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2007年12月 7日 (金)

生活水準を1/3に下げる経済学

 12月1日にあった先の宇野派の研究集会から帰って来て、眠る前にメモ的に先のブログを書いた。それから今日までフルタイムパートの日々であったが、今朝仕事から帰ってメールをチェックしたら、大内先生からのコメントがあったので、この間の仕事の合間にメモしたことを、以下に書いておきます。

 私は、馬場宏二氏の言う「過剰富裕化」社会は、大内先生の言われる「不均衡の均衡」社会に通じていると思う訳だが、「過剰富裕化」が無限に続くとすれば、「不均衡の均衡」も無限につづくのかもしれないが、これは無限連鎖のネズミ講がネズミの拡大が無限であれば可能であるのと同じで、そうでなければ不可能となる。

 現在、「過剰富裕化」社会が拡大しているのは、柴垣和夫氏が「米国が推進した資本取引の自由化に呼応する開発途上諸国とくにBRICsの改革開放を通じて、多国籍企業による低賃金利用を目的とした生産の海外アウトソーシングの大規模な展開をもたらした」と仰るとおり、資本が「労働力商品化の無理」を、国境を越えて安価な労働力を見つけることでしのいでいるせいだと思われるが、そうであるとすれば、資本主義はグローバリゼーションと格差拡大と資源の掘り尽しと環境破壊が行き着いたところ、もしくは、あらためて「労働力商品化の無理」に突き当たったところで行き止まりになる。

 しかし、どこで資本主義が開発の壁に突き当たるのかと考えると、企業は石油が足りなくなれば代替エネルギーによる自動車を開発するだろうし、労働力が足りなくなれば人並みのロボットを開発するだろうし、そうすることによって、さらにイノベーションが進むことも考えられる。
 いずれにせよ、ほっておけば地球温暖化と格差拡大はどんどん進んで、行き着くところまで行けば資本主義は終わりになるというのでは、かたちを代えた恐慌待望論にしかならないから、環境破壊の規制を考えれば、産業化の規制というのが必要であると思うが、もうひとつ、格差の問題を考えれば、オルタナティブな生き方の提示が必要であるように思う。

 要は、馬場宏二氏と柴垣和夫氏の言うところを私なりに整理すれば、「過剰富裕化社会」のは、資本がグローバル化によって「労働力商品化の無理」をしのいでいることによって成立している訳だから、自ら労働力商品であることを止める生き方、脱労働力商品的生き方が必要な訳である。ネグリとハートの『帝国』的には、国境を越えたマルチチュード(=私的には脱労働力商品志向の人々)の連帯が必要である。

 では「脱労働力商品的生き方」とはどんな生き方なのかと言えば、その原初的形態は、不況で解雇された労働者、再就職できずにパートでしのぐワーキングプア的生き様である。一般的には否定的な状況ではあるが、馬場宏二氏が「過剰富裕化に対して、どう対処するのか。生活水準を1/3に下げる経済学を考えなくては」と言っていたのを思えば、まさに「生活水準が1/3に引き下げられた」状態であるから、「新しい経済学」の出発点になる可能性がある。

 果たして「生活水準を1/3に下げる経済学」は成立するのかということもあるが、要は、収入がシュリンクし、生活水準がダウンする中で、いかに人生を展望するのかということである。失業のしのぎ方は、昔も今も、家族や仲間によるサポートや副業、アルバイトに拠るのたのだが、もうひとつクリエイティブなことを考えなくてはならない。少なくとも「欲望の抑制」は、地球にとっては必要なことである。クルマやエアコンは持たず、粗食と読書、自由な働き方と脱労働力商品した人々のコミュニティづくり。私は会社勤めを辞めて以来、自ら正に「生活水準を1/3に下げる経済学」の実践をしている訳だが、「生活水準を1/3に下げる経済学」はともかく、「生活水準を1/3に下げた生活」は成立しているのだ。

 宇野派の学者の集まりに行ってきて思うことは、「労働力商品化の無理」を資本主義の基本的矛盾の基礎と把握する宇野理論を研究しながら、「宇野体系は以上を認識する理論的基礎にはなるが、救済の術は持たない。これが宇野体系究極の空しさである」などと言っていないで、なぜ「脱労働力商品の道」を探求しないのかということであった。大学をリタイアした学者も、まだ大学教授の延長で発言をしているし、大学教授にしてみたところで、大学に雇用されて、そこで研究の場と社会的立場を与えられている学者というのは、教員や公務員が労働力商品であるのと同様に、私にはやはり労働力商品であるとしか思えないのだが。

 唯物史観への評価については、宇野派には共通したものがある。しかし、前にも触れたが『ドイツ・イデオロギー』における以下のマルクスの書き込み、「共産主義社会では、・・・私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよいのである」に即して言えば、例え学者であっても、朝から晩まで学者であることはない。大内先生は、「館での小生の役割ですが、学芸員、植木作業員、皿洗い、掃除夫、支配人-‐全部です。家業型コミュニティ・ビジネスは、こんなもんでしょうね」と書いている。

 それともうひとつ、マルクスは上記につづけて、「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成さるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる」と書いているが、私にしてみれば、「生活水準を1/3に下げる経済学」の実践こそが、まさに地球温暖化防止と新しいコミュニティへの道なのである。

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