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2007年1月30日 (火)

(前ブログの補足)経済政体システム

 『アメリカ憲法の呪縛』は、1980年代のレーガン政権の頃に書かれた論文集だという。その中でレーガン政権の特質を書いた「集合体のアイデンティティと立憲的権力」から、以下のノートをしておきたい。これらは、ポスト工業化社会における権力の在り方や、非営利組織の考え方について、とても示唆的である。

 「資本主義は、不断の技術革新を要請する国際競争の猛烈な要求に強いられて、結局は社会的に不安定な帰結をもたらし、みずから恐れる不安定性そのものを助長するような方策に依拠せざるをえなくなる。工場は閉鎖され、国外移転がおこなわれ、労働者たちはみずからのルーツを引き技かれ、労働市場の指令にしたがうことを余儀なくされる。経済的「勢力」のもたらす害毒を抑制する種々のプログラムヘの社会的支出は、資本の蓄積を危険に陥れることのないようにと削減される。こうして、競争という緊急事態によって、仕事、技能、場所という定着したアイデンティティ、および家庭、近隣という伝統的諸価値は、ずたずたに切り裂かれる。これらは、通常の場合、集合体のアイデンティティならびに究極的には国家権力それ自体を背後にあって支える文化の中枢をなす諸契機である」。
 日本や韓国、やがては中国と、アジア諸国の工業化によって空洞化のすすんだ80年代のアメリカでは、レーガン大統領が登場して復古主義と自由化、規制緩和、民間委託化をすすめる訳だが、これは「勝ち組」と「負け組」への分化だけでなく、それに対抗的な「仕事、技能、場所という定着したアイデンティティ、および家庭、近隣という伝統的諸価値」を破壊してすすめられる訳である。

 「前述のいくつかの展開は、アメリカの自己理解の中心に位置する二つの相反する神話にも反映されている。一つ目の神話は過去に確証を求めるのに対して、二つ目の神話は未来に希望を託す。第一はファンダメンタリズム(根本主義ないし原理主義)の神話であり、自由な企業運営のシステムを回復させ、建国の父祖たちが抱いた意図、そして制限的な統治権力にかかわる最初の憲法の意図を復権させ、宗数的信仰を復興させようとする。・・・
 仮りに第一番目の神話が旧時代的、復古主義的であるとしたならば、いま一つの神話は未来主義的であり、また革新的である。くり返しみられる一連のテクノロジー革命の興奮の渦に巻きこまれてしまったこの第二の神話によれば、アメリカの支配権を維持していく唯一の道は、科学の優位性を保持することに献身する社会、みずから急激に変化できる適応力をもった社会になることである(p21)。
 「(擬似伝統主義が)レーガン主義のイデオロギー的中枢に位置する二元論のなかに具現化されているものである。復古主義は明白な進歩主義と一対になっており、この点こそ、レーガン主義の保守主義と他のほとんどの保守主義的諸傾向とを画するものだ」(p28-30)。
 「復古主義と進歩主義」とが一対になっているというのは、前に19世紀末から20世紀初頭のエドワード・ベラミーの『かえりみれば』や、IWWを中心としたアメリカの労働運動についてのブログを書いた時にも、その特質としてふれたが、これはアメリカの保守についても同様であることが分かる。

 「レーガン大統領のレトリックがつくりだす印象とはべつに、レーガン政権の歴史的重要性は、国民に権力を返還することや中央集権的・官僚制的権力の規模縮小をはかることにあるのではなく、国家権力の持続的な近代化と強化にある。そのヴィジョンは、ジェファソン主義的なものではなく、経営管理主義的なものである。それは、「より無駄がなく、より注意ぶかく焦点を絞っていく連邦政府の役割」にかかわるヴィジョンであり、「より無駄がなく、より効果的な連邦政府の構造」にかかわるヴィジョンである。・・・社会プログラムを縮減させようとする政権の努力は、国家を、経営管理する側の統御しやすく扱いやすいものとする努力によって、国家を強化しようとする試みであったことがわかる。その意味するものはかならずしも偽善ではなく、むしろそれよりはるかに重大なことである。それは、いわゆる公的セクターと私的セクターとの境界線を根本的に変更しようとするレーガン主義の公然たる目的のなかにすでに示されていた」(p30-31)。
 「1980年代になると、これらの比喩的な境界線が再転換される徴候が見えはじめてくる。その主たる原動力のーつとなったのはレーガンの「任意主義」(voluntarism)のイデオロギーであったが、それはこれまでは公的領域の専有権ないし主として公的機能とみなされてきた種々の社会的サービスを、私的セクターが引き受けることを奨励する施策であった」(p32)。
 アメリカでは80年代をつうじて、NPOやネットワーキングやパソコン通信は広まった。これらは、60年代に興隆した対抗文化運動の再生とも言えるが、一方では、上記のような側面もある訳である。

 「合衆国に生まれつつあるのは、新しい形態の権力の全体化である。そこには、国家がみずからの機能を市民社会の代表者に請け負わせることによって、国家支配の実態をあいまいにしながらも、同時に社会の規律的手続きを引き締めていく仕組みがみられる。この新しい形態は「国家」あるいは「プロレタリア階級の独裁」という仕方で表わされるのではなく、「システム」として示される。このシステムのもつ全体性への傾向に注意を喚起するために、わたしはそれを「経済政体システム」(the system of the Economic Polity)と呼びたい」(p35)。
 民営化しながらの再統合、これはポスト工業化社会におけるソフトな支配の仕組みとも言えるし、マル経的にはポスト国家独占主義段階の資本主義のあり方とも言えるだろう。また、80年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を豪語したものの、その後のアメリカの「経済政体システム」によるグローバリゼーションの仕掛けと、韓国や中国の追い上げによって、80年代のアメリカ同様の経済不況に陥った日本で、その後、ブッシュの盟友の小泉政権がとった政治のモデルであり、現在の安部政権もより復古主義にシフトさせながら、これを踏襲しているといえる。

 果たしてこの先、現在は追い上げている中国なども、同様になるのだろうか。これからは「科学の優位性の保持」やソフト開発競争が永遠につづくのだろうか。資本主義と地球温暖化もつづくのだろうか。
 しかし、それへ対抗するものが、「仕事、技能、場所という定着したアイデンティティ、および家庭、近隣という伝統的諸価値」、いわばコミュニティにあるということも分かる訳である。

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2007年1月22日 (月)

過去の現存①『アメリカ憲法の呪縛』

 12月に書いたブログ「岡部一明氏のコミュニティ論」に以下のように書いた。
 「(誰もが自治体を創れるアメリカとブッシュ政権に代表されるアメリカ)アメリカについてのこのアンビバレントな感覚は・・・アメリカという国の本質にかかわる事柄であるという気がする。それは、アメリカは「コミュニティと資本主義と国家」が純粋に生成した国であるからであると私は考えるのだが」と。

Photo_13  そこで、そのあたりを確認しようと、図書館からシェルドン・S・ウォリン著『アメリカ憲法の呪縛』(みすず書房2006.6)という本を借りてきた。「原題 The Presence of the Past(過去の現存)が示唆しているのは、テーマそのもの、すなわち、いかなる社会の現在も、その過去と密接不可分だということである」という魅力的な原題と内容である。
 私にとって、この本が示唆する興味深い点は、次の2点である。ひとつは、アメリカという国家の成立過程と、もうひとつは、国家が成立する以前のアメリカの社会の原点についてである。

 アメリカ革命は、フランス革命に先立つ近代市民革命であったが、革命としては、ヨーロッパにおける革命と同じようには人々の関心を引かないように思われる。それは、革命の結果うまれた国が、やがて資本主義のチャンピョンになって、世界中の革命の抑圧をしたせいかもしれない。
 しかし、だからといってアメリカを否定して、ヨーロッパに別のあり方を探せば何かが見つかるかと言えば、これまでのアメリカ嫌いの左翼的見方のままでは難しいだろうと思われる。元々アメリカは、近代ヨーロッパからの人々と思想によってつくられた新世界だから、良くも悪くも、アメリカという国の成立と歴史を見ておくのは、新しい社会のあり方を考える上では、重要なことだと思う訳である。

 「250年たらず前には、アメリカとは、まずは13の地方的社会、その散らばった町や村や入植地に代表される拡散した緒権力組織についての名称であった。それがいまや、全地球上に影響力を保持しつつ、同時にその権力を宇宙空間にも広げるべく苦闘している一大帝国体制を意味している。かつては、アメリカ経済は小所有者による分権的体制であったが、やがて巨大企業によって支配される体制になり・・・」(p6)とアメリカは変貌する訳だが、変貌のルーツは1789年に制定された憲法にあると、著者は言う。

 1776年に独立宣言をしたアメリカは、その後の独立戦争をへて、1787年に憲法を制定した。世界で初めて三権分立をうたった「実際には以前にはなにも存在していなかったところに、中央政府、国民国家の諸制度の体系を打ち立てようとした、ラディカルな━革命的ですらある━戦略の所産」(p114)の憲法ではったが、その成立までには「フェデラリスト(連邦主義者)」と「アンチ=フェデラリスト」との対立があったという。
 中央集権を説くフェデラリストに対して、地方自治への圧制を恐れたのがアンチ=フェデラリストであったが、著者はここにアメリカにおける政治対立の原型をみる。

 著者は、この対立をヨーロッパの近代思想家でいえば、デカルトとモンテスキューの違いに見る。デカルト的言説について、著者は以下のように書く。
 
「フィラデルフィアで起草され、その後に『ザ・フェデラリスト』の著者たちによって権威的な解釈をあたえられた憲法・・・には理性の原理によって憲法を立案し、科学の権威に訴えることによって憲法を正当化しようとする自覚的な企図が示されている」(p134)「理解可能性とは透明さと同義であった。なにごとかが理解されるためには、その事物は明確にされ、神話や迷信や宗数的寓話の装いがその事物からはぎ取られ、結果として、その事物のはたらきやその結果が目に見えるものにならねばならなかった。それをおこなうのが理性の役目であった。このような理性概念は、デカルト的と呼ぶことができる。この理性概念は、以下のようなデカルトの確信を表わしている。つまり、それらは真理と明晰さとは不可分であるとの信念、真理の模範は推論の数学的様式のなかにもっともよく示されているとの信念、さらに慣習と伝統とはせいぜい一時しのぎの解決にすぎず、合理的な原理によって取って代わられるのが理想であるとの信念である」(p135)。

 一方、モンテスキュー的言説については、著者は以下のように書く。
 
「以上のような考え方に対するモンテスキューの反目は、人間、社会、世界についての一元的な観念への根深い不信からきている」(p137)。「モンテスキューにとって立憲主義とは、権力および権力の任意的行使に対する歯止め以上のものを意味していた。立憲主義は、差異がもたらす計画されざるできごとの重なり合いによって権力を飼い慣らすこと、すなわち人類と呼ばれる複雑な存在が数世紀にわたって依拠して(あるいは服従して)きた、いくつかの適応の様式によって権力を調節することを意味した。これらの適応の様式にふくまれるものには、物理的条件(天候、土壌など)、法律、宗教、道徳律、慣習上の規範および慣行、商業や農業などの経済的行為様式、そしてほかでもない習俗あるいは「適応の習慣」と呼ばれるものがある。人びとが「社会」と呼ぶものは、歴史上のもろもろの調和と適応の所産、つまり時と慣習とによって巧みな仕方で洗練され、つくりあげられてきた無数の行為の所産である、一連の関係や相互関係で成り立っている」(p140)。

 フェデラリストとアンチフェデラリストとの対立は、いわば、合理主義的言説と土着の言説との対立とも言えるが、「憲法起草者たちがフィラデルフィアでなした作業の結果は、アメリカをして巨大な中央集権への道、経済活動の発展における戦略的役割を国家にあたえる道・・へと、アメリカをも乗り出させるものであった」(p6)という。

 「価値形態論」について書いた私のブログで、資本主義における国家の役割について、大内先生から以下のにコメントをいただいた。
 
「近代国民国家の役割もまた、資本主義の発展とともに変化した。当初は絶対主義の権力で、重金主義・重商主義の経済政策だったが、産業革命で資本主義が確立すれば、法治国家による自由主義に変わる。それが金融資本の発展により、行政・官僚国家による帝国主義の政策と世界市場のブロック化をもたらした。帝国主義戦争ですが、それが20世紀軍事国家の国民総動員による組織化とセットになって、福祉国家の完全雇用政策の登場となった。
 労働力商品化の矛盾は、その創出過程においてまず、原蓄のための国家の権力行使が必要だった。しかし、資本による自立的な労働力の再生産の機構、つまり資本の周期的恐慌を通しての労働力の吸収・反発が劣化するとともに、20世紀再出動が要請される。福祉国家という国家独占資本主義による体制の組織化です。この国家による体制の組織化は、世界戦争の熱戦、東西世界対立の冷戦、つまり熱・冷戦体制の軍事国家と一体化して行われた点が重要です」と。

 トクヴィルの見た19世紀前半のアメリカは、国家による行政よりも早く西へと拡大して行く、まだ牧歌的なアメリカであったが、南北戦争を契機に、アメリカは国家と資本主義が一体となった展開を始め、さらに20世紀に入るとアメリカは、現在にいたる「帝国」への道を歩み始める。本書にはこうある。
 「
南北戦争以降、周期的な経済恐慌と二つの世界大戦間の社会の総動員が中央集権化への推進力を促進し、国家はその推進力に肋けられてたえず成長し、ついにはわれわれの時代では一見したところだれにも妨げられることなく政治および社会の生活条件を規定しうる権力主体となっている」「アメリカの国家も、地方政治への参加の実践、地方文化、そしてそれらの形態によって育まれた多元主義と多様性に対して破壊的であった。もちろん、主として国家の行動は発展しつつあった企業経済のニーズに応じてのものであった。そこで目標とされたのは国内市場、予測可能な消費者、最低限の教育を受けた労働力などであり、そのために地方的差異は反近代的、反進歩的であるかのように思われた」(p104)。「ニューディールの進展が意味したのは、新たな権力の複合体―つまり規制、福祉、帝国という三つの別個な構成要素を結合する権力複合体―が、徐々に形づくられていったことである。・・・第二次大戦は、世界の列強に抗して国際経済の場でのアメリカの覇権の探求の始まりを画するできごとであった。爾来アメリカ社会は、自由世界を護り、共産主義と闘うという特別の使命をみずからもつと考えるよう奨励され、それゆえにみずからのアイデンティティのなかに、経済とテクノロジーの至上命令――つまり、世界における政治的支配権が要請する国家目標――を組み入れざるをえなくなった。・・・この新しい国家の権力機構は、領土の占領や奪取に依拠するよりもむしろ、アメリカの資本、生産力、テクノロジー、伝播力のある豊かさの文化などの浸透力に依存していた」(p26-27)と。
 アメリカが独立宣言した1776年に出版された『国富論』の中で、アダム・スミスはアメリカの可能性を高く評価し、マルクスが『資本論』を書き上げた時代のイギリス社会を自らの生産物の輸出先として発展したアメリカは、その後も、資本主義を絵に描いたように発展した訳である。そして、広大な国土を開拓、管理するためにアメリカの憲法に書き込まれた「普遍的理念」こそが、近年のアメリカグローバリゼーションのルーツでもあった訳である。

 20世紀に入って、第1次世界大戦を体験したヨーロッパは、「西洋の没落」を自覚する中で、自らが生み出した近代合理主義思想を疑いだし、やがてポスト・モダンへとつながっていく思想的営為を始める。
 一方、ハイデッガーやサルトルの思想などは歯牙にもかけないプラグマチズムのアメリカは、ヨーロッパが放棄した近代合理主義思想、自由主義と民主主義と人権を世界中に押し広めることを自らの使命として、市場経済のグローバル化と併せて推進している。
 『アメリカ憲法の呪縛』は、そのルーツをアメリカ憲法にあるとする訳だが、原題を「過去の現存」というように、ここでも歴史は連鎖していることが分かるのである。(つづく)

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2007年1月14日 (日)

世界はつながっている

 さて、今回は「世界はつながっている」というテーマで、私がいかにして、そう思うにいたったかということを文芸評論的に書いてみる。

 この春で、私は会社勤めを辞めて満7年たつ。SOHO仕事とパート仕事、それに読書と遊びとNPOとで、ささやかに生きているのだが、会社勤めを辞めた直後の失業期間中は、働かずに本ばかり読んだ。辞めたら読もうと思っていた二葉亭四迷や夏目漱石などを再読したのだが、それらの本は、読み直した数だけ、新しい感慨を与えてくれる。失業当初、私は遊民みたいなものだと思って、代助になりきろうと漱石の『それから』を読み出せば、現実は、代助の友人で休職中の平岡であるにすぎないと知らされた。

Photo_6  二葉亭の『浮雲』は日本初の言文一致小説だが、再読すれば日本初のリストラ小説であることも分る。『浮雲』の主人公の文三は、「人減らしで免職」になってしまう。そして「たとえ今課長に依頼して復職ができたといっても、とても私のような者は永くは続きませんから、むしろ官員はモウ思い切ろうかと思います」と腹を決めてしまうのである。こうなると私には、それが明治十九年に書かれた小説だとはとても思えないし、再びわが身の立場を知らされた。

Photo_7  漱石の『それから』だって、代助の友人の平岡を中心に見てみれば、リストラ小説でもあった。平岡は自分の部下が会計に穴をあけ、支店長から因果を含められて、所決を促されて会社を辞め、代助に職を頼む。代助は兄に相談するのだが、兄は「そう云う人間は御免蒙る。のみならずこの不景気じゃ仕様がない」と言ってにべもない。
 私も、会社の同僚が横領をしたとばっちりで、関連会社に飛ばされて、やがて会社勤めを辞めたのだったが、このリアリティは何だ。漱石の時代は、日露戦争後の不景気の時代だが、一方で資本家は株や土地でもうけてもいる。日本の近代社会は、百年経っても少しも変わっていないではないかと知らされた。

 二葉亭四迷と夏目漱石は、同じく朝日新聞社に勤め、また本郷西片町に住むなり、お互い近くにいることがあったが、言葉を交わす機会は少なかったという。漱石が『我輩は猫である』、『草枕』と本格的に小説を書き出した明治39年に、二葉亭は『浮雲』以来20年ぶりの小説として『其面影』を書いた。それは『浮雲』の二番煎じだという世間の評判であったが、二葉亭の死後、その追悼文で漱石は『其面影』について、それが出版された時に買って読み「大いに感服した。ある意味から云えば、今でも感服している」と評した。

Photo_5  翌明治41年に朝日新聞のペテルブルグ特派員となってロシアに渡った二葉亭は、病み帰国の途上、明治42年6月10日にベンガル湾上で死んだ。二葉亭の遺骨は、同30日に新橋駅に着いた。そして『漱石日記』によれば、翌31日から漱石は『それから』を書き出したのだった。『それから』が、姦通小説であることは知られているが、漱石が『それから』という日本近代文学のメルクマールとなる作品のモチーフに姦通を選んだきっかけは、まさに『其面影』にあったのだと私は思った。

 二葉亭四迷は「終わりまで理想に憧れ通す人は沢山はいない」と「理想」に見切りをつけて、自らは実業や国家や社会改良に思いをいたし、満州に渡る。そして、家と生活に負けた『其面影』の主人公の哲也にも、小夜子の面影を抱いて満州を彷徨わせる。一方、夏目漱石は代助に、実業家である父と兄を馬鹿にして「自己本来の活動を、自己本来の目的として」生き、平岡から三千代を奪い、社会からはみ出していく道を選ばす。近代人としては、哲也の生き方よりも代助の生き方の方が、より明示的ではあるが、哲也と小夜子がいたからこそ、代助も宗助もまたありえたのであると私は思った。

41  会社勤めを辞める頃、ハルビン出身の中国人の友人の誘いで、ハルビンに行く機会があった。その頃、ある日図書館に行くと、関川夏央という作家の『二葉亭四迷の明治四十一年』(文芸春秋1996)という本があったので借りて読んだのだったが、「一九五五年の夏から秋にかけて、私は中国東北・黒龍江省ハルビンですごした」に始まる書き出しで、会社勤めを辞めて私がやりたいと思ったところは、その本の中で関川夏央氏によって、もう既に行われていたのであった。

 『二葉亭四迷の明治四十一年』に関川夏央氏は、こう書く。
 「『三四郎』を構想していた明治四十一年夏、日本人は誰もそれとは気づかぬままに近代の危険な岐路に立っていたのである。
 二葉亭四迷長谷川辰之助の、よろめきによろめきを、迷いに迷いを重ねた生涯に私は日本近代そのものを感じ、近代文人の生活と精神の遍歴を思った。・・・明治人としてではなく現代人として、見知らぬ偉人ではなくつきあいこそなかったが親しい友として、その生を懐かしくも傷ましくも思いながら彼の後半生を書こうとこころざした。
 その過程で、思想的激動の明治後半期二十年を遠い昔ではなく、あたかもいまのごとく感じ、また二葉亭とその周囲の文人たちをもいま生ける人のごとく思ってしまったのは、私がその時代と人に没入しすぎたためばかりではない。現代の利便と、それがもたらしたいたずらに虚ろな気配とを除けば近代と現代ではなんら選ぶところはない。つまり、歴史に戦後日本人が信じた「進歩」の概念など適用できないのではないかと看じたからでもある」と。

 その頃のある日、NHKテレビで、「漱石はなぜ東大教授をすてて小説家になったのか」というような番組をやっていて、見ていたら解説者に関川夏央氏が出てきた。見れば、私と同年輩の中年のオヤジでぼそぼそとしゃべり、その辺のスーパーで買ってきたようなジャケット姿であった。そして私は、私もそう生きたいと思ったのだった。

 そう生きたいと思ったというのは、別に作家になろうと思った訳ではない。私も、二葉亭四迷や夏目漱石の生きる世界に遊びたいと思った訳である。『二葉亭四迷の明治四十一年』は何度も読み返し、その都度、私は明治四十一年の文学世界に遊ぶことができる。
 そしてそのことは、単に読書の世界だけでなく、日常の世界でもありえた。私が会社勤めを辞めた頃から癌を患った母は、3年前に亡くなった。マザコンの私は、気が狂うかと思ったが、死を超える世界のあり方を了解できれば、それをしのぐこともできたのだった。

Photo_9  私は自分を文学青年であると思わぬこともないが、ある友人から「万年哲学青年」だと言われ、我ながら納得するところがあった。私にとって、昔から「文学と革命」という言葉は “魔語”であったし、文学にあこがれながらも、いつも世界の成り立ちと社会変革に惹きつけられていた。

 会社勤めを辞めた後の読書では、 二葉亭四迷と夏目漱石のほかに、フッサールとハイデッガーを読んだ。フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』からは、経験に先立つ「先験的領域」のあることを知り、ハイデッガーの『存在と時間』からは、表層の世界をあらしめる「無の世界」があることを知った。そしたら、それらはブランショの言う「文学空間」なり、ユングの言う無意識のさらに奥にある「普遍的無意識」に通底する世界であると思った。そして私は「世界はつながっているのだ・・・」と確信したのだった。

 そして、ブログを書き出すようになると、テーマを「コミューン論」としたものの、内容的には文芸評論的に書くことにしたのだった。

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2007年1月13日 (土)

歴史は連鎖する

 柄谷行人氏が『世界共和国へ』を解説したインタビュー(「文学界」06年8月号)の冒頭で宇野経済学にふれ、「宇野の『資本論』の理解はユニークで、大方のマルクス主義者からは非難されていました。たとえば、宇野は、史的唯物論はイデオロギーであるが、『資本論』は“科学”であると言っていました」「宇野弘蔵は学生に何も政治的なことをいわなかった。君たちは何をやってもよい、しかし、君たちがどう考えようと、資本制経済の原理は貫徹される、といいたかったのだと思います」と言っている。

Photo_3  実際、宇野弘蔵氏は『「資本論」と社会主義』(岩波書店1958)で、Q君に答えるかたちで、「僕には、唯物史観に所謂上部構造と学問的研究の成果としての学説とは別個のものだとしか考えられません」「そういう点で僕は非常に簡単に学問の成果を全く客観的真理の把捉にあると考えています」(p117-119)と書いている。

 このあたりが、「正統派」の大方のマルクス主義者から、「国家論がない」とか「階級性がない」とか言われて訳も分からず非難された所以であったのだろうが、これは、先に書いた吉本隆明氏の「わたしは、〈マルクス〉主義者と自称しているじっさいは1910年代以後に発生した、マルクス思想のロシア的形態の信奉者のいうことを一貫して信用してこなかった」(「マルクス紀行」1964)にもつながっている。

 吉本隆明氏の『共同幻想論』(河出書房1968)は、正統派マルクス主義の国家論、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』におけるモルガン流の国家の起源に対して、「自己幻想-対幻想-共同幻想」のシェーマを提起した、いわば国家論なのだが、柄谷氏の「資本=ネーション=国家」という国家論は、宇野弘蔵氏や吉本隆明氏の論を踏襲して発想されているのではないかと、私には思える。これは、だからいけないというのではなくて、それでいいのだ、論や歴史の継承とはそういうものなのだ、ということである。

 日本のマルクス主義は、60年安保を経て、「正統派」を批判する新左翼が多数登場し、新左翼は、新たに編纂された『ドイデ』を読み直したりもしたが、唯物史観の信奉と社会主義への所有論的アプローチは相も変わらず、結局、ソ連がこけ、イデオロギーによる呪縛がとけたら、みな胡散霧散してしまった。

Ouchi3  一昨年、大内先生は、かつて書かれた『価値論の形成』の続編にあたる『恐慌論の形成』(日本評論社2005年7月20日)を出版された。40年ぶりの続編であるが、ここで言わんとしていることも、師の宇野弘蔵氏と同様に、「資本制経済の原理は貫徹される」ということである。師の宇野弘蔵氏が、たとえマルクスが『ドイッチェ・イデオロギー』で唯物史観を展開しようと「上部構造と学問的研究の成果としての学説とは別個のもの」としたように、大内先生は、ソ連の崩壊、マル経の低迷なんのその、「恐慌論の復権」を提起されたのだった。

Photo_4  『恐慌論の形成』が出たのとちょうど同じ頃に、山室信一著『日露戦争の世紀』(岩波書店2005年7月30日)という本が出て、新聞の書評に次のようにあったので、惹かれて読んでみた。
 「ロシア軍による虐殺事件を題材に作られた旧制一高の寮歌「アムール何の流血や」のメロディーが、メーデー歌「聞け万国の労働者」や軍歌「歩兵の本領」、学生運動の「暁民の歌」に使われたこと。・・・意外な「連鎖」から、歴史が新たな顔を見せる」と。

 そして、その本文には、以下のようにあった。
 「近代日本の歴史的位相をグローバルな視野のなかで捉えていくためには、欧米やアジアさらにはアフリカなどと日本が実際にどう繋がっていったのか、またどう切れていったのか、を見きわめていくための視点が不可欠なように思われます。それを本書では、「連鎖視点」として設定しました。これについては「あらゆる事象を、歴史的総体との繋がりの中でとらえ、逆にそれによって部分的で頂末と思われる事象が構造的全体をどのように構成し規定していったのか、を考えるための方法的な視座」と、ひとまずは定義しておきたいと思います。
 この連鎖視点は、時代を超える連鎖の相と、空間を超える連鎖の相とを、ふたつながらに捉えていこうとするものですが、言うまでもなく、人と人とが織り成す社会では、さまざまな出会いや出来事のなかに思いもかけないような繋がりを見出すことができることを私たちは経験的に知っています。というよりも、人間の社会は、時間や空間を超えつつ、しかも繋がっているはずのものですから、どこかで何らかの繋がりを見出すことは不可能ではないのでしょう」。

 そう、時空を超えて、世界はつながっているのである。(つづく)

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2007年1月10日 (水)

脱労働力商品論と歴史の見方

 地球温暖化と高齢化が急速にすすむ21世紀、果たして、これから先の時代はどうなるのだろうか、団塊の世代の今後が話題になる昨今、新年に少し考えた。 現在の地球と社会は、環境破壊と戦争・テロと格差拡大という問題をかかえたまま、出口を見出せないでいる。
 アイヌやネイティブ・アメリカンもそうだが、未開人は、必要以上には獲らないことを不文律とし、国家も行政も税金もなしで、持続可能な生活を送ってきたという。これからの地球のためには、必要以上には稼がないというようなスタイルと、非営利のコミュニティ・ビジネスが必要なのではあるまいか。 そんなスタイルとコミュニティづくり、そんな本をつくるのが、ダルマ舎の今年の目標である。

 新年に、以上のような新年の計を立てた。1月に予定したDTP仕事がなくなってまったので、時間だけはあるから、つづきを少し考える。昨年来、大内先生とコミュニティ構想をやりとりしていて、キイワード的には、先のブログに対する大内先生のコメント「対抗戦略の提起は、労働力商品化の矛盾を、共同体幻想としての国家の組織化では処理できない現実から出発すべきでしょう。新しいコミュニティの復権、コミュニティ・ビジネスの具体化、アソシェーション構築」に表されている。要は、現状分析というよりは、現状への提言=対抗戦略の提起と言えるかもしれない。

 大内先生も言われるように、最近、柄谷行人氏や、現代のラスプーチンこと佐藤優氏らによる宇野経済学への言及が目立つ。同様に文学系マルクス派の吉本隆明氏は「マルクス紀行」に、「わたしは、〈マルクス〉主義者と自称しているじっさいは1910年代以後に発生した、マルクス思想のロシア的形態の信奉者のいうことを一貫して信用してこなかった。ただ、マルクス自身を必然的にそこへ強いていった歴史的現実の現存性ともいうべきものを信じているだけだ。なぜならば、それだけが個人の思想に時代を超えて生きさせるものを与えるなにかだからだ。そこでだけ個人としての人間の思想は、類としての思想につながる。ひとが思想的に生きるのは、いつも現存性と歴史性との交点の契機によってであり、〈信仰〉によっても、〈科学〉によっても生きるものではない」と書いているが、イデオロギーに依らない生き方からすれば、マルクスは相変わらずだし、社会主義の崩壊という現実も、さしたる衝撃ではない。

 では、「ひとが思想的に生きるのは、いつも現存性と歴史性との交点の契機によってである」とすれば、それはいかにして可能なのか。吉本隆明氏は、情況への発言をしつづけてきた思想家であるが、それが可能であったのは、彼が社会思想家というよりは、詩人であり批評家でもあったせいであろう。文学というのは、イデオロギーに依っては出来ない営為である。かつて有力な歴史観であった唯物史観は、生産力の発展を歴史の原動力であるとするものであるが、生産力の発展は歴史発展の一要因ではあっても、それによって歴史や人生が決められるわけではない。文学者というのは、そういうことをあたりまえのこととしている人であり、そうでなければ、詩や小説など書けない。

Photo_8  唯物史観は、マルクスとエンゲルスの共著である『ドイツ・イデオロギー』(1845-46)の中で示された、いわばイデオロギー的仮説なのである。これは、社会の基本的な矛盾は、生産力と生産関係の矛盾=生産力の私的所有による矛盾であるとする、いわゆる社会主義への所有論的アプローチと一体的に形成された。
 広松渉氏の研究によれば、『ドイツ・イデオロギー』はエンゲルスの筆跡で書かれており、これはマルクスの口述筆記というよりは、『ドイツ・イデオロギー』において唯物史観の展開そのものをリードしたのが、エンゲルスであったという。

Photo_10  マルクスが『経哲草稿』(1844)を書いていた頃、エンゲルスはすでに『国民経済学批判大綱』(1843-44)を書き、そこに以下のように展開していたと、広松渉氏は『マルクス主義の成立過程』(至誠堂1974)にこう書く。
 
「エンゲルスの近代社会批判の本諦は、より本質的である。それは資本制生産の無政府性に関わり、かつはまた「必然の王国から自由の王国へ」という人類史的な大転換に関わる。「私的所有が存立している限り、すでにみた通リ、一切が競争に帰着する」・・・ここにいう「競争」は広義の競争であって、経済機構の無政府性というほどの広い意味で用いられている。「競争の矛盾は私的所有そのものの矛盾とまったく同一である」、「私的所有は各人を孤立させ個別状態におとしいれる」・・・私的所有=競争の社会は、このような「必然の王国」である。近代社会が実践的に批判さるべき所以のものは、それがこの意味での「必然の王国」だという点に存するのである。
 ここにおいてエンゲルスは「類意識のない細分されたアトムとしてではなく、人間として意識的に生産せよ、そうすればこれらすべての人為的な維持しがたい対立を克服」できることを教え、今やそのような共同的、意識的な生産・配分の社会、一言でいえば「自由の王国」を実現しうべき時点に近づいていることを指摘する。『国民経済学批判大綱』では、このように、必然の王国から自由の王国へ、その可能性と必然性という視角から共産主義に基礎づけが与えられている」(p88-89)。
 「エンゲルスは、ドイツ・イデオロギーに対して、自己の積極的な見方を対置するという仕方で批判を試みるのであるが、ここに打出された積極的な見方こそが後に唯物史観と名付けられるものにほかならない」(p101)と。

 一方、広松渉氏は、『ドイツ・イデオロギー』におけるエンゲルスとマルクスのちがいについて、以下のように書く。
 
「エンゲルスは「有体的な諸個人」という出発点から社会関係を立論する際、かなり強引な議論を進めている。彼は家族という端初的な社会関係と男女間の分業を立論し、かつは「家族のうちに潜在的に存在する奴隷制」を媒介項として財産、ひいては「市民社会」に説き及んでいく。さなきだに分業という概念を階級すら分業の下に包摂されるほど広義に用い、この「分業」を行論の槓杵にしている。
 このような筋立てに対してマルクスが積極的に賛成だったのかどうか、手稿への書込みからは何とも云えない。しかし、・・・その後においても、分業の端初を共同体間分業に求め、これを介して私有財産と階級分化の歴史的成立を説く姿勢をもっていること--しかるにエンゲルスの方はその後も「内因論」の姿勢を崩していない--。これらの事情を思い併せるとき、果してマルクスが賛成であったかには多分に疑問の余地がある」(p103-104)と。

 そして、エンゲルスがリードする『ドイツ・イデオロギー』において、揶揄的に書かれている次の書き込みはマルクスのもであったという。
 
「共産主義社会では、・・・私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよいのである」。
 「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成さるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる」。
 う~ん、なるほど、といったところである。唯物史観からは、いわゆる「必然論」が出てきてしまうが、そうでないとすれば、共産主義とはマルクスの言うとおり、「べき状態、べき理想」ではない。

 ここから先のマルクスの展開は、この間のコメントの中で大内先生が展開されている『資本論』と「価値形態論」の話になっていく訳だが、そこは私はさておいて、では、「所有論的アプローチ → 唯物史観」に代わって、「脱労働力商品論的アプローチは、いかなる歴史の見方をするのか」というのが、私の問いである。(つづく)

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2007年1月 3日 (水)

岡部一明氏のコミュニティ論

Photo_12  年末に、有楽町の東京国際フォーラムで行われた「コミュニティ資源の形成とICT-意思としてのコミュニティ形成-」というシンポジウムに行ってきた。このシンポジウムは、日本社会事業学会の主催であるが、コーディネイトしているのは岡部一明氏である。

 1990年頃、生協でやっていた研究会に岡部一明氏を招いた時に、アメリカのNPOの話を初めて聞き、新鮮かつ衝撃であったが、その後、日本に戻った岡部氏が展開しだしたアメリカの自治体論は、「筆者としては、その自治体制度に最も大きな衝撃を受けた」(※「アメリカの自治体制度」)とあるように、さらに新鮮かつ衝撃である。
※ 
http://staff.nagoya-toho.ac.jp/okabe/ronbun/jichius.html

 岡部氏は「アメリカの自治体制度」の序に以下のように書く。
 「アメリカでは自治体は市民がつくる。住民が住民投票で自治体をつくると決議してから初めて自治体ができる。・・・アメリカの自治体はその存立の基本からして市民団体に近似している。すでにつくられているのでなくて、市民が自らの自由意志で結成する。
 さらに結成した後も、自治体は極めて市民団体的である。例えば市長や市議は通常、ボランティアだ。・・・市議の数も通常5人から10人程度で少ない。夜開かれる市議会は住民集会のようなもので、市民が自由に参加できるのはもちろん、だれでも1議題につき1回まで発言さえできる。連邦、州、自治体レベルにはりめぐらされている公開会議法(Open Meeting Laws)がこうした市民の発言を保証している・・・。そこで見聞する自治体は、それまで「行政」としかとらえることのできなかった日本の自治体と大きく異なるものだった。私たちは本当に自治体というものを知っていたか・・・」と。

 シンポジウムの基調講演は、アメリカのポートランド州立大学教員のスティーブ・ジョンソン氏の講演で、ジョンソン氏は「Social capital が衰退し、人を信頼することも低下してきており、人々は共同できなければ、政府に依存するようになってしまう。政府や税金に依存しない方向、Wisdom of Crowd(衆合知)で問題を解決するためのコミュニティの必要と、ポートランドにおけるITの活用例」を報告した。

Photo_11  岡部氏は、1980年代の半ばに、アメリカにおける市民によるパソコン・ネットワークの活用状況をフィールドワークして、『パソコン市民ネットワーク』(技術と人間1986年刊)にまとめているが、そこで、スティーブ・ジョンソン氏らの対抗文化世代によるパソコンの開発と活用、さらには電話料金の安さ(市内通話は無料)や非営利団体の存在について、驚きをもって報告している。
 その後、オークランドの日系NPOのJPRNに参加した岡部氏は、東京にもJPRNの支部を置いて、精力的にアメリカのNPOを日本に紹介しだした。私が、岡部氏と出会ったのもその頃で、当時、岡部氏は平河町の神社内にあった須田春海氏の主宰する市民運動全国センター内にJPRNの事務所をおいて、NPOの啓発活動をやっていた。

 そのおかげで、1998年末に日本にも特定非営利活動法ができ、現在既に3万近いNPOが誕生したが、日本の場合、NPOにしろ、コミュニティ・ビジネスにしろ、行政との関係をあてにしがちである。もともとNPOは、税金を使った行政による活動の非効率、高コストに対して、市民による民間非営利活動として対置されたのに、日本のNPOが行政との関係をあてにするというのでは、何のためのNPOかということになってしまう。
 
 夕張市の倒産は、今後の日本の自治体の行方を暗示している。「日本は民主主義か」(1997年)という文章※で、岡部氏は「日本に自治体はあるか。―ない、というのが私の結論だ」と書いている。NPOは法律によって制度化されても、それを支える民主主義や自治体の在り様はまだまだちがうというのが、岡部氏においては実感なのであろうかと思われる。※
http://www5d.biglobe.ne.jp/%7Eokabe/kiji/minshu.html
 「アメリカの自治体制度」に岡部氏は、「自治体は領域をもった全員加盟制のNPOである」と書いているが、これは自治体とNPOの提携のことなどではない。岡部氏は、「日本にNPOはあるか。―ない、というのが私の結論だ」と言いたいのかもしれない。

 1990年代の初めにグリーンカードを取得してアメリカに渡った岡部一明氏は、2001年に日本に戻って大学の先生をしている。「共和党政権のアメリカには居たくない」と言って戻ってきたが、その一方、今回の講演会では「インターネットもパソコン革命も、アメリカから生まれた。新しいものは、文化がぶつかり合うところで生まれる」と、アメリカを前向きに評価する。

 アメリカについてのこのアンビバレントな感覚は、単に共和党か民主党かといった問題ではなくて、アメリカという国の本質にかかわる事柄であるという気がする。それは、アメリカは「コミュニティと資本主義と国家」が純粋に生成した国であるからであると私は考えるのだが。いずれにせよ、市場原理主義によるアメリカ型資本主義への対抗を考えるには、市場経済でないものを考えても、かつての社会主義の二の舞にしかならないだろうから、市場経済と両立するコミュニティづくりを考えるしかない。そして、それにはアメリカにおけるコミュニティづくりを学ぶのがよいというのが、シンポジウムの感想である。

 シンポジウムの始めに、主催者は「これまでコミュニティは習慣であったが、ポスト資本主義社会では、コミュニティは意思となる」というP.F.ドラッガーの言葉を引用して、シンポジウムの位置づけをした。これが、今年の課題である。

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