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2007年8月21日 (火)

組合とSNS

(つづき)
 レイドロウは、多国籍企業の拡大を懸念しつつ、「現代経済の最も顕著な傾向の一つは、二大機構、すなわち巨大企業と巨大な政府への集中である」(前掲書p159)と書きながらも、「現代は不確実性の時代であるということになる。世界のほとんどの部分で、80年代に対する予想は闇の中にある」(前掲書p22)と書いているが、不確実な80年代がどんな時代か、やがて明らかになってきたことは、多国籍企業の拡大のレベルを超えるグローバリズムの進展であり、「巨大な政府」というよりは市場主義化と小さな政府の進展であり、予想だにしなかった情報化の進展であった。

 レイドロウは、危機の時代への協同組合の対応として、「一つは、より大きく、しっかりと組織立てられ、適切に設立された協同組合で、資本主義企業と成功裏に競争することを目的としているのに対し、もう一つは,相対的に小さな協同組合の、かなりゆるやかな非公式なネットワークをもち、多かれ少なかれ資本主義の手法を無視し、その代り社会的および地域社会的な目標を達成することを目的としている」(前掲書p84)という二つの対応を挙げているが、最後には「市民に残された唯一の選択のみちは自分たちじしんのグループづくり、とくに協同組合を組織することである」(前掲書p159)と書くように、レイドロウの思いは、“生産するコミュニティ”という“もうひとつの地域社会”である「協同組合地域社会」つくりにあったと言える。

 この「協同組合地域社会」つくりに向けては、日本では生活クラブ生協が試行錯誤をくりかえしているが、日本の生協の多数の流れは、やはり「しっかりと組織立てられ、適切に設立された協同組合で、資本主義企業と成功裏に競争することを目的」とした大型化と、情報化にともなった事業のアウトソーシング化と、個配事業などによる市場対応化であり、そして、レイドロウの「協同組合地域社会」つくりの提起に対しては、協同組合を「社会的企業」のひとつとして位置づけて、しのごうとしているように思える。

 しかし、私的には「社会的企業?」(2005年11月28日 )と「脱労働力商品への道とコミュニティ・ビジネス」(2007年6月 3日)と題して、このブログにも少し書いたが、これまである協同組合や労働組合や共済組合などを寄せ集めて、「社会的企業」と称したところで、それらがNPOであるわけでもないし、コミュニティ・ビジネスになれるわけではないというのが、私の見解である。

 例えば、現在、日本生協連傘下の生協には1000万人をはるかに超える組合員がいる。また、労働組合や共済組合も、連合や全労済を中心にそれぞれ1000万人を超える組合員を有している。だから、これらの巨大な組合組織が連携すれば、さらに巨大な「社会的企業」として大きな社会的影響力を持てるかと言えば、そうは思えない。

 80年代以降、協同組合も労働組合も、組織の存亡をかけて、大型化をめざしての組織合同組織合同を繰り返してきた。しかし、先に読んだ『ウィキノミクス』によれば、「提携や合弁では、起業家精神は生まれません。自由市場のメカニズムが必要なのですから、そのような形で中央集中型アプローチを引きずっていたのではだめなのです」ということである。組織論のパラダイムをままにした組織の大型化は、階層構造と派閥を拡大させるだけである。かつての統一戦線的発想を「社会的企業」の連帯に置き換えてみたところで、時代に対応できるわけではないというのが、私の見解である。

 一方、レイドロウが描いた「相対的に小さな協同組合の、かなりゆるやかな非公式なネットワーク」という“もうひとつの社会”のイメージは、「協同組合」という言葉を「非営利団体(NPO)」とか「コミュニティ・ビジネス」とかに置き換えれば、決して非現実的なイメージではない。しかも、「小さな協同組合の、かなりゆるやかな非公式なネットワーク」というのは、もうひとつの組織論を提案している。レイドロウにとって、情報化の進展は予想外であったかもしれないが、『ウィキノミクス』に以下のように新しい組織のパラダイムが書かれているのを読むと、レイドロウの慧眼は、新しい時代への対応を言い当てていることが分かる。
 
 「組織というものは、昔から、階層型の指揮命令系統だった。すべての人は、だれかの命令を受ける立場にあった。社員と経営者、マーケティング担当者と顧客、メーカーとサプライチェーンの下請け業者・・・食物連鎖の「頂上」には、常に、君臨する者や企業が存在した。このような階層構造はいまも歴然と存在するが、技術や人口構造、世界経済が根底から変化しつつあり、従来の階層構造と支配による生産モデルに代わる新しいパワフルなモデル、コミュニティとコラボレーション(協働)、自発的秩序形成によるモデルが生まれつつある」(『ウィキノミクス』p6)、「マスコラボレーションとは、個人や企業が広く分散されたコンピューターと通信技術を活用し、ゆるやかで自発的な協力関係を通じて共有する成果を得ることなのだ。(前掲書p29)

 では、このマスコラボレーションとは具体的には何なのだと言えば、全く難しくない、例えばSNSのmixiである。階層組織であろうと情報化をすすめて、どこも自らの組織のオリジナルなドメイン(ドットコム)を持っているが、SNSはドットコム型ビジネスを越えている。『ウィキノミクス』には、以下のように書かれている。

 「昔のドットコム型ビジネスモデルとは大きく異なる。このようなやり方は通用しなくなったのだ。顧客は、さまざまな形で力を手にした。特に重要なポイントは、顧客自身がコンテンツを作る主体となったことだ。・・・顧客はコンテンツを消費するだけでなく、事業に活力を与える原動力でもある」(前掲書p71)、「新しいウェブを一言で表すなら、みんなが一緒に作り上げるものということだ。・・なんとなくネットをサーフィンしたり読んだり、受け身で読んだり聞いたり見たりする時代は終わった。いまのウェブはピアリングだ。共有し、人と交わり、コラボレーションし、そして、ゆるやかにつながったコミュニティで創迫力を発揮するのだ」(前掲書p74)、「ウェブを活用し、ユーザーがプロシューマー・コミュニティを作るようになった」(前掲書p205)と。

 mixiも、既に参加者は1000万人を超えたという。しかも、出来てからわずか数年でである。さて、組合とSNS、どちらのあり方が時代に適合的で、可能性があるかと言えば、間違いなくSNSのmixiであろう。そこで、ウェブを活用したユーザーが「プロシューマー・コミュニティ」を作るようになり、それが地域どころか国境さえ越えてネットワークするようになると、果たして、大型化した協同組合はどうなるのだろうか。レイドロウの提起した「小さな協同組合の、かなりゆるやかな非公式なネットワーク」の方が、はるかにリアリティをもつのではあるまいか。

 協同組合はもともと相互扶助組織で、時代に対応できない人々や、市場経済の中の弱者のための助け合い組織でもあるから、SNSのmixiとは同じにならないという意見があるかもしれない。しかし、ハリケーン災害時の救援プラットフォームの活躍などを読むと、マスコラボレーションの可能性は、公的支援よりも、共的支援よりも、はるかに迅速で効果的でコストもかからないのが分かる。

 組合とSNSとは何が違うのか、一言で言えば、クローズドな組織と、オープンな組織の違いである。どちらもキイワードは「共有」なのであるが、共有の範囲が、組合は組合員の範囲内であるのに対して、SNSは無限なのである。また、参加の問題で言えば、協同組合における形式的な組合員参加に対して、SNSとはそもそも開放されたプラットフォームへの参加と共有のことなのである。

 「共有とは・・・コスト削減であり、コミュニティの構築であり、発見の加速であり・・・共有しようと考える個人や組織が増え、その結果、共有による経済が生まれ、ウェブに豊潤な公共財が築かれようとしている。コンピューター界の草分け的存在の一人、ダン・ブリックリンは、これを「コモンズの宝庫」、利己的な個人による利用から自然に生まれる副産物として、貴重なオンライン資源が成長していると表現する(利他的な動機をもって共有している必要はない。・・オンラインコミュニティでは共有が前提となっているからだ)」(前掲書p448)

 最後に、誤解の無いように書いておけば、生協は、私的には“良き小売業”であり私の買い物はもっぱらコープである。はたして生協は、どこまでオープンになれるだろうか。難しいだろうと思いつつ、かつて惚れた女に心残して、つい老婆心したまでである。

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2007年8月18日 (土)

「レイドロウ報告」と「コースの定理」

 先日、かつての生協の仲間と飲む機会があった。去るもの日々疎しではあるが、この夏の読書の合間に思い浮かんだことを、少しだけ書いておきたい。かつて惚れた女への、老婆心みたいなものである。

Dh_2  先月、『ウィキノミクス』を読んだ時に、そこに「コースの定理」が出てきたことは前に書いた。「コースの定理」は、「調整は価格メカニズムによってなされると通常論じられているという事実からみると、なぜ、そのような組織(企業)が必要なのであろうか。なにゆえに、これらの『意識的な力という島々』が存在するのであろうか」(R.H.コース著『企業・市場・法』東洋経済新報社1992 p41)という問いから出発して、「企業の特質は、価格メカニズムにとって代わることにある」(前掲書p42)、「企業を設立することがなぜ有利かという主要な理由は、価格メカニズムを利用するための費用が存在する、ということにある」(前掲書p44)、「企業の拡張が進められるのは、次のところまでであろう。すなわち、追加的な取引を自らの企業内に組織化するための費用が、その同じ取引を公開市場で交換という手段で実行するための費用、もしくは他の企業のなかに組織化される際の費用と、等しくなるところまでである」(前掲書p48)と結論する。

 協同組合の設立目的は、もともと市場経済の「価格メカニズムにとって代わることにある」のだが、『ウィキノミクス』を読んだ後に、コースの『企業の本質』を再読してみると、さらに次のことをアナロジーした。
Photo_2  コースによれば、企業は市場に浮かぶ「意識的な力という島々」であるということであるが、この「島々」という言葉で思い出したのが、1980年のICA(国際協同組合)大会に報告されたA.F.レイドロウの『西暦2000年における協同組合』である。そこには「80年代に入って、いままでの古い港に停泊していた船の錨が切り放され、不確実性という大洋の中を漂うような気持ちを人々はいだくであろう。・・・協同組合こそが正気の島になるよう努めなければならない」(A.F.レイドロウ著『西暦2000年における協同組合』p23)という一文がある。コースも、レイドロウも、共に企業(協同組合も企業である)を市場経済の海に浮かぶ島としている。

 コースが『企業の本質』を書いたのは1937年であり、時代背景としては資本主義の重化学工業化とトラスト化があり、ソ連の成立による一国社会主義の進行と、おそらくそれへの疑問がコースにはあった。「もし、組織化することである種の費用を排除し、生産費を実際に低減させることができるのなら、いったい、なぜ、市場取引がそもそも存在しているのだろうか。なぜすべての生産は、巨大な一企業によって行なわれてしまわないのだろうか」(前掲書p47)というコースの疑問の背景には、「巨大な一企業」を「国家」と置き換えれば、当初は社会主義者であったというコースの問題意識さえ感じられるし、ギルド社会主義からフェビアン主義までのイギリス社会主義の多様性を考えれば、コースには成熟した資本主義国であるイギリス人の社会主義者らしい発想が感じられる。

 一方、レイドロウの『西暦2000年における協同組合』(以下「レイドロウ報告」)が、ICA大会で報告されたのは1980年であり、この報告がなされた背景には、西欧における協同組合の危機があった。日本においては、生協は70年代以降に拡大し始めるが、産業社会のライフサイクルが進んでいるヨーロッパにおいては、60年代以降、生協は衰退し始める。
 協同組合の危機とは、レイドロウによれば、大型化と商業主義による危機と、経営危機と、思想の危機である。そして、それらの危機に対してレイドロウは、「世界が奇妙な方向へ、あるレは時々当惑させられるような方向へ変化していくとしても、協回組合がその轍を踏んでいくべきなのか。そうではなくて、別の道へそれて、別の種類の経済的・社会的な秩序を創ろうとしてはいけないのだろうか」(前掲書p12)と、提起している。
謂わば、この「別の種類の経済的・社会的な秩序」というのがレイドロウ流の島=協同組合地域社会ということである。

 レイドロウは報告の最後を「今日の多くの傾向をみていると、イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャル(1842~1924)の『世界はまさに協同組合運動のより高度な活動に対する準備を始めた』という見解を自信をもって認めることができるようになる」(前掲書p160)と結んでいる。これは、コースが『企業の本質』の中で、「マーシャルは、組織を第四の生産要素として導入している」と書いていることと結びついているように思う。

 私はマーシャルには不案内だが、「コースの定理」とは、「第四の生産要素」である「組織」=企業の本質の解明である。ロバート・オウエンまで、協同組合は理念と運動であったが、ロッチデール以降、協同組合は企業となったというのが、協同組合の成功の鍵なのだが、そのことは、コースが「企業の外部では、価格の変動が生産を方向づけ、それは市場における一連の交換取引を通じて調整される。企業の内部では、このような市場取引は排除され、交換取引をともなう複雑な市場構造に代わって、調整者としての企業家が生産を方向づける。これが、生産を調整するもう一つの方法であることは明らかである」(前掲書p41)と書く「企業」を協同組合、「企業家」を理事会に置き換えてみれば、それは正にロッチデール型の協同組合の存在理由そのものである。

 また、コースは「このほかにも価格メカニズムを利用することにともなう不利益-あるいは費用-が存在する。ある種の品物ないしサービスの供給については、長期契約を結ぶことが望まれよう。その理由は、もし短期の契約を何度も結ぶかわりに長期にわたる契約を一回結ぶと、契約を結ぶ度ごとに発生するある種の費用を回避することができる、という事実によるものであろう」(前掲書p44)、「資源配分の方向がこのような形で(契約の範囲内で)買手に依存するようになるとき、私が「企業」と呼ぶ関係が成立する。それゆえ、企業は、非常に短期の契約が不十分であるときに出現する傾向がある」(前掲書p45)とも書くが、これは協同組合が生産と消費を一体化させて、中間コストを抜くこと、例えば、市場外流通としての産直や共同購入を消費者にアピールして成立したことを考えれば、これも正にそのとおりと言える。

 では、協同組合も「コースの定理」に当てはまるのだとすれば、協同組合は21世紀にいかなる可能性をもつのだろうか。
 「コースの定理」の現代的なリアリズムは、『ウィキノミクス』に「インターネットの登場で取引費用か急低下した結果、コースの定理の有用性はむしろ高まったと言える。・・・つまり、社内で取引を行うコストが社外コストを超えないレベルまで、企業は規模を縮小すべきなのだ。取引費用はいまも存在するが、市場よりも社内のほうが重荷になることが増えたというわけだ」(P90-91)と書かれるとおりで、生協でも事業のアウトソーシング化と、個配事業などによる市場対応化がすすむ一方、「しっかりと組織立てられ、適切に設立された協同組合で、資本主義企業と成功裏に競争することを目的」とした、地域を越えた大型化も進んでいる。

 果たして、市場対応化と大型化で、協同組合は「コースの定理」をしのげるのかということであるが、私の結論から言えば、現在的な「コースの定理」の要諦は岡部一明氏が『インターネット市民革命』に言うとおり、「コースの発見のすばらしい点は、企業の発生要因を明らかにすることにより、この要因が消滅もしくは低減する時に当然企業は解体方向に向かうことを可能的に示したことである」とすれば、協同組合もそれを逃れることはできないであろうということである。(つづく)

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