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2007年10月 2日 (火)

『帝国』に見る「帝国」の時代

(つづき)
 「『帝国』の時代」というのは、アントニオ・ネグリとマイケル・ハート共著の『帝国』に書かれた時代分析のことを言っているのだが、ポスト冷戦の後に、アメリカが帝国主義化して世界を一極支配する時代ということではない。帝国主義というのは国民経済をベースにした他国への侵略だが、「帝国」というのは国家を超えた経済活動をベースにしたグローバルで多極化された支配体制のことである。

 「今日の世界市場がかつてなく完璧に実現されるにつれ、それは国民国家の境界を脱構築することへと向かっている。以前の時代には、諸々の国民国家はグローバルな生産と交換の近代帝国主義的組織化における主たる担い手であったが、世界市場にとっては、それらはますますたんなる障害となってきているのだ。合衆国の前労働省長官たったロバート・ライシュは、「生産のほとんどあらゆる要素――マネー、テクノロジー、工場、設備――が造作なく境界を越えて移動するにつれ、まさに〔国民〕経済という概念が無意味になってきている」と強く主張する,将来には、「国民的な生産物や技術も、国民的な企業も、国民的な産業もなくなるだろう。国民的な経済も、少なくとも私たちがその概念を理解してきた意味においては、もはや存在しなくなるだろう」。国家〔国民〕的な境界の衰退につれて、世界市場は国民国家が押しつけてきたような二項対立的な分断から解放される。そしてこの新しい自由な空間においては、無数の差異が現われるのである」(『帝国』p119)。

 協同組合というのは国民経済、しかもその中のローカルなエリアをベースに、自ら境界(組織)をつくって、その中で事業をしてきた上に、国民経済内で行政による保護さえ受けてきた企業である。ICAを通じた国際連帯はあるものの、それは国単位をベースにしたインターナショナルな連帯でしかない。だから、今日的な「協同組合の本質」問題とは、グローバリゼーションと脱境界の時代、ポスト国民経済の時代に、協同組合はどう生きるのか、生きられるのかという問題であるというのが私の見解である。
 そして、ポスト国民経済における事業や組織はどうなるのかと言えば、『帝国』によれば、以下のとおりである。
 
 「ポストモダンのマーケティング実践は・・・資本主義的生産のサイクルの内部にあるポストモダン的傾向によりいっそう関心を抱いている。生産の領域においてポストモダニズムの思考は、経営管理と組織化の理論の分野に、おそらく最大の直接的なインパクトをあたえた。この分野の著者たちは、厳格な境界線と均質なまとまりをもった大規模で複雑な近代的組織は、ポストモダンな世界においてビジネスを行なうのにふさわしくないと論じる。ある理論家はこう書いている。「ポストモダンな組織はあるきわだった特徴を有している。とりわけそれは、大きさや複雑さは小規模から中規模で、柔軟な構造や制度間の協調性を取り入れ、激変する組織的・環境的条件に対処することを重視するという特徴をもっているのだ」。このように、ポストモダンな組織は、異なったシステムや文化のあいだの境界に位置するものとして、あるいはまた、内部的に異種混交的なものとして想像されている。ポストモダンな経営管理にとって本質的なこととは、組織が可変的で、フレキシブルで、差異を扱うことができるということである」(p201)。

 これは、前にふれた『ウィキノミクス』に書かれた企業の在り方と同じである。国民経済下、しかも重化学工業の時代の産業組織を甲羅にしてつくられ、階層的で一枚岩的であることこそ強みであった組合組織は、そのままの組織論のままではポスト工業社会を生きていけない。これは、協同組合も同様で、現状は差異は区別するか、切り捨てるかなのである。

 一方、もうひとつの道として提起された先にふれた「レイドロウ報告」的方向や、グローバリゼーションに反対するローカリズム的方向は、いかがであろうか。『帝国』には、以下の見解が書かれている。少し長くなるが、下記に引用しておく。

「今日、「ローカルな」左翼がとるさまざまな戦略形態の中心部で作動している三段論法は、ひたすら受け身的なものであるように見受けられる。すなわち、その三段論法とは、資本主義の支配がますますグローバルなものになってきているのだとすると、それに対するわれわれの抵抗は、ローカルなものを防衛し、資本の加速化する流れに対して障壁を構築することでなければならない、というものである。・・・いまやその立場は間違ったものであり、有害なものでもあると主張したい。・・・問題を特徴づけるさいに、グローバルなものとローカルなものという誤った二項対立にもとづく問題設定が、多くの場合なされている。その問題設定では、グローバルなものは均質化や差異のないアイデンティティをもたらすが、それに対してローカルなものは異質性や差異を保持している、と想定されている。往々にして、そうした議論には、ローカルなものに属する諸々の差異はある意味で自然なものであるといった前提や、少なくともそれらの差異の起源は疑問の余地のないものであるといった前提が、暗に含まれているのである。諸々のローカルな差異は現在の状況に先立って存在しており、それらはグローバリゼーションの侵入から防衛ないしは保護されなければならないものである、というわけだ。・・・こうした観点は、諸々の社会的関係と社会的アイデンティティを固定化しロマン主義化する、一種の原基主義へと退行してしまいがちだ。・・・ローカル性に属する諸々の差異は、あらかじめ存在するものでもなければ自然なものでもなく、むしろ、ある生産体制の効果にほかならない。それと同様にグローバル性は、文化的、政治的、または経済的な均質化という見地から理解されるべきものではない。そうではなくて、ローカル化と同じようにグローバル化もまた、アイデンティティと差異を同時に生産する体制として、つまり、均質化と異質化の体制として理解されるべきものなのだ。・・・いずれにしても、資本と〈帝国〉のグローバルな流れの外部に存在し、また、そのような流れから保護されているようなローカルなアイデンティティを(再)確立することができると主張するのは、間違った振舞いなのだ」(p66-69)。

 レイドロウ氏の提起した「協同組合地域社会」の弱点は、市場社会における「島」としてのクローズドな地域社会と、協同組合「組合員にだけ奉仕する」ようにするという発想にある。グローバリズムとローカル化の同時進行を、かつて大内先生はグローかリズムと称したが、「帝国」の時代には、協同組合地域社会と国境を越えたマルチチュード・ムーブメントとの一体化が必要な訳である。

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