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2007年12月 2日 (日)

宇野弘蔵没後30年研究集会

Photo  12月1日に武蔵大学で「宇野弘蔵没後30年研究集会」というのがあって、大内先生に誘われて、顔を出してみた。大教室を埋め尽くした大学の先生方に混じって、例外的な学籍のない参加者であった。

 私は、自称宇野派だが、実際の宇野派の先生方の難しい話を聴いていると、宇野派を自称する自信がなくなる。それにしても、今時マルクス経済学関係の集まりに、これだけの人が集まるのは、さすが宇野派とも言えなくはないが、40年前とは違って、この議論で若い人が宇野派になじむかと思うと、とてもそうは思えないのであった。

 比較的に分かりやすい話は馬場宏二氏の話で、「宇野理論も不易の経典ではない。社会科学の常として、有効性が歴史の中で変動する。21世紀初頭の今日、最大の理論的限界は、古典派とマルクス経済学に由来するイギリス中心史観の枠組みである。それをアメリカ中心の枠に組み換えなければならない。
 宇野発展段階論は,資本主義の世界史を重商主義・自由主義・帝国主義の三段階に括り、第一次世界大戦で打ち止めにした。だが資本主義の発展は、アメリカを中心になお続いた。帝国主義の枠内に、国権社会主義体制と福祉国家の興亡を抱えた、古典的帝国主義・大衆資本主義・グローバル資本主義の三段階を設定する必要がある。・・・
 グローバル資本主義段階は、MEを物的基礎とする株価資本主義の横行とソ連の消滅とによって,アメリカ帝国主義の暴走に抑制が効かなくなった段階である。
 新たな原理論は,イギリス史に則った純粋資本主義像では済まない。アメリカ社会の特質に則った土地市場と株式市場,擬制商品価格の投機的激動機構を明示的に含める必要がある。そこでは価値法則つまり純粋資本主義世界が成立しなくなる怖れがあるがやむを得ない。この方法的提言自体資本主義の、根源的には人類社会の,滅亡の予感を含蓄するからである。
 無限の自己増殖体である資本が社会の主体となった結果、第一次大戦後のアメリカを先頭に、過剰富裕社会が現出した。これが世界化すれば地球環境破壊が人類を滅亡させ、延いては資本主義を消滅させる」と展開する。(※レジュメより)

 さらに馬場宏二氏は、「マルクスも生産力の拡大を前提にした近代主義である」「ロバート・オウエンは『富の過剰に伴う無知の過剰』を批判している」「過剰富裕化に対して、どう対処するのか。生活水準を1/3に下げる経済学を考えなくては」とも言っていた。

 また、馬場宏二氏はレジュメの最後を「宇野体系は以上を認識する理論的基礎にはなるが、救済の術は持たない。これが宇野体系究極の空しさである」と結んでいるが、この間、私がこのブログで展開している「不均衡の均衡の時代における、脱労働力商品的生き方」=「所得は1/3になっても、より豊かに生きる道」の探求は、私なりの宇野経済学理解に基づく実践論のつもりではあるのだが。

 もうひとつ、以下の柴垣和夫氏の「グローバル資本主義の本質についての一試論」というのも、分かりやすかった。

 「グローバル資本主義が、1980年代以降の米国主導の新自由主義政策(内では規制緩和と民営化,対外的には国際経済関係とくに資本取引の自由化)の推進と、90年代に開花したIT革命の産物であることは言うまでもないが、・・・多くの論者が、このようなカジノ資本主義が数年ごとに繰り返す通貨危機・株価暴落を含む金融市場不安に、グローバル資本主義の危機の本質を見ていることには同意できない。
 なぜなら、繰り返し訪れる金融不安にもかかわらず、それが実体経済にもたらす影響には限界があり、米国ではITバブルが崩壊して生じたリセッションのあと長期にわたる景気の上昇が続いており、日本でも「失われた10年」から脱した2002年以降いわゆる「いざなぎ越え」の景気が持続していることに注目するからである。それは何故なのか?
 この実体経済の成長を支えているのが,先進諸国の多国籍企業ないし超国籍企業を主体とした「産業グローバリゼーション」の展開である。それは;米国が推進した資本取引の自由化に呼応する開発途上諸国とくにBRICsの改革開放を通じて、多国籍企業による(企業内国際分業を含んだ)低賃金利用を目的とした生産の海外アウトソーシングの大規模な展開をもたらした。同時にそれは先進諸国に跳ね返って,労働力市場の緩和と労働組合の交渉力の弱体化をもたらした。そしてこの両面があいまって,福祉国家型現代資本主義における資本の桎梏であった労働力の供給制約と賃金上昇を大幅に緩和したのである。この点にグローバル資本主義の他の一面、というより「労働力商品化の無理」を資本主義の基本的矛盾の基礎と把握する宇野理論に即して言えば、グローバル資本主義の本質があるのではないか、というのが私の理解である」。
 
 会場で、一昨年に「賢治とモリスの館」でごいっしょした半田正樹氏と、久しぶりに田中学さんにお会いした。半田正樹氏からは、このブロクを見ますと言われ、少しあせった。田中学さんは少しふけたようであった。一度「賢治とモリスの館」辺りで一杯飲みたいので、「今度、大内先生の館に遊びに行きましょう」と言って、連絡先を確認した。

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コメント

 宇野・研究集会では失礼しました。途中からでしたが、小生も貴兄と同じ感想です。若者にはアピールしませんね。純粋資本主義の抽象についての議論などは、宇野先生のゼミの頃から、岩田「世界資本主義」論を巡り議論済みです。後ろ向きの蒸し返しです。面白くないですね。
 馬場君の考えですが、帝国主義段階として、アメリカ資本主義を軸にする点は、自動車、電機など、耐久消費財の重化学工業に占める役割から、僕も同感です。しかし、自由主義段階と純粋資本主義の歴史的抽象のレベルでは、イギリスを中心にせざるを得ないと思います。古典派以来の学説史の発展は、それを示しているからです。
 純粋資本主義の抽象を否定する「世界資本主義」論は、原理論と段階論が区別されず、さらに現状分析も区別できず、結局は単なる実証的な歴史学になるだけです。経済学の存在を否定することになるでしょう。(続く)

投稿: 大内秀明 | 2007年12月 6日 (木) 21時15分

今日作並で、トラブルのため、大分書き込んだのが2度も消えてしまいました。書き直しますが、簡単にします。
 純粋資本主義の抽象は、何回も強調しているように、19世紀中葉のイギリスを中心とする資本主義の確立・発展を前提にした歴史的抽象です。そこでは①「政策なき政策」である経済的自由主義の政策,②周期的恐慌を含む規則的景気循環の運動③流動的過剰人口の吸収と反発の資本主義的人口法則など、資本主義経済の自立的発展が実現された。その発展に即した歴史的抽象が純粋資本主義です。
 ただ歴史的に抽象された純粋資本主義を、経済法則として概念化するには、関根友彦氏が強調していましたが、ヘーゲルの弁証法による論理が必要です。自立的運動の法則解明の論理がヘーゲル弁証法です。逆に言えばヘーゲルの弁証法も、資本主義の自立的発展を予想して、ヘーゲルが提起できたといえると思う。
 純粋資本主義の抽象は、市場経済の全面支配、労働力商品化を前提とした、全面的支配です。ここでは市場経済が、労働力を含む資源の最適配分を実現する、近代経済学の言う「一般均衡論」の成立です。しかし、近経の「一般均衡論」は、労働力商品化の矛盾を前提しない。
 『資本論』の資本主義的人口法則、そして宇野理論は、労働力商品の特殊性を前提にして、周期的恐慌の必然性を解明した。市場経済による資源の最適配分の「一般均衡論」は、「絶えざる不均衡の均衡法則」として実現される。
 しかも、市場経済の均衡法則は、19世紀70年代の限界革命を前提している。近経の均衡法則は限界原理によるものですが、『資本論』も宇野『恐慌論』も、資本の絶対的過剰生産は、限界原理によらざるを得ない。
 関根氏が弁証法とともに、近経も勉強しろ、と発言していましたが、「一般均衡論」と「絶えざる不均衡の均衡法則」の共通性と違いを認識する意味では、近経を無視すればいいとは思えませんね。(続く)

投稿: 大内秀明 | 2007年12月 9日 (日) 22時32分

小生には、英語の勉強は別にして、関根氏が①ヘーゲル弁証法、②近代経済学への注意の2点を喚起したのは、純粋資本主義の抽象と「絶えざる不均衡の均衡」法則の意義を認識するのに重要な発言だったと思います。
 馬場君のアメリカ中心論は、宇野の段階論がドイツ中心に重化学工業化を説き、基礎資源型に偏りすぎていた点の批判として同感です。ただ、アメリカ中心論については、第一次大戦以後の国家主義的組織化(ソ連型国家社会主義を含む)による世界史の展開におけるアメリカの役割として位置づける必要があります。特に長期に亘った、米ソの冷戦構造の下で、西側全体に対してのドルのばら撒き=有効需要の拡大撒布、それがアメリカ経済中心に耐久消費型の産業国家、完全雇用への福祉国家、核エネルギー開発と抱き合わせで大量生産・大量宣伝・大量消費の過剰消費構造を生み出した。
 ポスト冷戦が、国家主義の組織化の基礎を崩壊させ、一方では、市場原理主義のグローバリゼーション(過剰資金の国際的投機化)を生む。他方、労働力商品化の矛盾として、完全雇用の福祉国家と過剰消費の破綻(例えばサブプライムローン)、土地の商品化の矛盾としての環境破壊(地球温暖化)を激化させている。格差社会も、国家による組織化のシステムを喪失した「絶えざる不均衡の均衡法則」の機能麻痺の現実だと思います。
 馬場君の「宇野経済学の空しさ」、今更当たり前ではないでしょうか!唯物史観の「恐慌・革命ドグマ」を否定し、理論と実践(歴史と論理、科学とイデオロギー)の統一のドグマの否定の上に、マルクス『資本論』とともに純粋資本主義の抽象に基づく宇野3段階論がある。社会主義のイデオロギーは、「理論・科学・恐慌」からは出てこない。主体的に実践されるべき空想ではないユートピアとして、モリスや賢治の環境芸術の生活創造からしか生まれない、そう思っています。
 

投稿: 大内秀明 | 2007年12月10日 (月) 12時51分

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