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2007年1月10日 (水)

脱労働力商品論と歴史の見方

 地球温暖化と高齢化が急速にすすむ21世紀、果たして、これから先の時代はどうなるのだろうか、団塊の世代の今後が話題になる昨今、新年に少し考えた。 現在の地球と社会は、環境破壊と戦争・テロと格差拡大という問題をかかえたまま、出口を見出せないでいる。
 アイヌやネイティブ・アメリカンもそうだが、未開人は、必要以上には獲らないことを不文律とし、国家も行政も税金もなしで、持続可能な生活を送ってきたという。これからの地球のためには、必要以上には稼がないというようなスタイルと、非営利のコミュニティ・ビジネスが必要なのではあるまいか。 そんなスタイルとコミュニティづくり、そんな本をつくるのが、ダルマ舎の今年の目標である。

 新年に、以上のような新年の計を立てた。1月に予定したDTP仕事がなくなってまったので、時間だけはあるから、つづきを少し考える。昨年来、大内先生とコミュニティ構想をやりとりしていて、キイワード的には、先のブログに対する大内先生のコメント「対抗戦略の提起は、労働力商品化の矛盾を、共同体幻想としての国家の組織化では処理できない現実から出発すべきでしょう。新しいコミュニティの復権、コミュニティ・ビジネスの具体化、アソシェーション構築」に表されている。要は、現状分析というよりは、現状への提言=対抗戦略の提起と言えるかもしれない。

 大内先生も言われるように、最近、柄谷行人氏や、現代のラスプーチンこと佐藤優氏らによる宇野経済学への言及が目立つ。同様に文学系マルクス派の吉本隆明氏は「マルクス紀行」に、「わたしは、〈マルクス〉主義者と自称しているじっさいは1910年代以後に発生した、マルクス思想のロシア的形態の信奉者のいうことを一貫して信用してこなかった。ただ、マルクス自身を必然的にそこへ強いていった歴史的現実の現存性ともいうべきものを信じているだけだ。なぜならば、それだけが個人の思想に時代を超えて生きさせるものを与えるなにかだからだ。そこでだけ個人としての人間の思想は、類としての思想につながる。ひとが思想的に生きるのは、いつも現存性と歴史性との交点の契機によってであり、〈信仰〉によっても、〈科学〉によっても生きるものではない」と書いているが、イデオロギーに依らない生き方からすれば、マルクスは相変わらずだし、社会主義の崩壊という現実も、さしたる衝撃ではない。

 では、「ひとが思想的に生きるのは、いつも現存性と歴史性との交点の契機によってである」とすれば、それはいかにして可能なのか。吉本隆明氏は、情況への発言をしつづけてきた思想家であるが、それが可能であったのは、彼が社会思想家というよりは、詩人であり批評家でもあったせいであろう。文学というのは、イデオロギーに依っては出来ない営為である。かつて有力な歴史観であった唯物史観は、生産力の発展を歴史の原動力であるとするものであるが、生産力の発展は歴史発展の一要因ではあっても、それによって歴史や人生が決められるわけではない。文学者というのは、そういうことをあたりまえのこととしている人であり、そうでなければ、詩や小説など書けない。

Photo_8  唯物史観は、マルクスとエンゲルスの共著である『ドイツ・イデオロギー』(1845-46)の中で示された、いわばイデオロギー的仮説なのである。これは、社会の基本的な矛盾は、生産力と生産関係の矛盾=生産力の私的所有による矛盾であるとする、いわゆる社会主義への所有論的アプローチと一体的に形成された。
 広松渉氏の研究によれば、『ドイツ・イデオロギー』はエンゲルスの筆跡で書かれており、これはマルクスの口述筆記というよりは、『ドイツ・イデオロギー』において唯物史観の展開そのものをリードしたのが、エンゲルスであったという。

Photo_10  マルクスが『経哲草稿』(1844)を書いていた頃、エンゲルスはすでに『国民経済学批判大綱』(1843-44)を書き、そこに以下のように展開していたと、広松渉氏は『マルクス主義の成立過程』(至誠堂1974)にこう書く。
 
「エンゲルスの近代社会批判の本諦は、より本質的である。それは資本制生産の無政府性に関わり、かつはまた「必然の王国から自由の王国へ」という人類史的な大転換に関わる。「私的所有が存立している限り、すでにみた通リ、一切が競争に帰着する」・・・ここにいう「競争」は広義の競争であって、経済機構の無政府性というほどの広い意味で用いられている。「競争の矛盾は私的所有そのものの矛盾とまったく同一である」、「私的所有は各人を孤立させ個別状態におとしいれる」・・・私的所有=競争の社会は、このような「必然の王国」である。近代社会が実践的に批判さるべき所以のものは、それがこの意味での「必然の王国」だという点に存するのである。
 ここにおいてエンゲルスは「類意識のない細分されたアトムとしてではなく、人間として意識的に生産せよ、そうすればこれらすべての人為的な維持しがたい対立を克服」できることを教え、今やそのような共同的、意識的な生産・配分の社会、一言でいえば「自由の王国」を実現しうべき時点に近づいていることを指摘する。『国民経済学批判大綱』では、このように、必然の王国から自由の王国へ、その可能性と必然性という視角から共産主義に基礎づけが与えられている」(p88-89)。
 「エンゲルスは、ドイツ・イデオロギーに対して、自己の積極的な見方を対置するという仕方で批判を試みるのであるが、ここに打出された積極的な見方こそが後に唯物史観と名付けられるものにほかならない」(p101)と。

 一方、広松渉氏は、『ドイツ・イデオロギー』におけるエンゲルスとマルクスのちがいについて、以下のように書く。
 
「エンゲルスは「有体的な諸個人」という出発点から社会関係を立論する際、かなり強引な議論を進めている。彼は家族という端初的な社会関係と男女間の分業を立論し、かつは「家族のうちに潜在的に存在する奴隷制」を媒介項として財産、ひいては「市民社会」に説き及んでいく。さなきだに分業という概念を階級すら分業の下に包摂されるほど広義に用い、この「分業」を行論の槓杵にしている。
 このような筋立てに対してマルクスが積極的に賛成だったのかどうか、手稿への書込みからは何とも云えない。しかし、・・・その後においても、分業の端初を共同体間分業に求め、これを介して私有財産と階級分化の歴史的成立を説く姿勢をもっていること--しかるにエンゲルスの方はその後も「内因論」の姿勢を崩していない--。これらの事情を思い併せるとき、果してマルクスが賛成であったかには多分に疑問の余地がある」(p103-104)と。

 そして、エンゲルスがリードする『ドイツ・イデオロギー』において、揶揄的に書かれている次の書き込みはマルクスのもであったという。
 
「共産主義社会では、・・・私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよいのである」。
 「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成さるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる」。
 う~ん、なるほど、といったところである。唯物史観からは、いわゆる「必然論」が出てきてしまうが、そうでないとすれば、共産主義とはマルクスの言うとおり、「べき状態、べき理想」ではない。

 ここから先のマルクスの展開は、この間のコメントの中で大内先生が展開されている『資本論』と「価値形態論」の話になっていく訳だが、そこは私はさておいて、では、「所有論的アプローチ → 唯物史観」に代わって、「脱労働力商品論的アプローチは、いかなる歴史の見方をするのか」というのが、私の問いである。(つづく)

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