には便宜の至って少い彼の地には行き難いので、一先米国まで踏出していたなら、比較的日本に止まっているより、何かの機会が多かろうと、前後の思慮なく故郷を飛出した次第であったからだ。・・・」と。

 アメリカ嫌いというのは、今も昔も多くいる。今のアメリカ嫌いというのは、市場原理主義で、「帝国」化したアメリカを嫌うという傾向だが、昔のアメリカ嫌いは、アメリカは俗物的で、非文化的とか思っていたのかもしれない。官費留学生はヨーロッパに派遣されるのが一般的で、アメリカに行くのは宣教師の推薦で神学部に留学するか、商売で行くか、出稼ぎかであったから、アメリカはヨーロッパと比べれば一段下の外国であったのかもしれない。

 永井荷風は、さらにこう書く。
 「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。ロシヤのような・・虐殺もなければ、ドイツ、フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる。止むを得ない、吾々は米国の地にある間は、米国が産出した唯一の狂詩人、ヱツガー、アラン、ボーのために一杯を傾けようといって、酒場のカウンターに寄り掛り、ウイスキーを飲んだ事も幾度であったろう」と。
 「不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国」というのは、かつてトクヴィルの見たアメリカ社会そのものであり、さすが永井荷風、西海岸から中西部、東海岸までを4年間も放浪すれば、「アメリカ社会の健全な常識」と「米国が産出した唯一の狂詩人、ヱツガー、アラン、ボー」をちゃんと見抜いている。

 1903年にアメリカに渡った永井荷風が、最初に住んだのはシアトル近郊のタコマであった。先に、当時のサンフランシスコとオークランドには沢山の日本人がいたと書いたが、シアトル辺りはどうであったかと言えば、「北米の旅舎にて明治36年(1905年)11月稿」とある「夜の霧」という短編には、タコマにおいて出会った日本人の次の描写がある。
「年の頃は三十歳を越えたるべし。・・・雨と塵埃に汚されたる古き中折帽を冠り、処々破れて皺のみ多き背広の下には白襯衣もなく、垢染みたるフラネルの肌衣に歪みたる襟飾掛けたり。思うにこれ、鉄道工事に雇われつつある人夫か、さらずば白人の家の台所に使役せらるる奉公人、その以上の人にては非ざるべし」。さらに、「最も低き賃銀にて、一日の労働を売り、次第に彼らの領地を侵略し行くもの、これ日本人と支那人なれば、・・・」という表現もあるが、当時のアメリカ西海岸には、日本からのたくさんの出稼ぎ労働者があったことが分かる。

 同じ頃に書かれた「舎路(シアトル)の一夜という短編には、「舎路の日本人街を見物しようと思って、或る土曜日の夜、こっそりその方へ歩いて行った」という書き出しに始まり、以下のように当時のシアトルの偽悪劣悪な日本人街が描かれている。
「近付けば両側の建物は、繁華を誇る第一通りなぞとは違い、場末の街の常として、尽く低い木造ばかり。ふとそれらの或る二階家の窓を見ると、何やら日本字で書いた燈火が出してあるので、私はひた走りに走寄ると、「御料理 日本亭」としてあった。・・・すると二階の窓からはやがて、三味線の音が聞え出した。・・・今はもう目に入る看板、尽くこれ日本の文字ばかりとなった。嘗て船中で聞いた話のその通り、豆腐屋、汁粉屋、寿司屋、蕎麦屋、何から何まで、日本の町を見ると少しも変った事のない有様に、少時は呆れてきょろきょろするばかり。いつの程か大分賑かになった人の往来も、その大半は、足の曲った胴長の我が同胞で、白人といえば大きなパイプを御えている労働者らしい手合である」と。

 イチローが渡る100年も前のシアトルには、沢山の日本人が住んでいたようである。そして、永井荷風はその「偽悪劣悪な在留日本人種の生活を描写」することから、彼自身の放浪を始めたのだった。これは、実家からの仕送りで暮す遊民的洋行者であった永井荷風の、「下層の社会運動・革命運動の潮流に接触してみたい」という幸徳秋水とは正反対の生き方ではあったが、その5年後の日本で、この二人はかすかに出会う。

 「午飯の箸を取ろうとした時ボンとどこかで花火の音がした。梅雨もようやく明けぢかい曇った日である。涼しい風が絶えず窓の簾を動かしている。・・・」という美しい文章で始まる、永井荷風の『花火』という短編がある。

 そして、その半ばあたりに下記の文章がある。
 「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ケ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた,わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知った事ではない━否とやかく申すのはかえって畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をば呆れるよりはむしろ尊敬しようと思立ったのである」と。

 永井荷風が見た市谷刑務所を出る囚人馬車に乗っていたのは、大逆事件で裁判所に引き立てられる幸徳秋水ほかの囚人たちであった。ここで初めて、永井荷風と幸徳秋水は、間近にすれちがったのであった。

 日露戦争の講和交渉がポーツマスで行われた頃、永井荷風はワシントンの日本公使館で働いていたが、『あめりか物語』にも「日記」にもそれへの言及はなく、弟にあてた手紙には、「余は如何なる点からしても戦争と云う事に幾分の趣味も有する事が出来ない。又国家と云うものを尊重する事が出来ない」と書いている。大逆事件によって、日本の社会主義運動は冬の時代へと入っていき、誰もが事件にふれぬ中、『花火』に描かれた情景と永井荷風の決意とその後の生き様は、夏目漱石の文学と同様に、「日本の近代化」の在り様を強く問うものがある。

 『花火』は、これもまた心をさらりと景に代える、次の文章で終わっている。
 「花火はしきりに上っている。わたしは刷毛を下に置いて煙草を一服しながら外を見た。夏の日は曇りながら午のままに明るい。梅雨晴の静な午後と秋の末の薄く曇った夕方ほど物思うによい時はあるまい・・・」と。

 1959年4月、永井荷風は80歳で死んだ。私が10歳の時である。時代は重なっているのだ。永井荷風の死後、日本は60年代からの経済の高度成長を通じて、80年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にまで上りつめた。しかし、そこに至る日本人の世俗と進歩は、永井荷風の時代と少しも変わりはなかったのではあるまいか。高度成長期に青春した私たちの世代も、もうすぐ還暦であるが、この時代を生きて、「何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした」人は、果たしてどれほどいるものなのだろうか。戯作者になるには素養の欠ける私は、せいぜいフーテンにでもなって、私は私の生き様をしなくてはいけないと思う次第である。

 ※ 以上は、2006年7月13日 に「永井荷風と幸徳秋水」と題して書いたブログをリライトしたものです。

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コメント

じっくり読ませていただきました。安易におちいった文章が散乱している世界にばっちりカウンターを当てていて痛快です!繰り返し読もうと思います。

私も雲を見続けてそのすばらしさを堪能できるようなフーテンになりたいと思っています。

荷風はアメリカを闊歩できるだけの風体にも恵まれていた。このことも大きいような気がします。しかし荷風が抱えたままになった日本にとっての課題は、おっしゃるとおり残されたままだなと最近ますます痛感します。

一昨日読んだ本の中に荷風が登場していました。荷風はカフェーだけでなく実は銀座のカフェ(ランブル)にも来店していたという話です。

投稿: 今井孝昌 | 2008年4月28日 (月) 11時00分

ろくに仕事しないで、こんな雑文ばかり書いていて・・、と自己嫌悪する日々でもありますが、暖かいコメントのおかげで、なんとか気を取り直す日々でもあります。ありがとうございます。

投稿: ダルマ舎 | 2008年4月28日 (月) 22時13分

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