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2008年4月26日 (土)

高野房太郎と片山潜

 ロシア革命後、片山潜は日本の共産主義運動を指導し、最後はコミンテルンの常任執行委員としてモスクワで亡くなり、その棺はスターリンによって担がれ、現在もクレムリンに眠っている。片山潜は、日露戦争の最中には、1904年にアムステルダムで開かれた第2インターナショナルの大会で反戦演説を行い、ロシア代表のプレハノフと握手をしたことで有名で、世界史の教科書にも出てくるが、そのアムステルダムからアメリカに戻って、数百エーカーの農場を買って、農場経営を営んでいる。結局、農場経営は失敗してしますのだが、その農場には日本からの移民を招致しようということであったから、先の島崎藤村の『破戒』の最後に、被差別部落出身の大物「大日向某」が買ったアメリカの農場に丑松が行くというのは、少しも不自然ではないのである。かえって、『破戒』という近代日本文学の傑作にふさわしい終り方であるとさえ言える。

 片山潜がテキサスでの農場経営に失敗して、日本に帰ったのが1906年で、『破戒』もその年に出版されているのだが、それより少し時代を遡ると、小説を書く以前の若き藤村は詩人であって、1897年(明治30年)に処女詩集『若菜集』を出している。そして、同年には日本で最初の労働組合である鉄工組合がつくられており、これをつくったのは高野房太郎というアメリカ帰りであり、それに協力したのが片山潜であったのだった。

 片山潜は、最初から社会主義者であったのではなくて、若い頃は立身出世をめざして1884年(明治17年)にアメリカに渡り、1896年に帰国するまでの13年間をアメリカで苦学して、キリスト教とラッサール流の社会主義を学び、帰国後は神田三崎町にキングスレー館というセツルメント施設を開いていたが、そこに、日本初の労働組合づくりの相談に訪れたのが、高野房太郎であった。

 高野房太郎は1986年(明治19年)にアメリカに渡り、サンフランシスコで小雑貨店を営みながら商業学校を卒業し、10年間をアメリカで過ごす過程で、1892年(明治25年)には、サンフランシスコ在住の日本人によって組織されていた職工義友会に入会、AFL会長のサミュエル・ゴンバースと連絡をとる中で、AFLのGeneral organizer に任命されるに至った。そして、1896(明治29年)年に帰国した高野房太郎は片山潜の協力を得て、1897年に労働組合期成会を設立、この期成会の指導のもとに、日本最初の近代的労働組合である鉄工組合、日鉄矯正会、活版工組合が結成した。さらに、高野房太郎は50回以上の演説会に出席して、労働組合の結成と、工場法の必要を訴えたほか、共済制度と共働店=消費組合の結成を訴えたという。

 産業革命以降の労働運動というのは、いきなり現在あるような労働組合づくりをめざした訳ではない。イギリスの産業革命期においてもそうであったが、当初の労働運動は、自然発生的な抵抗やストライキを除けば、労働者自身による相互扶助をめざしたのであり、その形態は「共済制度と共働店=消費組合」であったのだった。こうして1898年に、高野房太郎は鉄工組合横浜支部を指導して「消費組合共営合資会社」を設立し、1899年には京橋本八丁堀で石川島造船・沖電気の労働者を対象に「消費組合共営社」を設立した。

 片山潜は、渡米期間中にロンドンも訪れており、自宅につくったキングスレー館の名称も、イギリスのキリスト教社会主義者キングスレーにちなんだものと思われるが、日本にロッチデールの協同組合を紹介した人でもあったのだったが、やがて社会主義に向かい、ゴンバース流の労働組合主義を唱える高野房太郎とは意見を異にするようになる。そして、高野房太郎らの運動は、労働者の団結を禁止した1900年(明治33年)制定の治安警察法により、終焉を余儀なくされた。同年、明治政府はドイツの協同組合を参考に産業組合法を制定するが、官製でない協同組合は不可能となったのであった。

 その後、1903年に片山潜は再度アメリカに渡り、やがて前述した第2インターナショナルのアムステルダム大会に登場することになる。一方、労働組合運動から身を引いた高野房太郎は中国に渡り、流浪のはてに1904年に青島で亡くなった。

 明治政府は、優秀な官僚をヨーロッパに送り出して、その制度を学ばせた。一方、向学心のある貧乏人は、アメリカに渡って苦学した。こうして見て来ると、日本に労働組合や協同組合の思想と運動が入ってきたのは、国費留学生によってヨーロッパからという以前に、身近なアメリカに渡った人々からであったということが分かるのである。

 また、日露戦争の後には、日本の近代化を学ぼうと、たくさんの中国人が日本にやってきており、その中の一人に魯迅もいた。仙台の東北大学で医学を学ぼうとした魯迅は、やがて東京の旧漱石邸に住んで、文学の勉強を始めるのであるが、そのあたりは、先に紹介した関川夏央の『二葉亭四迷の明治四十一年』の世界でもあるが。

 さて、以上のようなことをSNSに書いたら、大内先生からコメントをいただいたので、一部を紹介しておきたい。

 「高野房太郎の実弟が、高野岩三郎ですね。兄貴のお陰で大学に進学、東大教授になったけれども、途中で辞めて、上記の大原社研の所長を終生勤めて、労働運動の研究や運動への協力を続けた。兄貴への恩返しの意味もあったのでしょう。
 岩三郎は、アメリカではなく、独ミュンヘン大学留学ですね。その時の縁で国際結婚、奥さんはドイツ人です。娘さんは、だからハーフ。その娘さんは若い時大変な美人でしたが、結婚相手が宇野理論の宇野弘蔵先生。宇野先生から、傍らの奥さんが口を差し挟みながら、高野岩三郎の話を良く聞かされました。懐かしい思い出です」と。

 世界は、なんと凄いつながり方をしているものなのか! である。

Photo_3  ※参考文献:辻野功『明治の革命家たち』(有信堂1970)

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