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2007年1月22日 (月)

過去の現存①『アメリカ憲法の呪縛』

 12月に書いたブログ「岡部一明氏のコミュニティ論」に以下のように書いた。
 「(誰もが自治体を創れるアメリカとブッシュ政権に代表されるアメリカ)アメリカについてのこのアンビバレントな感覚は・・・アメリカという国の本質にかかわる事柄であるという気がする。それは、アメリカは「コミュニティと資本主義と国家」が純粋に生成した国であるからであると私は考えるのだが」と。

Photo_13  そこで、そのあたりを確認しようと、図書館からシェルドン・S・ウォリン著『アメリカ憲法の呪縛』(みすず書房2006.6)という本を借りてきた。「原題 The Presence of the Past(過去の現存)が示唆しているのは、テーマそのもの、すなわち、いかなる社会の現在も、その過去と密接不可分だということである」という魅力的な原題と内容である。
 私にとって、この本が示唆する興味深い点は、次の2点である。ひとつは、アメリカという国家の成立過程と、もうひとつは、国家が成立する以前のアメリカの社会の原点についてである。

 アメリカ革命は、フランス革命に先立つ近代市民革命であったが、革命としては、ヨーロッパにおける革命と同じようには人々の関心を引かないように思われる。それは、革命の結果うまれた国が、やがて資本主義のチャンピョンになって、世界中の革命の抑圧をしたせいかもしれない。
 しかし、だからといってアメリカを否定して、ヨーロッパに別のあり方を探せば何かが見つかるかと言えば、これまでのアメリカ嫌いの左翼的見方のままでは難しいだろうと思われる。元々アメリカは、近代ヨーロッパからの人々と思想によってつくられた新世界だから、良くも悪くも、アメリカという国の成立と歴史を見ておくのは、新しい社会のあり方を考える上では、重要なことだと思う訳である。

 「250年たらず前には、アメリカとは、まずは13の地方的社会、その散らばった町や村や入植地に代表される拡散した緒権力組織についての名称であった。それがいまや、全地球上に影響力を保持しつつ、同時にその権力を宇宙空間にも広げるべく苦闘している一大帝国体制を意味している。かつては、アメリカ経済は小所有者による分権的体制であったが、やがて巨大企業によって支配される体制になり・・・」(p6)とアメリカは変貌する訳だが、変貌のルーツは1789年に制定された憲法にあると、著者は言う。

 1776年に独立宣言をしたアメリカは、その後の独立戦争をへて、1787年に憲法を制定した。世界で初めて三権分立をうたった「実際には以前にはなにも存在していなかったところに、中央政府、国民国家の諸制度の体系を打ち立てようとした、ラディカルな━革命的ですらある━戦略の所産」(p114)の憲法ではったが、その成立までには「フェデラリスト(連邦主義者)」と「アンチ=フェデラリスト」との対立があったという。
 中央集権を説くフェデラリストに対して、地方自治への圧制を恐れたのがアンチ=フェデラリストであったが、著者はここにアメリカにおける政治対立の原型をみる。

 著者は、この対立をヨーロッパの近代思想家でいえば、デカルトとモンテスキューの違いに見る。デカルト的言説について、著者は以下のように書く。
 
「フィラデルフィアで起草され、その後に『ザ・フェデラリスト』の著者たちによって権威的な解釈をあたえられた憲法・・・には理性の原理によって憲法を立案し、科学の権威に訴えることによって憲法を正当化しようとする自覚的な企図が示されている」(p134)「理解可能性とは透明さと同義であった。なにごとかが理解されるためには、その事物は明確にされ、神話や迷信や宗数的寓話の装いがその事物からはぎ取られ、結果として、その事物のはたらきやその結果が目に見えるものにならねばならなかった。それをおこなうのが理性の役目であった。このような理性概念は、デカルト的と呼ぶことができる。この理性概念は、以下のようなデカルトの確信を表わしている。つまり、それらは真理と明晰さとは不可分であるとの信念、真理の模範は推論の数学的様式のなかにもっともよく示されているとの信念、さらに慣習と伝統とはせいぜい一時しのぎの解決にすぎず、合理的な原理によって取って代わられるのが理想であるとの信念である」(p135)。

 一方、モンテスキュー的言説については、著者は以下のように書く。
 
「以上のような考え方に対するモンテスキューの反目は、人間、社会、世界についての一元的な観念への根深い不信からきている」(p137)。「モンテスキューにとって立憲主義とは、権力および権力の任意的行使に対する歯止め以上のものを意味していた。立憲主義は、差異がもたらす計画されざるできごとの重なり合いによって権力を飼い慣らすこと、すなわち人類と呼ばれる複雑な存在が数世紀にわたって依拠して(あるいは服従して)きた、いくつかの適応の様式によって権力を調節することを意味した。これらの適応の様式にふくまれるものには、物理的条件(天候、土壌など)、法律、宗教、道徳律、慣習上の規範および慣行、商業や農業などの経済的行為様式、そしてほかでもない習俗あるいは「適応の習慣」と呼ばれるものがある。人びとが「社会」と呼ぶものは、歴史上のもろもろの調和と適応の所産、つまり時と慣習とによって巧みな仕方で洗練され、つくりあげられてきた無数の行為の所産である、一連の関係や相互関係で成り立っている」(p140)。

 フェデラリストとアンチフェデラリストとの対立は、いわば、合理主義的言説と土着の言説との対立とも言えるが、「憲法起草者たちがフィラデルフィアでなした作業の結果は、アメリカをして巨大な中央集権への道、経済活動の発展における戦略的役割を国家にあたえる道・・へと、アメリカをも乗り出させるものであった」(p6)という。

 「価値形態論」について書いた私のブログで、資本主義における国家の役割について、大内先生から以下のにコメントをいただいた。
 
「近代国民国家の役割もまた、資本主義の発展とともに変化した。当初は絶対主義の権力で、重金主義・重商主義の経済政策だったが、産業革命で資本主義が確立すれば、法治国家による自由主義に変わる。それが金融資本の発展により、行政・官僚国家による帝国主義の政策と世界市場のブロック化をもたらした。帝国主義戦争ですが、それが20世紀軍事国家の国民総動員による組織化とセットになって、福祉国家の完全雇用政策の登場となった。
 労働力商品化の矛盾は、その創出過程においてまず、原蓄のための国家の権力行使が必要だった。しかし、資本による自立的な労働力の再生産の機構、つまり資本の周期的恐慌を通しての労働力の吸収・反発が劣化するとともに、20世紀再出動が要請される。福祉国家という国家独占資本主義による体制の組織化です。この国家による体制の組織化は、世界戦争の熱戦、東西世界対立の冷戦、つまり熱・冷戦体制の軍事国家と一体化して行われた点が重要です」と。

 トクヴィルの見た19世紀前半のアメリカは、国家による行政よりも早く西へと拡大して行く、まだ牧歌的なアメリカであったが、南北戦争を契機に、アメリカは国家と資本主義が一体となった展開を始め、さらに20世紀に入るとアメリカは、現在にいたる「帝国」への道を歩み始める。本書にはこうある。
 「
南北戦争以降、周期的な経済恐慌と二つの世界大戦間の社会の総動員が中央集権化への推進力を促進し、国家はその推進力に肋けられてたえず成長し、ついにはわれわれの時代では一見したところだれにも妨げられることなく政治および社会の生活条件を規定しうる権力主体となっている」「アメリカの国家も、地方政治への参加の実践、地方文化、そしてそれらの形態によって育まれた多元主義と多様性に対して破壊的であった。もちろん、主として国家の行動は発展しつつあった企業経済のニーズに応じてのものであった。そこで目標とされたのは国内市場、予測可能な消費者、最低限の教育を受けた労働力などであり、そのために地方的差異は反近代的、反進歩的であるかのように思われた」(p104)。「ニューディールの進展が意味したのは、新たな権力の複合体―つまり規制、福祉、帝国という三つの別個な構成要素を結合する権力複合体―が、徐々に形づくられていったことである。・・・第二次大戦は、世界の列強に抗して国際経済の場でのアメリカの覇権の探求の始まりを画するできごとであった。爾来アメリカ社会は、自由世界を護り、共産主義と闘うという特別の使命をみずからもつと考えるよう奨励され、それゆえにみずからのアイデンティティのなかに、経済とテクノロジーの至上命令――つまり、世界における政治的支配権が要請する国家目標――を組み入れざるをえなくなった。・・・この新しい国家の権力機構は、領土の占領や奪取に依拠するよりもむしろ、アメリカの資本、生産力、テクノロジー、伝播力のある豊かさの文化などの浸透力に依存していた」(p26-27)と。
 アメリカが独立宣言した1776年に出版された『国富論』の中で、アダム・スミスはアメリカの可能性を高く評価し、マルクスが『資本論』を書き上げた時代のイギリス社会を自らの生産物の輸出先として発展したアメリカは、その後も、資本主義を絵に描いたように発展した訳である。そして、広大な国土を開拓、管理するためにアメリカの憲法に書き込まれた「普遍的理念」こそが、近年のアメリカグローバリゼーションのルーツでもあった訳である。

 20世紀に入って、第1次世界大戦を体験したヨーロッパは、「西洋の没落」を自覚する中で、自らが生み出した近代合理主義思想を疑いだし、やがてポスト・モダンへとつながっていく思想的営為を始める。
 一方、ハイデッガーやサルトルの思想などは歯牙にもかけないプラグマチズムのアメリカは、ヨーロッパが放棄した近代合理主義思想、自由主義と民主主義と人権を世界中に押し広めることを自らの使命として、市場経済のグローバル化と併せて推進している。
 『アメリカ憲法の呪縛』は、そのルーツをアメリカ憲法にあるとする訳だが、原題を「過去の現存」というように、ここでも歴史は連鎖していることが分かるのである。(つづく)

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