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2008年1月25日 (金)

プルードン・マルクス・エンゲルス

 柄谷行人氏は、両者とも「アソシエーショニズム」だとして、マルクスもプルードンと同じ考えだとしますが、大内先生も言われるように、マルクスの『哲学の貧困』時代のプルードン批判はどうなるかと考えると、やはりマルクスも人間ですから、若い頃には思想も未熟で、血気盛ん故の若気の至りなどもあったのだろかうと思います。

 私は、マルクスの営為は『ヘーゲル批判』や『経哲草稿』といった疎外論を軸にした初期マルクスの頃、エンゲルスと『ドイツイデオロギー』や『共産党宣言』を共著した唯物史観を確立した頃、プルードン批判の『哲学の貧困』を契機に経済学の研究にのめり込んでいく頃、そして『資本論』を書き上げる頃くらいに分けられるのではないかと思います。
 そして、正統派マルクス主義者のように、そのどの時代もマルクスの言ったことは正しかったとしてしまうのは、やはり言いすぎだろうと思う訳です。斉藤悦則氏は「マルクスの『哲学の貧困』を読む」(「アエラ・ムック」1999年7月9日1)を以下のブログに載せています。

http://www.minc.ne.jp/~saito-/travaux/misere.html

 マルクスの『哲学の貧困』は、1846年に出たプルードンの『貧困の哲学(経済的諸矛盾の体系)』を批判して書かれたといいますが、『貧困の哲学(経済的諸矛盾の体系)』は現在の日本では出版されていなくて読めませんので、以下の斉藤悦則氏のHPから学べば、以下のようであります。

 「プルードンは本書の別名『経済的諸矛盾の体系』どおり,経済事象を矛盾の系列的連鎖として体系的にとらえようとする。・・・すなわち,経済の営みはいずれも人間にとって善きことをめざしながら、必ず同時に弊害をもたらさずにはおかない。新しい次元でその悪弊をのりこえようとする営みもまた同様の道筋をたどるというのである。
 分業・機械・競争・独占・租税・貿易・信用・所有・共有・人口という十のカテゴリーのそれぞれにプラス面とマイナス面がある。ひとつのカテゴリーの否定面を否定する形でつぎのカテゴリーがあらわれるが、これもまたあらたな否定面を不可避的に随伴する。善(肯定面)のみを保持し、悪(否定面)のみを除去しようとしても、それはむなしい。なぜなら,両者はともにそのカテゴリーの本質的な属性であり、ともに必然で等価の存在理由をもっているからである。プルードンはこうした関係をカント風にアンチノミーと名づけ、現実の経済社会をアンチノミーの連鎖(すなわち矛盾の体系)として描き出そうとした。経済事象の内的対立が経済にダイナミズムをもたらし、アンチノミーがあるからこそ社会は前進する。矛盾がない状態とは停滞であり、生気の欠如であり,死のごとき無にひとしい。たとえば私的所有の弊害を見て共有の賞揚にむかうのはありがちな図式だが、こうした共産主義に永遠の楽園を期待するのは愚劣かつ危険である。もちろん私的所有の弊害を無視するのはさらにナンセンスかつ有害である。われわれはどこまでも矛盾とともに生きることを覚悟しなければならない」。

http://www.minc.ne.jp/~saito-/travaux/P%26M.html
http://www.minc.ne.jp/~saito-/travaux/syscon_table.html

 マルクスは、リカードの経済学でもってプルードン批判をしているようですが、プルードンはアダム・スミスから多くを学んでいるようです。柄谷行人氏はプルードンについて、以下のように書いています。

 「社会主義を平等や友愛からではなく、「自由」にもとづいて築こうとした人がいた。それがプルードンです。
 第一に特筆すべき点は、プルードンが経済的平等よりも自由を優先したことです。といっても、それは平等を無視することでない。彼が反対したのは、分配的正義なのです。それは国家による富の再分配を要求することになり、そのことが再分配する国家の権力を強化させることになる。そこで自由が犠牲にされる。それに対して、彼は「交換的正義」を唱えました。・・・
 プルードンがいう「アナルシー」(アナーキー)」とは、双務的=互酬的な契約にもとづく民主主義社会のことです。・・プルードンによれば、国家によらない、自己統治による秩序を意味するのです。
 第二に特筆すべき点は、プルードンが「自由」を「友愛」に優先させたことです。・・・「友愛」を基盤にして、社会を変えようとする者は、ほぼまちがいなく国家に向かう。・・・国家的社会主義もナショナル社会主義(ナチス)も、つねに友愛に訴える。一方、プルードンにとって、社会主義はそのような感情ではなく、経済的なシステムにもとづくものです。その点で、プルードンが、一般に社会主義者が否定した競争を肯定したことは注意に値します。彼の考えでは、競争が否定されれば、個人と自由が否定されることになる。
プルードンは私有に反対すると同時に、多くの社会主義者が唱える共有(国有)にも ・斟 反対しました。・・・
 要するに、プルードンが考えたのは、国家と資本主義市場経済から自立したネットワーク空間を形成することです」(『世界共和国へ』p186-189)と。

 さて、柄谷行人氏はマルクスもプルードンと同じ「アソシエーショナリスト」だとします。プルードンの『貧困の哲学』が翻訳されないのは、マルクスの『哲学の貧困』の影響があまりにも大きいせいかなとも思われますが、1844年執筆の『経哲草稿』においてマルクスは、人間を「類的存在」であるとして、疎外された現状から「類的存在」であることの再獲得を構想します。「類」を「原初的な共同体」と読み替えれば、マルクスも「アソシエーショナリスト」と言えるかもしれません。そして柄谷行人氏は、「類的存在」をプルードンの言う「真実の社会」と同じだし、ヘーゲル左派そのものがプルードンに影響を受けていたとしています。マルクスの表現の違いは、マルクスが多分にドイツ的、佐藤優氏的にはユダヤ的発想であったところにあるのでしょうか
 前に何回か書きましたが、『ドイツイデオロギー』における「朝には狩をし・・・」というマルクスの書き込みからは、マルクスが国家的でないアソシエーションのイメージを持っていたこともうかがわれますし、そのセンスは『フランスの内乱』にもつながっているかもしれません。

 そして、「プルードンが経済革命を主張したのに対して、マルクスは政治革命、つまり、政治権力をとることが不可欠だと考えた。・・・プルードンは資本主義経済が何かを総体として把握できていない。だからマルクスはプルードンを批判した後、『資本論』に結実する経済学研究を本格的にはじめたわけです」(『世界共和国へ』p191)となります
 プルードンが言うように資本主義にあっても「アソシエーション」が可能なのか、さらにはマルクスの言うように「アソシエーションのアソシエーション」としてのコミュニズムは可能なのか、ここから先は私ではどうにもなりませんので、大内先生、よろしくお願いします。

 エンゲルスについて言えば、唯物史観の確立については、マルクスよりはエンゲルスが主導的な役割を果たしたというのは、広松渉氏の研究などで明らかになっています。また経済学的にはリカードというよりは所有論的な展開をしたために、やがてプロ独→国家所有の社会主義につながったとも言えます。
 しかし、イギリスに長く住んでそこで仕事して長生きもしたために、イギリスにおける資本主義と労働運動、政党運動も見てきて、晩年は議会主義の可能性について言及したし、柄谷行人氏は修正主義者と言われるベルンシュタインをエンゲルスの相続人であるとしています。

 大学1年の時に、私は当時新潮社から出ていた向坂逸郎編の「マル・エン選集」でエンゲルスの『反デューリング論』を読んで、マルクス主義入門をしましたから、エンゲルスにはなつかしさがあります。ハードカバーながら340円、新潮社が「マル・エン選集」を出すなど、今では考えられませんが、当時はそういう時代でした。『反デューリング論』は後に『空想から科学へ』要約されて社会主義の入門書になったように、内容的にも解りやすく、当時はマルクスとエンゲルスは思想的にも一体だと思ってたものでした。(つづく)

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