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2007年5月28日 (月)

市場と共同体

 26日にSBIの総会があって、総会後の講演会では、SBI理事長の大内先生が「格差社会その徹底解明」という話しをされた。そして、その前話で、改憲を目指す安部政権は、市場原理主義をめざした小泉政権を引き継ぐのかどうかと提起され、どうもそうではないのではなかろうかという話しされ、さらに、日本の財界の中には市場原理主義派と日本型経営派があって、安部政権は後者にも組するのではなかろうかと話された。
 今月は、行き詰まり引きこもり状況にあったが、たまに外でいい話を聴くと、頭が刺激を受ける。そこで、さっき書き始めたのが以下の文章である。これまで本を読むばかりで、どうまとめるかと思っていたことが、少し整理できてきたところだ。

 ここから先は、それへの私の感想である。安部が目指しているのは、改憲と自由主義社会の同盟であり、安部の祖父の岸信介が目指したことを引き継いでいると思われる。
 戦争に負けても何の反省もしなかった岸信介は、戦後のアメリカ軍による占領を何とかしのいで、戦前の国家主義的憲法の再獲得と、日米安保条約を双務的な中身に改定することをめざした。安保条約の改定は何とかやりきったものの、憲法についてはやりきれなかったことを、現在の安部政権がやろうとしている訳だが、もうひとつ、岸がやろうとしたことに、保守2大政党体制づくりがあったという。
 これには、保守対左派、要は自民党対社会党・共産党といった構図を避けたいという意図があったのかと思われるが、これは55年体制終了後の現在、自民党対民主党といったプレ2大政党体制を経ながら、やがて実現の方向に向かうと思われる。
 だから、市場原理主義と格差社会をめぐって、財界の中の市場原理派と日本型経営派があるという話で言えば、小泉が明確に市場原理主義を志向したのに対して、祖父の信念を継承する安部としては、市場原理派と日本型経営派の2派による保守2大政党を目指しているのかとも思われる。

 日本型経営派とは謂わば企業共同体派であって、市場原理への対抗原理は、いつでもどこでも共同体である。共同体と共同体の間に市場が発生したというのは通説だが、世の中が市場経済になった後は、共同体は死滅するのかと言えばそうではなく、共同体は市場原理に対する対抗原理として、常に復活してくるのである。極論すれば、歴史とか社会は、市場化=グローバル化への動きと、共同体復帰への動きの二つの動きの拮抗と均衡から成っているとさえ思える。

 例えば、日本の明治維新などを見てみる。1853年にペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に現れて日本に開国を迫れば、それへの対応は攘夷と開国に分かれる。この時のペリーのものの言い方など、その150年後にアメリカが迫った自由化と規制緩和の要求にそっくりである上に、攘夷なり規制緩和反対なりの対応も、反対派を抱えつつも受け入れるといった、その後の経過も同様である。

Photo_15  攘夷運動の原理となったのは、平田篤胤~水戸学派の国学思想であり、徳川幕府の封建体制に対する御一新=革命を主張する。国学思想は、それより先に本居宣長が、大陸より伝わった儒教や仏教といった「漢ごころ」を捨てて古の代に帰れと主張したのを受けて、よりよき「上つ代」への復古をめざすものなのであるが、攘夷派であった長州、薩摩が政権を取った後に、欧米に多くを学んで現実政治をすすめる中で、御一新=革命ならずで挫折する。島崎藤村の名作『夜明け前』は、木曾路は馬籠の本陣庄屋であり、国学派であった藤村の父が、御一新の夢破れて狂死する物語である。

 この未完の革命運動である維新は、その後、天皇を頂点とする国家社会主義思想として陸軍の皇道派に引き継がれるのであるが、これも2・26事件であえなく挫折する。『夜明け前』の中で、藤村の父がモデルである青山半蔵に対して、国学派の先輩が「復古が復古であるというのは、それが達成されないところにあるのさ」と言うように、あえて言ってしまえば、復古であろうと社会主義であろうと、御一新=革命というものは成立しないものなのである。なぜなら、世界は進歩と復古のベクトルから成り立っているからである。
 一元化が成り立たないということは、市場原理主義で覆われた社会というのも、また成り立たないということでもある。大内先生の言葉を借りれば、社会は「不均衡の均衡」で行くしかないのである。

 だから、2大政党制というのが、これまでの保守と革新というよりは、市場原理派と共同体派的色分けに収斂していくのは、理にかなっているように思える。共同体派というのは、別に天皇制国家主義派である訳ではない。経済学で言えば、いわゆる社会主義から、フェビアン主義的、ケインズ主義、ライン型資本主義、イスラム主義まで、市場の抑制の必要を掲げる人々であり、世の中の半分くらいの人は、そう思うものなのである。

Photo_16  書き足しておけば、天皇制国家主義というのは、天皇家は万世一系であるという高天原神話に基づいて、天皇を頂点とする共同体への復古をめざすのであるが、その根拠となっている『古事記』からして、奈良時代に大陸から仏教や律令制といった新しい思想や方法が流入して来て、藤原氏の政権介入などで天皇家のアイデンティティが希薄化した時に、そのアイデンティティを確認するために古代からあった神話を集めて編集して作られたものなのである。鰐の登場する「いなばの白兎」の神話など、ルーツはインドネシアにあるというから、『古事記』も、謂わば、中国大陸から押し寄せた当時のグローバリゼーションに対する産物なのであるが、さらに天皇家は朝鮮半島からの血筋でもあるならば、万世一系の高天原神というフィクションに支えられる日本の国家主義思想は成り立たない。(※工藤隆著『古事記の起源』中公新書2006年参照)

 非西洋世界でも、中華帝国などの文明をもった帝国が成立すれば、周辺はその属国に組み込まれるか、辺境で独自の小共同体に引きこもるかである。生産力の拡大による市場化を、比較優位な文明をもった帝国の拡大と置き換えれば、それによる謂わばグローバリゼーション対して、周辺国に守旧派、復古派、謂わばナショナリズム的な対応が起こるのは、いつの時代でも、どこの地域でも世の常である。そして国家は、そういった他との関係性の中から生じ、統治の都合上、他との違い=アイデンティティを必要とするのである。『古事記』が成立した事情も、幕末の攘夷派の国学も、事情は同じなのである。

Photo_17  また、よりよき共同体成立期の古に返ろうという復古による革命というのは、別に日本の専売特許ではなくて、イスラム原理主義として恐れられる欧米化に対するイスラム復古運動なども全く同じである。文化的な違いはあるにしろ、神の国への復古、アイデンティティを守るための特攻や自爆テロなど、ヒトの考えることに大きな違いは無いのである。

 アメリカの独立運動だって、近代化の先行したイギリスによる植民地政策に対して、アメリカ人が自らのコミュティを守ろうとしたからである。独立したと言っても、その頃のアメリカには立派な中央政府があった訳ではなく、小さな東部13州の連合体であり、州も小さなコミュニティで成り立っていたにすぎないのだが、先のブログに書いたように、独立した後も地域毎に多様であったアメリカは、共和主義の理念を書き込んだ憲法を制定して近代統一国家として出発し、南北戦争後には資本主義が大きく発展させ、やがて資本主義のチャンピョンになっていった。
 市場原理主義によるアメリカの資本主義の発展に対しては、その途上で、労働騎士団の運動から、ポピュリズム、ベラミー派の運動、IWWによるサンジカリズム、近年の対抗文化運動など、多くの対抗運動が発生したが、ベラミー派の運動やIWWの争議でさえアメリカ国旗を掲げたように、その運動は資本主義化に対してアメリカの原点に返ろうとする共同体回帰運動であったと言える。

200  この間、アンドルー・ゴードン『日本の200年』(みすず書房2006年)、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波書店)、イアン・ブルマ『近代日本の誕生』(ランダムハウス講談社2006年)など、アメリカ人の書いた日本の近現代史の本を何冊か読んだ。これらの本の著者が共通して言っていることは、日本の歴史の特殊性というよりは、日本の歴史の非例外性であり、より広範な世界の近現代史との不可分、相互連関性である。日本の近現代史は、地政学的な関係もあるが、アメリカとの相互関係からの影響が多いように思われるから、私は市場原理主義への対抗運動のモデルを、岡部一明氏などに学びながら、アメリカの対抗運動に探してしてきたところである。

 さて、今回のブログは、1月10日のブログ『脱労働力商品と歴史の見方』に書いた「所有論的アプローチ → 唯物史観」に代わって、「脱労働力商品論的アプローチは、いかなる歴史の見方をするのか」のつづきであり、さらには昨年の12月7日のブログ『市場社会とコミュニティ』のつづきであり、元は8月12日のブログ『リカード派社会主義と宇野理論』に始まっている。

 『ドイツ・イデオロギー』以前の『経哲草稿』におけるマルクスの疎外論には、「人間の共同存在」とか「類と個」だとか「完成した自然主義=人間主義」だとか、思いつき的なことが書かれているが、マルクスがそんなことを思いついたのは、ヘーゲル哲学を学ぶ以前にギリシア哲学も勉強していたせいかとも思われる。永劫回帰の思想を提起したニーチェも、元はギリシア哲学であり、『存在と時間』のハイデッガーもまたそうであった。知は古にあるのである。

 市場は、共同体と共同体との間に発生したと言われるが、もともと個別に成立した共同体が存在する世界があって、やがて個別の共同体が他の共同体と出会うことから、共同体どうしの関係や交易が生じるのだが、この場とは広くは市場であり、これは資本主義の成立する以前から、世界はこれで成り立っていると言える。資本主義=市場経済の成立は、広義の市場=世界を、狭義の市場=国民経済単位の生産と交換に変えてしまい、それを成り立たせるための国家アイデンティティ=ナショナリズムと生産力と武力をこしらえて、世界を国家単位に分断した。

 市場経済がグローバル化する一方で、共同体を取り戻そうという志向は、国家を超えた世界を取り戻そうとすることでもある。市場経済のベクトルに対して、共同体を取り戻そうとする動き、近代化と復古は、どちらが正しいというよりは、このぶつかりあいが歴史であり、世界であるのだろうと思われる。よりよきコミュニティは未来にあるのでなければ、古にあるのでもない。人々が身近にささやかにでもコミュニティをつくり、それらのコミュニティが国家を超えてつながって行くことの中にあるように思われる。広義の市場とは、それを成り立たせる世界のことである。そしてコミュニティ=共同体とは、身近な日常の中に現実的に獲得され得るものであり、コミュニティ・ビジネスとは、そのための生業の仕方である。私はこれを「脱労働力商品への道」とするが、今日はここまでである。

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2007年5月 7日 (月)

『夜明け前』と『大菩薩峠』

 先日、数少ない私のブログの読者から、「ブログがすすんでいませんが?」と言われた。最近は、ブログよりも簡単なSNSのMIXIをいじるばかりになってしまって、本を読んでも、そこに読書メモを書く程度になってしまった。「HP → ブログ → SNS」と、よりeasyな方に流されるものだが、SNSはSNSでネットワークつくりには便利だが、やはりブログはブログでオープンだから、ブログの方にはテーマのある文章を書いていこうと思っている。

Photo_14  GW中に、島崎藤村の『夜明け前』を読み終えた。4分冊で約3週間がかりではあったが、以前に読んだ中里介山の『大菩薩峠』が20分冊で半年がかりであったのと比べれば、短編小説みたいなものでもあったが。『夜明け前』を読むにいたった経過は、昨年の夏にブログに書いた「リカード派社会主義と宇野理論」という文章に、仙台ヒデさんからコメントをいただいて、それを機に、唯物史観ではない歴史の見方を考え出したせいである。

72  『夜明け前』と『大菩薩峠』は、方や文豪による日本の近代文学を代表する1冊であり、方や机竜之助の音無しの構えで有名な日本の大衆小説を代表する1冊であること以上に、相通ずるものをもった小説である。『夜明け前』の第1部は、ペリー来航から明治維新までの幕末を時代背景にしているし、『大菩薩峠』に至っては、20巻の全てがペリー来航からの幕末を時代背景にしている上に、明治維新にも至らずの未完のままなのである。

 『大菩薩峠』の20巻目も終わりのあたりに、登場人物による次のせりふがある。
「・・・これは木曾の藤兄いといって、姪を孕ませて子まで産ませて追ん出した上に、それを板下に書いて売出した当代の甘いおやじさんだ、文書きの方では古顔なんだが、近ごろ拙者の子分同様になりやんした、よろしく頼む」(「椰子林の巻」p472)と。
「木曾の藤兄い」とは藤村のことである。

 藤村が『破戒』を自費出版したのは1906年で、『大菩薩峠』の連載が始まったのは1913年だから、文書きとしては藤村の方が早いが、藤村が『夜明け前』の連載を始めたのは1929年だから、幕末を背景にした小説を書いたという意味では、介山からすれば藤村は「近ごろ拙者の子分同様」なのかもしれない。これで、中里介山は『夜明け前』を読んでいることが分かるが、上のせりふで藤村が揶揄ぎみに書かれているのは、当時の中里介山の、藤村に対するスタンスがあるのだろうと思われる。

 『大菩薩峠』については、2年前のブログ「中里介山『大菩薩峠』とコミューン」(2005年6月8日)に書いたが、私なりの中里介山のアバウトな経歴と『大菩薩峠』の要約を書けば、以下のとおりである。
中里介山は、秩父困民党コンミューンの翌年、1885年に自由民権運動の余韻が残る多摩に生まれた。1903年に上京して、岩淵小学校の代用教員になり、同年11月に創刊された『平民新聞』に投稿したりして、幸徳秋水とも接触するが、やがてそこを離れてトルストイに共鳴。1910年に大逆事件が起こされ、翌1911年には幸徳秋水らが処刑される。同年、肺結核と診断され、日暮里の岡田式静座道場に通い、木下尚向、田中正造に会う。1906年来「都新聞」に職を得て、1913年から『大菩薩峠』の連載を開始。1919年に「都新聞」退社、1922年に高尾山に草庵を結び、1930年に羽村に西隣村塾を開く。1931年に中国、朝鮮を旅行。1936年に衆議院選挙に立候補して落選。1939年にアメリカ旅行。1941年に『大菩薩峠』の最終巻「椰子林の巻」を脱稿。1942年に日本文学報国会の評議員に選ばれるも、これを拒否。1944年4月28日に腸チフスで死去。

 中里介山は『大菩薩峠』で時代を多面的に描こうとして、同時進行的に多様なキャラクターを登場させる。そして、その誰もが魅力的だが、終盤に入ると『大菩薩峠』の内容は、二つのコミューンづくりに収斂していく。二つのコミューンづくりとは、駒井の殿様のコミューンと、お銀様のコミューンである。駒井の殿様のめざすコミューンとは、近代的な理性と合理性にもとづく、民主的な協同社会である。-方、お銀様のコミューンとは、お銀様という知力、財力、指導力の優れたいわば独裁者によるソヴィェト型もしくは国家社会主義型の人民共和国である。しかし、竜之助はお銀様にこう言う。「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。・・・人間という奴は生むよりも絶やした方がいいのだ」と。

 書き始められてから30年近く経た『大菩薩峠』の最後の「椰子林の巻」は、駒井の殿様を中心とする一団が日本を脱出して、南の島でコミューンづくりを試みる話しである。そして、一団がたどり着いた南の島には既に西洋人の先住民がいて、駒井の殿様に、ロバート・オークェンの協同社会づくりの試みの失敗を例にして、駒井の殿様たちのコミューンづくりの失敗を予告するのであった。私は、長く協同組合に職を得ていて、ロバート・オーウェンを尊敬し、協同社会づくりを夢みながらも、それらの困難さをますます痛感するところであったから、『大菩薩峠』の最終巻にたどり着いた時には、もうほとんど目からウロコとなったのだった。

 中里介山は「すべての人が、その領土に於いて、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠り、駒井甚三郎は海に拠り、竜之介は夢の中に生きている」と書く。そして、中里介山自身は何に拠ったのかと言えば、1922年に高尾山に開いた草庵、1930年に羽村に開いた西隣村塾といった彼自身の領土であった。それらは農業と教育を一体化した、自らが拠って立つ根拠地であった。松本健一氏は、それを「一定の土地において自給自足の生活をつづけることによって、現実社会のありようと括抗する、いわば-種のコミューン形成の開始である」「農本的アナキズム」(『中里介山』)と書いているが、実際に、1942年に日本文学報国会より評議委員に選出された際、それを拒否できたのは、食料を自給自足でき、印刷所まで持った自らのコミューンに拠りえたであればこそであっただろう。

 1939年に、短期のアメリカ旅行をしたことも気になるところであるが、中里介山が自らもコミューンに拠り、そこに近代日本への思いを託して、明治から昭和へと生きながらも、『大菩薩峠』では明治維新にいたることが出来なかったというのは、思いと現実の落差は、いくら書きつづけようと、埋めようも無かったということであったのだろうか。コミューンへの思いと挫折は、戦後も幾多にも繰り返されるのである。

 さて、島崎藤村の『夜明け前』は、如何であろうか。中里介山が、日本文学報国会の評議委員を拒否したことに比べれば、藤村は1935年に日本ペンクラブの初代会長に就任、1940年には帝国芸術院会員、1942年には日本文学報国会名誉会員にもなっているし、陸軍大臣東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にさえ参画している。謂わば、自他共に認める文豪であったのであろうが、1929年4月より『中央公論』に連載された『夜明け前』は、これを読むと、藤村が文豪であることを納得させられる。

 『大菩薩峠』においては、歴史上の出来事や人物はほぼ戯画化されて登場するが、『夜明け前』においては、ほぼそのものとして登場する。『大菩薩峠』においては、登場人物が漂白する場が舞台だが、『夜明け前』においては、メインの舞台は木曽路は馬籠の本陣でありながら、時代の趨勢はそこから的確にとらえられており、表現については、ハチャメチャなストーリーと、ですます調で文章の下手くそな中里介山に比べれば、藤村の写実と構成は圧倒的である。

 『夜明け前』は、藤村の父の島崎正樹をモデルにした小説である。主人公の青山半蔵は、木曽路は馬籠の本陣・問屋・庄屋であり、「古代の人に見るようなあの直ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい」(第1部上巻p131)と書いて、平田篤胤派の門下生となって、「暗い中世の否定」を教えられ、御一新=革命に心血を注ぐ。革命理論は、本居宣長~平田篤胤の国学であり、その心は「漢ごころをかなぐり捨てて、言挙げということも更になかった神ながらのいにしえの代に帰れ」、「自然に帰れ」ということであった。

 藤村も介山も、共に描こうとしたのは「明治御一新の理想と現実」(第2部下巻p120)であり、直接にそれを生み出した幕末を背景に筆をすすめた。そして、その落差を埋めようも無かった介山は、維新の前に駒井の殿様ほかを船に乗せて日本脱出を計り、南の島におけるユートピアづくりにとりかかったところで筆を置いたが、『夜明け前』第1部に維新までの幕末を書ききった藤村は、第1部を次の文章で終わらせる。

 「最早恵郡山へは幾度となく雪が来た。半蔵が家の西側の廊下からよく望まれる連峯の傾斜までが白く光るようになった。一ケ月以上も続いた「ええじゃないか」の賑かな声も沈まって行って見ると、この国未曾有の一大変革を恵わせるような六百年来の武家政治も漸くその終局を告げる時に近い。街道には旅人の往来もすくない、山家はすでに冬篭りだ。夜となれば殊にひっそりとして、大の番の拍子木の音のみが宿場の空にひびけて聞えた」(第1部下巻p362)
「冬の日は茶屋の内にも外にも満ちて来た。食後に半截らは茶屋の前にある翁塚のあたりを歩き廻った。踏みしめる草鞋の先は雪溶けの道に燃えて、歩き回れば歩き回るほど新しい歓びが湧いた。一切の変革はむしろ今後にあろうけれど、ともかくも今一度、神武の創造ヘ--遠い古代の出発点へ--その建て直しの日がやって来たことを考えたばかりでも、半蔵らの眼の前には、何となく雄大な気象が浮んだ。
 日頃忘れがたい先師の言葉として、篤胤の道者『静の岩屋』の中に見つけておいたものも、その時半蔵の胸に浮かんで来た。
 「一切は神の心であろうでござる。」(第1部下巻p369)

 その後、介山とちがって藤村は、維新以後へと筆をすすめる。「革命は近い。その考えが半蔵を休ませなかった」(第1部下巻p322)のだが、青山半蔵の願う御一新は成就するのかと言えば、しないのである。結論から言えば、半蔵は維新後に「筑摩県の官吏を相手にして、尾州藩の手を離れてからこのかた、今や木曾山を失おうとする地方の人民のために争えるだけ争うとして」(第2部上巻p369)、山林事件の結果、戸長の役を解かれる。また、国学は神仏分離をおしすすめるも、かえって衰える中、半蔵は寺に火をつけ、その結果、座敷牢に閉じ込められて狂死するのである。

 藤村は、幕末と明治維新を時代背景にしながら、父の生き様を物語となし、明治維新以来の日本の歴史を問おうとする。藤村が『夜明け前』を書き始めた1929年からの年月は、昭和恐慌から15年戦争へと日本が歩みだした時代でもあった。果たして、『夜明け前』は藤村なりの「近代の超克」なのかと思わぬこともないが、藤村は文学者らしく、そんなことは言わない。故郷である木曽路の写実は見事であり、馬籠に視点を置きながらも、優れた考証による時代の活写も見事である。『夜明け前』は、日本近代文学史上の傑作であるというのが、読後の感想であった。

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