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2006年12月 7日 (木)

市場社会とコミュニティ

 8月に書いた「リカード派社会主義と宇野理論」という文章に、大内先生から長文のコメントをいただいていたが、本格的なコメントなので気が引けてしまって、Reコメントできないでいた。季節が冬になり、やっと寒くなったせいか、また「釈迦に放言」的な文章が少し書けるようになって、とりあえずは、以下の通りに書けた。

 私は元々プルードン主義的コミューン主義者だから、共同体社会主義=コミュニティ社会主義となれば、元々そうなのであるのだが、要するに、私がこのブログで書こうとしていることは、では如何にしてコミューンと言うかコミュニティは成立するのかということなのである。
 ロバート・オウエンは、ニューラナークにおけるインダストリー・ヴィレッジづくりに成功しながら、なぜ新世界のアメリカにおけるニュー・ハーモニーの共同体づくりに失敗したのか、というところから私はこのブログを始めたのだった。

 マルクス主義以前に、ヨーロッパに生まれた社会主義思想は、プルードン主義の小生産者のアソシアシオンの連合にしても、リカード派社会主義の労働収権論にもとづくオウエン主義者よるコミュニティづくりにしろ、フーリエのファランジュにしろ、いわばコミュニティがベースとなっている。
 何故そうなるのかと言えば、反資本主義・反市場経済の運動は、近代国家の成立=国民経済学の成立=資本主義の成立によって失われた生活圏=共同体の再獲得運動となるからであろう。これは日本の農本主義も、現在のイスラム原理主義もそうであるし、19世紀のアメリカの人民主義も、中国の太平天国なんかもそうであろう。

 しかし、市場経済を否定して共同体をつくろうとすると、全能の長老の下に権威主義的に悪平等するしかなくなる。国家主義者のように、国家を民族の共同体だとすれば、そもそもソ連だって、北朝鮮だって、共同体社会主義ではあるのだが、ニュー・ハーモニーにおけるロバート・オウエンの失敗は、これらに先駆けた失敗であったのだった。
 市場経済を否定して、クローズドにやろうとすることによる共同体の失敗は、その規模にかかわらずであり、例えそれが小規模な生産協同組合やコミュニティであったとしても、結果は同様である。

 フランス革命とそれに引き続くジャコバン主義による恐怖政治は、ヨーロッパ各国の思想に大きな影響を与えた。ドイツの哲学やイギリスの政治思想もそうだが、当事国のフランスにおける社会主義や政治思想にもである。
 19世紀の前半、ちょうどオウエンがニュー・ハーモニーの共同体づくりに失敗した後くらいに、アメリカのコミュニティを調査したフランス人のトクヴィルは、そこに“もうひとつのコミュニティづくり”を見ている。それは、コミュニティのポイントは、「博愛=利他による共同」というよりは「自助によるコミュニティ」であり、平等主義の徹底は「多数派による専制」を生むということであった。

 また、プルードンは、「友愛と再分配」にもとづく社会主義は、国家を強くするだけであるということでそれに反対し、プルードン流のコミュニティ=アソシアシオンの要諦を「自由と交換」に置いた。

 オウエン主義者を中心としたロッチデールの人々は、コミュニティづくりには失敗するが、消費生活協同組合づくりには成功する。これは出資配当や利用割戻しなどの功利主義的な運営によるのだが、市場経済におけるコミュニティは、生産協同組合なり、自主管理型企業でもそうであるが、市場経済に対応できることが、その存立条件となる。これは、企業ではあたりまえのことで、現在、自治体の破産が話題になりだしているが、コミュニティもまたそうなのである。

 かつて、資本主義の矛盾を、生産力と生産関係の矛盾だとして、プロ独=国家的所有によってこれを解決ようとした従来の社会主義は、労働力の商品化の問題を何一つ解決することなく崩壊した。また、所有論的アプローチからすれば、生産関係の所有形態が変われば搾取=剰余価値がなくなり、併せて疎外された労働もなくなるということであったのだが、国家的所有は、資本主義以上の人間疎外を生んだというのが、実態であった。

 資本主義だから、そこに住む全員が疎外されているという訳ではないが、資本主義は労働力の商品化という矛盾を内包しつつ自己増殖をしつづけ、その結果は、労働力の再生産に必要な家族やコミュニティと、さらには自然の再生産に必要な生態系を破壊する。そこで、労働力の商品化という矛盾の解決の仕方を考える訳だが、社会主義というのは、資本主義故の矛盾、労働力の商品化がなくなっていくことの結果である。社会主義になれば労働力の商品化はなくなるというのでは、自家撞着にしかならない。

 資本主義=労働力の商品化の矛盾は、単純労働力仕事(生産現場やサービス現場)を格差拡大の底辺に置き去りにしたまま、資本の自己増殖をしつづけるが、例えば、正社員と非正社員で言えば、正社員だから労働力の商品化から免れている訳ではなく、その差は給与と待遇の格差にあるだけで、高給取りの知的労働者と、低収入ではあってもクリエイティブな生き方をする自営業者との差も、所得高だけだと言える。
 要は、ひとりひとりの生き方の問題と、その生き方を受け入れる社会と、その生き方を支えるコミュニティ、人間関係なり社会関係なりを、どう創るのかという話だと思う。資本の自己増殖=資本主義が生む社会的問題点は、経済格差と環境破壊にあるが、その解決には、所得高にこだわらない生活スタイルが必要である。

 労働と労働力を分けるように、市場社会と市場経済も分けて考えた方がよいのではというのが、私の素人考えである。市場社会という言葉が紛らわしければ、市場を交易とか交換などと置き換えてもよい。資本主義による市場経済が成立する以前から、交易は行われていたし、個人の生業も、クリエイティブな発想の現実化も、交換なしには成り立たない。
 世界は複合的にできているが故に、資本主義の社会でも、その中にコミュニティの形成は可能である。とりあえずは、雇用されなくても、市場経済の中でも生きていける自分なりの生き方、働き方を見つけて、身につけて、それを持続させられるようなコミュニティづくりを試みるのが、実践的な課題であると思う。市場経済の社会にありながらも、家族とコミュニティを確保して、その両方を行き来する訳である。

 あたりまえの話だが、人は労働だけでは生きられない。農民には無礼講の村祭りや講があり、日曜日の教会での礼拝があり、工場労働の後にはパブがあり、ブルジョワジーにはクラブライフがありと、労働とコミュニティ的的空間は、いつでもどこでも一体である。
 そして、このコミュニティ的的空間を、より自分の労働の実現に近づけようとする志向が、コミュニティ的空間を創り出すことになる。モリスのケルムスコット・ハウスも、宮沢賢治の羅須地人協会も、そういうものとして位置づけられるし、自分で起業するのもそうだし、生産協同組合やコミュニティ・ビジネスづくりも、そういったものであろう。そして、その先にあるのが自然とも一体になったモリス流のユートピアであり、イーハトーブといったコミュニティ世界なのである。

 一方、あらゆるものを資本の増殖に結び付けようとする資本主義は、労働の対極にある人々のコミュニティ志向についても、人々の「癒し」志向をビジネスにしてしまう。最近言われている「ロハス」などもそんな臭いがするし、mixiみたいなSNSの空間だって、高額の金を払って買い取ってしまうであろう。
 市場社会は、そういった人々のコミュニティ志向と資本主義がせめぎあっている社会である。自らの労働を実現させようとするか、なるべく高く買ってもらおうとする人々と、労働力の商品化を徹底的に押しすすめて、コミュニティを解体しようとする資本主義が日夜せめぎあっているのである。

 市場社会を性急に否定して、強権をもってしてでも非市場社会をつくろうとしたのが、これまでの社会主義であったが、結果はろくなものにはならなかった。あるがままの世界に比べれば、人生など一瞬である。しかし、先人たちのめざした世界は、モリスの世界も、賢治の世界も、幾多の人々によって受け継がれて、現在の世界につながっていて、そこでは誰も死ぬことはない。世界や歴史とは、そうやって出来ているのであろうと思われる。
 だから私たちは、労働しながらも人生を楽しみ、コミュニティづくりにいそしめばいいのである。ホイットマンの詠んだ詩の世界を、アレン・ギンズバーグは詠み、私も詠む。芭蕉の歩いた道をジャック・ケラワックはOn the Road(路上)して、私も歩く。そこではホイットマンやギンズバーグ、芭蕉やケラワックは、いつでも生きているし、そこもひとつのコミュニティなのである。

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コメント

 読ませてもらいました。ほぼ異論なく、同意します。細部の点でコメントさせてください。
 ①もともと「共同体と共同体の間の経済」として発展してきた市場経済の極点、市場経済が労働力の商品化により、人間の社会的再生産まで市場原理が支配するのが資本主義だし、『資本論』の純粋資本主義の抽象です。だから、資本主義を批判し、反対するイデオロギーは、いずれにしても市場原理を批判し、共同体へ回帰するのは当然です。社会主義が反資本主義である限り、プルードンやオーエンなど、皆共同体への回帰志向はあったと思います。 
 ただ、資本主義の理論的把握が、市場原理の極点としての労働力の商品化、純粋資本主義の抽象として行われた点が重要だと思うのです。労働力商品化の「無理」として、物として再生産されない特性、家族・家庭、地域など共同体の絆を失う特性、単純労働力として労働疎外、人間疎外の特性、などの把握が可能になる。ここから労働力商品化の止揚の方向付けが可能になるわけです。しかし、方向付けだけです。
 ②「社会主義になれば労働力の商品化はなくなるというのでは自家撞着にしかならない」のは、当然です。『資本論』にせよ、経済学の理論にせよ、理論そのものは「方向付け」だけで、社会主義のイデオロギーそのものは、何にも出てこない。市場原理の「鉄の法則性」が貫かれるだけ、歴史的変容はあるものの、現代も同じです。
 社会主義のイデオロギーは、理論による「方向付け」に基づいて、「ユートピア」として提起され、それが人々を運動として捉えながら実現されるのでしょう。貴兄の生活実践もその類でしょうね!社会主義は、もともとユートピア思想だし、空想的社会主義です。それが科学的理論に基礎づけられるかどうかです。 
 エンゲルス(途中までマルクスも)の唯物史観は、もともとイデオロギー的仮説に過ぎなかったのですが、まだ労働力の商品化が理論的に明らかでなかったレベルの仮説でした。だから労働力の商品化の矛盾の設定も不明確なまま、所有論的な基本矛盾の設定になり、しかも「科学とイデオロギーの統一」のドグマが支配した。ここにエンゲルスの「科学的社会主義」の誤り、さらにはマルクス・レーニン主義の社会主義論、そしてソ連崩壊の悲劇があったのではないか。
 ③資本主義と国家の関係も、労働力商品化の矛盾との関係をはっきりさせないと拙いと考えます。労働力の商品化のためには、市場経済の拡大だけではダメだった。資本の原始的蓄積のための国家の暴力が必要だった。近代国民国家はここで登場した。共同体や家族からの発展ではないのです。
 初期資本主義の原蓄国家に対し、20世紀福祉国家の完全雇用による資本主義の組織化が行われた。しかし、ソ連崩壊と共に福祉国家も破綻して、市場原理主義の構造改革ですが、その限界もハッキリしている。もう一度「美しい日本」の国家共同体幻想で再組織化を図りたいのでしょう。柄谷氏の国家論、僕も興味持っています。検討しましょう。
 

投稿: 大内秀明 | 2006年12月17日 (日) 15時39分

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