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2007年11月 9日 (金)

石川三四郎

 ロバート・シルジェンの『賀川豊彦』に、賀川自身が協同組合を知ったのは、1905年に石川三四郎の『協同組合の話』を読んだからだとあったから、手持ちの石川三四郎の本を見てみたが、載っていない。
 石川三72_2四郎は、1903年に幸徳秋水や堺利彦が創刊した平民社に参加しており、平民社が発行した『平民新聞』は1905年には廃刊になってしまうが、『平民新聞』の廃刊後は木下尚江や安部磯雄らと『新紀元』を創刊、『新紀元』はキリスト教社会主義であった。賀川豊彦は1905年に明治学院神学部に入学して、図書館の本を全て読み漁ったというから、その頃に『平民新聞』や『新紀元』を読んだのかもしれない。 (写真は上から堺利彦、幸徳秋水(左)、西川幸次郎(右)、石川三四郎)

 さて、石川三四郎は、賀川豊彦以上に「忘れられた思想家」だが、幸徳秋水と大杉栄と72_3 並ぶ日本の3大アナキストの一人である。クリスチャンでもあった石川三四郎は、直接行動主義というよりも求道者的なところがあって、7年にわたるヨーロッパ亡命から帰国した後は、イギリスでカーペンターから学んだ「土民生活」の実践をし、戦後まで生きて、戦後に書かれた『50年後の日本』などは、E.ベラミーの『かえりみれば』や、W.モリスの『ユートピアだより』に通ずるユートピア小説である。 (写真は晩年の石川三四郎)

 日本のアナキストと言えば、幸徳秋水と大杉栄ということになるが、私の好みで言えば、辻潤とこの石川三四郎である。辻潤と石川三四郎には、直接の接点はないが、福田英子でつながっているかもしれない。

 秩父で困民党の反乱が起こった前の年に、大井憲太郎という自由民権運動家が秩父を訪れていて、反乱の前史となっているが、その後、大井憲太郎は朝鮮の独立を支援しようとして大阪事件を起こし、その時に爆弾の運び役をやった女性に福田(旧姓景山)英子がいる。

 その後、大井憲太郎と別れた福田英子は福田友作と再婚し、福田友作の家には若き石川三四郎が出入りしていた。1907年に福田英子は『世界婦人』を発行し、石川三四郎はその発行人になっている。当時、警察の調書は11歳年上だが、福田英子を石川三四郎の内縁の妻としていたという。だから石川三四郎は、燕第1号とも言われている。

 1911年頃、福田英子は染井に住んでいて、当時、巣鴨に住んでいた辻潤が遊びに来ていて、そこで白山の聖人と言われたアナキストの渡辺政太郎と会い、渡辺政太郎の紹介で大杉栄と知り合うことになる。その頃、辻潤は上野高等女学校の教え子の伊藤野枝と結婚していたのだが、やがて伊東野枝は大杉栄と出奔してしまう・・・。

 望月百合子という女性アナキストの社会運動家がいるが、彼女は石川三四郎の養女で、ひょっとしたら娘であるかもしれない。日本の社会運動史というのは、本当に面白くて、「忘れられた思想家」を読めば読むほど、明治から現在まで連綿とつながっている=生きているのがよく分かる。

 昔、白山上にある南天堂という書店に勤めていた。大正期には2階にレストランがあって、大杉栄や辻潤や萩原恭二郎や林芙美子らの溜まり場になっていたという。それ以前に、石川三四郎は哲学館(※現東洋大学)に学んでいる。
 南天堂の向かいには一音寺という浄土真宗の寺があって、住職が母校のサッカー部の顧問であったので、そこはサッカー部OB会の集まりの場になっていて、今でも白山周辺には時々出かけて行くのだが、陽が落ちて肴町辺りを歩くと、路地裏の暗がりにアナキストや詩人の言霊が転がっているのが分かる。

 私が南天堂で働いていた頃に息子が生まれて、息子は団子坂上の産院で生まれたから、「三四郎」と名づけた。半分は漱石大先生からお借りしたのであるが、もう半分は石川三四郎からお借りした。息子には迷惑な話であるのだろうが・・・。

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