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2007年5月 7日 (月)

『夜明け前』と『大菩薩峠』

 先日、数少ない私のブログの読者から、「ブログがすすんでいませんが?」と言われた。最近は、ブログよりも簡単なSNSのMIXIをいじるばかりになってしまって、本を読んでも、そこに読書メモを書く程度になってしまった。「HP → ブログ → SNS」と、よりeasyな方に流されるものだが、SNSはSNSでネットワークつくりには便利だが、やはりブログはブログでオープンだから、ブログの方にはテーマのある文章を書いていこうと思っている。

Photo_14  GW中に、島崎藤村の『夜明け前』を読み終えた。4分冊で約3週間がかりではあったが、以前に読んだ中里介山の『大菩薩峠』が20分冊で半年がかりであったのと比べれば、短編小説みたいなものでもあったが。『夜明け前』を読むにいたった経過は、昨年の夏にブログに書いた「リカード派社会主義と宇野理論」という文章に、仙台ヒデさんからコメントをいただいて、それを機に、唯物史観ではない歴史の見方を考え出したせいである。

72  『夜明け前』と『大菩薩峠』は、方や文豪による日本の近代文学を代表する1冊であり、方や机竜之助の音無しの構えで有名な日本の大衆小説を代表する1冊であること以上に、相通ずるものをもった小説である。『夜明け前』の第1部は、ペリー来航から明治維新までの幕末を時代背景にしているし、『大菩薩峠』に至っては、20巻の全てがペリー来航からの幕末を時代背景にしている上に、明治維新にも至らずの未完のままなのである。

 『大菩薩峠』の20巻目も終わりのあたりに、登場人物による次のせりふがある。
「・・・これは木曾の藤兄いといって、姪を孕ませて子まで産ませて追ん出した上に、それを板下に書いて売出した当代の甘いおやじさんだ、文書きの方では古顔なんだが、近ごろ拙者の子分同様になりやんした、よろしく頼む」(「椰子林の巻」p472)と。
「木曾の藤兄い」とは藤村のことである。

 藤村が『破戒』を自費出版したのは1906年で、『大菩薩峠』の連載が始まったのは1913年だから、文書きとしては藤村の方が早いが、藤村が『夜明け前』の連載を始めたのは1929年だから、幕末を背景にした小説を書いたという意味では、介山からすれば藤村は「近ごろ拙者の子分同様」なのかもしれない。これで、中里介山は『夜明け前』を読んでいることが分かるが、上のせりふで藤村が揶揄ぎみに書かれているのは、当時の中里介山の、藤村に対するスタンスがあるのだろうと思われる。

 『大菩薩峠』については、2年前のブログ「中里介山『大菩薩峠』とコミューン」(2005年6月8日)に書いたが、私なりの中里介山のアバウトな経歴と『大菩薩峠』の要約を書けば、以下のとおりである。
中里介山は、秩父困民党コンミューンの翌年、1885年に自由民権運動の余韻が残る多摩に生まれた。1903年に上京して、岩淵小学校の代用教員になり、同年11月に創刊された『平民新聞』に投稿したりして、幸徳秋水とも接触するが、やがてそこを離れてトルストイに共鳴。1910年に大逆事件が起こされ、翌1911年には幸徳秋水らが処刑される。同年、肺結核と診断され、日暮里の岡田式静座道場に通い、木下尚向、田中正造に会う。1906年来「都新聞」に職を得て、1913年から『大菩薩峠』の連載を開始。1919年に「都新聞」退社、1922年に高尾山に草庵を結び、1930年に羽村に西隣村塾を開く。1931年に中国、朝鮮を旅行。1936年に衆議院選挙に立候補して落選。1939年にアメリカ旅行。1941年に『大菩薩峠』の最終巻「椰子林の巻」を脱稿。1942年に日本文学報国会の評議員に選ばれるも、これを拒否。1944年4月28日に腸チフスで死去。

 中里介山は『大菩薩峠』で時代を多面的に描こうとして、同時進行的に多様なキャラクターを登場させる。そして、その誰もが魅力的だが、終盤に入ると『大菩薩峠』の内容は、二つのコミューンづくりに収斂していく。二つのコミューンづくりとは、駒井の殿様のコミューンと、お銀様のコミューンである。駒井の殿様のめざすコミューンとは、近代的な理性と合理性にもとづく、民主的な協同社会である。-方、お銀様のコミューンとは、お銀様という知力、財力、指導力の優れたいわば独裁者によるソヴィェト型もしくは国家社会主義型の人民共和国である。しかし、竜之助はお銀様にこう言う。「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。・・・人間という奴は生むよりも絶やした方がいいのだ」と。

 書き始められてから30年近く経た『大菩薩峠』の最後の「椰子林の巻」は、駒井の殿様を中心とする一団が日本を脱出して、南の島でコミューンづくりを試みる話しである。そして、一団がたどり着いた南の島には既に西洋人の先住民がいて、駒井の殿様に、ロバート・オークェンの協同社会づくりの試みの失敗を例にして、駒井の殿様たちのコミューンづくりの失敗を予告するのであった。私は、長く協同組合に職を得ていて、ロバート・オーウェンを尊敬し、協同社会づくりを夢みながらも、それらの困難さをますます痛感するところであったから、『大菩薩峠』の最終巻にたどり着いた時には、もうほとんど目からウロコとなったのだった。

 中里介山は「すべての人が、その領土に於いて、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠り、駒井甚三郎は海に拠り、竜之介は夢の中に生きている」と書く。そして、中里介山自身は何に拠ったのかと言えば、1922年に高尾山に開いた草庵、1930年に羽村に開いた西隣村塾といった彼自身の領土であった。それらは農業と教育を一体化した、自らが拠って立つ根拠地であった。松本健一氏は、それを「一定の土地において自給自足の生活をつづけることによって、現実社会のありようと括抗する、いわば-種のコミューン形成の開始である」「農本的アナキズム」(『中里介山』)と書いているが、実際に、1942年に日本文学報国会より評議委員に選出された際、それを拒否できたのは、食料を自給自足でき、印刷所まで持った自らのコミューンに拠りえたであればこそであっただろう。

 1939年に、短期のアメリカ旅行をしたことも気になるところであるが、中里介山が自らもコミューンに拠り、そこに近代日本への思いを託して、明治から昭和へと生きながらも、『大菩薩峠』では明治維新にいたることが出来なかったというのは、思いと現実の落差は、いくら書きつづけようと、埋めようも無かったということであったのだろうか。コミューンへの思いと挫折は、戦後も幾多にも繰り返されるのである。

 さて、島崎藤村の『夜明け前』は、如何であろうか。中里介山が、日本文学報国会の評議委員を拒否したことに比べれば、藤村は1935年に日本ペンクラブの初代会長に就任、1940年には帝国芸術院会員、1942年には日本文学報国会名誉会員にもなっているし、陸軍大臣東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にさえ参画している。謂わば、自他共に認める文豪であったのであろうが、1929年4月より『中央公論』に連載された『夜明け前』は、これを読むと、藤村が文豪であることを納得させられる。

 『大菩薩峠』においては、歴史上の出来事や人物はほぼ戯画化されて登場するが、『夜明け前』においては、ほぼそのものとして登場する。『大菩薩峠』においては、登場人物が漂白する場が舞台だが、『夜明け前』においては、メインの舞台は木曽路は馬籠の本陣でありながら、時代の趨勢はそこから的確にとらえられており、表現については、ハチャメチャなストーリーと、ですます調で文章の下手くそな中里介山に比べれば、藤村の写実と構成は圧倒的である。

 『夜明け前』は、藤村の父の島崎正樹をモデルにした小説である。主人公の青山半蔵は、木曽路は馬籠の本陣・問屋・庄屋であり、「古代の人に見るようなあの直ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい」(第1部上巻p131)と書いて、平田篤胤派の門下生となって、「暗い中世の否定」を教えられ、御一新=革命に心血を注ぐ。革命理論は、本居宣長~平田篤胤の国学であり、その心は「漢ごころをかなぐり捨てて、言挙げということも更になかった神ながらのいにしえの代に帰れ」、「自然に帰れ」ということであった。

 藤村も介山も、共に描こうとしたのは「明治御一新の理想と現実」(第2部下巻p120)であり、直接にそれを生み出した幕末を背景に筆をすすめた。そして、その落差を埋めようも無かった介山は、維新の前に駒井の殿様ほかを船に乗せて日本脱出を計り、南の島におけるユートピアづくりにとりかかったところで筆を置いたが、『夜明け前』第1部に維新までの幕末を書ききった藤村は、第1部を次の文章で終わらせる。

 「最早恵郡山へは幾度となく雪が来た。半蔵が家の西側の廊下からよく望まれる連峯の傾斜までが白く光るようになった。一ケ月以上も続いた「ええじゃないか」の賑かな声も沈まって行って見ると、この国未曾有の一大変革を恵わせるような六百年来の武家政治も漸くその終局を告げる時に近い。街道には旅人の往来もすくない、山家はすでに冬篭りだ。夜となれば殊にひっそりとして、大の番の拍子木の音のみが宿場の空にひびけて聞えた」(第1部下巻p362)
「冬の日は茶屋の内にも外にも満ちて来た。食後に半截らは茶屋の前にある翁塚のあたりを歩き廻った。踏みしめる草鞋の先は雪溶けの道に燃えて、歩き回れば歩き回るほど新しい歓びが湧いた。一切の変革はむしろ今後にあろうけれど、ともかくも今一度、神武の創造ヘ--遠い古代の出発点へ--その建て直しの日がやって来たことを考えたばかりでも、半蔵らの眼の前には、何となく雄大な気象が浮んだ。
 日頃忘れがたい先師の言葉として、篤胤の道者『静の岩屋』の中に見つけておいたものも、その時半蔵の胸に浮かんで来た。
 「一切は神の心であろうでござる。」(第1部下巻p369)

 その後、介山とちがって藤村は、維新以後へと筆をすすめる。「革命は近い。その考えが半蔵を休ませなかった」(第1部下巻p322)のだが、青山半蔵の願う御一新は成就するのかと言えば、しないのである。結論から言えば、半蔵は維新後に「筑摩県の官吏を相手にして、尾州藩の手を離れてからこのかた、今や木曾山を失おうとする地方の人民のために争えるだけ争うとして」(第2部上巻p369)、山林事件の結果、戸長の役を解かれる。また、国学は神仏分離をおしすすめるも、かえって衰える中、半蔵は寺に火をつけ、その結果、座敷牢に閉じ込められて狂死するのである。

 藤村は、幕末と明治維新を時代背景にしながら、父の生き様を物語となし、明治維新以来の日本の歴史を問おうとする。藤村が『夜明け前』を書き始めた1929年からの年月は、昭和恐慌から15年戦争へと日本が歩みだした時代でもあった。果たして、『夜明け前』は藤村なりの「近代の超克」なのかと思わぬこともないが、藤村は文学者らしく、そんなことは言わない。故郷である木曽路の写実は見事であり、馬籠に視点を置きながらも、優れた考証による時代の活写も見事である。『夜明け前』は、日本近代文学史上の傑作であるというのが、読後の感想であった。

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コメント

様々な異なる個性をもつ個々が、どのようなことに関心を持ちどのような見方をしているのか、どちらかといえば遠望するようにして、思っている方です。
ジャック・ケルアックだとか、アレン・ギンズバーグ、ビートジェネレーションの詩人たちの名を見て、少し感じるものがあります。諏訪優訳のギンズバーグの詩を読んでおりました。

投稿: ラッキーサウンド | 2007年5月 7日 (月) 16時21分

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