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2006年12月19日 (火)

価値形態論または大内秀明と柄谷行人

Photo  以前「リカード派社会主義と宇野理論」に対して、大内先生からいただいたコメントに「価値形態論」という言葉があって、『資本論』を読んでいない私は、20年前に大内先生が出された『「資本論」の常識』(1984年 講談社刊)という謂わばアンチョコを読み直してみた。すると、半年前に読んだ柄谷行人氏の『世界共和国へ』という本を思い出した。

Photo_1  柄谷行人氏は、本書の最後に、柄谷行人氏はカントの平和論 から、未だ存在したことの無い「新たな交換様式にもとづくグローバル・コミュニティ(アソシエーション)」を提起しているが、『世界共和国へ』の副題が「資本=ネーション=国家を超えて」となっているように、その展開のキイワードは「資本」にあって、主要な論拠はマルクスと、それに本書では直接に名前はでてこないが、宇野経済学にある。

 「価値形態論」について、少し長くなるが、おさらいのつもりで、両著から引用する。
 大内先生は『「資本論」の常識』に、価値形態論について以下のように書いている。

 「リカードの労働価値説は、フランスよりもむしろイギリスの空想的社会主義が、リカード派社会主義とよばれているように、近代市民社会の法則的秩序の説明原理ではなく、社会主義の空想的な主張のための説明原理としても利用されていた。
 その要点は、リカードの主張するように労働によって価値が決定されるのなら、労働者は自分の労働によって生産した価値のすべてを管理し所有すべきであるという、労働全収益権の主張などによって、社会主義を主張していたのである」(『「資本論」の常識』P69)
 「マルクスによる商品価値の説明にとって大切だったのは、価値の実体が労働であり、労働による交換において等置されていることを論証することではなかった。それは、古典経済学がすでに明らかにしていたことだし、労働の二重性も、スミスなどが事実上明らかにしていたことであった。しかし古典経済学は、商品の価値と使用価値の矛盾、需要と供給の対立といった、商品経済に特有な社会関係を明らかにしようとはしないで、商品をお互いに自由に相互利益のために交換しあう比率として、交換価値を説明していたにすぎない。そして、そういう交換価値を、等労働量の交換として労働価値説を主張したのであった。
 そのため貨幣も、商品の相互交換を媒介する便宜的な手段として歴史的に生まれたし、人間が考案したものだという理解にとどまってしまった。商品の価値と使用価値の矛盾が、供給と需要の対立となりヽ商品と貨幣が市場で対立するかたちで、貨幣の必然性を明らかにすることはできなかった。・・・ それにたいしてマルクスは、価値形態論によって、なぜ商品は貨幣によって交換されるのか、つまり貨幣の必然性を明らかにしたのである」(『「資本論」の常識』P152-153)。
「マルクスは、貨幣も商品のひとつにすぎないこと、その特殊な社会的な地位が、貨幣という特殊な役割を商品経済のなかであたえているにすぎないとみて、その特殊な社会的地位を大略つぎのように説明している。
ある商品Aが自分の価値を表現するのに、自分の商品体で表現することはできない。なぜなら、自分の商品体は自分の使用価値であって、他人のための使用価値として需要のために提供されてはいても、価値とは対立する商品の要因にすぎないからである。商品Aの価値は、他の商品との交換、それもBやCやDなどとの全面的な交換という社会関係であって、他の商品とのかかわりをぬきに表現するわけにはいかないからである。
 そこで、たとえば他の商品Bとのかかわりあいで、Bの商品体は使用価値でしかないのだから、Aの価値はBの使用価値の量で表現することになる。このばあい、Aの立場は自分の価値を積極的に表現しようとしているのであり、遂にBの立場は、使用価値を他人のための使用価値として提供するだけで、Aの価値表現のための手段にすぎなくなっている。
 マルクスは、Aの立場をとくに相対的価値形態とよぶ。それにたいしてBの立場は、Aとはちがっていて、たんにAの価値表現のための材料として利用されているだけである。
 この立場のちがいから、マルクスはBを等価形態とよんで、AとBの立場の相違と対立を強調した。このように、AとBとの立場の相違を明確にしながら、Aの価値をBによって完全に表現しつつ供給し、かつAの使用価値も「他人のための使用価値」として社会的に需要されるためには、BがAだけでなく、あらゆる商品C、D、E……などから共通なかたちで等価形態の地位に立だされる価値形態が必要である。
 マルクスは、この価値形態のことを「一般的価値形態」とよんで、ここでの等価形態の商品Bのことを、とくに「一般的等価物」と名づけた。そして、この一般的等価物の地位が、特定の商品によって独占されたとき、そういう一般的等価物を貨幣と定義したのである。貨幣の役割を演ずる一般的等価物の商品は貨幣商品、つまり貨幣財であるが、これによってAをはじめ、C、D、Eなどの全商品の価値は、同質性や量の比較としてはじめて表現可能となる」(『「資本論」の常識』P154-155)。

 また、柄谷行人氏は、価値形態論について『世界共和国へ』に以下のように書いている。
 「経済人類学や経済史の知見によって、これ(貨幣の起源)を説明することはできません。それを考えるのにも「抽象力」が必要です。この点にかんして、私は、マルクスが『資本論』の冒頭で書いた価値形態論以上のものを知りません。一般に、マルクスは、スミスやリカードら古典派経済学の労働価値説を継承し、そこから剰余価値論を引き出したと考えられています。しかし、そのような仕事をしたのは、マルクスに先行するイギリスのリカード派社会主義者です。一方、マルクスが初期から惹きつけられていた問題は、貨幣がもつ力、あるいは、その宗数的な転倒や自己疎外でした。
 古典派にとって、貨幣には何の謎もありません。貨幣は、各商品に投じられた労働価値を表示したものにすぎない。ここから、オーウエンをふくむリカード派社会主義者は、貨幣を廃止して労働時間を示す労働証票を使うことを考えたのです。むしろそのような考えの安易さを批判したのがマルクスです。彼らは貨幣を否定するが、実は暗黙裏に貨幣を前提しているのです。
アダム・スミスは、商品には使用価値と交換価値があると考えました。交換価値とは他の商品を購買する能力です。それは、各商品はそれぞれ貨幣だということです。しかし、そのようなことはありえない。それは売買(貨幣との交換)がなされたのちにいえることで、生産物は売れなければ、いかにその生産のために労働が費やされていても、交換価値をもたないだけでなく、使用価値さえもちません。つまり、たんに廃棄されるほかない。商品は、他の商品と等置されることによって、はじめてその価値をもつのです。
 したがって、商品は使用価値と交換価値をもつ、というのは正しくない。商品の価値は、他の商品の使用価値で表現されるというべきです。つまり、一商品の価値は、他の商品との等置形態、いいかえれば、「価値形態」において生じるのです。たとえば、商品aの価値は商品bの使用価値によって表示される。・・・このとき、商品aは相対的価値形態、商品bは等価形態におかれる。いいかえると、商品bは、事実上、貨幣(等価物)なのです。・・・貨幣は、いわば商品bが、他のすべての商品に対して排他的に等価形態におかれるようになるときに、つまりー商品のみが他のすべての商品と交換可能となるとき出現するわけです。たとえば、金や銀が一般的な等価形態の位置を占め、他のすべての物は相対的価値形態におかれるとき、金や銀は貨幣です」(『世界共和国へ』P 72-74)。

 要は『資本論』からの解説だから、誰が書いても似たようになるのかもしれないが、アダム・スミスの労働価値説とリカード派社会主義への言及までよく似ている。だから私は気がついたのだが、さらに大内先生は、以上の価値形態論の説明に加えて、その意義を以下のように展開する。『「資本論」の常識』が出版されたのは1984年で、従来の社会主義が崩壊する以前であるが、大内先生はその崩壊を、政治的とか社会的とか歴史的とかではなく、次のように、まさに原理的に言い当てている。

 「このように価値形態論をとおして貨幣の必然性が明らかになると、貨幣は商品の価値をたんに価格として名目的に形式上表現しているだけではない。それは、商品の二要因である価値と使用価値が、価値―貨幣と商品―使用価値という形式で、貨幣と商品の対立となって市場に登場することが証明されたことになる。
 そして、貨幣と商品とが、価値と使用価値の対立を表現しているとすれば、市場における供給と需要との対立のメカニズムも説明されたことになるし、社会的な需給関係の変化にともなって、価格が変動するメカニズムも明らかになる。
 こうして、価値形態論にもとづいて説明される価値法則の内容は、古典経済学とともにマルクスが一方で主張した等労働量交換としての労働価値説ではない。たえず需給の変化によって価格変動がおこるなかで、「不均衡のなかでの均衡法則」として価格が調整されるのである。
 このような労働価値説をこえた『資本論』の価値法則は、社会主義の展望にとっても大切なことであろう。「現存社会主義」の体制に固有の欠陥のひとつとして、中央集権的指令型社会主義では、社会的に需要と供給の調整をはかることが困難で、くりかえし過剰生産と供給不足に悩まされてきた。
 そのために、市場メカニズムの部分的利用や全面導入をよぎなくされている。しかし、それも『資本論』の誤った一面的な理解、とりわけ労働価値説のドグマチックな理解から発しているように思われて仕方がない。
 すなわち、労働価値説のドグマが一方では前提とされながら、他方で商品経済における無政府性の社会が強調されてきた。社会主義は、この無政府性を止揚して、指令型の計画経済によって運営されなければならないが、たしかに供給サイドは、生産手段の国有・国営により生産の社会的な計画化をはかることはできる。しかし社会的な需要と供給の計画的調整は、生産=供給サイドだけでできるはずはない。どうしても消費=需要サイドの計画的調整をおこなわざるをえなくなるし、結局は個人の消費生活の計画的統制になる。
 それは、商品の使用価値にかかわり、個性的なはずの個人の消費生活の自由な発展を制限し、地域の伝統や個性に根ざした消費者ニーズの質的向上を抑制し、かつ官僚的に上から生活を統制することにもなる。さらに生産力の発展により社会内の分業が発展し、生産と消費の社会的分化がすすむほど、ますます需給の分離も拡大するであろうから、無理な生活の画一的統制を生む。結果的には、生活の質的かつ量的拡大に対応する生産の効率的な発展の道もふさがれてしまう。
 社会主義の再生にとっても、イデオロギー的な仮説にすぎなかった唯物史観からみちびかれた労働価値説のドグマを捨てる必要がある。ドグマチックな労働価値説の論証にあたって捨象された使用価値、それにかかわる生活者の需要の視点を明らかにし、自由で個性的な生活の向上を前提にした需給調整のメカニズムを、あらためて考えなければならない」(『「資本論」の常識』P 156-158)。

 大内先生は「消費生活を上から統制してはならない」と書かれている訳だが、『世界共和国へ』でこれに相当するものとして、柄谷行人氏は「流通過程におけるプロレタリアの闘争とは、いわばボイコットです以下のように書かれている。

「以上の考察から、幾つかのことが考えられます。
第一に、労働者は資本家に対してたんに労働者は資本家に対してたんに「隷属関係」にあるだけでないということです。労働者は個々の生産過程では隷属するとしても、消費者としてはそうではない。遂に、資本は消費者としての労働者に対して「隷属関係」にあるのです。私はここに、産業資本主義に対する闘争の鍵があると考えます。
 第二に、以上の考察は、個別資本の運動の過程だけでは剰余価値を考えることはできない、ということを意味しています。資本は最終的に生産物を売らなければ、つまり、生産物が商品として価値を獲得しないならば、剰余価値そのものを実現できない。ところが、それを買う者は、他の資本か、他の資本のもとにある労働者である。各資本は利潤を追求するとき、なるべく賃金をカットしようとする、あるいはできるだけ長時間働かせようとする。だが、すべての資本がそうすれば、剰余価値を実現できない。なぜなら、生産物を買う消費者は労働者自身だからです」(『世界共和国へ』P 144-145)。
「マルクスは、資本制経済が、労働者が生産したものを自ら買うことによって実現される自己再生的(オートポイエーシス的)なシステムであることを把握していました。産業資本主義を特徹づけるのは、たんに賃労働者が存在するということだけでなく、彼らが消費者となるということです。つまり、産業資本主義の画期性は、労働力という商品が生産した商品を、労働者が労働力商品を再生産するために買うという、自己再生的なシステムを形成した点にある。それによって、商品交換の原理が全社会・全世界を貫徹するものとなりえたのです」(『世界共和国へ』P 146-147)。
「産業資本主義は、「商品が作った商品を商品が買う」という自己再生的なシステムです。資本主義のグローバリゼーションとは、このシステムをグローバル化することです。しかし、ここには致命的な限界があります。それは産業資本主義に固有のものです。産業資本は、本当は商品にはならない二つのものが商品になったときに成立した。すなわち、労働力と土地です。これらは資本が自ら作り得ないものです。
 たとえば、資本は労働力商品を作ることはできない。他の商品と違って、需要がなければ廃棄するということはできない。不足したからといって増産することもできない。また、移民で補充しても、あとで不要になっても追い出すことはできない。産業資本は労働力商品にもとづくことで、商人資本のような空間的限界を超えたが、まさにこの商品こそ資本の限界として、内在的な危機をもたらすのです。実際、資本にとって思い通りにならない労働力の過剰や不足が、景気循環を不可避的なものとするわけです(『世界共和国へ』P 150-151)。
「生産過程においては、労働者は資本に従属的であるほかないのです。しかし、労働者は流通過程において、消費者としてあらわれます。そのとき彼らは資本に優越する立場に立つわけです(『世界共和国へ』P 155)。
「消費者とは、プロレタリアが流通の場においてあらわれる姿なのです。であれば、消費者の運動はまさにプロレタリアの運動であり、またそのようなものとしてなされるべきです。
 資本は生産過程におけるプロレタリアを規制することができる・・・。しかし、流通過程において資本はプロレタリアを強制することはできません。働くことを強制できる権力はあるが、買うことを強制できる権力はないからです。流通過程におけるプロレタリアの闘争とは、いわばボイコットです。そして、そのような非暴力的で合法的な闘争に対して、資本は対抗できないのです」(『世界共和国へ』P 156)。

 『世界共和国へ』の最後に、柄谷行人氏は「新たな交換様式にもとづくグローバル・コミュニティ(アソシエーション)が徐々に実現される」と書くのだが、これは大内先生の『「資本論」の常識』で言えば、「社会主義の再生にとっても、イデオロギー的な仮説にすぎなかった唯物史観からみちびかれた労働価値説のドグマを捨てる必要がある。ドグマチックな労働価値説の論証にあたって捨象された使用価値、それにかかわる生活者の需要の視点を明らかにし、自由で個性的な生活の向上を前提にした需給調整のメカニズムを、あらためて考えなければならない」(P 158)に相当する。

 昨年、大内先生が出された『恐慌論の形成』(日本評論社)はほとんど売れなかったのではないかと思われるが、今年の春に出た柄谷行人氏の『世界共和国へ』(岩波新書)は、そこそこには売れていると思われる。両著に共通するキイワードは「『資本論』-価値形態論-宇野経済学」であるが、マル経とか『資本論』が読まれる時代ではないので、書名は柄谷行人氏の『世界共和国へ』の方が、読まれるだろうと思われる。今回は、自らの勉強と老婆心もあって、「価値形態論」について、少し長めの引用をした。

 『世界共和国へ』は、副題を「資本=ネーション=国家を超え て」とし、国家はその内側からは超え得ないということと、国家は国家以前の共同体が持っていた互酬を擬制化して取り込んで成立し、それが近代国家におけるネーションの成立なのだが、これは資本主義の成立とあわせて成立するという、謂わば国家論を書き、本書で、国家を超える方向を示唆している。私たちの次の展開は、柄谷行人氏が国家論として展開しているものを、コミュニティ論・コミュニティ・ビジネス論として書くことであるにあると思うのだが、大内先生、いかがでしょうか。

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2006年12月 7日 (木)

市場社会とコミュニティ

 8月に書いた「リカード派社会主義と宇野理論」という文章に、大内先生から長文のコメントをいただいていたが、本格的なコメントなので気が引けてしまって、Reコメントできないでいた。季節が冬になり、やっと寒くなったせいか、また「釈迦に放言」的な文章が少し書けるようになって、とりあえずは、以下の通りに書けた。

 私は元々プルードン主義的コミューン主義者だから、共同体社会主義=コミュニティ社会主義となれば、元々そうなのであるのだが、要するに、私がこのブログで書こうとしていることは、では如何にしてコミューンと言うかコミュニティは成立するのかということなのである。
 ロバート・オウエンは、ニューラナークにおけるインダストリー・ヴィレッジづくりに成功しながら、なぜ新世界のアメリカにおけるニュー・ハーモニーの共同体づくりに失敗したのか、というところから私はこのブログを始めたのだった。

 マルクス主義以前に、ヨーロッパに生まれた社会主義思想は、プルードン主義の小生産者のアソシアシオンの連合にしても、リカード派社会主義の労働収権論にもとづくオウエン主義者よるコミュニティづくりにしろ、フーリエのファランジュにしろ、いわばコミュニティがベースとなっている。
 何故そうなるのかと言えば、反資本主義・反市場経済の運動は、近代国家の成立=国民経済学の成立=資本主義の成立によって失われた生活圏=共同体の再獲得運動となるからであろう。これは日本の農本主義も、現在のイスラム原理主義もそうであるし、19世紀のアメリカの人民主義も、中国の太平天国なんかもそうであろう。

 しかし、市場経済を否定して共同体をつくろうとすると、全能の長老の下に権威主義的に悪平等するしかなくなる。国家主義者のように、国家を民族の共同体だとすれば、そもそもソ連だって、北朝鮮だって、共同体社会主義ではあるのだが、ニュー・ハーモニーにおけるロバート・オウエンの失敗は、これらに先駆けた失敗であったのだった。
 市場経済を否定して、クローズドにやろうとすることによる共同体の失敗は、その規模にかかわらずであり、例えそれが小規模な生産協同組合やコミュニティであったとしても、結果は同様である。

 フランス革命とそれに引き続くジャコバン主義による恐怖政治は、ヨーロッパ各国の思想に大きな影響を与えた。ドイツの哲学やイギリスの政治思想もそうだが、当事国のフランスにおける社会主義や政治思想にもである。
 19世紀の前半、ちょうどオウエンがニュー・ハーモニーの共同体づくりに失敗した後くらいに、アメリカのコミュニティを調査したフランス人のトクヴィルは、そこに“もうひとつのコミュニティづくり”を見ている。それは、コミュニティのポイントは、「博愛=利他による共同」というよりは「自助によるコミュニティ」であり、平等主義の徹底は「多数派による専制」を生むということであった。

 また、プルードンは、「友愛と再分配」にもとづく社会主義は、国家を強くするだけであるということでそれに反対し、プルードン流のコミュニティ=アソシアシオンの要諦を「自由と交換」に置いた。

 オウエン主義者を中心としたロッチデールの人々は、コミュニティづくりには失敗するが、消費生活協同組合づくりには成功する。これは出資配当や利用割戻しなどの功利主義的な運営によるのだが、市場経済におけるコミュニティは、生産協同組合なり、自主管理型企業でもそうであるが、市場経済に対応できることが、その存立条件となる。これは、企業ではあたりまえのことで、現在、自治体の破産が話題になりだしているが、コミュニティもまたそうなのである。

 かつて、資本主義の矛盾を、生産力と生産関係の矛盾だとして、プロ独=国家的所有によってこれを解決ようとした従来の社会主義は、労働力の商品化の問題を何一つ解決することなく崩壊した。また、所有論的アプローチからすれば、生産関係の所有形態が変われば搾取=剰余価値がなくなり、併せて疎外された労働もなくなるということであったのだが、国家的所有は、資本主義以上の人間疎外を生んだというのが、実態であった。

 資本主義だから、そこに住む全員が疎外されているという訳ではないが、資本主義は労働力の商品化という矛盾を内包しつつ自己増殖をしつづけ、その結果は、労働力の再生産に必要な家族やコミュニティと、さらには自然の再生産に必要な生態系を破壊する。そこで、労働力の商品化という矛盾の解決の仕方を考える訳だが、社会主義というのは、資本主義故の矛盾、労働力の商品化がなくなっていくことの結果である。社会主義になれば労働力の商品化はなくなるというのでは、自家撞着にしかならない。

 資本主義=労働力の商品化の矛盾は、単純労働力仕事(生産現場やサービス現場)を格差拡大の底辺に置き去りにしたまま、資本の自己増殖をしつづけるが、例えば、正社員と非正社員で言えば、正社員だから労働力の商品化から免れている訳ではなく、その差は給与と待遇の格差にあるだけで、高給取りの知的労働者と、低収入ではあってもクリエイティブな生き方をする自営業者との差も、所得高だけだと言える。
 要は、ひとりひとりの生き方の問題と、その生き方を受け入れる社会と、その生き方を支えるコミュニティ、人間関係なり社会関係なりを、どう創るのかという話だと思う。資本の自己増殖=資本主義が生む社会的問題点は、経済格差と環境破壊にあるが、その解決には、所得高にこだわらない生活スタイルが必要である。

 労働と労働力を分けるように、市場社会と市場経済も分けて考えた方がよいのではというのが、私の素人考えである。市場社会という言葉が紛らわしければ、市場を交易とか交換などと置き換えてもよい。資本主義による市場経済が成立する以前から、交易は行われていたし、個人の生業も、クリエイティブな発想の現実化も、交換なしには成り立たない。
 世界は複合的にできているが故に、資本主義の社会でも、その中にコミュニティの形成は可能である。とりあえずは、雇用されなくても、市場経済の中でも生きていける自分なりの生き方、働き方を見つけて、身につけて、それを持続させられるようなコミュニティづくりを試みるのが、実践的な課題であると思う。市場経済の社会にありながらも、家族とコミュニティを確保して、その両方を行き来する訳である。

 あたりまえの話だが、人は労働だけでは生きられない。農民には無礼講の村祭りや講があり、日曜日の教会での礼拝があり、工場労働の後にはパブがあり、ブルジョワジーにはクラブライフがありと、労働とコミュニティ的的空間は、いつでもどこでも一体である。
 そして、このコミュニティ的的空間を、より自分の労働の実現に近づけようとする志向が、コミュニティ的空間を創り出すことになる。モリスのケルムスコット・ハウスも、宮沢賢治の羅須地人協会も、そういうものとして位置づけられるし、自分で起業するのもそうだし、生産協同組合やコミュニティ・ビジネスづくりも、そういったものであろう。そして、その先にあるのが自然とも一体になったモリス流のユートピアであり、イーハトーブといったコミュニティ世界なのである。

 一方、あらゆるものを資本の増殖に結び付けようとする資本主義は、労働の対極にある人々のコミュニティ志向についても、人々の「癒し」志向をビジネスにしてしまう。最近言われている「ロハス」などもそんな臭いがするし、mixiみたいなSNSの空間だって、高額の金を払って買い取ってしまうであろう。
 市場社会は、そういった人々のコミュニティ志向と資本主義がせめぎあっている社会である。自らの労働を実現させようとするか、なるべく高く買ってもらおうとする人々と、労働力の商品化を徹底的に押しすすめて、コミュニティを解体しようとする資本主義が日夜せめぎあっているのである。

 市場社会を性急に否定して、強権をもってしてでも非市場社会をつくろうとしたのが、これまでの社会主義であったが、結果はろくなものにはならなかった。あるがままの世界に比べれば、人生など一瞬である。しかし、先人たちのめざした世界は、モリスの世界も、賢治の世界も、幾多の人々によって受け継がれて、現在の世界につながっていて、そこでは誰も死ぬことはない。世界や歴史とは、そうやって出来ているのであろうと思われる。
 だから私たちは、労働しながらも人生を楽しみ、コミュニティづくりにいそしめばいいのである。ホイットマンの詠んだ詩の世界を、アレン・ギンズバーグは詠み、私も詠む。芭蕉の歩いた道をジャック・ケラワックはOn the Road(路上)して、私も歩く。そこではホイットマンやギンズバーグ、芭蕉やケラワックは、いつでも生きているし、そこもひとつのコミュニティなのである。

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