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2007年6月 3日 (日)

脱労働力商品への道とコミュニティビジネス

 コミューン論として書き始めたブログは、ロバート・オウエンのニューハーモニー・コミューンから社会主義まで、なぜコミューンは失敗するのかという問題意識から、新たに市場社会におけるコミュニティ論、市場と共同体論をへて、脱労働力商品論へとたどりついた。これは、労働力商品であることから抜け出ていくことが、コミュニティの形成につながるということである。労働力商品のままに寄り集まっても、組合はつくれても、自治的なコミュニティはつくれない。

 コミューン論を考えるきっかけには、もうひとつ、コミュニティ・ビジネスとは何かというNPO活動上のテーマがあったのだが、脱労働力商品的働き方と、その事業化、企業化としてのコミュニティ・ビジネスとコミュニティの形成といのが、ここで見出された方向である
 要は、これまである協同組合や労働組合や共済組合などを寄せ集めて、「社会的企業」と称したところで、それらがNPOであるわけでもないし、コミュニティ・ビジネスになれるわけではないということである。

 では、脱労働力商品論をどう展開していくのかと考えると、二つのやり方があるように思う。ひとつは、原理論的な考え方であり、もうひとつは現状分析的な方法である。
 原理論的な考え方とは、「アダム・スミス流の労働価値説 → リカード派社会主義の労働全収権論 → ロバート・オウエン流の貨幣に換わる労働証票+共同社会的クローズドコミュニティづくり」といった従来型のコミューン論から、「マルクスの価値形態論 → 物象化された世界に見切りをつけること → 貨幣高に拘らない生活と働き方+オープンで自治的なコミュニティの形成」といった方向であり、そこにおける「自治的な生産コミュニティ」というのが、いわばコミュニティ・ビジネスとなるの訳だが、私だけではどうにもなりそうにないので、大内先生の知恵をお借りするしかないだろう。

 もうひとつの現状分析的な方法とは、脱労働力商品的生き様のフィールドワークであり、これなら私にも出来そうである。昨日(6月2日)は、NPO自主事業サポートセンター主催で、プアだけどハッピーにしてアートなフリーランサー、フリーターの方々に集まっていただいて、ミニシンポジウムをやった。
 SNSのmixiやイベントなどで知り合った人たちで、初めてお会いした方もいたが、今までよく知っていると思っていた方々でも、どんな生き方をしてきたかとなると、ほとんど知らず、赤裸々にそれぞれの生き様をトークしいただくと、パネラーのほとんどがまともな就業経験を持っていないことが分かった。

 それでは、まともな就業経験がないと人生は不幸かというと、当人たちは全くそんなことはない。ある人は、端から見れば、どうみたって貧乏にしか見えないのに、当人は一度もそう思ったことはないという。そして全員のトークを聞けば、今の世の中で、これほどまともな人たちはいないと思えるほどまともであり、今の世の中、雇用からはみ出した人こそ、まともな感覚を持てるのかと思われるのであった。

 雇用からはみだされてワーキング・プアになるのか、雇用からはみ出て自ら生きようとするのか、前者は保護を必要とするのかもしれないが、後者であるシンポジウムのパネラーたちは、みな行政による保護をあてにしていなかった。まあ、この辺りから脱労働力商品的生き方のフィールドワークをしつつ、脱労働力商品論へとせまってみたいと思っている。

Dc  今回やったシンポジウムは、一昨年に同じくNPO主催で、『就職しないで生きるには』というテーマでやったシンポジウムのPart2であったのだったが、好評だったので、脱労働力商品的生き方のフィールドワークを兼ねて継続したいと思っている。Part1以降、名称を“Dropout College”と称している。上流・下流、正社員・非正社員、雇用・非雇用・・・を超えて、ハッピーにして、アートで、エコな生き方の探求とレクチャー、これが“Dropout College”のミッションであり、とりあえずは、私のコミュニティ・ビジネスにしようかと思っている。

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コメント

ダルマ舎さん
 Dropout College(以下、ドロカレと略称)のシンポ、とても面白そうですね。仙台との距離があり、参加できないのが残念だし、協力できず申しわけありません。紙上参加ならぬ、ブログ参加でお許し下さい。
 ドロカレの皆さんの考えは、単なるワーキング・プアではないですね。脱労働力商品化の方向性を強く感じるし、その質と内容がありますよ。君の表現だと「ハッピーにしてアートなフリーランサー」ですかね。「賢治とモリスの館」から言えば、「芸術をもて あの灰色の労働を燃せ―農民芸術概論綱要」、そして”Art is man's expression of his joy in labor"―W、Morris でしょうね。その点で、ドロカレの意義を感じます。
 脱労働力商品化論へのアプローチとして、1つが理論的アプローチであり、もう一つが現状分析的な方法、この2分法も作業手順としては良いと思います。理論的アプローチは、貴兄から小生に課題として与えられたドロカレの宿題として、これから少しづつ書き込みしたいと思います。
 手始めに、貴兄の前回の「市場と共同体」から行きましょう。SBIの総会での小生の報告に関連しているし、それに貴兄からの質問などもあったので、その続きになるかとも思います。
 小生の報告「格差社会・その徹底解明」は、最近仙台などで講演するテーマにしてきましたが、社会学者らしい、いかにも無概念だし、現象の把握も、水掛け論になってしまう格差社会論に、一言いいたかっただけです。とくにマスコミ主導で、自民vs民主の選挙の争点に浮上させてきたので、報告のテーマにしたのです。
 ただ安倍政権の登場で、小泉=市場原理主義的構造改革と、安倍=脱戦後民主主義型改憲路線の対立の構図が表面化してきた。小生は、「社会学」仕立ての「格差社会」論争より、より本質的な対立になると思うのですが、新しい論点提起としたわけです。最近、経団連が奥田(トヨタ自動車=旧型重化学工業)から、御手洗(キヤノン電子・電気=新型グローバル・ソフト部門)に交代、経団連の地位が変化してきた。そこにも、日本型経営共同体主義から、グローバル市場原理主義への転換が指摘されています。
 この論点提起から、勘のいい貴兄は、すばやく「市場と共同体」の議論にアクセスさせてくれたと思います。小生も経団連の位置づけの変化、安倍vs小泉の自民の分裂状況は、「市場と共同体」の議論を踏まえないとダメだと思います。そして、市場原理主義vs共同体主義の構図は、長い論争の歴史を持っているわけです。その今日的意義を抉り出す必要があると思います。(続く)

投稿: 大内秀明 | 2007年6月 8日 (金) 11時26分

「前のコメント」に続いて、これから「市場と共同体」について、理論面から整理してみたいと思います。

投稿: 大内秀明 | 2007年6月 8日 (金) 11時40分

「市場と共同体」について、少しコメントさせてもらいます。教師商売が長かったせいで、つい手を入れたくなってしまいます。ご容赦の程を。
 ①市場経済は、共同体と共同体の間の経済として、共同体の経済と対立し、相互に矛盾しつつも、相互依存を深めてきました。市場経済に媒介されて、共同体の経済の生産性の向上も、消費の高度化も無かった。共同体も、市場を排除したり、全面否定できない、「ベルリンの壁」も崩されました。
 市場経済と共存、相互依存する限り、平和共存で「平和」が維持できる。しかし、対立が激化し、共存が破れれば、戦争と征服、拉致による「奴隷」が生まれた。奴隷は剰余生産物と同じで、利用できなければ生かしておく必要が無い。社会としての成立の根拠なし、唯物史観の奴隷制経済の必然性は無くなり、歴史観としても誤りです。中世の農民、農奴は共同体のもともとの成員として、「生かさぬよう、殺さぬよう」に労働力として再生産できなければならない。奴隷制と農奴制の本質的差異です。
 ②たしかに市場と共同体は、相互依存と対立の相克の歴史です。市場は、共同体の間に成立する以上、もともと「世界」市場だし、また「グローバル」市場です。だからグローバル経済とか、グローバル資本主義とかは、単に市場経済を言っただけで、何の説明にもならない無概念です。世界資本主義も同様ですね。
 この点で、純粋資本主義の抽象が重要です。市場経済の発展は、共同体の経済を掘り崩し、労働力の商品化に進む。その極点が純粋資本主義の抽象です。唯物史観を乗り越えた『資本論』は、労働力の商品化による純粋資本主義の抽象に成功した点にある。純粋資本主義の抽象は、労働力の商品化と土地の商品化により、市場経済の一元的・全面支配のシステムの解明に成功した。ということは労働力の再生産と自然環境の保全に、資本主義の「基本矛盾」が設定されることになる。
 労働市場の労働力商品は、アトム化された個人の労働力であり、共同体から切り離された経済人だ。地域は無論のこと、家庭や家族の共同体からも切り離された、経済人としての集合体が「家計」であり、そこで労働力の再生産が行われる。人間の物化であり、人間疎外の根拠となる。家庭・家族の崩壊だし、地域の崩壊となるわけです。
 土地の商品化、これが私有財産のきそとなるが、土地自然の市場取引が地域共同体の崩壊につながる。同時に、地域格差、都市問題、自然破壊、歴史建造物破壊などの原因となる。さらに、日本に代表される土地資産にもとづく「土地本位制」、そこから生じたバブル経済とその崩壊は、労働力の商品化の裏側の土地の商品化に起因していることが重要です。
 このように純粋資本主義の抽象から導かれる労働力と土地の商品化により、「市場と共同体」の相互関係の極点が理解できると思います。そこに資本主義の基本矛盾を設定して、はじめて脱労働力商品化、環境保全の方向付けも可能です。また、「市場と共同体」の対抗関係の歴史的位相も明らかにできると思います。

投稿: 大内秀明 | 2007年6月 9日 (土) 19時29分

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