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2007年1月14日 (日)

世界はつながっている

 さて、今回は「世界はつながっている」というテーマで、私がいかにして、そう思うにいたったかということを文芸評論的に書いてみる。

 この春で、私は会社勤めを辞めて満7年たつ。SOHO仕事とパート仕事、それに読書と遊びとNPOとで、ささやかに生きているのだが、会社勤めを辞めた直後の失業期間中は、働かずに本ばかり読んだ。辞めたら読もうと思っていた二葉亭四迷や夏目漱石などを再読したのだが、それらの本は、読み直した数だけ、新しい感慨を与えてくれる。失業当初、私は遊民みたいなものだと思って、代助になりきろうと漱石の『それから』を読み出せば、現実は、代助の友人で休職中の平岡であるにすぎないと知らされた。

Photo_6  二葉亭の『浮雲』は日本初の言文一致小説だが、再読すれば日本初のリストラ小説であることも分る。『浮雲』の主人公の文三は、「人減らしで免職」になってしまう。そして「たとえ今課長に依頼して復職ができたといっても、とても私のような者は永くは続きませんから、むしろ官員はモウ思い切ろうかと思います」と腹を決めてしまうのである。こうなると私には、それが明治十九年に書かれた小説だとはとても思えないし、再びわが身の立場を知らされた。

Photo_7  漱石の『それから』だって、代助の友人の平岡を中心に見てみれば、リストラ小説でもあった。平岡は自分の部下が会計に穴をあけ、支店長から因果を含められて、所決を促されて会社を辞め、代助に職を頼む。代助は兄に相談するのだが、兄は「そう云う人間は御免蒙る。のみならずこの不景気じゃ仕様がない」と言ってにべもない。
 私も、会社の同僚が横領をしたとばっちりで、関連会社に飛ばされて、やがて会社勤めを辞めたのだったが、このリアリティは何だ。漱石の時代は、日露戦争後の不景気の時代だが、一方で資本家は株や土地でもうけてもいる。日本の近代社会は、百年経っても少しも変わっていないではないかと知らされた。

 二葉亭四迷と夏目漱石は、同じく朝日新聞社に勤め、また本郷西片町に住むなり、お互い近くにいることがあったが、言葉を交わす機会は少なかったという。漱石が『我輩は猫である』、『草枕』と本格的に小説を書き出した明治39年に、二葉亭は『浮雲』以来20年ぶりの小説として『其面影』を書いた。それは『浮雲』の二番煎じだという世間の評判であったが、二葉亭の死後、その追悼文で漱石は『其面影』について、それが出版された時に買って読み「大いに感服した。ある意味から云えば、今でも感服している」と評した。

Photo_5  翌明治41年に朝日新聞のペテルブルグ特派員となってロシアに渡った二葉亭は、病み帰国の途上、明治42年6月10日にベンガル湾上で死んだ。二葉亭の遺骨は、同30日に新橋駅に着いた。そして『漱石日記』によれば、翌31日から漱石は『それから』を書き出したのだった。『それから』が、姦通小説であることは知られているが、漱石が『それから』という日本近代文学のメルクマールとなる作品のモチーフに姦通を選んだきっかけは、まさに『其面影』にあったのだと私は思った。

 二葉亭四迷は「終わりまで理想に憧れ通す人は沢山はいない」と「理想」に見切りをつけて、自らは実業や国家や社会改良に思いをいたし、満州に渡る。そして、家と生活に負けた『其面影』の主人公の哲也にも、小夜子の面影を抱いて満州を彷徨わせる。一方、夏目漱石は代助に、実業家である父と兄を馬鹿にして「自己本来の活動を、自己本来の目的として」生き、平岡から三千代を奪い、社会からはみ出していく道を選ばす。近代人としては、哲也の生き方よりも代助の生き方の方が、より明示的ではあるが、哲也と小夜子がいたからこそ、代助も宗助もまたありえたのであると私は思った。

41  会社勤めを辞める頃、ハルビン出身の中国人の友人の誘いで、ハルビンに行く機会があった。その頃、ある日図書館に行くと、関川夏央という作家の『二葉亭四迷の明治四十一年』(文芸春秋1996)という本があったので借りて読んだのだったが、「一九五五年の夏から秋にかけて、私は中国東北・黒龍江省ハルビンですごした」に始まる書き出しで、会社勤めを辞めて私がやりたいと思ったところは、その本の中で関川夏央氏によって、もう既に行われていたのであった。

 『二葉亭四迷の明治四十一年』に関川夏央氏は、こう書く。
 「『三四郎』を構想していた明治四十一年夏、日本人は誰もそれとは気づかぬままに近代の危険な岐路に立っていたのである。
 二葉亭四迷長谷川辰之助の、よろめきによろめきを、迷いに迷いを重ねた生涯に私は日本近代そのものを感じ、近代文人の生活と精神の遍歴を思った。・・・明治人としてではなく現代人として、見知らぬ偉人ではなくつきあいこそなかったが親しい友として、その生を懐かしくも傷ましくも思いながら彼の後半生を書こうとこころざした。
 その過程で、思想的激動の明治後半期二十年を遠い昔ではなく、あたかもいまのごとく感じ、また二葉亭とその周囲の文人たちをもいま生ける人のごとく思ってしまったのは、私がその時代と人に没入しすぎたためばかりではない。現代の利便と、それがもたらしたいたずらに虚ろな気配とを除けば近代と現代ではなんら選ぶところはない。つまり、歴史に戦後日本人が信じた「進歩」の概念など適用できないのではないかと看じたからでもある」と。

 その頃のある日、NHKテレビで、「漱石はなぜ東大教授をすてて小説家になったのか」というような番組をやっていて、見ていたら解説者に関川夏央氏が出てきた。見れば、私と同年輩の中年のオヤジでぼそぼそとしゃべり、その辺のスーパーで買ってきたようなジャケット姿であった。そして私は、私もそう生きたいと思ったのだった。

 そう生きたいと思ったというのは、別に作家になろうと思った訳ではない。私も、二葉亭四迷や夏目漱石の生きる世界に遊びたいと思った訳である。『二葉亭四迷の明治四十一年』は何度も読み返し、その都度、私は明治四十一年の文学世界に遊ぶことができる。
 そしてそのことは、単に読書の世界だけでなく、日常の世界でもありえた。私が会社勤めを辞めた頃から癌を患った母は、3年前に亡くなった。マザコンの私は、気が狂うかと思ったが、死を超える世界のあり方を了解できれば、それをしのぐこともできたのだった。

Photo_9  私は自分を文学青年であると思わぬこともないが、ある友人から「万年哲学青年」だと言われ、我ながら納得するところがあった。私にとって、昔から「文学と革命」という言葉は “魔語”であったし、文学にあこがれながらも、いつも世界の成り立ちと社会変革に惹きつけられていた。

 会社勤めを辞めた後の読書では、 二葉亭四迷と夏目漱石のほかに、フッサールとハイデッガーを読んだ。フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』からは、経験に先立つ「先験的領域」のあることを知り、ハイデッガーの『存在と時間』からは、表層の世界をあらしめる「無の世界」があることを知った。そしたら、それらはブランショの言う「文学空間」なり、ユングの言う無意識のさらに奥にある「普遍的無意識」に通底する世界であると思った。そして私は「世界はつながっているのだ・・・」と確信したのだった。

 そして、ブログを書き出すようになると、テーマを「コミューン論」としたものの、内容的には文芸評論的に書くことにしたのだった。

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