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2008年4月28日 (月)

永井荷風

72  幸徳秋水がアメリカに滞在していた頃、西海岸から始まりアメリカに4年以上滞在した日本人がいた。永井荷風である。文学者の洋行というと、森鴎外や夏目漱石が思い浮かぶが、それらの官費によるミッションをもった決死の洋行とは違い、永井荷風の洋行は日本郵船の1等客室で行く遊学と放浪であった。明治の時代に足掛け5年にわたるアメリカとフランスでの放浪は、背が高く細面で当時のイケメンな面影とも重なって、日本文学史上のエポックメイキングとも言えるが、帰朝後の永井荷風の生き様は、日本の近代化を見直す鏡であるとも言える。

Nkafu  永井荷風の書いた『あめりか物語』は、1903年にアメリカに渡った永井荷風が、カレッジに学び、ワシントンの日本大使館でアルバイトし、ニューヨークで銀行員をしながら、1907年にフランスに渡るまでの4年間を、エッセイというよりは短編小説で描いた物語である。当時のアメリカには、様々なかたちで日本人が渡っており、登場する人物はそれらの日本人であったり、荷風の分身であったりする。

 永井荷風は、アメリカに4年滞在したが、実はアメリカが嫌いであった。『ふらんす物語』にある「再会」という短編小説には、こう書かれている。
「その頃、吾々は共に米国にいながら、米国が大嫌いで、というのは、二人とも初めから欧洲に行きたい心は矢の如くであっても、苦学や自活には便宜の至って少い彼の地には行き難いので、一先米国まで踏出していたなら、比較的日本に止まっているより、何かの機会が多かろうと、前後の思慮なく故郷を飛出した次第であったからだ。・・・」と。

 アメリカ嫌いというのは、今も昔も多くいる。今のアメリカ嫌いというのは、市場原理主義で、「帝国」化したアメリカを嫌うという傾向だが、昔のアメリカ嫌いは、アメリカは俗物的で、非文化的とか思っていたのかもしれない。官費留学生はヨーロッパに派遣されるのが一般的で、アメリカに行くのは宣教師の推薦で神学部に留学するか、商売で行くか、出稼ぎかであったから、アメリカはヨーロッパと比べれば一段下の外国であったのかもしれない。

 永井荷風は、さらにこう書く。
 「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。ロシヤのような・・虐殺もなければ、ドイツ、フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる。止むを得ない、吾々は米国の地にある間は、米国が産出した唯一の狂詩人、ヱツガー、アラン、ボーのために一杯を傾けようといって、酒場のカウンターに寄り掛り、ウイスキーを飲んだ事も幾度であったろう」と。
 「不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国」というのは、かつてトクヴィルの見たアメリカ社会そのものであり、さすが永井荷風、西海岸から中西部、東海岸までを4年間も放浪すれば、「アメリカ社会の健全な常識」と「米国が産出した唯一の狂詩人、ヱツガー、アラン、ボー」をちゃんと見抜いている。

 1903年にアメリカに渡った永井荷風が、最初に住んだのはシアトル近郊のタコマであった。先に、当時のサンフランシスコとオークランドには沢山の日本人がいたと書いたが、シアトル辺りはどうであったかと言えば、「北米の旅舎にて明治36年(1905年)11月稿」とある「夜の霧」という短編には、タコマにおいて出会った日本人の次の描写がある。
「年の頃は三十歳を越えたるべし。・・・雨と塵埃に汚されたる古き中折帽を冠り、処々破れて皺のみ多き背広の下には白襯衣もなく、垢染みたるフラネルの肌衣に歪みたる襟飾掛けたり。思うにこれ、鉄道工事に雇われつつある人夫か、さらずば白人の家の台所に使役せらるる奉公人、その以上の人にては非ざるべし」。さらに、「最も低き賃銀にて、一日の労働を売り、次第に彼らの領地を侵略し行くもの、これ日本人と支那人なれば、・・・」という表現もあるが、当時のアメリカ西海岸には、日本からのたくさんの出稼ぎ労働者があったことが分かる。

 同じ頃に書かれた「舎路(シアトル)の一夜という短編には、「舎路の日本人街を見物しようと思って、或る土曜日の夜、こっそりその方へ歩いて行った」という書き出しに始まり、以下のように当時のシアトルの偽悪劣悪な日本人街が描かれている。
「近付けば両側の建物は、繁華を誇る第一通りなぞとは違い、場末の街の常として、尽く低い木造ばかり。ふとそれらの或る二階家の窓を見ると、何やら日本字で書いた燈火が出してあるので、私はひた走りに走寄ると、「御料理 日本亭」としてあった。・・・すると二階の窓からはやがて、三味線の音が聞え出した。・・・今はもう目に入る看板、尽くこれ日本の文字ばかりとなった。嘗て船中で聞いた話のその通り、豆腐屋、汁粉屋、寿司屋、蕎麦屋、何から何まで、日本の町を見ると少しも変った事のない有様に、少時は呆れてきょろきょろするばかり。いつの程か大分賑かになった人の往来も、その大半は、足の曲った胴長の我が同胞で、白人といえば大きなパイプを御えている労働者らしい手合である」と。

 イチローが渡る100年も前のシアトルには、沢山の日本人が住んでいたようである。そして、永井荷風はその「偽悪劣悪な在留日本人種の生活を描写」することから、彼自身の放浪を始めたのだった。これは、実家からの仕送りで暮す遊民的洋行者であった永井荷風の、「下層の社会運動・革命運動の潮流に接触してみたい」という幸徳秋水とは正反対の生き方ではあったが、その5年後の日本で、この二人はかすかに出会う。

 「午飯の箸を取ろうとした時ボンとどこかで花火の音がした。梅雨もようやく明けぢかい曇った日である。涼しい風が絶えず窓の簾を動かしている。・・・」という美しい文章で始まる、永井荷風の『花火』という短編がある。

 そして、その半ばあたりに下記の文章がある。
 「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ケ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた,わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知った事ではない━否とやかく申すのはかえって畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をば呆れるよりはむしろ尊敬しようと思立ったのである」と。

 永井荷風が見た市谷刑務所を出る囚人馬車に乗っていたのは、大逆事件で裁判所に引き立てられる幸徳秋水ほかの囚人たちであった。ここで初めて、永井荷風と幸徳秋水は、間近にすれちがったのであった。

 日露戦争の講和交渉がポーツマスで行われた頃、永井荷風はワシントンの日本公使館で働いていたが、『あめりか物語』にも「日記」にもそれへの言及はなく、弟にあてた手紙には、「余は如何なる点からしても戦争と云う事に幾分の趣味も有する事が出来ない。又国家と云うものを尊重する事が出来ない」と書いている。大逆事件によって、日本の社会主義運動は冬の時代へと入っていき、誰もが事件にふれぬ中、『花火』に描かれた情景と永井荷風の決意とその後の生き様は、夏目漱石の文学と同様に、「日本の近代化」の在り様を強く問うものがある。

 『花火』は、これもまた心をさらりと景に代える、次の文章で終わっている。
 「花火はしきりに上っている。わたしは刷毛を下に置いて煙草を一服しながら外を見た。夏の日は曇りながら午のままに明るい。梅雨晴の静な午後と秋の末の薄く曇った夕方ほど物思うによい時はあるまい・・・」と。

 1959年4月、永井荷風は80歳で死んだ。私が10歳の時である。時代は重なっているのだ。永井荷風の死後、日本は60年代からの経済の高度成長を通じて、80年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にまで上りつめた。しかし、そこに至る日本人の世俗と進歩は、永井荷風の時代と少しも変わりはなかったのではあるまいか。高度成長期に青春した私たちの世代も、もうすぐ還暦であるが、この時代を生きて、「何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした」人は、果たしてどれほどいるものなのだろうか。戯作者になるには素養の欠ける私は、せいぜいフーテンにでもなって、私は私の生き様をしなくてはいけないと思う次第である。

 ※ 以上は、2006年7月13日 に「永井荷風と幸徳秋水」と題して書いたブログをリライトしたものです。

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2008年4月27日 (日)

幸徳秋水とオークランド

 社会主義研究会では、安部磯雄や村井知至や片山潜といった、アメリカ帰りのクリスチャンが中心であったが、日露戦争が風雲急を告げると、1903年に非戦論の幸徳秋水は堺利彦とともに『万朝報』を辞して平民社を設立、以降、日本の社会主義運動は幸徳秋水と堺利彦が中心になっていく。

 幸徳秋水は土佐出身で、自由民権運動を経て中江兆民の書生となり、兆民から秋水の号を贈られる。英語を学び、新聞社の翻訳係りなどをしていたが、1898年に『万朝報』に入社、1901年に『二十世紀の怪物帝国主義』を刊行、これはレーニンの『帝国主義』よりも15年早く、1903年には『社会主義神髄』を刊行、その参考文献にはマルクス、エンゲルスからW.モリスまであげられている。

 平民社の発行する『平民新聞』は、非戦論の展開で発禁が相次ぎ、石川三四郎が書いた記事の筆禍事件で、幸徳秋水は1905年2月に巣鴨刑務所に収監され、5ヶ月に渡る収監の後、同11月にアメリカに渡り7ヶ月滞在した。幸徳秋水の洋行は、サンフランシスコとオークランドを中心とするエリアでの、亡命と癒しと再起に向けての滞在であった。高野房太郎、片山潜、安部磯雄、村井知至らが皆アメリカ帰りで新知識を持って帰って来ていたから、幸徳秋水にもアメリアに行きたいという思いがあったのかもしれない。

 平民社が解散した後に出た『光』という週刊新聞に幸徳秋水がアメリカから寄せた「桑港より-その2-」には、「わたくしは、まだアメリカ中流・上流の社会を知りません。また知りたくもありません。これらは、これまでの洋行者が、十分研究・吹聴したところです。わたくしは、ただ下層の社会運動・革命運動の潮流に接触してみたいと思っております」という記述があるが、「下層の社会運動・革命運動の潮流に接触してみたい」というところに、幸徳秋水による「これまでの洋行者」との差別化が見られる。

 当時、アメリカでは黄禍論が起こったように、西海岸には沢山の日本人の出稼ぎ労働者がいて、それに混じって社会主義者もいたようであり、幸徳秋水もそこに「集会も、言論も、出版も自由で、金銭ももうけやすいこの地において、熱心な運動をしたならば、日本社会運動の策源地・兵姑部、および迫害された同志の避難所をつくりだして、ちょうどロシア革命党員がスイスを運動の根拠としたようになりはしないかと思う。これは、わたくしの空想かもしれないが、できるだけはやってみるつもりである」と書いている。そしてこのことが、後に大逆事件をでっちあげられる遠因になっている。

 当地でアメリカ社会党の党員にもなった幸徳秋水は、さらに1905年に結成されたサンジカリズムの労働組合であるIWWとも接触している。
 「桑港より-その2-」には、「この手紙を書きかけているところへ、世界工業労働者組合の会員三名がきて・・」という記述があり、「桑港より-その5-」には、「社会労働党の人びとは、現時のアメリカにおける資本労働調和的組合に反対するがために、昨年六月から、あらたに『世界労働者同盟』という革命的労働組合かおこし、本部をシカゴにおいて、さかんに運動している。この組合に、その名のしめすように、まったく世界的で、人種的偏見などは、すこしもない。もし日本人労働者がよく団結して、この組合の一部となって提携して運動することになれば、有力な援助がえられたのだが、かなしいかな、日本労働者の多数は、社会主義も知らねば、世界的労働組合の存在も知らぬ。日本の労働者が知らぬばかりでなく、日本の紳士も名士も、いっこう知らぬ。ただ排斥派の労働組合があるのを知っているだけである。そして、それを社会主義者と混同している」という記述がある。
ここでも幸徳秋水は、「日本の紳士も名士も、いっこう知らぬ」と、自らの差別化を図り、明確にそれまでとは違う潮流、IWW的サンジカリズムの提唱を予測させる。

 1906年4月にサンフランシスコに大地震が起こり、それを体験した幸徳秋水は、「ぼくは、サンフランシスコの今回の大変災について、有益な実験をえた。それは、ほかでもない。さる十八日以来、サンフランシスコ全市は、まったく無政府共産制の状態にある。・・・財産私有は、まったく消滅した。おもしろいではないか、しかし、この理想の天地も、向こう数週間しかつづかないで、また元の資本家私有制度にかえるのだ。おしいものだ」(「無政府共産制の実現」)と書いた。異国の地で、一瞬、サンジカリズムの共和国を垣間見たのかもしれない。

 1906年6月、オークランドで社会革命党を結成した幸徳秋水は帰朝、すぐに開かれた歓迎演説会で「世界革命運動の潮流」を講演し、そこでそれまでの議会主義から、ゼネラル・ストライキを提案した。以後、労働運動、社会主義運動では、普通選挙法と議会主義による改革から、サンジカリズムとゼネストによる革命が主力となっていく。要は、サンジカリズムやゼネストも、アメリカから入ってきた訳である。

 アメリカでの交流と経験は、幸徳秋水に新しい社会のイメージを垣間見せたが、「アメリカは、けっして自由の楽土ではない。もし楽士であるとすれば、それは、ただ金をもっている人の楽土にすぎない。・・・かりそめにも貧富の懸隔のあるところには、革命の怒濤が、かならずおしよせてこよう、としているのである」(「桑港より-その4-」)とも書いた。そして、「貧富の懸隔のある」現実は、現代でも少しも変わることはないのである。

 オークランドは、古くはアメリカの社会主義者で作家のジャック・ロンドンを生んだ地であるが、60年代にはヘルズ・エンジェルズ(地獄の天使たち)からブラック・パンサー党を生んだアメリカでも筋金入りの対抗運動の地である。そして、サンフランシスコならびにオークランドという街が、60年代のアメリカの対抗文化運動だけでなくて、日本の対抗運動にとっても所縁の深い地であることに感慨を覚える。

 1998年に法制化された日本のNPOも、1990年代の初頭に、日本にアメリカにおけるNPOの存在と活動を知らせる活動をしたのは、オークランドにあるJPRN(日本太平洋資料ネットワーク)という日系のNPO団体であった。ここの活動家であったK氏やO氏は、日本をはみ出した留学生みたいなものであったが、日本にそれを伝えようとする熱意の背後には、かつてのオークランドの地における先人たちの霊があったのかもしれない。

※ 以上は、2006年7月 9日 に「幸徳秋水とアメリカ」、2006年7月11日に「幸徳秋水とIWW」と題して書いたブログをリライトしたものです。

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安部磯雄と社会民主主義

 明治の社会主義には、キリスト教社会主義というのがあって、木下尚江とか石川三四郎、後には賀川豊彦などがそうなのであるが、その代表格は安部磯雄である。安部磯雄は同志社に学び、1891年にアメリカに留学し、アメリカでエドワード・ベラミーの『かえりみれば』を読んで、社会主義者になったという。1897年に帰国し、同年に高野房太郎が結成した労働組合期成会の評議員になった。1898年に結成され三田の惟一館(ユニテリアン協会)に本拠を置いた社会主義研究会に入会、1899年に東京専門学校(後の早稲田大学)の講師になり、ユニテリアン派の機関誌『六合雑誌』の編集にあたった。

 それと、同志社で安部磯雄と同期であった村井知至というキリスト教社会主義者がいる。村井知至も1889年から1893年にアメリカの神学校に留学、帰国後、安部磯雄とともに社会主義研究会を始めて会長になった。村井知至のアメリカでの留学先の神学校で、後から入ってきた片山潜とも知り合い、片山潜も帰国後は社会主義研究会に参加して、やがて幸徳秋水も誘って、日本で初めての社会主義研究が始めた訳である。

 この社会主義研究会では、サン・シモン、フーリエ、プルードン、ラッサール、マルクスなどが研究されており、研究会は1900年には安部磯雄を会長にした社会主義協会となり、さらに、1901年には日本初の社会主義政党社会民主党へと発展したが、創立メンバー6名の内5名がクリスチャンであり、その宣言文を書いたのも安部磯雄であった。

 こう見てくると、日本に最初に社会主義が入ってきたルートというのも、アメリカに留学したクリスチャンを通してであることが分かる。後の賀川豊彦のアメリカ留学もそうであるが、カルヴィニズム系のアメリカの教団のミッションが、結果的には日本への社会主義の導入にも貢献していた訳である。アメリカン・ルネッサンスにおける超絶主義も、カルヴィニズムに対して批判的に誕生したユニテリアリズムを経して誕生したが、日本ではカルヴィニズム→ユニテリアリズム→キリスト教社会主義となった訳である。

 社会民主党は、結党の2日後に結社禁止となったが、安部磯雄が書いた「宣言書」は、「如何に貧富の懸隔を打破すべきかは実に二十世紀に於けるの大問題なりとす」で始まり、「貧富の格差拡大」はそれから100年たった21世紀においても未だ大問題となっていて、状況は相変わらずである。

 1903年に幸徳秋水と堺利彦を中心に平民社が創立されると、社会主義運動の中心は平民社にうつり、日露戦争後の1905年、幸徳秋水らと別れたキリスト教社会主義者の安部磯雄、木下尚江、石川三四郎は『新紀元』を発行した。1906年にアメリカへの一時亡命から帰国した幸徳秋水は、議会主義に代えてサンジカリズムを提起し、運動の流れがそう変わっていった訳である。

 その後、サンジカリズムの運動も、アナボル論争をへてヴォルシェヴィキズム主導へとなっていくのであるが、どちらの過程でも批判されたのは議会主義、普選運動であった。安部磯雄は、1924年に石川三四郎らとともに日本フェビアン協会を設立、その後、1928年に第16回衆議院議員総選挙に社会民衆党から立候補し、衆議院議員当選連続4回。社会民衆党党首、社会大衆党執行委員長を歴任。戦後は日本社会党の顧問となった。

 イエス・キリストの教えに基づく社会をつくることが社会主義の実現でもあるとした安部磯雄から賀川豊彦にいたるキリスト教社会主義は、戦後も片山哲、河上丈太郎へとその命脈は保つものの、日本の政治土壌においては常に「右派」とされ、マイノリティであった。社会主義研究会から約100年後に起こった社会主義国の崩壊以降、それまでの階級闘争主義者までが社会民主主義を云々するようになったが、キリスト教社会主義は日本における最初の社会民主主義でもあった。宣教師の努力にもかかわらず、日本におけるキリスト教の普及は低調なままで、それは日本における社会民主主義の未定着と因果があるのかどうかは分からないが、社会民主主義を「右派」と切り捨てた日本の社会主義運動は、未熟な近代主義による党派闘争の歴史と化したのであった。

 1905年に、安部磯雄が監督をしていた早稲田大学野球部が渡米したおりに、安部磯雄が平民社の堺利彦に「警察とは穏やかにやってください」と言ったそうで、それを聞いた荒幡寒村などの若い社会主義者が憤慨したという。なるほど、早稲田にあった安部球場というのは、安部磯雄から来たのかと思った次第であるが、安部磯雄は、日本人にはキリスト教よりも野球が馴染みやすいと思ったのかもしれない。

Photo  参考文献:『明治社会主義史論』辻野功(法律文化社1978)

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2008年4月26日 (土)

高野房太郎と片山潜

 ロシア革命後、片山潜は日本の共産主義運動を指導し、最後はコミンテルンの常任執行委員としてモスクワで亡くなり、その棺はスターリンによって担がれ、現在もクレムリンに眠っている。片山潜は、日露戦争の最中には、1904年にアムステルダムで開かれた第2インターナショナルの大会で反戦演説を行い、ロシア代表のプレハノフと握手をしたことで有名で、世界史の教科書にも出てくるが、そのアムステルダムからアメリカに戻って、数百エーカーの農場を買って、農場経営を営んでいる。結局、農場経営は失敗してしますのだが、その農場には日本からの移民を招致しようということであったから、先の島崎藤村の『破戒』の最後に、被差別部落出身の大物「大日向某」が買ったアメリカの農場に丑松が行くというのは、少しも不自然ではないのである。かえって、『破戒』という近代日本文学の傑作にふさわしい終り方であるとさえ言える。

 片山潜がテキサスでの農場経営に失敗して、日本に帰ったのが1906年で、『破戒』もその年に出版されているのだが、それより少し時代を遡ると、小説を書く以前の若き藤村は詩人であって、1897年(明治30年)に処女詩集『若菜集』を出している。そして、同年には日本で最初の労働組合である鉄工組合がつくられており、これをつくったのは高野房太郎というアメリカ帰りであり、それに協力したのが片山潜であったのだった。

 片山潜は、最初から社会主義者であったのではなくて、若い頃は立身出世をめざして1884年(明治17年)にアメリカに渡り、1896年に帰国するまでの13年間をアメリカで苦学して、キリスト教とラッサール流の社会主義を学び、帰国後は神田三崎町にキングスレー館というセツルメント施設を開いていたが、そこに、日本初の労働組合づくりの相談に訪れたのが、高野房太郎であった。

 高野房太郎は1986年(明治19年)にアメリカに渡り、サンフランシスコで小雑貨店を営みながら商業学校を卒業し、10年間をアメリカで過ごす過程で、1892年(明治25年)には、サンフランシスコ在住の日本人によって組織されていた職工義友会に入会、AFL会長のサミュエル・ゴンバースと連絡をとる中で、AFLのGeneral organizer に任命されるに至った。そして、1896(明治29年)年に帰国した高野房太郎は片山潜の協力を得て、1897年に労働組合期成会を設立、この期成会の指導のもとに、日本最初の近代的労働組合である鉄工組合、日鉄矯正会、活版工組合が結成した。さらに、高野房太郎は50回以上の演説会に出席して、労働組合の結成と、工場法の必要を訴えたほか、共済制度と共働店=消費組合の結成を訴えたという。

 産業革命以降の労働運動というのは、いきなり現在あるような労働組合づくりをめざした訳ではない。イギリスの産業革命期においてもそうであったが、当初の労働運動は、自然発生的な抵抗やストライキを除けば、労働者自身による相互扶助をめざしたのであり、その形態は「共済制度と共働店=消費組合」であったのだった。こうして1898年に、高野房太郎は鉄工組合横浜支部を指導して「消費組合共営合資会社」を設立し、1899年には京橋本八丁堀で石川島造船・沖電気の労働者を対象に「消費組合共営社」を設立した。

 片山潜は、渡米期間中にロンドンも訪れており、自宅につくったキングスレー館の名称も、イギリスのキリスト教社会主義者キングスレーにちなんだものと思われるが、日本にロッチデールの協同組合を紹介した人でもあったのだったが、やがて社会主義に向かい、ゴンバース流の労働組合主義を唱える高野房太郎とは意見を異にするようになる。そして、高野房太郎らの運動は、労働者の団結を禁止した1900年(明治33年)制定の治安警察法により、終焉を余儀なくされた。同年、明治政府はドイツの協同組合を参考に産業組合法を制定するが、官製でない協同組合は不可能となったのであった。

 その後、1903年に片山潜は再度アメリカに渡り、やがて前述した第2インターナショナルのアムステルダム大会に登場することになる。一方、労働組合運動から身を引いた高野房太郎は中国に渡り、流浪のはてに1904年に青島で亡くなった。

 明治政府は、優秀な官僚をヨーロッパに送り出して、その制度を学ばせた。一方、向学心のある貧乏人は、アメリカに渡って苦学した。こうして見て来ると、日本に労働組合や協同組合の思想と運動が入ってきたのは、国費留学生によってヨーロッパからという以前に、身近なアメリカに渡った人々からであったということが分かるのである。

 また、日露戦争の後には、日本の近代化を学ぼうと、たくさんの中国人が日本にやってきており、その中の一人に魯迅もいた。仙台の東北大学で医学を学ぼうとした魯迅は、やがて東京の旧漱石邸に住んで、文学の勉強を始めるのであるが、そのあたりは、先に紹介した関川夏央の『二葉亭四迷の明治四十一年』の世界でもあるが。

 さて、以上のようなことをSNSに書いたら、大内先生からコメントをいただいたので、一部を紹介しておきたい。

 「高野房太郎の実弟が、高野岩三郎ですね。兄貴のお陰で大学に進学、東大教授になったけれども、途中で辞めて、上記の大原社研の所長を終生勤めて、労働運動の研究や運動への協力を続けた。兄貴への恩返しの意味もあったのでしょう。
 岩三郎は、アメリカではなく、独ミュンヘン大学留学ですね。その時の縁で国際結婚、奥さんはドイツ人です。娘さんは、だからハーフ。その娘さんは若い時大変な美人でしたが、結婚相手が宇野理論の宇野弘蔵先生。宇野先生から、傍らの奥さんが口を差し挟みながら、高野岩三郎の話を良く聞かされました。懐かしい思い出です」と。

 世界は、なんと凄いつながり方をしているものなのか! である。

Photo_3  ※参考文献:辻野功『明治の革命家たち』(有信堂1970)

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2008年4月25日 (金)

島崎藤村

Photo  10年くらい前、ちょうど出向に出された頃に関川夏央の『二葉亭四迷の明治四十一年』という本を読んだら、「そうか」と思うと同時に「やられた」とも思って、50歳過ぎて会社勤めなどやってられない、私もそういう世界で遊びたいものだと、8年前の4月に会社勤めを辞めたのだった。そんで、8年前のちょうど今頃、DTPを学ぼうと専門学校に通いながら、会社勤めを辞めたら読もうと思っていた二葉亭四迷と夏目漱石を読み出した。そのへんのことは、2007年1月14日のブログ「世界はつながっている」に書いた。

 失業期間中にうまく職業訓練校に入れて、翌年から「本づくりSOHOダルマ舎」を立ち上げて、細々とDTP仕事をしながら、足りない分はスーパーでパート仕事をしていた。そしたら3年前に、スーパーが閉鎖になって会社都合解雇ということになり、雇用保険もすぐに支給になったから、少しものでも書こうと、このブログを立ち上げたのだった。その後また、DTP仕事とパート仕事でしのいでいたら、この春にパート先をまた会社都合解雇ということになったので、今度は、この間に書き散らしたものを何とかまとめてみようと思っている訳である。果たして、いかにしたらブログからいわゆる書物がつくれるものなのか、職業上のフィールド・ワークでもあるのだ。

 そんで、まとめるとなると難しいのは切り口である。ブログは気ままにかけるが、それをただ並べればいいのかとなると、そうはいかない。ブログはプロットみたいなものだから、まとめるには構成が必要だ、とあれこれ考えながら今日もまたブログを書くのだが、日本の近代について書くのに、切り口としての二葉亭四迷と夏目漱石はすでに関川夏央がやってしまっているから、今回、私としては島崎藤村から入ってみることにする。

Photo_2  正宗白鳥の言説によって、島崎藤村は「文豪」とされているが、近代文学における文豪は森鴎外や夏目漱石であって、島崎藤村はそれより下に見られている。一高は落ちたし、官費で留学したわけでもないし、けちだし、姪には手をつけるし、文章は下手だし、という訳である。そして、正宗白鳥の言説は、藤村をかばうようでありながら、その実「文豪」と揶揄して、藤村評価のガラスの天井になっているような気がするのである。そのせいか、藤村論は少なくて、そんで私が狂言回し的にでも使ってみるかと考える訳である。

 ちょうどペリーの艦隊が浦賀沖に現れた頃から明治維新を経て、明治の初期の頃までを背景にした小説に藤村の『夜明け前』がある。『夜明け前』は、島崎藤村が木曾路は馬籠宿の庄屋・問屋であった父・正樹をモデルにして書いた小説で、主人公の青山半蔵は、御一新の夢破れて零落し、やがて屋敷牢で狂死するのであるが、その前に四男の和助を東京に遊学させる。この和助こそ島崎藤村で、和助のその後は、岸本捨吉として『春』や『桜の実の熟する時』などに描かれることになる。

 私は高校生の時に『春』を読んで感激した。その最後で、北に落ち行く岸本捨吉が「ああ、私のようなものでも、どうかして生きたい」というフレーズは、近代文学派からは日本文学をダメにしたフレーズのように言われるが、自然主義派の私は好きであった。「文学界」を中心にした北村透谷との交友などにも惹かれたが、岸本捨吉が何故に放浪して悩むのかはよく分からなかった。せいぜい、文学青年とはそういうものであるというのが納得であった。

 『春』より後に書かれた『桜の実の熟する時』という小説は、時代的には『春』に描かれたのよりも前の時代の藤村が描かれている。藤村については、没落した庄屋の四男が血縁もない叔父にあずけられて、ハイカラなミッション・スクールであった明治学院に通えたのは何故かということも疑問であったが、『桜の実の熟する時』を読むと、藤村は実業家になるべく期待されて、アメリカに修行に行くべく英語を学ばされたということが分かる。明治学院を卒業した藤村は、横浜にある叔父の商店の番台に座るのであるが、やがて明治女学校の教壇に立ち、教え子に恋するようになる。そして、それを振り切るようにして、関西に放浪に出るところでこの小説も終わる。

 そこで、文学への思い絶ち難く、世話になった叔父の期待を裏切ったことなどが、藤村の重荷になっているのだろうということが理解できるのであり、藤村にしてみれば、文学で身を立てる以外に自らの証はないのだということが理解できる。仙台の東北学院を経て、小諸で文学修行の日々を送り、やがて『破戒』を書いて藤村は勝負に出る。そのために家族を犠牲にしたことで、さらに藤村は悪く言われるのであるが、藤村にしてみれば、『破戒』を完成させる以外に身の証は立てようがなかったのであろう。

 『破戒』は、主人公の丑松をアメリカはテキサスの牧場へと旅立たせるところで終わる。これもまた、なぜアメリカに旅立たせるのかと、西洋自然主義文学と比較した不自然さをあげつらわれるが、私的には上記の経過からすれば、主人公をアメリカに旅立たせること以外には、藤村の文学は完成されようがなかったと思われるところである。

 テキサスの牧場と聞くと、突飛な話のようにも思えるが、私的には、ニュー・ハーモニーの共同体づくりに失敗したロバート・オウエンが、再度、共同体をつくろうとしたのはテキサスだったし、後に日本の共産主義運動を指導した片山潜なども、テキサスで牧場経営などをやろうとしたことがあったから、さして突飛な話には思えない。『破戒』という日本近代文学史上の傑作の終り方としては、それが学んだドフトエフスキーの『罪と罰』と同様に、片やシベリア行きで片やテキサス行きだが、美しい終り方だと思う訳である。

 さて、何が言いたいのかと言うと、明治維新で幕府が倒れると、アメリカというかハワイなどには、すぐに移民が渡っている。当時の日本にとっては、アメリカが一番身近な西洋だったのであり、日本の近代化もそこから始まっている訳である。次回以降、そんなのを少し見ていこうと思うが、これまでブログに書いた文章のリライトもあるので、多少の重複もあるかもしれない。ブログから書物を作るとはどういうプロセスなのか、コメントも含めて、試行錯誤したいところです。

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2008年4月24日 (木)

グレイト・ウェイヴ

 アメリカン・ルネッサンスのあった19世紀半ばは、ヨーロッパで言えば2月革命前後である。1844年にマルクスは『経哲草稿』を書き、イギリスではロッチデールの協同組合が設立され、1848年にはヨーロッパ中を巻き込んだ2月革命が起こって、やがてマルクスはロンドンに亡命して、経済学の研究を始めた。ロンドンでのマルクスは貧乏だったから、1851年から週2ポンドで「ニューヨーク・トリビューン」の特派員になってアメリカに原稿を送り出すのだが、同年、アメリカン・ルネッサンスの作家のメルヴィルは代表作の『白鯨』を出版し、その印刷はロンドンで行われたというから、ほぼ同じ頃にメルヴィルとマルクスの原稿が大西洋を行き来した訳である。

Photo  「わたしをイシュメールと呼んでもらおう。何年かまえ、財布がほとんど底をつき、陸にはかくべつ興味をひくものもなかったので、ちょっとばかり船に乗って水の世界を見物してこようかと思った」、「わたしは使いふるしのカーペット・バッグにシャツを一、二枚つめこむと、それを小脇にかかえて、ホーン岬と太平洋をめざして出発した」という『白鯨』の1章、2章の書き出しは、「貨物列車に飛び乗って、ロサンゼルスをあとにしたのは、1955年の9月も末に近い、とある日のちょうど正午のこと。無蓋貨車の一つにもぐり込んだぼくはダッフェル・ハッグを枕にして寝転がり、両脚を組み合わせると、北の方、サンタバーバラに向けてゴトゴトと運ばれてゆく道すがら、雲をふりあおいで瞑想にふけっていた」という書き出しのジャック・ケルアックの『禅ヒッピー(The Dharma Bums)』を思い起こさせる。ソローの『森の生活』が、その100年後の対抗文化運動の中で大いに読まれたように、ホイットマンの詩がアレン・ギンズバーグに引き継がれたように、アメリカン・ルネッサンスとビートジェネレーション、対抗文化運動はつながっていると思う訳だが、それはまた後でふれてみたい。

 さて、『白鯨』は海洋小説の傑作と言われるが、頭に「海洋小説の」とつけなくても傑作である。アメリカ東部の港町の宿屋やバーの描写から、捕鯨船には株主がいて運用される仕組みや、大海原を行く帆船の操船、小型船による捕鯨の描写、世界遺産にしてもいいくらいの鯨と捕鯨の話などなど、海好きな私はぐいぐいと読まされた訳だが、巨大な白鯨モビー・ディックを追ってエイハブ船長のピークオッド号が向かう先は、鯨の好漁場であったという日本沖なのであった。

 日本について、メルヴィルはこう書く。「その波は、最近この世に登場したばかりの人種がほんの昨日つくったばかりのカリフォルニアの町々の波止場を洗うばかりか・・・アジアの国々の浜辺をも洗うのである。この両者のあいだをサンゴの島々の銀河が流れ、未知の低い群島が際限なくつらなり、さらには門戸をとざした日本列島が横たわる」(下巻P201)と。そして、さらに「もしあの二重にかんぬきをかけた国、日本が外国に門戸を開くことがあるとすれば、その功績は捕鯨船にのみ帰せられるべきだろう。事実、日本の開国は目前にせまっている」(上巻P289)と書くのであるが、ペリーの艦隊が浦賀沖に現れたのは、まさにその2年後であったのだった。

 メルヴィルとマルクスの原稿が大西洋を行き来したわずか2年後の1853年、ペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に現れ、翌1864年に日本は開国をした。そして、1860年(万延元年)には日米修好通商条約を結ぶために日本から遣米使節団が送られ、ニューヨークで使節団の行列を目にしたホイットマンは、「ブロ-ドウェイの行列」という詩を書いて、「壮麗なマンハッタンよ! わが同胞のアメリカ人よ! われわれの所へ、この時ついに東洋がやってきたのだ・・・」と詠んだのだった。

 現在、アメリカという国は難しい立場にある大国で、日本は否が応でもその難しさにつき合わされているのだが、その始まりというのが、まさに上記の150年前なのである。それは、日本が世界史の表舞台に登場したということであるのと同時に、「近代化」という課題を背負わされたということでもあったのだった。それ以降、日本人のアメリカ観にはアンビバレントなものがある。一度は戦争を仕掛けてみたもののボコボコにされて、戦後はアメリカナイズ派と嫌アメリカ派に分かれてしまった。

 このブログのテーマは「コミュニティ論」ではあるが、広くは「日本の近代化の見直し」であって、日本におけるコミュニティの再構築には「日本の近代化の見直し」が必要だろうし、さらに近代化を見直すためには、近代主義的な歴史観では不可能だろうから、国・地域別で各時系列的な歴史著述や、年表化や体系化とはちがう表現が必要だろうということで、まあ、こんなブログを書き出した訳である。

200  では、どんな歴史観を考えているのかと言えば、謂わば「共時的な歴史観」であって、通時的な連鎖というよりは、「時空を超えて世界はつながっている」と考える訳である。そんあことを考え始めた一昨年(2006年10月)に、知り合いの森谷文昭氏がアンドルー・ゴードン著『日本の200年』(みすず書房)という本を訳したので読んでみると、その本の主題的には、「日本の近現代史は、一貫して、より広範な世界の近現代史と不可分のものだった」、「1868年の時点のこのような状況を、それからわずか10年後の状況と比較してみると、そのかんに起きた変化は・・・まさに革命と呼ぶにふさわしいものだった」「1860年代にはじまったこの革命は、近代革命というグローバルな主題の、日本的な展開にほかならなかった」(p124-125)とあった。

Great_wave  明治維新について、日本人はそれがブルジョワ革命なのか、そうでないのかと長いこと論争してきた訳だが、外から見ると「近代革命というグローバルな主題の日本的な展開」というふうになっている。150年前のグローバリゼーションの結果だということでもあるが、今ひとつストンと落ちないでいたところ、昨年(2007年11月)には、やはりアメリカ人であるクリストファー・ベンフィー著『グレイト・ウェイヴ』(小学館)という本がでた。その帯には「オールド日本が黒船に仰天したとき、金ぴかアメリカは美しい日本に恋をした」「太平洋の両岸に寄せて返した文明と精神の大きな波、グレイト・ウェイヴを読み解く」とあったので、これまた読んでみると、その書き出しはメルヴィルの先の「その波は・・」の文章で始まり、以下のようにつづくのであった。

 「南北戦争後、経済と貿易の中心地がニューヨークに移ったとしても、ボストンは国家を築く精神的指標としての役割を主張した。ボストン市民は清教徒の精神に立ち戻り、その精神をエマソンの時代に改めて自覚したのである。エマソンと彼の弟子ヘンリー・ソローは、早くも1840年代に、精神的な支えとしてのヒンドゥー教や仏教といったアジアの宗教に注目していた」、「南北戦争直後の数十年間、そのアメリカ文化の俗悪さと浅薄さにうんざりした、彼ら自称青年貴族たちは、どこか他の場所に、みずからの感性に合った社会秩序を求めたのである」。「南北戦争後の数年間にアメリカに現れた粗悪な物質文明は、教養ある中流階級の若者たちの中に、社会に離反し、放浪する知識人世代を生み出した」とあり、さらに「皮肉にも、ボストン市民がオール・ドジャパンに憧れているまさにそのときに、日本は近代国家としての再興をめざし、25年の間に封建的国家から国際的な勢力に発展していた。それは明治時代と呼ばれる時代で、ほぼアメリカのギルデッド・エイジに対応している。・・・日本では、その自信に満ちた近代化の水面下で、別の感情が膿のようにたまっていた。不満をいだいたボストン市民たちとまさに同様の感情だった。夏目漱石の小説『それから』(1909年)の中で、審美眼をもった良家の若者である主人公は、父親の世代、すなわち日本を変容させた世代を振り返る」(『グレイト・ウェイヴ』序章)とあって、何と! 代助が登場するのである!

 1892年にホイットマンが死ぬと、同年に25歳の夏目漱石は「文壇における平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』」という文章を書いている。そこに漱石が「ホイットマンが己の言い度き事を己の書き度き体裁に叙述したるは亜米利加人に恥じざる独立の気象を示したるものにして天晴れ一個の怪男児とも偉丈夫とも称してよかるべし」と書いているのを読めば、開国後わずか25年で日本の知性はボストンの知性に通じていたことと、それが漱石後年の「私の個人主義」にまで生かされていると思うのである。

 『グレイト・ウェイヴ』は、ボストンの知識人と岡倉天心との交流を軸にした日米交流史に始まり、天心の実子であろう九鬼周造を軸にしたヨーロッパとの思想交流で終わる大著であって、後にまたふれたい。また、開国から明治維新にいたる幕末は、中里介山が30年以上の歳月と20巻の大著『大菩薩峠』をもってしても書き終えず、島崎藤村渾身の『夜明け前』に描かれた時代であるが、これも後にふれたい。そんで、次からはいきなり明治時代の話に入ろうと思っている。世界はどうつながっていったのかを、見てみたい訳である。

 今日もまた夜の8時過ぎに、雨の中スーパーに行って半額になった酒の肴(今日は真鯛)を買ってきて、さっき一杯やった。本当は、仕事をやらねばだが、そういう時こそ仕事以外のことをやりたくなるという下等遊民的習性にはまりつつあるようだ。

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2008年4月23日 (水)

箸にも棒にもかからない

 さて、今年はこれまでにこのブログに書き散らしたことを少し整理しようと思っている。何度も確認するけど、私がこのブログに書こうとしているのは、謂わば「コミュニティ論」である。でも、それはかみさんがやっている団地の自治会活動みたいなものというよりは、かみさんから見れば、煮ても焼いても食えない団塊オヤジの箸にも棒にもかからないような「ユートピア論」に近いものかもしれない。それでも私は、それを私の生き方としても試行錯誤してみようかと思っているから、ユートピアというのは「何処にもない場所」と言うよりは、けっこう身近にあるような気がしているのだ。

 前のブログに書いたように、3月末でパート仕事を辞めてしまったから、ハローワークに通えば「失業者」ということにもなるのだろうが、私自身は「フリーランサーによる微収入+下等遊民」だと思っていて、さらには「簡素な生活・高い想い(plain living and high thinking)」の実践だと勝手に思っている。この「簡素な生活・高い想い」というのは、ヘンリー・D・ソローの『森の生活』からの借り物で、私の居場所に即して言えば「海辺の生活」となる。「何処が海辺なのだ?」と言われるかもしれないが、私の住むエリアは東京の海辺(臨海)エリアなのである。アッハッハ~~。

Emerson  19世紀中頃のアメリカはボストン周辺で、“アメリカン・ルネッサンス”という文芸復興運動が起こる。エマソンが主導した超絶主義に引きつづき、ホーソーンの『緋文字』(1850)、メリヴィルの『白鯨』(1851)、ソローの『森の生活』(1854)、ホイットマンの『草の葉』(1855)といった作品群が生み出された。新世界であるアメリカでは、カルヴィニズムと資本主義の精神は、ジェファーソン的建国の精神とも一体化して、19世紀に入ると急速に産業化をおしすすめられたが、それによる物質主義、産業主義に対して汎神論的世界観に基づく自然主義と個人主義が沸き起こったというべきだろうか。さらには、1840年代にはフーリエ主義に基づくユートピア共同体の建設運動が高まり、「ブルック・ファーム」や「フルーツランド」といった共同体が40あまりつくられたという。

 そもそもピューリタンによる共同体(コモン)づくりに始まるアメリカは、その連合体の独立であったアメリカ革命そのものが、巨大なユートピア実験であったと言えなくも無いが、一方、アダム・スミスの『国富論』の出版と同年に独立宣言したアメリカは、その書が予言したごとくに、イギリスを上回る資本主義の発展がすすんだ。1825年に、アメリカに渡って、ニュー・ハーモニーの共同体づくりを試みたロバート・オウエンはあえなく失敗。その15年後に、今度はアメリカ人が共同体づくりを試みて、これらもまたあえなく失敗するのは、その発想にも失敗の原因にも共通するものがあるが、要は、志ある人々は、いつでもそういった試みをくり返すものであるというのが、私の結論である。

Thoreau  さて、そんな中で唯一成功した試みというのが、ソローの「森の生活」であった。確かにソローは一人で「森の生活」を送ったから、それは共同体ではなかったかもしれないが、ソローにとってそれは「ユートピア」ではあり得たと思う訳である。ニュー・ハーモニーであろうと、ブルック・ファームであろうと、共同体の崩壊理由は、大きくは次の二つである。ひとつは経済的に立ち行かなくなるのと、もうひとつ人間関係で壊れるのである。だからユートピアは、とりあえず自分ひとりで試みるのがよい、と私は思う。

 「森の生活」で言えば、ソローは森の中に立てこもって自給自足したのではなくて、「ウォールデンで生活していた間、私は測量、大工の仕事、それに村のいろいろな日雇いの仕事など、十指に余る仕事をこなしていた」とあるように、少ないながらも外部の仕事もやっていたのである。要は、自分の仕事をするのと、それで足りない分は外で働く訳である。「ユートピア」や「共同体」だからと言って、何でもかんでも自給自足しようとするから無理があるのである。

 だから、ユートピアが支えられるのは、資金力の大きさと言うよりは、たとえ少ない稼ぎでも、一人でも食べていけることが条件である。そして、それにプラスして「簡素な生活・高い想い(plain living and high thinking)」があれば、とりあえずは「ひとりユートピア」は成立するのである。ついでに書けば、「ユートピア的共同体」が成立する要件は、参加者のひとりひとりが「ひとりユートピア」的生き方ができることである。これが出来ない人を集めて徒党を組んだところで、失敗するのは目に見えている。エマソンは、「個人は好きだが、集団は嫌いだ」と日記に書いた。果たして、集団ではない共同体は創り得るのだろうか・・・。

 今日も静かな一日であった。夜になって近くのスーパーに買い物に出かけて、半額になった肴を買ってきて、一杯やったところである。「簡素な生活・高い想い」と」言うよりは、「貧にして無為」という一日であった。そんで、この箸にも棒にもかからないようなブログを書いて、やがて眠ってしまおうと思っている。ユートピアを夢の中に探しに行くというよりは、次のブログには何を書くか、そんなことを考えながら眠りにつく訳である。

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2008年4月22日 (火)

煮ても焼いても食えない

 季節が変わるのは早いもので、一月くらい前にやっと暖かくなったと思ったら桜が咲き出して、その後は低気圧の通過による雨と風の日々がつづいて、気がつけば桜はとっくに散ってしまい、ゴールデンウィークも間近である。とは言っても、私にはゴールデンウィークは関係ない。これはパート仕事でゴールデンウィークも休めないという意味なのではなくて、3月末でパート仕事を辞めてしまい、毎日がゴールデンウィークになってしまったからである。

 昨年来、パート仕事で身動きが取れず、「会社勤めを辞めたのはパート仕事をするつもりではなかったのに」と思い始めた矢先に、パート先から辞めるように言われたので、これは「パート仕事なんかやっていないで、自分のやりたいことをおやりなさい」という“天の声”だと思って、素直に辞めることにしたのだった。

 8年前に会社勤めを辞めた時も、同じような状況だった。それから「本づくりSOHOダルマ舎」を立ち上げたのに、昨年来、安易にパート仕事をするようになってしまい、「SOHO→パート」、「ブログ→mixi」というふうに楽な方、安きに流れていた訳である。思えば、60歳も間近であり、60歳からのサード・ステージに向けて、このブログをもっと書きたいし、それをまとめることもしていきたいから、残り少ない50代を大切にしたいと思った訳である。

 さて、パート仕事を辞めると、かなりの収入が減ってしまうが、本づくりの仕事はこの間も少しずつはやっていて、4月に1冊仕上げて、今は次の仕事をやっている。また、パート先を辞めるにしても、一応「会社都合」であることを確認するために、パート先と「穏やかな話し合い」をさせていただいたら、すんなりとご納得いただけて、「会社都合」ということで雇用保険の処理もしていただけることになったので、気分は前向きである。

 会社勤めを辞めて以来、3度目のハローワーク通いになるだろうか、でも、こんなことはお手の物である。「穏やかな話し合い」をお手伝いしていただいた組合の委員長に訊くと、「最近は若いアルバイターからの解雇相談がものすごく多い」と言う。多少、新卒の雇用が改善されたと言っても、それにも格差があって、格差の底辺はいつでも末広がりなのだ。今回、雇用保険以外にも、多少の色はつけていただけたので、その分は就業問題に悩む人々のサポートに使いたいと思っている。

 私の誕生日は4月で、かみさんは3月末日が誕生日だったから、私の誕生日当日、近所のスーパーで肴とスーパードライを買ってきて、かみさんと二人で、ささやかな誕生祝いをやった。かみさんも現在働いているパート先が今月で閉鎖になって、来月からは仕事がなくなるのだが、両親の介護に忙しい昨今だから、次の仕事も決めかねている。夫婦とも仕事先が無くなると言うのは大変な事態であり、スーパーに行くと、モノの値上がりの目立つ昨今でもあるが、あまりめげることがない。

 大内先生が「不均衡の均衡」と言われるように、資本主義とはもともと構造的に不安定なシステムなのであるが、スリリングであるが故に、生きていて面白い社会であるとも言える。それでも、出来るだけ不公平はなくして、誰もがもっと面白く生きられるようにはしたいと思う。そして、そのためになるかどうかは別にしても、「こんなブログでも、どうにかして続けて行きたい」と思う訳である。

 それにしても、つくづく団塊のオヤジというのは懲りないと言うか、煮ても焼いても食えないものだと、我ながら思うところである。このブログのキイワードは、コミュニティであり、煮ても焼いても食えない人々とのつながりができることを願っている。

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