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2006年10月31日 (火)

コミュニティ社会の構想

 先々週末は、コミュニティ的的ビジネスと称して、4日連続で酒飲みをした。10月はDTP仕事がほとんどないので、営業活動でもすればよいのだが、こういう時こそ本来やりたいことをやるのが良いのだと割り切って、先週末からは4日連続で書きものをしている。これまで、このブログなどに書き散らかしたものをリライトしているだけなのだが、全体のテーマは「コミュニティ社会の構想」とした。現在WordのA4で50ページを超えるくらいの分量である。以下は、リライトした一部である。

①SNSとコミュニティ・ビジネス
 最近、mixi(ミクシイ)というSNS(Social Network Service)話題になっている。このSNSというのは、会員制のHPとブログみたいなもので、同趣味の人が集うコミュニティもあって、若い人が中心だが、最近は団塊の世代もけっこうやっている。
 80年代のパソコン通信とBBS(電子掲示板)にはじまり、90年代のインターネットとホーム・ページから、2000年代には誰でもつくれるブログ、そしてSNSへと、個人による情報発信の波が、ヴァーチャルなコミュニティをつくるところまで来たのである。
 アメリカにおける市場経済の進展とそれへの対抗運動を見ていると、対抗運動の側には常に「原点としてのコミュニティへの回帰」というモチーフがあることが分かる。70年代の対抗文化運動の中から生まれたパーソナル・コンピューターは、よりオープンに、よりパーソナルな方向へ展開をしながら、とりあえずはヴァーチャルなコミュニティづくりまで来たかというのが、私のSNSについての感想である。
 mixiは日本のサイトだが、SNSのモデルが作られたのはアメリカである。かつてのNECのPCのように、日本人のIT事業の発想は、やはり「囲い込み」になりがちだが、アメリカではパソコンの開発は、初めからオープンである。それは、コミュニティのつくられ方そのものがそうであり、岡部一明氏によれば、アメリカでは自治体そのものが市民の手によってつくることができるのだそうである。
 だから、1960年代の対抗文化運動、ヒッピー・ムーブメントがコミューンづくりに向かい、70年代にIBMパソコンに対してパソコンが開発されて、80年代のパソコン通信ネットワークから、90年代のインターネットをへて、SNSが登場して、そこにヴァーチャルなコミュニティが無限に生み出されていくというのは、むべなるかなである。

 西垣通氏が言うように、情報化はアメリカにおける「一神教的な進歩思想」の賜物であって、SNSもそのような範囲のものであるのかもしれないが、コミュニティがキイ・ワードになることによって、それはもうひとつのコミュニティとの接点にもなりうる。西垣通氏が「ユダヤリキリスト教が生んだものが近代科学です。近代科学の中からオートポイエーシスという考え方が出てきたのですが、それがもう一つの普遍思想である古代インド哲学とか仏教と共鳴してくるというのは、とても面白いことですね」と書くとおりである。
 それともうひとつ、西垣通氏「ユダヤ=キリスト教文明を相対化できる思想なり社会哲学なりは、いったいどこにあるのか。あるいはどうすれば構築できるのか」と問うのだが、これを「市場原理主義経済とグローバリゼーションを相対化できる経済や文化は、いったいどこにあるのか。あるいはどうすれば構築できるのか」と書き換えれば、それはやはり、それぞれの国や地域、謂わばコミュニティにある訳である。

 共同体間に市が立ち、市場経済の発生は、それまでの共同体を解体して国民国家を形成した。さらに市場原理主義経済とグローバリゼーションの拡大は、国家を超えていく訳だが、その結果の格差の拡大なりに対して、人々がどう身を処していけばいいのかといえば、これはやはり、コミュニティの再構築しかないであろう。
 しかしそれは、かつての共同体への逆戻りではない。世界は開かれており、どこかに閉じこもって生きられる時代ではない。コミュニティの再構築とは、身の処し方とは、各人の生き方・働き方の問題であり、いわゆる民間企業が雇用を選別する時代、ポスト工業化のサービス化がすすむ時代にあっては、コミュニティの再構築とは、コミュニティ・ビジネスの構築がキイになるであろう。
 日本で所謂コミュニティ・ビジネスというと、行政とNPOが提携して自治体仕事の下請けをやるみたいなイメージがあるが、コミュニティ・ビジネスとは民間非営利=NPOが行うビジネスであり、その広げ方である。コミュニティ・ビジネスの提携先の一つとしての行政との関係は否定しないが、21世紀型のコミュニティというのは、SOHOやスモールビジネス、コミュニティ・ビジネスで成り立つコミュニティをベースにした社会が、より広いリージョナルな共同体を構成するというイメージであり、community(共同体)と corporation(企業)と society(社会)は、一体的に生成していくものであると思われるが、いかがであろうか。

②労働価値説の再構築
 アダム・スミスの『国富論』は、
第1編など丸ごと「労働価値説」である。マルクスは、アダム・スミスやリカードの古典派経済学から労働価値説を学んで、自らの経済学をつくった。現在のアメリカは、新古典派経済学全盛の国である。同じくアダム・スミスに学んで、ふたつの経済学ができたわけだが、このことからも、これからのコミュニティづくりを考える上で、考えさせられることは多い。
 また、森嶋通夫氏は『思想としての近代経済学』に以下のように書いている。
 「リカードこそは近代経済学の父ということができる。・・・マルクスは、自主独立だという人も多いが、私はリカードとマルクスは理論的に非常に似ていると考える。したがってリカードが近代経済学者ならマルクスもまた近代経済学者である。マルクスは、リカードの労働価値論を祖述展開したが、ワルラスはリカードも認めた希少性の理論を発展させた。・・・リカードの差額地代論と、ワルラスの希少性理論はエッセンスにおいて変わりないし、しかもリカードは差額地代論において限界分析を使用している。・・・よく知られているように、マルクスもまたリカードの影響で同様の結論を出している。・・・リカードには二人の偉大な後継者があった。それはマルクスとワルラスである。・・・これら二つの学派は、100年以上にわたる対立、緊張関係の結果、かなり違ったものに変質したが、マルクスとワルラスという原始に遡れば、両者は酷似しているのである。このことは彼らの市場観を見てもわかる」(p3-p4)と。

 素人考えで恐縮だが、アダム・スミスの労働価値説に立ち返って、もう一度、コミュニティづくりのための経済学が考えられないかと思う。『国富論』に次の一文があった。
 「一般に人間は、他人のために働くときよりも自分のために働くときのほうが、わずかしか働かない、などと想像するのはばかげたことである。貪しい自まえの職人は、出来高払いで働いている職人とくらべてすら、概していっそう勤勉であろう。前者は自分自身の勤労の全生産物を享受するが、後者はそれを親方と分けあう。前者は、べつべつの独立した状態にあるから、悪い仲間の誘惑におちいることは比較的少ないが、大製造所ではそうした誘惑のために職人のモラルが崩れてしまう場合がひじょうに多いのである。
 月ぎめか年ぎめで雇われて、仕事に精を出しても出さなくても、その賃金や手当が同じであるような使用人にくらべると、自まえの職人がもっている優越性はなおいっそう大きいといえる。食料品の安価な年には、すべての種類の職人と使用人にくらべて白まえの職人の割合は増加しがちであり、食料品が高価な年には、その割合は減少しがちである(『国富論』世界の名著31 p157)」。

 私が、いま考えていることは、こうである。「自まえの職人=SOHO型独立自営業者」をベースにした「スモール・コミュニテ=コミュニティ・ビジネスの基礎単位」が担う多様な企業の複合体としてのコミュニティの構想である。
 「スモール・コミュニティ」というのは、「SOHO型独立自営業者」たちが共有する仕事場、プルードン的にはアトリエであるが、同職組合的企業ではなく、SOHOの集合体的企業であり、コミュニティ・ビジネスのベースとなる企業である。そこでの各人の稼ぎは、コミュニティ・ビジネスを維持するコスト以外は各人のものであり、各人の事業意欲やコミュニティ・ビジネスへの貢献は、それを前提になされるわけである。
 同職組合や生協も含むいわゆる企業(corporation)では、人件費を除いた利益は、基本的には利潤や組織のための再投資のために使われるが、コミュニティ・ビジネスが生み出す利益は、コミュニティ・ビジネスへの再投資とコミュニティへの貢献のために使われる。時としてコミュニティ・ビジネスにも失敗や倒産があるかもしれないが、コミュニティ・ビジネスの複合体=地域ネットワークは、住民の仕事起しや雇用や教育をサポートし、コミュニティへ社会へのサービスの提供といった事業活動や、コミュニティ社会保全の活動などを行うのである。

 アダム・スミスは、人間の利他主義についても評価をしたが、どちらかと言えば、利己主義と経済活動の自由放任を是とした。アダム・スミスの『国富論』は、アメリカの独立宣言と同じ1776年に刊行されたが、アメリカはまさに市場経済と個人主義が開花した国となった。私たちは「公共」というと、国家や行政の領域だと思いがちだが、国家や行政が後からつくられたアメリカでは、経済活動の自由放任と個人主義と共に、公共や奉仕や援助が発生したのであった。アメリカにおける非営利活動やNPOの背景には、そういった経過と市場経済への適合性があるように思う。
 市場経済が嫌いな人は、利己主義=金儲けを否定して、公共の領域と利他主義を広めようとする。私も利他主義の大切さはよく分かっているつもりだが、「利他主義の精神と公共の領域を広げることが社会をよくすることだ」とばかり言われると、「多数者の専制」というトクヴィルの予言が実現してしまうというのが、「社会主義の失敗」に学ぶ歴史の教訓であったように思う。
 利己主義か、利他主義か、と問われれば、利他主義とは利己主義的に真面目に働くことの結果として生じるものなのだろうというのが答えだが、それがアダム・スミスの「見えざる手」のアナロジーでしかないとすれば、ここでも自由放任に対してそれをどう規制するのかといったことと同様な課題があるが、それは市場原理主義に対してコミュニティをもってするがごとく、利己主義=利他主義というビジネスが成り立つとすれば、それはコミュニティ・ビジネスをおいて他にはないだろうということである。

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